*個人の主観的な感想ですが、鑑賞行動に影響を与える可能性があります。観る・観ない・感じ方を左右されたくない方は、読まずに、またはいつでも途中で退出してくださいませ*
映画『プリズン・サークル』を観てきた。
サブタイトルは、「ぼくたちがここにいる本当の理由」。
あらためて眺めると、語りを聴かせてくれた一人ひとりの顔が浮かぶ。
受刑者たちの顔にはモザイクがかけられているのだけれど、ずっと観ているうちに、次第に判別がついていく。
一人ひとりであり、ぼく「たち」でもある。
この映画を観る前に
・いじめがテーマの読書会をひらいて、
坂上香さんが監督した前作2本、
・「Lifers ライファーズ 終身刑を超えて」を観て、
・「ライファーズ」の感想を友人とZoomで語り、
・「トークバック 沈黙を破る女たち」を観て(こちらは二度目)、
・シネマ・チュプキ・タバタで「トークバックでゆるっと話そう」という対話の場をひらいて、
・冤罪被害者5人の"青春"ドキュメンタリー「獄友」を観て、
・虐待予防を考えるシンポジウムの文字起こしの仕事をして、
......ということが、ここ最近の流れとしてあった。
並べてみると、濃いな、今月...。
おつかれさん、わたし。
ほとんどどれもレポートが書けていなかったけれど、今観ておくべきだと思い、『プリズン・サークル』の鑑賞を優先した。
また、この映画はできるだけたくさん受け取りたいと思い、自分の関心を明確にしておくことを心がけて、こんな記事も書いておいた。
この映画を観た後に
当日はいつものようにメモをとりながら観て、終わってから友人を感想を語った。
(あ、でもその前に観終わってすぐ、思わずハグしてしまった。)
友人は子どものお迎えが、わたしは息子の帰宅があるので、時間の制限がある中で濃く語った。
こういうとき、わたしたちってほんとうにいい時間の使い方ができて幸せだなと思う。
制限でもあるけれど、ありがたい枠やルールにもなる。
また、
あとで感想を語る前提で、友だちを誘って映画や舞台や展覧会を観に行く。
感想を語るときは、時間を決め、脱線せずにその感想を一生懸命話す。
という文化が、わたしの周りでは定着していることもうれしい。幸せ。
友人の感想を読んだり(1回目、2回目)、一緒に感想を話したことも刺激になって、次々と言葉がわいてきた。
メモをとってとりあえず貯めておいたが、 こんな状態のまま、全然まとまらない。
とにかく今はリリースを優先しようと思うので、感想はいつものようにだらだらと書く。
個人的な主観なので、これから映画を観る方で、ご自身の新鮮な感覚が影響されそうと感じる方は、読む読まないはご判断くださいませ。
感想いろいろ
- 「ライファーズ」を観ているときも、わたしは決して他人事という構えだったわけではない。でも、国や言語が違う、ということの大きさを、「プリズン・サークル」を観て実感した。社会のリアルな実感の程度が全く違う。没頭して観た。それだけでもう、日本の刑務所が舞台となっていることの意味を感じた。
- ナレーションはない。説明の字幕は最初のほうだけ。彼らとわたしたちとのあいだに関係ができてくると、だんだんと少なくなっていく。
- わたしがはじめて対話、ワークショップ、ファシリテーションというものに出会ったのは2010年12月だった。その場のことをありありと思い出した。そのときのことはここで話した。
わたしはそれまで「わたしはわたしについてのほんとうのことを話したことがなかったんだ!」と実感し、また「こんな話し方があるんだ」という衝撃を受けた。そのとき話した内容も覚えているが、誰にも話せないことを話した。心のやわらかい、傷つきの部分に触れて、またそこを優しく聴いてもらえたことで、涙があふれたことも思い出す。 - だから、プリズン・サークルで行われているTC(Therapeutic Community)という場とアプローチに似たことは、その後も多く経験し、また自分自身も主催・進行しており、見知った光景だった。意味や意図や効果についても理解して観ている。
