10月上旬のどしゃ降りの雨の日。
午前中に川崎浮世絵ギャラリーで月岡芳年・月百姿展を観て、午後は沼袋の中野区立歴史民俗資料館に『館蔵品展 哲学堂』を観に行った。
この、中野区歴史民俗資料館というミュージアムが、大変言いにくいのだが、ホームページに行ってもほぼテキストのみで、これだけ見てもなかなか「行ってみようかな!」という気にならない。
https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/219000/d028477.html
ではなぜこの展覧会を知ったのかというと、「展覧会情報をキャッチするには?」でも紹介した、チラシミュージアムというアプリのおかげだ。
https://eplus.jp/sf/guide/museum
このチラシがパッと目に入って、これは絶対行かないと!と思った。
チラシミュージアム、わたしは活用してますよ!どんどん載せてほしい!
「行かないと!」と思った理由は他にもあって、実は哲学堂には、20年ぐらい前から行ってみたかったのだ。
同じ東京都内に暮らしながら、えらく寝かしといた期間が長いんだけど、まぁそういう場所ほど、きっかけがないと行かなかったりする。
歳を重ねてくると、そういう場所がどんどん増えるから不思議だ。時期が巡ってきたときに突然、「そういえばずっと前から行ってみたかったんだよね」などと思い出したりする。普段、意識していないところで、見たり聞いたりして、たくさん興味関心を拾って、ストックしているということなのだろうなぁと思う。
哲学堂のことは、当時仲良くしていた友達が「行ってみたい」だったか、「行ってきた」だったか忘れたが、話をしてくれて、おもしろそうと思った記憶がある。
事前知識はほとんどなく、哲学堂公園を作ったのは井上円了という哲学者で、彼が東洋大学の前身を創立したということのみ。
まっさらな状態で、館蔵品展に乗り込んで、まぁ驚いた!!
いろいろ驚いたこと5つ。
1. 「円了が国内外で収集した民具や仏像、岩石や自然木」が、日本民藝館にあるみたいなのかな〜と思ったら、全然違った。みうらじゅんの"いやげ物"にしか見えない!
「もぉ〜お父さん、またこんなん買ってきて(拾ってきて)」とか家族から言われるやつだ......。
2. 哲学堂の正門「哲理門」の両側に置かれているのは仁王像......ではなく、天狗と幽霊の彫像という。物質界の不思議を天狗で、精神界の不思議を幽霊で表したと。へええ。ロビーで流れている映像資料を見ると、「当時は天狗は迷信ではなく、本当にいるものとされていた」という。明治37年(哲学堂が創られた年、西暦だと1904年)ってそうだったんだ......と知る。
3. 哲学堂で、円了さんが個人的に推してる世界の賢人を祀っちゃってるらしい。その取り合わせが、「四聖堂」に孔子、釈迦、ソクラテス、カント、「六賢台」に聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、龍樹、迦毘羅、という、基準はよくわからないけど、ビッグネーム......!
午前中からご一緒くださっていた友人と、????、笑笑笑笑、となりながら観た。
わしはこれが好きなんじゃあああ!という熱、推しを推しまくる真っ直ぐさ。
いや、いい!これは近々哲学堂公園のほうも行かねばなるまいね、と話しながら、爽やかな気持ちで館をあとにした。この日はとにかくどしゃ降りだったので、ついでに寄るのは無理だったのと、広そうだったので、天気の良い日にがしがしスニーカーで歩けるがいいだろうということで。
それを別の友人に話したら、なんとこの辺りで育って、今も縁のあるところと言う。
ぜひご案内いただきたいとお願いして、紅葉も進んだ11月に出かけた。
Instagramに投稿したので、クリックしてご覧ください。
まずは広い。今、都内でこれだけの敷地を確保することはできないので、明治の頃にやっておいてくれてよかった。天気が良ければ、ちょっとしたお山を上り下りするだけでも楽しい公園。
公園に点在する"哲学を具現化した77場"を散策することにより、哲学を理解する上で必要な概念を学ぶことができる、とのこと。起伏に富んだ地形を生かした場には、それぞれに名前がついていて、川や坂や崖には、哲学上の意味と結び付けてある。
"そこで歩き回るだけで自然と体感してしまう"狙いを持つところは、荒川修作+マドリン・ギンズの養老天命反転地を彷彿とさせる。
初めて行ったので、物珍しさで興奮して、「言われてみればそういう感じ」ぐらいで、あまり一つひとつの場を追いついて味わえなかったが、哲学に詳しい方が行かれたら、また違った見え方があるのかもしれない。
