きょう20分Skypeでセッションしてもらって話したこと、その後考えたこと。
ひとつ石を踏んだので記録しておく。
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自分が〈愛Love〉と〈つながりConnection〉という内なる根源的なニーズにしたがって生きているんだと自覚したら、起こっていることや自分の行動、ふるまい、言動についても、よく理解できるようになってきた。そこから世界とつながっていく。選択するときの迷い方も少し変わったと思う。(そのときどきでニーズもさまざまに変わることも知っているから受け入れられる)
「そんなストレートに口にすることもできない」という言葉ほど、喉から手が出るほど欲しいものだったりする。
そしてわたしと隣り合っている人が〈達成Achievement〉〈有効性Effectiveness〉〈意味Meaning〉の基本ニーズにしたがって生きていると、補完できたり、時に折り合えない。
そして「なんでわかってくれないの!」と思ったときに、ニーズの違いを思い出すと、ふと肩の力が抜けて、ああ、ほんとうに人間は不思議で深遠な存在だなぁと思う。
同じもの・こと・場を共有しながら、関係が深まってきて見えるものは、他者との違いを知り、境界(boundary)を引き合い、受け入れられる部分、受け入れられない部分。関わるということは、それらをマッピングしていく作業。それに相互性(mutuality)がある。関係ということ自体が、マッピング作業ではないかと言っていたのは村上春樹だったと思う。
そして「そういう話」が聴き合える適度な距離感はどこか、一緒に探り合えること。諦めてもいいが、やりきるまでは諦めないでいたい、ずっと同じでなくてもいい、とお互いに感じていること。そういう話ができるあいだ、一緒にいられるのかもな。
わたしにとっての親密な関係というのは、かつてはお互いにぜんぶを理解して溶け合うような、いわゆるニコイチになることだった。でも今はちょっと違うんだな。存在自体への「おおきな愛」があるのは変わらないけれど。
もともとの信念に親きょうだいとの関係はすごく影響している。お盆休みにあらためてそこを見に行ってきたことも、よかった。
仮説を立てて行くと学ぶものがあるし、起こることに納得がある。何十年もわからなかったことが、たった20分丁寧に聴いてもらうだけでばたばたっと収束していくのも、ほんとうにいつもおもしろい。
そして「未来のわたしがどういう決断を下しても、今のわたしは全面的にわたしを支持します」というフレーズも浮かぶ。
自信Self-Confidence、自分への信頼ってこういうことなのかな。
ひとつの石を踏んだだけで、なにも達観していない。
これまで通り、探求が続いていくわけだけど、ともかくひとつ石を踏んだということで、安堵している。
安堵をめいっぱい味わう。