ネット配信で観た。『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』
昨年2020年は、三島由紀夫の没後50年ということもあって、いろいろなところで三島の名前を目にする機会があった。
芸術新潮 2020年12月号 【特集】没後50年21世紀のための三島由紀夫入門
ETV特集 転生する三島由紀夫(2020年放映)
Eテレ 100分de名著 三島由紀夫『金閣寺』
三島由紀夫没後50周年記念公演 東京バレエ団 モーリス・ベジャール振付《M》
東京都現代美術館 石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか (テキストガイドp.24 ミシマーア・ライフ・イン・フォー・チャプターズ)
少しずつかじったことで、以前よりは少し三島由紀夫について知ることができた。
このドキュメンタリー映画も同じ時期に観ようと思っていたのだがタイミングを逸していた。
今回きっかけになったのは、『戦場のメリークリスマス』の4Kリバイバル上映だった。
あらためて鑑賞してみて印象に残ったことの一つに、セリアズもヨノイもどこか死にたがっている人に見えたということがある。理想と現実のギャップを罪の意識をして抱え込み、自分の信じる何かに忠誠を誓いながら死んでいく、そこに理解し難い「美学」があるとわたしは感じた。
この感覚を"理解"している人が少なくとも二人はいるだろう。映画を撮った大島渚。そしてもう一人は三島由紀夫ではないか。
このドキュメンタリーを観たら何かがわかるような気がした。
●鑑賞メモ
・メモから感想を立ち上げようと思ったがどうしてもまとまらないので、そのまま画像で投稿しておく。「この人たちの中ではまだ何かが終わっていない」というのはわたしの感想。「個人の運命と国家の運命が一連托生になるという陶酔感」というのは劇中のだれかの言葉だったと思うが、ここもキーとなるフレーズだと感じる。
・そういえば今わたしは没したときの三島と同い年だった。そういう点からも興味を持っているのかもしれない。
・文学者としてではない三島由紀夫、東大全共闘、学生運動の話は、わたしにとっては誰からも教わることのない歴史の空白の一つだった。それを訪ねていると、やっと今の時代、今起こっていることが自分なりに理解できるし、小さくでも考え進められる。
・あのただならぬエネルギーは何なんだろうと思う。皆自分の生存をかけて真剣にやり取りしていて。たぶんたくさん勉強もしていて。言葉に重みを持たせているものがある。言っていることの意味もわたしにはあまりわからないけど、でもこの剣幕、デスマッチに見入ってしまった。
・台湾のひまわり運動を題材にした『私たちの青春、台湾』とつながるところがある。一つ違うのは、三島が起こした一連の出来事が、若者のエネルギーが爆発すると「ああなる」というトラウマを社会が自分の内に深く刻み込んだという点。だからその後「学生」と名のつくものから徹底的に自治を取り上げたのではないか。熱狂が破壊や暴力という行為化する怖さも理解できる。
・とりわけ全共闘のリーダのリーダーの木内修のインタビューが印象的だった。語る様子、表情などから、「あの人話しながら今あのときに戻ってる!」と感じた。
・ほぼ男性(見た目で判断しているが)しか出てこない、異様なドキュメンタリー、異質な世界でもあった。
・あれから50年、終わってないことがある?傷が癒えないまま、痛みが続いている社会?ふりかえることで何が明らかになったのだろう?
・あの時代の空気を一瞬垣間見たように思う。違う切り口ではまた違うものが見えるのだろう。実際、『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』と同じ時期に起こっている出来事なわけだし。