ユーロスペースで映画『私のはなし 部落のはなし』を観た記録。
3時間25分あるが、劇場で鑑賞しているときは間に10分休憩がある。撮影、音、編集の効果が一体となって、一定の緊張感で連れて行くので、少しも長いとは感じない。
鑑賞直後の感想、当日のツイートより。
ティーチインの回でよかった。監督がこの作品を作った動機と立場について質問があったが、私が映画から感じたのは「出会っちゃったから」ということかなと思う。出会いの話。だからこそ途中から「私のはなし」が突然始まる。忘れられない出会いであり、並々ならぬ覚悟があったんだろうと想像する。
個人的に非常に胸がざわつくシーンが何度かあった。そういうものも含めて、映画館という公共の場でこのテーマが取り扱われたことの意義は大きい。この作品で出会っちゃった人たちがそれぞれに議論を広げていけたらいい。 日本語・英語字幕、音声ガイドでより多くの人が観られる作品になってほしい。
これは「私のはなし」でもあったと思う。あらためて作品として出会えてよかった。近さ遠さの違いはあるにしても、そう感じた人は多いのではないか。またそのようにも作られている。
しかしとても分かち合いにくいことでもある。自分自身を振り返っても、これを一切傷つかずに、傷つけずに済ませることは難しいだろうと思う。作品を経由することで少しずつ取り組めるといい。
語る人たちの眼差しが印象深い。語る内容だけでなく、その人がそこにいる「感じ」をカメラが絶妙にとらえている。ナレーションは黒に白、白に黒。音声はなし。監督自身も映り込むが、観客が監督の立場になってしまわないよう抑制されている。映像にしかできない表現。2022.6.4 @seikofunanok
歴史、変遷、地域ごと・個人ごとの個別具体。
寄ったり引いたりしながら、主に語りの力によって、部落差別という「見えにくいもの」を人の存在を前面に出して描き出していく。語りを糸として織りあげていく。
女性の語りが入っているのがよい。20代前半の若い人たちの語りもあるのもよい。今とこれからの話でもあるから。
そういう声は見過ごされがちだからこそ、地域も複数箇所選び、人の属性も多様であることを意識的に含めたのだろう。だからこそ、顔も名前も出せない女性の語りや子どもの語りは、もっともっとあるだろうと想像できる。
被差別部落出身の女性の話や、差別が家族に与える影響については、映画を観てしばらくして読み始めた坂上香監督の著書『プリズン・サークル』にも書かれていた。
読む前に、先に『私のはなし〜』を観ておいてよかったと思った。
「つくられた差別である」ということが、今回の鑑賞で持ち帰った中でも一番重要だった。
パンフレットの中の、黒川みどりさんの寄稿、
「差別を欲する人びとによって作られた生得的な徴(しるし)」
「差別の徴を探し求めている人びと」
という言葉にハッと胸を突かれた。
人間は「自分より下に見てもよい存在」を作り出す生き物で、それを権力が利用した結果、つくられた差別。
つくられた差別なのだとわかっても、なにかのうまみ、優位性、特権があれば人は手放さない。降りない。むしろ差別すればするほど特権を与えられてきた可能性がある。
ありもしない壮大なフィクションだとわかっていても、自分がそれを支える歯車のひとつに自分がなっている可能性に気付いても、やめられない、やめどきがわからない。広がっている闇が怖い。だからタブーにされてきたのかもしれない。
だとすれば、これは「私のはなし」でもある。
関西地方出身で、1980年代〜1990年代に学校の道徳の時間に同和教育を受けた私にはとても身近なテーマだからという理由と、この作品が差別の構造に斬り込んでいくものだから。
私は子どもの頃からずっとこのような作品を観たいと思ってきた。
このテーマで、この描き方で。提示されて初めて気づいた。
誰もこんなふうに教えてくれなかった。こんなふうだったらもっと考えられた。
「差別はいけない」とただ唱えたり、人間性や心根の話ではなく、ほんとうのことを知りたかったし、こういう複雑さを複雑なままに見たかった。
自分とどういう関係があるのか、自分で考えたかった。
監督が投げ出さずにこうして作りきってくれてほんとうにありがたい。
そう思っている人たちと、安心安全な場でもっと突っ込んだ感想を話してみたい。
対話が必要な映画だ。そして作品も対話の場を求めていると感じる。
これはまだ仮説だが、全員が全力で見えないフィクションを支えているうちに真実のようになってしまうのだとしたら、見えるようにして、支えることから降りる人を増やせば、フィクションを成り立たせなくすることはできるのではと思う。
多くの人に見てもらいたい作品だ。
・・・
ティーチインの回を狙って鑑賞してよかった。満席の客席の熱気がすごかった。
客席から、「この映画が差別を助長したときに(注※出演していた人やその地域に住む人に何らかの不利益があったときにという意味だと思う)責任を引き受けられるのか。差別の歴史はそんなに甘いもんじゃない」と語気強めに質問していた方がいた。
その方が何に感情を波立たせていたかはわからない。差別の実態についての言及が足りないと言っているのか、当事者性が薄い人(その人から見て)が作る資格はないといいたいのか、製作者が不勉強だと言いたいのか。
その場での応答、パンフレットの寄稿、そしてこのインタビュー動画が答えになっているので、私としては今は納得している。
映画を観ても、制作チームが被写体と地域とコミュニケーションを重ねながら撮影されていたことはよく伝わってくるし、語る人たちが覚悟をもって出ていることもわかる。
ただ、全員が必ずしも好意的に観るわけでもないし、基本的に映画は作品として一人歩きしていくものだ。それを考えれば、観客が観て抱きそうな懸念は、もう少し映画の中に盛り込んでおいてもよかったのではないかという気もしなくもない。立場が違えば見え方も違うだろうから、違う感想が出るのは当然だろうし。
一方で、観た作品が既に完成されているようにも見えるので、あれ以上なにか説明を加えるのも蛇足のようにも感じられる。まだ答えは出ない。
当日のティーチインの場では怖くてフリーズしてしまったが、いろいろ考えるきっかけにはなったので結果オーライと受け止めている。
パンフレットの「ストーリー」は全てのシークエンスを記載し、あとから思い出したり、じっくり振り返るようになっている。
製作者や出演者による寄稿も、映画を観たタイミングでしか受け取れないものが詰まっていて、必読。
制作サイドのトーク
レビュー。打越さんの指摘、なるほどだった。それは言われないと気づかなかったかも。
2018年の記事。『にくのひと』と『私のはなし 部落のはなし』の間も満若監督は動き続けていたことを知る。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)