そういうわたしとしてこの映画を観ていて、とても不思議な感じになったのは、音声だけ聴いてて、罪を犯した背景を知らなければ、まるで「いつもの場」のようだったからだ。ほんとうに境目がない、と思った。安全な場所から「わたしだってあっち側だったのかも」と言っているわけではなくて。この感覚は奇妙だった。受刑者の中からファシリテーターを務める人もいる。
「いいことをしゃべろうとかじゃなくて、本音を話してほしい」まるで、まるでほんとうに「いつもの場」。
エレクトリカルパレードを流しながら動く自動配膳機や、私語厳禁の食事時間や刑務作業の風景を知らなければ、刑務所か刑務所じゃないか、まったくわからない。つまり特殊な人たちではない。わかっていたけれども、あらためて衝撃と共に実感した。 - わたしも感想を交わした友人も、ファシリテーターやコンサルタント、セラピストやカウンセラーという仕事をしている。つまり、人の話を聴く仕事だ。
そういうわたしたちは、人の話を聴くにあたっては、さまざまな自分自身がカウンセリングやセラピーを受け、回復し、今も常に回復し続けながら、自分を調律、調整、ケアをしながら、仕事をしている。
そういうわたしたちから見て、この刑務所内で行われいているTCは、非常にタフな取り組みだと感じた。週に12時間、半年から2年かけて参加するプログラム。 - 刑務所以外であれば、日常の中に逃げ込める先がたくさんある。家事をしたり仕事をしたり、自由に移動もできるし、気晴らしをしたり、あるいは別のものに依存することもできる。でも、刑務所の日常は、取り決めがあって制限されている。自分の気分で食べたいものを選ぶこともできないし、服はみんなと一緒だし、ヘアスタイルは丸刈りにしなくてはいけない、いつ何をするかが徹底して決められている。
- そんな中で、プログラムを受講して、徹底的に自分と向き合うことが求められる。服役という同じ状況の同じ性別の人たちが、同じプログラムを受けているという特殊な環境。だからこそ回復が早いとも言えるのかも、という話をした。それから、TCを受けることは回復であると同時に、過酷な懲罰なのかもしれないとも思える。
- 彼らは普段は番号で呼ばれるのだという。TCのときだけは名前で呼ばれる。刑務所ないで激しく罵られたりもする。TCのときは目を見て話を聴いてもらえる。「ライファーズ」の感想を話したときに、友人が「懲罰ってなんだろう?」「懲罰と回復って両立しないのではないか?」という問いを出してくれたことを思い出した。懲罰というのは、名前や服や会話を奪われること?罵倒して同じような怖い思いやさらなる恥辱を味わせること...?人間性を奪うことと、人間性の回復とが同時にある場所。ここはまだ混乱している。
- 「人間を番号で呼ぶのをやめてほしい」と思った。たとえば、そういう要望って、誰にどう言えばいいんだろうか。あるいは、どうしてそうすることになっているか、誰か説明してくれるのかな。
- 以前、男性による男性のための支援関係があってほしいということを何本か書いたけれど、プリズン・サークルで描かれていたのはまさにそれだったかなぁと思う。「怖かったし、嫌だったよね、悲しかったよね」という労わりあいや、「どうしたの?」「大丈夫だよ」「一歩一歩やろう」「一緒に考えよう」という共感や親愛の表現。「相談してね」「よく話してくれたね」という受容。
- 競わされて、強くなれ、弱さは命取りだと脅されてきて、「一緒に戦える奴なら存在していてもいい」となってしまった結果がこうだとしたら、そうではない関係、Brotherhoodが、なにかここにはあるような気がしたよね、とも話した。
- TCを経験した人たちは、「生まれ直す」という経験をしているようにみえた。
聴いてもらえなかった、見てもらえなかった、大事にされなかった人たちが、自分の表現、言葉の力を奪われて、損なわれて、信じられなくなって、使えなくなっていった過程に目を向けて、一つひとつ、時間をかけて言葉を取り戻している。感情の名前を教えてもらいながら、誰とどんなつながりを持ちたかったのか、どんな切なる願いがあったのか、自分が歩んできた道のりを自分の言葉で語る試みをして、言葉を取り戻していっている。 - 最初はぼんやりとしていて、何を考えているのかわからなかった人が、どんどん輪郭を際立たせて、生命力に満ち溢れていく様は、胸に迫るものがある。感情や言葉や人間性を取り戻すと、悩むし苦しくなる。映画「ハウルの動く城」のラストで、「ウッ、なんだ、身体が重い」「ハウル、そうなの、心って重いの!」というセリフを思い出す。