哲学を言葉だけで理解するのは難しいし、概念的なことをやり取りするのは、おもしろい面もあるけれど、わかったようなわからないような宙ぶらりんだったり、わかるわかると言っていても、全然前提が違ったりもする。身体の感覚ごと理解するとか、歩きながら考えが深まる、というアプローチは、すごくしっくりくる。
実物に公園に足を踏み入れてみてわかったのは、井上円了という人は、本気で哲学と庶民との間に橋を架けようとしていたのだな、ということ。「哲学の通俗化と実行化」、つまり、ふつうの人の人生に自然に取り入れられる哲学、近所を散歩するついでに精神修養ができてしまう仕掛けをいろいろ考えておられたんだろう。
教育の制度も社会も今とはかなり違う時代に、具体的にはどんな人を対象にしていたのか。そしてこれまでどんな人がここを歩いていたのだろう。この公園を思索に使っている人もいたんだろうか。想像すると楽しい。
正門の向かいにある管理事務所には、たくさん資料が置いてある。その場ではとても読めないほどの量なので(やっぱり熱量がすごい)、持ち帰ってじっくり読ませていただいた。これだけでもけっこう詳しいのだけれど、事務所ではさらに、「公園ガイドマップ」なるものが販売されているらしい。
資料の中には、円了の「不思議研究者」としての側面について詳しいものもあった。
円了が生きた明治時代はまだ多くの人が迷信(偏見や思いこみ)に捕われていたことから、こうした誤った認識を科学的に徹底解明することで人々を救おうとしました。
円了が、迷信や妖怪を打破する立場から著した『妖怪学講義』は有名で、「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれました。
しかし円了は妖怪を否定していた訳ではありません。科学でも解析できない「真の妖怪(未知)」の研究を通じて、真理の探究が始められなければならないと考えていたのです。
なるほどなぁ。10月に館蔵品展で見たものの数々は、こういうことだったのだなぁ、と納得。本当におもしろい人なのだな、円了さんって。ネーミングには駄洒落も多いし。
2019年にはこんな展示もあったらしい。
中野「れきみん」で妖怪博士・井上円了没後100年展 「天狗像」「幽霊像」初公開も - 中野経済新聞
ここにいるとなにやら、「哲学と言えば、何か自分には理解しがたい高尚なもの」と思いたがる自分を見透かされているような気持ちにもなる。
最後に「ここもおもしろいんだよ」と案内してもらったのは、川を渡ったところにある、「哲学の庭」。ハンガリーの彫刻家で、ご縁あって日本に帰化したワグナー・ナンドールさん(1922〜1997年)による制作。
ガンディー、ムハンマド、達磨大師、老子、聖フランシス、釈迦、ユスティニアヌス、聖徳太子、ハムラビ、エクナトン(アクナーテン)、イエス・キリスト......といった世界のビッグネームの像が並んでいる。
ちょっとびっくりしてしまうのは、世界5大宗教の祖を等身大の(いや、実際のサイズわかんないけども)人間に具象化して、しかも並列に置いちゃったところ。新しいけど、いいのか、大丈夫なのか、とハラハラする。ムハンマドはかろうじて顔を伏せたポーズになっていて、よかったけど。イスラム教、偶像崇拝ダメだから。
管理事務所でもらった資料によれば、
ワグナー・ナンドールは「哲学の庭」について次のようなメッセージを遺しています。
『私は長年研究していた分析的美術史の研究から幸せへの道を見出しました。その理論を彫刻の形で表現したのが、この「哲学の庭」です。この道は人類共通の進歩を示し、考える道を開いています。問題がたやすく解決されるとは思いません。しかし私はこの方向に向かって進むべきだと確信するのです』
ふむ......。それは、わたしなりにすごく素朴に単純に考えてみると、
"異なる思想や信仰の教義も、高次の概念で扱えば、人間の幸せのために人間が作ったもの。本来は対立しないもの。だから、これを観る人と同じ人間を型取り、あえて並列に扱った"ということなんだろうか。円了さんが推し賢人たちを合祀しているところからインスピレーションを受けつつ、また違った表現をなさっているのか。
正解はわからないが、ともかくこういうことを「ああなのか、こうなのか」と考えるのが哲学の意義であり、ナンドールさんの願いなのかもしれない。
哲学堂のあとに行った、東京子ども図書館もたいへんよかった。「おはなしのろうそく」の部屋の本物に入れたのが、読み聞かせボランティアをやってきた身としては、うれしい。またゆっくり訪れたい。
この日は、新井薬師駅で待ち合わせて、北の哲学堂方面に向かい、住宅街にあるお店で美味しいランチをいただいてから哲学堂へ、というコースだったのだけど、駅から南へのびる商店街も大変賑やかでおもしろそうであった。また行ってみたい。
なんとなく心の距離が遠かったこの辺り(中野、新井薬師、江古田)が近くなった日でした。
やっぱり東京、おもしろい。