森鷗外記念館で企画展『写真の中の鷗外 人生を刻む顔』を観てきた記録。
森鷗外と言えば、口ひげをたくわえ、威厳に満ちた姿で、いかにも文豪というイメージ。
けれど、今回の展示で見た写真は、ほとんどが軍服姿。文豪でもあるけれど、陸軍省の軍医として60年の人生のうち36年勤めている。その間によくあれだけの量の小説を書き、翻訳書を出し、美術関連の役もこなしたものだと驚く。本当に優秀な人だったのだな。
昇進するにつれてどんどん貫禄は増していく。顔の変遷が見どころとして挙げられていたが、若い頃からあまり表情が変わらない人という印象。こうして見てみると意外ととらえどころのない人という感じ。毛量はわりと早い時期(30代前半あたりから)に落ちていくのが並べてみるとわかるくらい。
今ひとつ表情は読みとりづらいのと、集合写真なのに目線がカメラを向いていなかったりして、どこか明後日の方向をぼんやり見て思索にふけっているようにも見える。鷗外に限らず、今でいう「記念撮影」とだいぶ趣が異なる。当時はそういう写真の写り方が一般的なのだろうか。
それより軍服がどんどん変化していくほうが気になる。階級ごとのバリエーションなのか、軍隊の組織改変が頻繁でどんどんモデルチェンジしているのか。
今回の個人的見どころの一つに、カラー化した写真のパネル展示がある。カラーになるとモノクロのときに抱いていたイメージががらりと変わって、人間としての存在感が全面に出てくる。自分と同じ人間という感覚が生まれる。今の技術ってほんとすごい。
今回知って驚いたのは、10歳でもう東大医学部を目指して西周の家に寄宿してドイツ語の塾(進文学社)に通っていたとか、11歳のときに2歳年齢を偽って予科に入ったとか、当時講義はすべてドイツ語だ行われていたとか、19歳で東大医学部を卒業したとか……という話だ。
↑この写真も展示されてます。
その後、父親の診療所を手伝ったのち、陸軍省に入り、22歳で陸軍衛生制度調査のためドイツ留学を命じられ、26歳まで当地で学ぶ。以後、衛生学が鷗外の専門になる。
津和野藩の代々典医である森家の長男でもあったから、生まれたときから将来が決まっていたとはいえ、あまりにも優秀なために国を背負うことにもなる。
特権階級とはいえ、これはこれで選べない人生なのだよなと思うと、ちょっと『あのこは貴族』を思い出したりもする。
すごいのは軍医として昇進していくだけでなく、文学でも才能を発揮するだけでなく、美術の分野での貢献も大きいこと。留学中に美術の知見を得て、帰国後に東京美術学校や慶應義塾大学部で美術解剖学、美学、西洋美術史を講義したと、展示にある。文展の審査員、帝国美術院の初代院長、帝国博物館総長兼図書館長にも就任。記念館に訪れるたびに毎回驚く。
写真が全体的に小さいので、お持ちの方は双眼鏡、単眼鏡があるとよいです。
その他鑑賞メモ
・森家が津和野から東京に来たのは、廃藩置県という社会背景。津和野藩主の亀井家が上京して、典医だった父・静男もついていった。
・1884年(明治17年)22歳のときに渡独。8月23日に横浜を出て、香港、サイゴン、シンガポール、コロンボ、アデン(イエメン)、スエズ、マルセイユ、パリを経由して10月11日にベルリンに到着。ものすごい長旅。
・帰国後、最初の結婚で上野花園町に暮らす。今の台東区池之端。昨年閉館した「鷗外荘 水月」の場所。
・文芸仲間3人で雑誌『めさまし草』を創刊。鷗外、幸田露伴、斉藤緑雨による合評形式の文芸評論「三人冗語」が人気。(気の合う仲間との雑誌づくり、楽しそうだ)ここで樋口一葉を取り上げる。
一葉記念館で見た展示では......一葉の死後、妹のくにが一葉の日記の発刊について博文館の編集者(日本初の編集者)の馬場孤蝶に相談し、馬場が緑雨に相談。緑雨は鷗外と露伴に相談。鷗外は日記として差し支えある部分は削除してはどうかと提案したが、緑雨が結核で亡くなり、企画が頓挫。その後再度馬場が企画を立て直し、露伴が協力して十三回忌記念出版として『一葉全集』の中に日記が入った。鷗外は日記の刊行に反対していたため、参加せず。(つながるつながる。ここで鷗外はどういう意図だったんだろう。個人の日記で、捨ててくれと言い遺して逝ったものをそうそう簡単に世に出すのはどうなんだろうという考えだったんだろうか)
・鷗外は仕事を為事(為す事)と言ったそう。「絶えずごつごつと為事」。はい!!