- どんな人間にも日常と非日常が必要なのではないか、ということをここ数年いろいろな人といろいろな取り組みをしてきて、考えている。わたしも日常の中に鑑賞や競技かるたや旅行などの非日常の時間を組み込んでいる。そこでは日常にいては見えなかったことが映し絵になっている。そこで省みて発見し、得たものをもって再び日常に戻る。行ったり来たりすることで、どんな過酷な環境でも、人間は正気を保ちながら、生きていける。
刑務所の受刑者たちにとっては普段の生活や刑務作業が日常で、名前を取り戻し、会話をしながら、過去を辿りこれからの人生を考えるTCが非日常になる。TCとTC以外の時間を行き来している。 - 「犯罪傾向の進んでいない男子」を対象に行われているプログラムとのことだが、「Lifers ライファーズ 終身刑を超えて」を見ると、累犯受刑者たちの再犯率低下の有効性も証明されている。こちらも作品として記録として存在することが大きな希望だ。
- 男の人が子どもを出産をすることは今のところないわけだけれど、でも男の人だって、自分で自分を「産む」ことができる、と常々思っている。プリズン・サークルで起こっていたのは、適切な表現なのかわからないけれど、鉗子をつかって引き出すというよりも、言葉が産み出されるのを、その人がその人を産むのを、男の人たちが助産していたようにも見えた。そこにあったのは「応援」「約束」。
産み出す力は一人ひとりにある。分娩の過程も人それぞれ。 - どうしてそのイメージがあるかというと、最後に出所していく一人の元受刑者の顔を見たときに、ほんとうに美しかったから。わたしが息子を出産したときのことを思い出した。そういえば生まれたばかりの人間ってあんなふうに、曇りのない眼で世界を見ていたっけな。
- 人の話を聴く、自分が話す。そのことによって回復していく。
え、聴くとか話すとか、そんなことなの?それだけなの?という感じだと思う。もちろん適切な環境や聴く作法、話す作法はあるし、 十分にトレーニングされた人が場を運営しているわけだけれど、それだってものすごく特殊なものではない。「だって誰だってこういうときは緊張しちゃうよね?」とか、「こっちのほうが話しやすいよね」とか、そういうhumanityに基づいて設えられている。ほんとうにすごく簡単なことなのだ。でもそれが難しいのは、なぜなんだろう。
- ここは刑務所だ。そのことに何度も混乱するし、胸が痛くなる。聴いてもらえなかった、見てもらえなかった、言葉の力を信じられなくなった、自分や他人を損なうことでしか自分の存在が実感できない......その痛みをケアし、人間性の回復を目指す場が、刑務所の中だということに、言いようのない無念さを感じる。
映画の中でも、「もっと早くやるべきだった、TCとかそういうことじゃなくて」と話していた受刑者がいた。思わず「それはあなたのせいではなく...」と言いたくなった。
ほんとうにその場が、刑務所より前に、できるだけたくさんほしい。 - 彼らが持っているファイルの厚みに目が留まった。犯罪の起こる仕組みや、人間関係の築き方、話し方聴き方、いろんなことを学んでいる。毎回配布された資料が綴じられているのか、あるいは資料の束が綴じられた状態で渡されるのかはわからないけれど、テキスト(教科書としての)だけではなくて、自分で記入したものもおそらくたくさん綴じられていて、その経験と学びの蓄積を感じた。
- 虐待防止のシンポジウムの中で、「虐待という現象として表出しているだけ」という言葉があったけれど、まさにこの映画を見ていて感じた。どう表出するかは、ほんとうにぎりぎりのところの分かれ目というだけなのだと思う。それが、詐欺、窃盗、殺人、虐待、DVに向かう場合もあれば、病気、自死、自傷に向かう場合もある。たまたま自分以外への犯罪に振れたときに、刑務所にいくことになるけれど、振れたほうによって病院になったりする。いずれにせよ、人間の苦しみの表れ方のひとつ、にすぎない。
