ひととび〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

本『同志少女よ、敵よ撃て』読書記録

小説『同志少女よ、敵を撃て』を読んだ記録。

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身内で読書会をすることになったので読んだ。ちょうどその時期に『高橋源一郎飛ぶ教室』でもこの作品が取り上げられていたので、聴いて読書および読書会の参考にした。書評と逢坂さんの出演とで2回あり、「飛ぶ教室」にしては異例の扱いではなかったかと思う。

 

読んでみて、思っていたのと違ったというのがまず第一印象。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』の語りのような、過去を振り返る証言のような内容を想像していた。フィクションの物語であり、小説だった。そりゃそうか。

読み始めたらおもしろくてぐいぐいと最後まで連れて行かれた。独ソ戦とはなんだったのか、史実の解説と現場からの中継、レポート。この小説を手がかりに、今のウクライナーロシア間の戦争に何がつながっていったのかを考えることができる。

戦時性暴力についても触れている点が画期的。それだけに読み終わって残るのは重い感覚。

文中で使われている用語からも、巻末の参考文献リストからも、さらに関心を広げて行くこともできる。

10代にもおすすめしたい。

 

本屋大賞の逢坂冬馬さん「絶望することはやめる」ロシアへの思い語る(2022/4/6)

www.asahi.com

 

※以下は内容に深く触れていますので、未読の方はご注意ください。

 

読書記録 

・ドイツ兵の日記や手紙が章ごとに挿入されることによって「あちらからの景色」が共有される。決してロシア万歳でもなく、どちらが正義でもない戦争の実相を表現しようとしている。

・家族が皆殺しにされる場面から物語が始まるところは、『鬼滅の刃』を思い出した。「鬼滅」は復讐の物語ではないということなので少し違うが、そのとき声をかけてくれた人について行くしかない状況に追い込まれたり、もともとその戦い方の特性があるところなどは似ている。戦っている相手が「鬼」と思っていたら、自分だって「鬼」だと気付くところも。

・女性同士の関係は、思い当たる感覚もあるようで、やはりどこか作り物っぽくもある。イリーナと少女たちの関係は女子校の部活の部長と部員のよう。女子校に通った経験はないので、あくまでもイメージだが、私のイメージというより誰かが作ったイメージの踏襲という感じ。イリーナとセラフィマの関係は、『風の谷のナウシカ』のクシャナナウシカに近い。イリーナからセラフィマへの「お前」呼び。陰のあるイリーナはクシャナ。こんな過酷な状況下でも常に精神が安定しているセラフィマはナウシカ。イリーナとリュドミラの関係はタカラヅカの同期生っぽい。

・「女性には女性の、狙撃兵には狙撃兵に最適化された訓練」(p.56)なんだろう、こことても怖い。「機能のみを追求した髪型になるということは、大げさに言えば、自らが兵器化することのように感じられた。」(p.61)つい、学校における意味不明な校則のことを思い出してしまった。

・「起点を持てと私は言った。そしてそれを戦場では忘れろとも言った」(p.75)「狙撃兵にとっての射撃が単に主要な構成要素の一部であり、引き金を絞る瞬間はその他に費やした全ての結果を出す『極』に他ならない」(p.86)冷酷な殺人者ではなく、職人というかアスリートということ。一方で「楽しむな」(p.264)という戒め。こういう立場、こういう職業がある。すぐ近くにある。

・「迫撃砲の周囲では観測手が地図と方位磁石を頼りに照準を調整していた。その隣に重機関銃が配置されていて、あたりに睨みをきかせている」(p.234)戦場での分業の様子もよくわかる。つまり戦争というものが、いかにシステマティックに行われるものかということ。

・「つまり誰かが動物を殺さなければならない。それは自分がやるのは、別に残忍なことではない」(p.92)猟銃を持って害獣を駆除したり、食糧としての動物を獲っていたいた頃の話。動物を殺すことと人間を殺すこと、必要であるかどうかを迷うこと、可哀想だと思う気持ちをどうするか。というテーマが繰り返し現れる。

・犬との交流。生き物を飼っている人には辛い場面がある。

・「なぜソ連は女性兵士を戦闘に投入するのか」(p.75)この問いに挑んだことが、この小説のすごいところ。「男女が同権であるということ」(p.109)「戦わない男は、女未満と見なされる」(p.182)などでも言及。「なぜか敵は女を殺す姿を見方に見せたがらない」(p.427)どういうことか。戦場と女。まだわからないことが多い。「生きて帰った兵士は敬遠され、特に同じ女性から疎外された」(p.468)この語りは『戦争は女の顔をしていない』でも明らかになった。

・セラフィマが「ドイツ語を学んで外交官になり、ドイツとソ連との友好の架け橋になりたい」と願うところは切ない。実際、語学を志すときに先生方がおっしゃっていたこと。言葉とは、そういう温かな感情のわくものでもあり、一方で敵の言葉が解することが身を助ける、生死を左右することにつながるような武器や防具にもなる。またもう一つの観点は「意思疎通可能な人間であると分かるため」(p.423)相手の言葉をわかろうと努めることは、相手を人間扱いするということと同義。言葉を学ぶ意味の一つ。

