きょうの東京は都心でも雪予報が出ていて、降るか降らないかとどきどきしていたが、結局わたしが表を歩いていた時間は降らなかった。
一日中冷たい雨。美術館は人もまばら。
ハマスホイ展に実に似合う。
美術館収入的には痛いところだけれど。
わたしはヴィルヘルム・ハマスホイのことはあまりよく知らない。
国立西洋美術館の所蔵で、常設展でみかけたことがあるくらいだ。
こちらの「ピアノを弾くイーダのいる室内」。
ただ、スケーエン派の展覧会が2017年に国立西洋美術館であったので、デンマークの絵画の流れについては、そのときにはじめて注目した。
とてもいい展覧会だった。
好きすぎて2回観に行った。
目を閉じると色や光が蘇る。
わたしは以前 SKAGEN というデンマークのメーカーの時計を使っていたので、そういう方向からの親しみもある。
SKAGENを"スケーエン"と読める日本人はいないと踏んだのか、メーカーは"スカーゲン"と称している。
似たものとして、ドイツのタオルメーカーのFEILERは、ドイツ語読みをすると"ファイラー"なのだが、見たまま“フェイラー”と読ませている。
メーカー自身がいいなら別にいいのだけれど、ちょっともぞもぞするのはわたしだけだろうか。
2008年にもハマスホイ展があったらしい。
見逃したどころか全く知らなかった。
そういえばこの頃は、わたしの人生の中で最も展覧会に行かなかった数年だった。
今回のハマスホイ展は、かなり早くからチラシがまかれていたので、「背を向けた若い女性のいる室内」や「室内」のビジュアルはなんども目にした。
チラシの謳い文句のように、"静謐さ、繊細な光、洗練されたモダンな感性"などももちろん感じてはいたが、わたしにとっては不気味な印象が強かった。
斜め後ろや後ろから見た、黒い服を着た女性。
ただ立っているだけではなく、何かをしている。
部屋に置かれている物も、何か意味ありげ。
光よりも、影。影というよりも暗がり。
19世紀末〜20世紀はじめ。西欧中が芸術のムーブメントに沸いていた頃、「辺境」のデンマークでどんな活動が行われていたのか、興味深い。
展覧会で実際にわたしは何を見るんだろう、何を感じるんだろう、と楽しみにしていた。
当日は現金の持ち合わせが300円しかなく、オーディオガイドを借りることができなかったので、久しぶりに何も聞かずに、静かに作品と対話した。
そういえば、鑑賞しているのは落ち着いて静かな人たちが多かった。
一人で観にきて、メモをとったり、オーディオガイドを聞いたり、一つの絵の前でじっと立ち止まっている人がいつもより多かったように思う。
展示作品によって観にくる人の感じも変わる。
美術館の人にはきっともっとよく見えているんだろう。
展覧会は4つのパートに分かれている。
1. 日常礼賛 デンマーク絵画の黄金期
デンマーク絵画の流れを知り、
2. スケーイン派と北欧の光
都市から田舎への眼差しを知り、
3. 19世紀末のデンマーク絵画〜国際化と室内画の隆盛
「室内画」という当時のジャンルを知り、
4. ヴィルヘルム・ハマスホイ〜首都の静寂の中で
最後にどーんとハマスホイ、という構成。
パート1と2。
デンマークの地図をはじめてまじまじと見た。
半島と島の国だった。
コペンハーゲンは島にある。
スケーエン(スケーイン)は半島の最北端。
自分で地図を書いてみると、少しだけ馴染みができたような気がする。
hygge(ヒュゲ)という言葉が出てきた。
デンマーク語で「くつろいだ、居心地のいい」という意味だそうだ。
ツイッターでフォローしているデンマーク在住の方がいて、最近その方が出版されたZineの中にも"ヒュッゲ"という言葉が出てきた。
じっくり最後まで読んでから意味を調べようと思ったら、思わぬところで先に知った。
そうか、あの人が暮らしている土地、国の絵画を観にきているんだな。
デンマークという国ではなく、hyggeという言葉でようやく一致した。
斜め後ろから女の人描くことの流行りみたいなものがあったのか。
ところどころ、日本画っぽい構図を感じるところがあった。
この時代の大人の女性の服は、コルセットかはわからないけれど、腰のところが絞られたドレスになっている。
一方で子どもの服は、腰より低めの位置でマークしたリボンなどが、腹部を締め付けないデザインになっている。
これは先日の文化学園服飾博物館「ひだ展」で教わった通り。
スケーインのコーナーは、「そう!この色!この空や海や野原の青だよねー!」と懐かしく見た。
ずっと見ていたい。
描いた人もきっとそう思っていたから、伝わってくるんだろう。
海辺の漁師にプリミティブな生命力を感じる、というのは、和田三造の「南風」や青木繁の「漁夫晩帰」なども思い出す。
そしてパート3の室内画のコーナーから、さらにおもしろくなってくる。
