ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画『ウエスト・サイド・ストーリー』鑑賞記録

シネコンで映画『ウエスト・サイド・ストーリー』を観てきた記録。

www.20thcenturystudios.jp

 

気になっていたけれど、オリジナルの『ウエスト・サイド物語』もまだ観ていないし、ネット配信になってからでいいかな……ぐらいにゆったり構えていたところ、町山智浩さんの解説を聴いていたら、俄然観たくなった!

 

「55年以前は不良の主人公はあり得なかった」「若者の誕生」

youtu.be

 

あとは『ロミオとジュリエット』が下敷きになっているということも大きい。バレエでも観たし(記録はこちら)、NTLiveで最近観たところだったし。(記録はこちら

結局辛抱しきらず、オリジナル『ウエスト・サイド物語』をネット配信で観て、その直後に映画館に駆けつけるということになった。そしてまた映画を観たあとに友達と待ち合わせて小一時間感想を語ることになった。

 

▼見る前に見たり読んだりしてよかったもの。

www.cinra.net

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これの3、4ページなんかも抑えとくといいかも。

news.yahoo.co.jp

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観た直後の感想

※内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。

・古典というのは、別の演出や別の表現方法でで作られ続けてこそ、なれる境地なんだな。時代が違うのでテーマも描きたいものも、描き方も変わってくる。そのジャンプがおもしろかった。

・これを機に「若者」が誕生したという前作は、鬱屈するエネルギーを持て余す若者と、それを理解しようともせず押さえつける大人の図が大きかったか? 今作は、ナショナリズム、排外主義、右傾化する世界に向けて、普遍の物語を二つの古典でくるんで変わらない構造を提出している。二つの古典とはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』とオリジナルの『ウエストサイド物語』。

・二項対立の中にさまざまな緩衝地帯を設けて、「どちらでもあり、どちらでもない」人や場所をつくっていたのは興味深い。たとえばバレンティーナ。

エスニシティジェンダーへの目配り。そのためにかれらの代理戦争が「誰のせいで」起こっているかが見えづらくなっている感はあるかも。

・そのルーツの人が演じる、その人が歌うことによって、ぴったりしてくる。余計なことに紛らわされずに没頭できる。

・歌と音楽と身体もパワフルで、Mambo、Tonight、 Americaはもうずっと聴いてたい、観てたいぐらい好き。

・多言語の扱い方も新しい。 スペイン語と英語を混ぜて会話している感じがリアル。日本では両方日本語字幕がつくが、アメリカではスペイン語のほうには英語字幕はついていないのだと。わかる人にはわかるが、わからない人は疎外されていることを体感させるつくりが意欲的。

・リフがポーランド系移民の子という設定だからなのか、彼の環境や動機を考えていると、荒ぶる若者というよりは、社会から排除され、恨みの行き場をなくして彷徨っている、キェシロフスキの『デカローグ6:ある殺人に関する物語』のヤツェクのような人物像が立ち上がる。

・NTライブの『ロミオとジュリエット』も脳内再生しながら重ね合わせて観ていて、おもしろかった。どちらも舞台のライブビューイングでもないし、いわゆるミュージカル映画でもないし、今の時代の新しい表現を確立した感じある。ジャンル分ける必要なくない?ぐらいの清々しさ。

・『ラ・ラ・ランド』は観ていないけど、こんな感じだったのかな。それともまた別の体験なんだろうか。

・『ウエストサイド物語』はきょう初めて観たけど、NYにおける移民やプエルトリコ系の存在とその社会的立場は、小〜中学生の頃に読んだ成田美名子さんの『CIPHER』で教わった。ディーナが「半分ね」(確かお母さんがプエルトリカン?)とか、ハーレムに自宅がある設定。いい大人に教えてもらったなぁ。

・「ホワイト・ウォッシュ」をしていたマイケル・ジャクソンに、今世界こんなんなってんで、と教えてあげたい。Beat it! と歌っていたかれに。

・なんで今? あの完璧な名作に対してリメイク? という声もあったそうだが、当時ないことにされてたものを調整して、さらに今の時代に自分たち自身をふりかえれるようにしたというのは、意義が大きいと私は思った。