・「女への暴行は軍規に反する」「占領地で性病にならないための決まり」(p.31)
これは「慰安婦」問題を調べているときに出てきたこと。女性の人権や、人道的なことではなく。

・男性が大多数の土木建設や運輸などの業界の現場で働く女性の気持ちが少しわかるような。「イワン」と「フリッツ」という俗語からも、ここは基本男性のいるところ。

・用語や時代背景など簡単に説明してはいるが、さらに興味の湧いたことを自分で調べる「余地」も残されていたのがよかった。「ヒーヴィ」「督戦隊」「ピオネール」「ケーニヒスベルク」「国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)」「スタフカ(Stavka)」など。ソ連国民必須の軍事基礎訓練、フセヴォーブチ」についてはわからなかった。

・「防衛戦争であるということが、これほどまでのポテンシャルを発揮するとは……」(p.237)セラフィマのこの分析は、今のウクライナが重なる。

・「子どもが遊ばなくなったら、きっとそれは子どもとして生きることを諦めたときでしょうね」(p.229)どんな状況下でも子どもは遊ぶ。禁じられてもも遊ぶ。それをしなくなったとき、子どもは生きる意欲をなくす。大人と同じことをさせようとすること、遊びから徹底的に疎外すること、様々な方法で絶望させることで。子どもたちとの交流の場面はしんどい。

・「恐ろしい共産主義者の魔手に落ちれば皆殺し」(p.280)は、アジア・太平洋戦争での「生きて虜囚の辱を受けず」に通じる。

・「売春宿に連れて行かれた」(p.316)「その体験を共有した連中の同志的結束を強める」(p.355)(p.441-448)戦時性暴力。これに言及することが一つ画期的だったし、まさに今の時代の小説なのだと思う。「異様としか言いようのない生き方」(p.318)性を使って生き延びざるを得ない人間に言及されている。遠い国の話を思いながら読んでいると、これは「ここの話」だと気づける仕組みになっている。

・「戦争を生き抜いた兵士たちは、自らの精神が強靭になったのではなく、戦場という歪んだ空間に最適化されたのだということに、より平和であるはずの日常へ回帰できない事実に直面することで気付いた」(p.466)
どの戦争でも、戦場に赴き、帰ってきた人は多かれ少なかれこれを持っていて、直後には語ることができず(自分の精神的な苦しみと、社会からの抑圧とで)何十年か経ってようやく語れる人もいれば、語れないまま亡くなった人もいる。子孫や関係者が掘り起こす動きもある。

・生理とトイレと風呂と食事についてはどうなっていたのか。衣食住。事実というよりも、セラフィマの物語の中でもっと知りたい。「ついに女性用下着の導入を実施した」(p.338)はあっさりとしか触れられていない。

・「狙撃兵に好意的な歩兵は少ない」(p.342)狙撃兵と一般兵科についての違い、狙撃兵の孤独については何度も出てくる。同じ戦場にいても、専門や任務の違いで見える世界が違う。

・(p.354)セラフィマがプロパガンダを冷静に読み解くのは当時を生きている人として現実味がないような気もするが、現代に生きる者としては解説としてありがたいと思う。

・「一時間話し続けても延々と技術論だけが続き、少しも精神に関わる事柄が登場しないことに、多少の驚きを感じた」(p.362)この箇所、何か非常に気になる。

・「自らの被害を内面に留保することで、彼らは自らの尊厳を取り戻したようだった」(p.476)どの国にも語れない歴史がある。しかしその傷はなくなったわけではない。

・ちょうどこの本を読んだ前後にアウシュヴィッツ生還者からあなたへ: 14歳,私は生きる道を選んだ』 (岩波ブックレット NO. 1054)を読んだ。

www.iwanami.co.jp

リリアナ・セグレさんは、「撃たない」を選択することで生き延びた。その話を引きずりながら『同志少女よ〜」を読んだので、セラフィマの決断もリリアナさんと同じなのかと思ったらそうはならなかったのでちょっと驚いた。小説の最初のほうで「撃たないぞ」という物語にも触れていたのに。何よりタイトルが『敵を撃て』。だからきっと「撃つ」か「撃たない」かはこの物語にとって重要な何かがあるのだ。今は浅くしか受け取れていないが、そのうちハッと気づくときが来るかもしれない。

 

*追記* 2023.6.16

〈対談〉戦争文学で反戦を伝えるには  逢坂冬馬×奈倉有里

『岩波』2022年6月号

https://www.iwanami.co.jp/book/b607796.html

岩波書店の #図書 6月号に逢坂冬馬さんと奈倉有里さんの対談発見。

逢坂さんと奈倉さんはごきょうだい。
高橋源一郎飛ぶ教室』でもお二人でゲスト出演されていた。

奈倉さんが翻訳したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『亜鉛の少年たち-アフガン帰還兵よ証言 増補版-』は今月末に出版。アフガン侵攻に従軍したソ連兵の語りを記録したもの。これもまた封殺されてきた歴史なのか。

そしてまた今も日々それが続いているのだ。つらい。でもこのつらさが対談で扱われていることがせめてもの救い。

奈倉さんのエッセイ『夕暮れに夜明けの歌を』も読みたい。

 

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年