映画『二重のまち/交代地のうたを編む』@シネマ・チュプキ・タバタ 鑑賞記録。
最終日にすべりこみ。
震災テーマの作品は、どうしてもしんどくて、3月11日が過ぎてからでないと近づけない。
(3月11日当日は、家に一人でいたくなくて、岩波ホールでジョージア映画の『金の糸』を観た)
念のため「津波の映像はありますか?」とチュプキさんに聞き、「ありません」と確認できたので、安心して観た。
静かな映画だった。
語りに包まれている。
2018年に陸前高田で行われたワークショップに4人の若者が集う。
まちにあるのは、海岸沿いの防潮堤。
もとの地面と嵩上げ工事中の地面(これが"二重のまち"の第一の意味)。
東日本大震災から、物理的にも時間的にも遠い人たちが、旅人として、町の人の話を聴く。
大切な人や物や時間を喪った人の語りを聴く。
集めた言葉を語り直し、物語を分かち合う。
語り直しの試みの中で起こる戸惑い、葛藤がゆっくりと滲み出ていく。
自分は聴けているのか、取りこぼしてはいないか、自分が語りなおすときには変質しているのではないか、忘れないでほしいと言われたけれど忘れてしまうのではないか、聴くことによって余計に傷つけているのではないか、聴けなかったことがあったのはよかったのか……というようなこと。
「自分がわかるために聴くのが嫌」後ろめたさや罪悪感のようなものも感じる。
この対話の中に答えはない。
両者の言葉を聴いているこちらに残るのは、土埃をあげる波、泣いているお母さん、新しい携帯電話、キャッチボール、化粧、ノンフィクション、花、消防団、タバコ。
4人の誰も急いで話さない。もともとそういうゆっくりしたテンポの人たちなのか、4人でいるとペーシングされるのか、そういう指示が出ていたのかはわからない。
ゆっくりとした語りに包まれて、私もチューニングされていく。
大切に扱いたいという思いが私にも流れ込んでくる。
ユンボ、夕方5時のチャイム。
なぜ語り継ぐのか。語り継ぐとは、体験を伝えるとは、何か。
覚えていることと、忘れないこと。何のために。
これらは私のテーマ。
考えてみればどこもかしこもが「二重のまち」で、「交代地」なのだ。
私が今暮らしているここも、たとえば東京大空襲で焼けたまちの上にある。
「想像するなら、できるだけ丁寧に」
語りの中からこんな風景が現れる。
映画内で朗読される詩が載っている。その他のたくさんの言葉も。映画を思い出しながら読む。
小森はるかさんの作品
小森はるか + 瀬尾夏美 インタビュー「記憶は地に沁み、風を越え 日本の新進作家 vol. 18」
(写真美術館の展示、見逃していたけれど、ここで見られるのありがたい)
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