19世紀末、あたたかく幸福な家庭生活の象徴として、室内でくつろぐ子どもや親子を描いた室内画が登場する。
それが20世紀近くになるとだんだん無人になり、居室を美的空間として捉える動きが出てきたのだという。
この変遷に、「世紀末」というキーワードが関係するのかしないのか、メインストリームでは盛り上がっていた世紀末というテーマが、この国にも影響を及ぼしていたのかどうなのか、興味深い。
つまり、外界に対する怖れが、室内や家族とのつながり、という内向を生んだのか?という仮説。
このパートには、前衛的で写真を思わせる作品や、吉田博の版画を思わせる風景画なども展示されていて、おもしろい。
一枚一枚が、「あまり観たことがなくておもしろい」作品になっている。
デンマークという土地の人たちの、顔立ち、髪型、ファッション、家具、インテリアなどが、見慣れているフランスを中心とした絵画と違う。
物が少なく、壁もさっぱりとして、空間がひろびろとしている。
花は特別なものではなく、庭に咲いていたものをつんできて活けてある、というような、全体的に生活の手触りが感じられる。
調度品は良いものだけれど華美ではない。
生活を考えて使いやすさと、それでいて美しさもある。
スケーイン派の、風景の一部としての人間を描いていた感じに似て、この室内画を描いていた人たちは、人間がいる場合も、室内の一部としての人間を描いているように思える。
ホルスーウの「読書する女性のいる室内」は、画面の多くを占めている読書する女性の醸し出す存在感よりも、椅子の背もたれやバタフライテーブルのほうにまず目がいく。
これは、人物との関係ではなく、空間、環境、雰囲気、空間に満ちているものを見ているということなのだろうか。
そんなことを考えながら、扉や窓のデザインが施された展示会場を抜けると、ハマスホイのコーナーに突入する。
ハマスホイは、独特の描き方をしているように見える。
横から、下から、反射するような角度で見てみると、小さな四角形の筆の跡が見える。淡い色彩がキラキラとして見える。
まるで無数の薄い雲母の貼り合わせか、織物か、はたまた彫刻のようだ。
その手前まで見てきたデンマークの画家たちとは、何かがとても違う。
何もない部屋。
妻イーダがいる部屋。
現実世界で「何もない部屋」を見るときでパッと思い出したのは、部屋探しをしているときの内見だ。
開けたときの、静かな感じ。
誰のものでもない空間。
もしここに住むとしたらと想像しながら、間取り、ドアの開閉の具合、日当たりを確認する。
そういう作業をする前の、あるいはひと通りした後の、しんとしたあの感じに似ている。
室内空間の静謐さに寄せる、特別の思い。
次第に、日本の家、和室や茶室、あるいは能楽堂などにも通じるところがありそうに思えてきた。
壁にかけられた鏡や絵、机やテーブルの上の花瓶なども、和のものに見えてくる。
床の間、茶室、玄関、縁側。
ドアを何重にも開け放った室内を描いた絵は、まるで襖を開放して続きの一間にする和室のようにも見える。
連続したものを不自然に分断したり、室内に傾斜をつけたり、暗がりをつくる。
見切れている空間、時空の歪み。
あちらでもなくこちらでもない曖昧な間合いを発生させていて、おもしろい。
この世に存在するものを描写しながらも、どこか非現実的なのは、深い内面世界のことに触れている、詩だからなのかもしれない。
来る前は不気味にしか思えなかったハマスホイの絵だったが、実物を見てみて、少し時間をおいてみると、展開があった。
遠い北の国でも、このような詩情を持っている人がいて、今の自分と共感でつながっているとしたら、ちょっとうれしい感じがするぐらい。
偏執的な感じも、もちろん残りつつ。
風景画が何点かあったが、それも日本画のように見えてくる。
記憶の中の風景。
横山大観が、こんなことを言っていたのを思い出した。
朝夕というようなものも、私は気持を呼び返して画いている。自然を観て、それを直ぐにものにするという事はむつかしい。頭に一杯蔵(しま)って置いて、何年か経って、自然の悪い所は皆消えて、いい印象ばかりが頭に残る。その頭に残ったものを絵にすれば、前に観た自然とは違うが、画家の個性はハッキリと出る。(大観芸談より)
年表の中には、残念ながら日本との関連は見られなかった。
しかし、バレエ・リュスのディアギレフがハマスホイの絵画を2点入手していたことのは発見した。
ここでもまたディアギレフ!!
であり、
同時代だったんだね!?
でもある。
デンマーク絵画の世界。
また新しい魅力を教えてもらった。
私はかねてより、古い部屋には、たとえそこに誰もいなかったとしても、独特の美しさがあると思っています。あるいは、まさに誰もいないときこそ、それは美しいのかもしれません。1907年 ヴィルヘルム・ハマスホイ