ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

どうして場をひらけないか

「場をひらくための知識や情報は持っているけれども、一度も自分が個人として主催して場をひらいたことはない。しかしとても興味がありひらいてみたい気持ちはある」

との自己紹介を携えて講座やセッションにいらっしゃる方が、一定数おられる。

 

聞けば、場づくりや、ファシリテーション、ワークショップ・デザイン、コミュニティ・デザインなどの界隈で活動している方や団体、そこがひらいているワークショップや講座やイベントのことなど、わたしよりもよっぽどよくご存知だし、個人的なつながりもある様子。ひたすら「すごいですねぇ〜」と感服してしまう。

 

わたしの場にたどり着いてくださる方というのは、言語化できないまでも、「場」という概念について自分なりの感覚をもってらっしゃる方なので、当然といえば当然なのか...。

 

 

 

そうかぁ、それほどまでに切実に求めていらっしゃるのだな、と思う。

場を、人とのつながりを。

 

あるいは、自分が持っている「大切な何か」と「他の人」との間に、橋を架けたい!という欲求がおありなのだな、とも。

 

 

うん、素敵!

素敵なことです!!

 

 

だからこそ、どうしてご自分では場をひらけないのか、が気になる。

時間内の設計はできる、でも企画ができない。

・場をひらく内的動機、衝動。

・誰と出会いたいか。

・何によってその人(たち)とつながりたいか。

が進まない。曖昧には言えるけれども、イメージ(絵やシーン)やその人自身とのつながりが見えてこない。

「自分に切実さが足りない」とさえおっしゃる。

 

 

それを聞いていると、心理的なブロックがあると感じる。

切実さはある、でもそれを表現するのが怖い。

 

 

そういう方々に対して、もっとイメージをクリアにする問いをどんどん転がせればよかったなと、毎回講座やセッションが終わってから、自分の未熟さを思う。

 

 

恥、劣等感、無力感、疎外感、罪悪感、猜疑心、嫉妬心などからくる怖れや、自己不信や自己嫌悪があるのかなと想像する。

わたしが自分をひらいて、場をひらくときには、そのあたりがテーマになったので。

あくまで想像。

 

心理的ブロックを外すこと自体は、自分の手でしかできないだろうなとも思う。

とても勇気の要ることだ。

深みや重みのある事情があるのかもしれない。

そんな感じを受ける。

 

 

 

でもだからといって、わたしが、自分で勝手につくった妄想に引きずられてはいけない。共感しすぎてはいけない。怖れへの拒絶反応が自分に起きていないか点検する。

 

・丁寧にチューニングして、同好の士が集まる場を設えて、安心安全で健やかな場をつくることが、まずわたしが第一にやること。

・それから、事実を聴くこと。
温かな関心をもって、イメージを明快なものにするサポートをすること。

・感情が出てきたら丁寧に聴くこと。

・自分を守るためにも、安心安全で健やかな場のつくり方をお伝えする。

 

 

怖れの出所を聴くのではなく、怖れを排除するのでもなく、「怖れがあるんだな」と感じながらも、ほんとうに見たい景色を共に描いていくこと。

 

ああ、自分の持ち分、持ち場を忘れてはいけないなぁ!反省。。

 

 

幸いなことに、有難いことに、「同好の士」がその方の背中を押してくださっている。

他の参加者が問いかけてくださる言葉が、ご本人にとってとても大きい。

そういう場をつくれたときにも、「お仕事をした」と感じる。

 

わたし自身の問う力を鍛えると共に、お互いの問いかけがもっと出てくるような、設えや進行や姿勢を磨く。

 

場をつくるときのアプローチが、もしかしたら違う・合わないのかもしれないけれど、少なくともこちらがさまざまに込めて書いた募集文を見て、申し込んで来てくださったということは、ヒントがあると思ってくださったわけだから、精一杯やろう。

 

 

変化を起こすのは、その人の力と信じて、いる。

 

 

必要としている方にお届けできるように。

 

精進します。

 

 

 

 

 

▼「場をつくる」をテーマにして話したもの。

doremium.seesaa.net

 

わたしのはじまりはこんな感じでした。

わたしの場合は、いきなり一人ではやれなくて、プラットフォームに乗って、そこに集った仲間と一緒にやったので、怖さはだいぶ軽減されたけれども、それでもやっぱり怖かったな。

 

 

 

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