ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

展示『歴史に学ぶ 朝倉先生いのちの講義』@朝倉彫塑館

久しぶりに朝倉彫塑館へ行った記録。企画展『歴史に学ぶ 朝倉先生いのちの講義』開催中。

www.taitocity.net

 

季節を変えて訪ねるのも個人美術館の楽しみ。

毎回の企画展でもあたらしい作品に会えるし、前に見た作品も、提示された文脈の中で見るとまた違うものを受け取る。

 

●鑑賞メモ

・今回の企画は「生と死」。いつもは穏やかな空間が、きりりと感じられた。静かな切実さ。

「彫刻界のために金属回収の不合理を力説して各所を回りました。その姿は『戦争に協力しない』という批判も招いたようです。そのためアトリエを工場にしてゲージ(測定用の計器)製作に取り組みました。こうした行動は家族や弟子を守る目的もあったと推察されます。」(展覧会パンフレットより)

今回の個人的ハイライトはやっぱりここかな。生き延びるための、家族や弟子を守るために、矜持を保ちつつの、一つの選択。作品が供出の対象にならないように、古銭を集めてはどうかと提案もしている。文科省宛の直筆の「要綱」で切々と訴えている。

 

・美術史家のラングドン・ウォーナーと親交があったそう。屋上に朝倉の作ったウォーナー博士像がある。3Fの廊下に写真がパネルで展示されている。ウォーナーは太平洋戦争中に日本の古都の芸術的、歴史的建造物を守るため空爆の対象から外すように進言したとされてきたが、事実ではないとする論も出ているようだ。

奈良の空襲=寮美千子 毎日新聞 2019年12月4日
https://mainichi.jp/articles/20191204/ddl/k29/070/382000c

ウォーナーの謎のリスト(2016年, 日本)
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/movie-2636.html


・1926年 第1回聖徳太子奉賛美術展に《微笑》を出品。聖徳太子奉賛美術展とは?聖徳太子展に行ったところなので、気になった。

"第1回聖徳太子奉賛美術展は、大正元(1926)年5月1日~6月10日、財団法人聖徳太子奉賛会主催、東京府後援で、東京府美術館の開館記念展として開催された。絵画(日本画・西洋画)・彫刻・工芸の3部に分けて、現代美術作品を展示した。出品点数は、第1部(日本画)248点、(西洋画)396点、第2部(彫刻)157点、第3部(工芸)255点。" (レファレンス協同データベース)
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000096108 

つまり、東京都美術館の前身の東京府美術館の開館記念でひらかれた展覧会で財団法人聖徳太子奉賛会が主催している。この団体は聖徳太子の1300年遠忌をきっかけに設立された。

"明治時代、法隆寺廃仏毀釈(きしゃく)で衰退。伽藍(がらん)や仏像などの文化財としての再評価が進んだものの、往時の隆盛にはほど遠かった。

 大正7年、当時の住職だった佐伯定胤師らの尽力で聖徳太子1300年御忌奉賛会を設立。新1万円札の「顔」に決まった実業家の渋沢栄一が副会長を務めるなど当時の官民を挙げた支援もあり、法要は空前の人出でにぎわった。"(奈良新聞

https://www.nara-np.co.jp/opinion/20190905085857.html

とのこと。そういえば今年、令和3年は1400年遠忌だった。100年前はそのような盛り上がりがあったのか。

東京府)美術館建設を待ち望んでいたのは何よりまず美術家たちで あり、美術団体だった。 1926(大正15)年の開館記念展は「聖徳太子奉賛美術展」で、 その後、白日会、日本美術院二科会、工芸美術会、そして10 月には第7回帝展が開催され、冬期には「日本書道作振展」「東京表装展」などが続いている。翌1927(昭和2)年には、冬から春にかけて本郷絵画研究所、日本水彩画会、林間社、東京写真研究会、太平洋画会、光風会、日本美術院、中央美術展、国画創作協会、春陽会、槐樹社、新興大和絵会、白日会、朝倉塾、商業美術協会、国民美術協会といった中小の団体がそれぞれ展 覧会を開いている6) 。これらは第4回展とか、16回展とか、かなりの回数を重ねていることから、明治末から大正時代にかけて 数多くの美術関係団体が発足し、東京府美術館という専門的展覧会場を求めていた様子が窺える。以後、東京府美術館は 戦前戦後とも一貫して各美術団体が年に1度作品を発表する 場として、毎年同じ周期を繰り返す恒例の展示場として機能 していく。ここでの主体は、主に美術家たち(出品者たち)と彼 らが組織する団体であった。(東京都美術館紀要 No.22 2016年)

https://www.tobikan.jp/media/pdf/h27/archives_bulletin_h27.pdf

「専門的展覧会場を求めていた」。その前には作品を展示して見せる場所として公設美術館がなかった。近代化の証としても重要なプロジェクトだったのだろう。

 

・台風が通過した日だったが、穏やかで、中庭の長めは最高だった。水音がずっとしていた。そう、今回初めて気づいたが中庭は庭というよりほとんど池。池をぐるりも囲むように建物がある。これは基礎に影響しないのだろうか?