・鷗外が学んだ東京大学医学部校舎は、小石川植物園に移築保存されている。植物園には何度も行っているけど、鷗外が学んでいた校舎とは知らなかった!
・いつ見てもおもしろいのは、森一族の家系図。現在当主は十七世十四代の憲二さん。他にも鷗外が曽祖父、高祖父という方、たくさんいらっしゃるのでしょうね。
・東大医学部時代は、ドイツ人講師のベルツをして、「その物言いから動作までドイツ人そつくり」と言わしめたそう。10歳から学んでいるドイツ語力と家柄の良さで身に付けた立ち居振る舞いから、22歳で留学しても現地でも全く問題なく溶け込んでいった様子を想像してしまう。実際はどうだったんだろう。
・鷗外のポートレイトも撮っていた江崎礼二は「早撮りの名手」だったそう。こちらのページに詳細があった。写真館のおじさんが政治家、銀行の頭取、凌雲閣の社長にまでなっているのもすごい。
・当時親しい友人との間でポートレイト写真の贈り合いがあったよう。これはどういうものなんだろう。ちょっとおもしろい風習で、もう少し知りたい。
・鷗外のドイツでの師でもあるコッホが明治41年に来日したときに、北里柴三郎に頼まれて、歌舞伎の筋書き5本文をまとめてドイツ語に翻訳するのと一晩で徹夜でやったエピソードなども紹介されていた。急な依頼だったんでしょうか。コッホと北里柴三郎の関係は知っていたけれど、コッホと北里柴三郎と森鷗外の関係が見えるのはおもしろいなと思った。
それぞれ独立して知っていたことが、思いがけずつながる感じ。だからミュージアムってやっぱりおもしろい。
ついに年間パスポートを買った。
企画展ごとに通ってきてるので、そろそろいいよね、と思い。(誰に)
まずは併設のモリキネカフェが割引になるのと、文京区内の他の施設も割引になるのがうれしい。弥生美術館、東洋文庫、旧安田楠雄邸庭園など。
今年は鷗外生誕160年、没後100年の記念イヤーなので、記念館も文京区も力入れてます。
ショップでは鷗外にまつわる本特集をやっていて、どれもすごくおもしろそう。特に「『舞姫』の太田豊太郎は本当にクズなのか?」を考えるのに良さそうな本が何冊かあって惹かれた。
そういえば昨年は、日本文学と学校教科書の関係について、こんな件があった。
この文脈で「『舞姫』なんか教科書に載せる価値はない」という意見をたまたま見かけた。どう考えたらいいのか、まだ知らないことのほうが多いし、なんとも言えないのだけど、「扱い方次第では」とは思った。
『舞姫』が書かれたのは、ドイツから帰国して2年後の1890年、鷗外30歳の頃。作家のキャリアを考えれば初期の作。少なくとも『舞姫』だけで鷗外文学をジャッジしないほうがいいということは声を大にして言いたい......。
フェミニズムの文脈では、こちらの斎藤美奈子さんの『妊娠小説』がやはり何十年経っても印象深い。
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