逆に言えば、名作から古典に移行するためには、リ・メイクも必要なのかも。その古典化したい欲望(?)にスピルバーグは正直になったのでは。やり残していることをやってから死にたいみたいな、置き土産、職業人としての意地もあったようにも感じる。

現代の感覚にアップデートしたリメイク版も良く、オリジナルの魅力を再認識する。よい機会だったと思う。

 

物語の進み順でメモ

プエルトリコの国旗が描かれた壁画。国旗、ルーツにしているものを損なうのは最大の侮辱か。

・「目覚めよ、プエルトリコ人」何もしていない、ただ歌っているだけ。でも連帯されることは排除したいマジョリティにとっては脅威。(日本におけるキリシタン迫害がよぎる)

・「這い上がってきた白人」イタリア人、ユダヤ人。もともとは「白人」ではなかった人が白人に「昇格」する形。白人の中の種別やヒエラルキー。。

・Mamboを踊るシーンに現れていた違いは、優劣ではなく、お互いに違う者に惹かれ合う人たちを描いてもいて、気持ちがいい。マンボとダンス(バレエや社交ダンス)。色でも表されている。スピード感。踊りで誘い、踊りでコミュニケーションをとるのはとても野生的。

・マリアとトニーがバックステージで見つめ合うシーン。金色に光り輝いているが、現実に戻ったときには、ガラクタが転がる薄暗くて埃っぽい場所。恋に落ちると周りが見えなくなるという現象のとてもわかりやすい表現。トニー「世界はただ平凡に住むだけのところではなく、二人のひかる星に変わった」。ロマンティックラブの真髄。

・NTLiveのジュリエットのように、リメイク版のマリアも、いきなりキスしてくるなど、かなり積極的。少女ではなく、自立した大人の女性として描かれている。(私は大人だから踊りたい人は自分で選ぶ、勉強して大学に行く、マリアも働いて家賃を払っている、拳と脅しで怖がらせて私が従うと思わないで)

・二人の間に何かがあったと知ってもめるマリアの兄ベルナルドと、トニーのお酒馴染みのリフ。「第3次世界大戦始めたい?」とアニータ。この映画を観た後、実際にそうなりかねない情勢になっていて、これを書いている今、複雑な思い。

・警察署で歌われる若者たちの悲痛な叫び。楽しい音楽と「元気な」踊りだが、歌詞はシビア。「親が薬漬け、酒漬け」「俺たち精神が不安定。治療じゃなくて仕事は必要」「社会学的病気 Social Desease」……まともな仕事がない。なんならプエルトリコ系の人たちよりも仕事がない。若い頃からこの小さな世界にいるしかない。

・歩みよるトニー。スペイン語。Quero estar contigo para siempre. 相手の言葉に敬意を表する。まさに今の時代。見つめ合う二人。人類の普遍。『くるみ割り人形』のあの壮大なグラン・パ・ドゥ・ドゥを思い出す。

ロミオとジュリエットの物語を見るときにいつも感じる、大人の事情で引き裂かれる若い二人。理不尽さ。

・同じ団を立ち上げた親友だったトニーとリフが袂を分かつダンスのシーン。「厳重刑務所に行くと15年だぞ」と嗜めるトニーだが、リフには響かない。リフには自分を大切にする理由がない。唯一仲間だと思っているトニーも去る。

(厳重刑務所とは、「SuperMax」のこと?最も危険な犯罪者を収監し厳重な警戒をしている「刑務所施設」のことで、「Super Maximum Security」)

ロミオとジュリエットも出会ってから二人が死ぬまでたった5日間の話だが、ウエストサイドも途方もなく短くて、丸2日?3日?ぐらいの話になっている。そのスピード感!