水の上に建物があるような、ちょっと人の家とは思えない浮世離れした空間になっている。そういう点で密集している、詰まっている感覚があり、空は開けているが開放的な感じがそれほどしないのはやっぱり水があるせい。揺れ、止まらない、固定されない。緊密さ、集中。それを中心に持ってきたのはどういう意図だったんだろう。


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館内で無料で配布されているガイド。詳しい。


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こちらは受付で販売されている冊子、『我家吾家物譚』。

朝倉彫塑館の土地や建築、まちの様子にまつわる未発表の随筆で、公益財団法人 台東区芸術文化財団から平成25年に刊行されたもの。戦後間もなく、昭和22年から23年にかけて書かれたものではないかとのこと。

住居兼アトリエのこの建物に入ってみるとわかるが、日本家屋と洋風建築を取り入れあうつくりで、次の部屋に入るとパッと変わる、こっちとあっちでだいぶ雰囲気が違う、と感じる。それもそのはず、明治40年から昭和39年に朝倉が没するまでの57年間に9回も増改築が行われているそう。

何といっても家を建てる目的が大変である。多過ぎるのである、自分ながらはっきりしているようないないような復(ママ)雑さである。へんな文句ではあるがこんなことをすさみながら、アトリエであり、住宅であり、別荘であり、彫塑塾であり、友人の倶楽部もよかろう、宿泊所もよかろう、そして外人観光を迎える設備もやろう。(p.90)

制作についての朝倉の志向、人柄についてもうかがえる。

作家はどこまでも真面目に研究をつづけることが美術家にとって最も貴い性格であって二義的だの三義的だのそんなことはどうでもよい。二義的三義的の仕事とされている肖像をこさえていても油ののった時ほど愉快なことはない。制作される人も家族も依頼者側の人も喜んで未知の世界を見たように喜ばれる。人を心から喜ばせるということは貴いことだ。(p.86)

関東大震災のときの様子なども書かれている。今回の展示を観た後におすすめ。

井戸に毒を入れるものがあるなどの噂が立った。真倒とは思ったが井戸の傍に自ら立って飲料水の供給につとめた。墓地の方には毎日五 六百人という避難者、これにも水だ。この時の体験で最も大きなものは人を救っていれば自分のおなかがへらぬことであった。それは、その反対の事実をしばしば目撃したからであろう。

率先して救護にあたったときの心境をうかがえるものであるということと、「井戸に毒を」のところは、関東大震災朝鮮人虐殺事件につながる噂のことだろうと胸が痛くなる。

 

弟子や出入りの職人についての記述が会話形式で書かれているところもおもしろい。

特にp.137〜p.145の「論考2 職人たちのふところ事情」は時代背景がよくわかる。ここから「ここから始まっていたのか」......。

彼らは、個々が事業主として独立していたにもかかわらず、明治維新後の近代産業と資本主義の攻勢によって間接的に資本家に支配されるようになり、賃金労働者へと状態が変化していった。これは大規模な建設事業などに対して行政や大資本が入札による請負業者の選定を行い、個人レベルでの請負が不可能になったことによる。また、このような入札に際してダンピングが横行し、経費削減のしわ寄せが人件費に反映したため、最下にあった下職の職人が犠牲となったのである。(p.137)

朝倉の「ただの依頼主と業者にはない面白みや職人への好意的なまなざし」についてのエピソード(p.65)も、この論考の文脈で解説してもらえると、一周目読んだときとはまた違う味わいがある。世話好きで、周りの人を守りながら、対等性を大切にしつつ、自分の好奇心にも正直で......という人物像が見えてくる。

 

2, 3年前に買った冊子だが、読まずに置いていた。良きタイミングで開けてうれしい。


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●おまけ

『時代をひらいた日本の女たち』(岩崎書店, 2021年)p.82に朝倉文夫の長女、朝倉摂が登場している。〈表現の世界に革命をもたらした舞台美術家、画家〉

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▼2019年10月の写真

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 2020年12月著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社