本『プリズン・サークル』を読んだ記録。
『プリズン・サークル』は、この本でようやく作品として完成したのかもしれない。
映画としては描けなかった経緯、編集に載らなかった数々のエピソード、監督が主語になるからこそ見えてくる現場の景色。
映画の中に確認できずもやもやしていた事柄が、この本でははっきりと用語として取り扱われている。女性差別、人種差別、DV、性犯罪、支援員の立場など。文章だからこそ可能になっている観察、分析、問題提起。
各章は問いかけで終わる。読みながら頭をはたらかせるが簡単に答えを出せない。ともかく読み進めるしかないとなんとか食らいついていく。
最後まで読みきると、坂上監督が想像を絶する状況と立場の中でこの映画を作っていたことがわかり、信じられない思いがする。本書は彼女のドキュメントでもある。
映画を観ていても驚いたが、あらためて被害者に対する反省や謝罪の気持ちが出てくるのにはほんとうに時間がかかるのだと思った。
本で書かれている範囲ではあるが、かれらの多くは自分が本当に何をしたのか、なぜ自分が裁かれたのかを言語化できていない。認識できていない。記憶が抜け落ちている人もいるし、言語化できないほど人間性が損なわれている人もいれば、納得もいっていないし、反省している「フリをさせられてきた」ことに恨みすら持っている人もいる。そんな姿を見ていると、厳罰化はやはり犯罪の抑止力にならないのでは、と思わずにいられない。
かれらがそうなるまでには、警察や裁判所や刑務所の構造があり、かれら一人ひとりの成育過程があり、それを作り出した社会環境があるのかもしれない。(もちろんだからといって犯罪として社会のルールを逸脱した行為であったことには変わりないが)
だからTCでは、反省の前にまず、その犯行に至った人生の経緯や、世界の見え方、価値観、自分について・自分の歴史を知ることを徹底して行っていた。語ること。聴くこと。その繰り返し。
かれらの回復プロセスを坂上さんの「カメラ」を通して見てくると、更生を「為す側」の教育観として、「したことに向き合えば、自ずと反省の気持ちが湧くものである」とか、「厳しくすれば、正しいことをするようになる」などの、人間に対する幻想のようなものが根底にある気がしてならない。
映画に出ていたシーンの背景、同時に起こっていた細かな出来事、誰のどのエピソードが、かれらにとっての回復段階のどこのタイミングで出てきたものなのかが、本書では解説されていて、より理解が深くなる。
かれらの親や近親者の抱える問題も、より鮮明に見えてくる。深刻な課題を抱える家族たち。一人の加害者の周りにいる人たち。社会的に、経済的に、精神的に困窮している。かれらが出所した後、関係はどうなったのだろう。(一部は描かれているが)
また、直接は書かれていないが、被害者に対する支援の不足もうかがわせる。だから、一人を罰したら関係者が救われるようには全くなってはいない。なのに継続されている従来の手続き。
映画のあとのエピソードも綴られているのがありがたい。出所後のかれらとの交流の様子や、立ち上げ当時にかかわった人たちが去った後の「島根あさひ」のTCの姿など。映画のほうは都合5回は観ているので、写っている一人ひとりに対して、他人のような気がしないのだ。そういう人は多いと思う。
坂上さんが後半に行くにつれ繰り返し語っているのは、かれらにTCの経験があったことは重要だが、「その型があればどうにかなるということではない」ということだと思う。
重要なのは一人ひとりにとって心理的に安全な環境や、TCの授業とTC以外の生活の中で培われた相互に影響を与え合い、学び合った者同士の信頼関係が生まれ、出所したあとも継続している点。
効果を説明することは本当に難しい。確かにあるし、こうして映像や証言で証明もできる。ただ時間がかかる。そして「わかりにくい」。わかりやすさに飛びつく衝動の強い世の中で、この営みを広げていくことは本当に難しい。不可能ではないが難しい。難しいが不可能ではない。そんなとき巻末の参考文献リストはありがたい。次にタイミングがきたとき、ここから学びをさらに進めていくことができる。
最近、ドキュメンタリー映画『私のはなし、部落のはなし』も観て、タブーについてあらためて考えている。
山内昶の『タブーの謎を解く―食と性の文化学』(筑摩書房, 1996)によると、タブーとはポリネシアの言葉 "tapu"に由来しているのだそうだ。"ta"が「徴(しるし)」、"pu"が「強く」。
神聖化されていて清浄を保持するために禁忌とされるものと,不浄であってその不浄を回避するために禁忌されるものの両義を持つ。境界を引くことで違いを明確にし、周縁化する。そして境界に位置するもの(どちらでもない場所、者、人)を特に徴をつけて注意を促す。
この二つの映画を思い返すと、強く徴をつけ、場所を分け、隔離し、排除し差別する目的が見えてくるようだ。「自分たち」を清浄で正常であるとし、その立場を守ることで得られる利益を確かにするためと、生きる上でのあらゆる不安や不満を入れ物をつくってその中にすべて投げ込むことで解消しようとする衝動のために。そしてときおり犬笛が吹かれ、一斉にそこにヘイトが投げ込まれる。
なんのためにそうするのかと言えば、維持したい「聖」「清」の顔をした権威、権力、ヒエラルキーがあるからだろうか。
映画を観なかった人にも、本の形であればもっと届いていく可能性がある。書店や図書館やSNSで、もしかしたらふと目にするかもしれない。
システムを強化する側にいる人、システムに違和感を覚える人、あの場にいたけれど撮影には「不同意」だった人、出所後に連絡のつかない人、犯罪の当事者の人……いろんな人に届く本であってほしいと願う。
貼り付けた付箋をもとに、この記事とは別に読書記録をつけていたら、5500字を軽く超えた。受け取ったものが多い。
そういえば、出版後すぐにNHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」で本書を扱っている回があり、高橋さんが語っていた次の言葉が印象に残った。
「この社会という大きなTCの中で物語をつくる役割が小説家」
私がファシリテーションをした映画『プリズン・サークル』の鑑賞対話の場で、「社会の中にTCがもっとあれば」という感想が多く聞かれたことを思い出す。もちろん安心して語れる集いや関係性を作っていくことも重要だろうと思う。
ただ、ここでの高橋さんの言葉はそれとは少し違っていて、「この社会が既にTCだとする」という捉え方だ。安心や安全を感じられない人にとっても、ここを真のTC、サンクチュアリにしていくために、大きく捉えて働きかけていくこともできる、ということかと解釈した。私も個人で、あるいは仕事を通して、そういう役割を担う一人でありたい。
個人的には、ニ度も感想シェア会をやらせてもらったチュプキさんで購入できたのがうれしい。
映画をご覧の際にぜひ。在庫状況はチュプキさんにお問い合わせを。
映画『プリズン・サークル』に関する記録。
参考図書:『ぼくらの時代の罪と罰』森達也著(ミツイパブリッシング, 2021年)
参考図書:『こころの科学 188 特別企画:犯罪の心理』
藤岡淳子さんと毛利真弓さんの寄稿あり。
参考図書:『反省させると犯罪者になります』岡本茂樹(新潮社, 2013年)
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)