- どこで回復の場に出会えるか、ということだけで。犯罪に振れて刑務所に入るとき、この島根あさひ社会復帰促進センターに入ることも、TCを受ける確率もものすごく低い。(日本の受刑者4万人強のうちの、40人/クール)
- 虐待にせよ、窃盗にせよ、表出した現象だとしたら、言葉をもっと的確なものに再定義していったほうがいいのではないかと思った。その言葉が含んでいるイメージを超えて、一つひとつ、背景や構造も含めて、再定義していく。単にカテゴリとイメージとして、「加害=悪、罰せられるべきこと、被害=可哀想なこと」のような、単純なものではなくて。
- この映画を観ることで、救われる人がいるのではないかという気もした。
間接的にTCのプログラムを受けることができる。
実際わたしは、この映画を観ることで、癒えていく自分の傷があった。彼らと一緒に自分と向き合うような136分間だった。
だから、いろんな人に観てほしいと思うのは、こういう理由もある。
誰でも、何かしら、被害の体験、加害の体験をもっている。向き合って反省して...ということではなくて、ただ、それを抱えていることを赦してもらえる。そういう温かな時間でもあった。 - 坂上監督の作品は暴力的なシーンはない。もちろん、人の語りの中には、過酷な環境で生き抜いたことが含まれているけれども、それは観る人を損ねようとか、社会の辛い現実を直視させようとか、そういう意図はない。わたしもその場にいて、じっと語りに耳を澄ませている、というような時間だ。その人が今目の前にいて、真摯に自分の実感とつながった言葉だけを話しているとき、内容が何であれ、思わず聞き入ってしまう。
被写体といつもそのような信頼関係をつくっている人なのだろう。 - 一つ自分の中でクリアになったのは、「誰かを罰したいのではなくて、その行動をしないでほしい」ということだ。すごくシンプルに。窃盗、詐欺、強盗殺人、傷害致死...という行動をしないでほしいと思っている。
でも「なぜその行動として表れるのか」の背景や出元を人間を中心に聴いていかないと、止めることができない。
そう思ったのは、加害のときに乖離が起きている受刑者の語りがあったから。
だから、やっぱり予防というのは聴くことや、安心安全な場(環境や機会や関係)を社会にたくさんつくることしかない。それも、できるだけ年齢の低い時期から。
ふりかえり
感想を書きはじめたら、ずいぶんとたくさんになってしまった。
これでもほんのさわり。肝心なことが書けていないんじゃないかという気がする。
そのぐらい、受け取ったものがたくさんで、ほんとうに幸福な鑑賞体験だった。
このタイミングで、この映画に出会えたことがうれしい。
わたしも暴力の連鎖を終わらせたいと願っている一人だ。
誰もが、生きているうちに、なんとか間に合ってほしい。
この映画を見た人たちは、きっとそれぞれのフィールドで、それぞれの切実さで、それぞれの専門性で、やっていくだろう。
観た人とのあいだに不思議な連帯を感じる。
実際に観て話した人は数人なんだけれど。
きっとみんなそうだ、という不思議な手応えがある。
わたしの職分からは、やはりこれを言いたい。
いまこそ、いろんな「サークル」で対話や議論をしよう。
わたしたちがないことにしてきたもの、
ずっとあったけれど、ほんとうはなんなのかよく見てこなかったもの、
怖くて、なかなか一人ではみることができなかったものの姿を見よう。
定義し直そう、新しい表現を与えよう。
人間のことを大事にした、安心安全で健やかなサークル(場)なら、怖くないし、そのことで傷ついたりしない。
むしろ育みあって、希望を分かち合って、生まれてきて、生きてきてよかったなと思える。
そういう仕事をこれからもやっていく。
◆過去作品
『トークバック 沈黙を破る女たち』
『プリズン・サークル ぼくたちがここにいる本当の理由』
◆制作団体・out of frame
http://outofframe.org/index.html
◆坂上香さんの著書
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