岩波ホールで『歩いて見た世界』を観た記録。
2022年7月29日に閉館する岩波ホールの最後の上映作品。
最後は必ず観にくるという自分への約束として、前作『メイド・イン・バングラデシュ』を観に来たときに前売り券を買っておいた。
原題は"Nomad: In the Footsteps of Bruce Chatwin"
一つの人生を振り返りながら、世界との繫がりを結び直す、詩的で穏やかな作品。重々しさと神聖さが漂う。霊性、Spirituality。
過剰に美しく仕立て上げられているのではないかとか、植民地主義的な眼差しはなかったのかとか、いろいろ気になるところはありながらも、呼吸も穏やかになり、今観ているものが確かに心身に作用するのを感じながら過ごした。
最近流行りの矢継ぎ早の伝記ドキュメンタリーとは一線を画す、作家の芸術作品になっている。チャトウィンへの個人的な友愛。これがなくては撮れなかった映画。そして監督自身の人生哲学。長いキャリアの末に到達した場所へと観客を誘ってくれる。
ちなみにヘルツォークは多作。2020年までに劇映画、ドキュメンタリー、短編・中編・長編合わせて計67本!フレデリック・ワイズマンにも驚いたが、ヘルツォークも凄かった。
ヘルツォークの作品は『アギーレ/神の怒り』(1972年)のギラッギラのイメージが強かったので、年と重ねると人はこんなにも穏やかになっていくのかと驚いた。
そんなに単純に評せるものではないだろうが、知らずに見たら同じ作家の作品とはとても思えないだろう。『アギーレ』の場合は、やはりクラウス・キンスキーの存在感がありすぎるし、ヘルツォークも若かったし、なにより時代が違う。1972年は冷戦の真っ只中で、ベトナム戦争もある。世界は相変わらず戦時下にあった。
今は? 今はどうなのだろう。
この50年でいろんなことが起き、いろんなことが急激に進み、人類は今どこにいるのだろう。その大きな流れの中にあって、自分はどのように生きていけばいいのだろう。私を支えてくれる「神話」はあるのだろうか。
死を前提とした生の哲学が「旅」というキーワードと共に語られていく。自分の死生観にもゆっくりと触れていく時間。映画の音、歌の効果。
死そのものも怖いが、死に至るまでに何が起こるかわからないところが私は怖い。
一瞬なのか長いのか、不慮なのかある程度回避ができるのか、苦しむのか苦しまないのか、他者から傷つけられるのかそうではないのか。
そうして怖がりながらチャトウィンの晩年から最後の日々を見ていると、単に今の場所から次の場所への移行(transition)なのかもしれないとも思う。死からは免れない。
それにしても、人間の命というのはなんと儚く短いんだろう。
「人間にとって最も大切な資産は時間」とは、ある文化人類学者の言葉。
カタカナで「ノマド」と書くと、働き方に関する一過性のムーブメントのイメージが強い。原題をそのまま使わないのはよかった。
この苦しい時代の中で観た『歩いて見た世界』が、後の私を支えてくれるかもしれない。
岩波ホールの最終上映作品に立ち会ったということと、この映画を体験した時間と、映画のタイトルを覚えているということが。
チュプキさんの6月のチラシが岩波ホールへのオマージュになっていたことにようやく気づいた。6月、7月は岩波ホールミニ特集とのことです。
最後の作品だから、予告編はないんだよなと寂しく思っていたら、本編の前にスライドショーが始まった。文化ホールとして始まり、エキプ・ド・シネマ(映画の仲間たちの意)として274作品、66の国と地域の映画を紹介してきた。
この場所に降り積もってきた「映画の時間」や人の気配や建物の歴史を感じて、胸がじわっとする。アーク状の壁の照明が消えて本編へ……。ああ、最後なんだなと思う。
今回は、『ハンナ・アーレント』を観に来たときに座っていたあたりに着席した。ここで一番印象深い映画。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/154150
歩いて7分ほどのところにある千代田図書館では、「ありがとう 岩波ホール」の第2期を展示中。過去の上映作品を年代ごとに2本ずつ選んで、スタッフのエピソードと共に紹介。「長尺でも客が入る」という自信は、何十年もやってきた蓄積の上にあったのだなとあらためて気づかされる。小さなコーナーだが、足を運ぶかいがある展示。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)