・爆発するレオナルドの怒り、「プエルトリコ、ドミニカ、キューバはすぐ打ち込まれる」「有色女でもひっかけるか、物珍しいからか」、トニーの開示「この街にいるのは、他に居場所がないからだ」、、彼ら個人のせいではないが、目の前の相手にぶつけざるを得ない。

・放り込まれるナイフ。一触即発の現場に投げ込まれるナイフは、死の予感。悲劇しか生まない。。警察が踏み込んだときの影のつけかた。光と影。うまい。

・バレンティーナの歌「私たちのための居場所が必ずどこかにあるはず。私たちのためのときがいつかきっと。共に過ごし分かち合う。学びあい、思いやりあう。許し合う道が見つかる。」まさに今の世界に届けたいメッセージ。

・「恋人は仲間から選んで」こういうこと、現代でも余裕である。あちらとこちらの線引き。差別と偏見「未亡人でもないし、愛人か」、排除「白人を殺せば殺される」「どうせまちは破壊される」

・伝言を伝えにきたアニータ、暴力に遭う。「やめて」助けようとして追い出される女二人。この存在が大きい。オリジナルではドクが「お前らいい加減にしろ」と言い、それに対して「誰のせいだよ?」と若者が言うシーンになっている。ここは非常に重要だった。リメイク版は若者と大人の対立ではないにせよ、入れるべきだったのでは。

・マリアが死んだと聞いて絶望し、チノを呼ぶトニー。そこへマリア。駆け寄るトニー。後ろから撃たれるトニー。「天国と地獄」の振れ幅がすごい。

・トニーの死を悲しむマリア。怒る。「憎いから殺せる」しかし誰も殺せない。トニーをかついで退場していく人々。最初はトニーの仲間だが、次第に「どちらの仲間の人」なのかがわからなくなっていく。パトカーに向かってチノを連れていくバレンティーナ。クレーンで登っていくカメラごしにその場面を遠く高くから観ている観客。

・夜が開けて、日が昇り、移っていく日の光。街の様々な場所に光と影。赤く錆びた金属。アメリカの象徴? 

・リメイクのようで、続編のようでもある。結局何も変わっていないのでは。何が変わり、何が変わらなかったのかを突きつけている。アメリカに対して、世界に対して。

 

 

友達との感想

・オリジナルでは横の動きが多かったが、リメイク版ではクレーンやドローンを使っての上下の動きが多い。地べたから上にあがっていく。

・ずっと同じ調子で展開していくので、心情、葛藤に寄り添うようなじっくりしたシーンがあってもよかったのでは。さらにメリハリがつく。

・順番が変わっていた。その効果は。

オリジナルでは、決闘の約束→途中休憩→お針子仲間と歌う)→トニーをひきとめる→神に愛を誓う→決闘&死亡→チノからマリアへ告知 との流れだった。

リメイクでは、決闘の約束→トニーをひきとめる→神に愛を誓う→決闘&死亡→同時刻にマリアは夜のデパートで清掃の仕事→チノからマリアへ告知 の流れに変更。

マリアが夜働いているという設定のための辻褄合わせと、同時刻に知らないところで悲劇が起きているという強調とがあったのか。

・立ち退きを迫られ、居場所をなくしていく。「毎日のように壊されて、なくなっていく場所」。そのあとに建設が進んでいるのが、リンカーンセンター。つまり私たちが日頃お世話になっている、メトロポリタン歌劇場のあるところ。その工事現場をじっくりとなめる。

・力の誇示やプライドのための決闘の虚しさ。縄張り争い。女たちはうんざりしているのに(アニータ「戦いに行かないで」、アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』)、男たちは隙あらば小競り合いも持ち込もうとする。

そうせざるを得ないところまで追い詰められている若者たちの無力さ、追い詰めている社会が見える。『DUNE』と『最後の決闘裁判』も引き合いに。私は『最後の〜』は観てないけど。この件は、DUNEのこちらの鑑賞記録でまとめた。つまり"MAN BOX"

institute.dentsu.com


『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』 レイチェル・ギーザ/著, 冨田直子/翻訳(DU BOOKS, 2019)

 

いろんな方の感想のありがたい。それぞれスレッド展開してぜひ読んでいただきたいレビューです。

 

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もちろんオリジナルの『ウエスト・サイド物語』もよかった!

こちらの感想までは手が回らなかったが。

 

www.cinematoday.jp

 

町山さんが若い。。ものすごく早口なのか、早回しにしているのか。少しスピードを落として再生してもいいかも。

youtu.be

 

ソール・バスによるタイトルバックがめちゃくちゃカッコいい。

99designs.jp

zeitgeist.jp

asobo-design.com

 

そしてもちろん、音楽!!!!

youtu.be

 

 

 

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2020年12月著書(共著)を出版しました。
『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社