映画『風の谷のナウシカ』を観に行った。
感染症流行の第一波が来た4月上旬に、「今読まなあかん気がする!」と思いたって漫画版を購入し、その後語る会をひらいた。
その後、6月末からスタジオジブリ映画4作品公開との報。ナウシカは候補から外していたが、観に行った人がいずれも「よかった、ぜったい観に行ったほうがいい」と興奮しているので、予習をして観に行くことにした。
観終わって......観たこと、受け取ったものがあまりにたくさんあるので、とりあえず並べてみる。(長いです)
やはり映画館で観るべし
このところあらためて痛感しているが、映画は映画館で観る用に作られている。
映画館で観るのが一番いい。最大に受け取れるようにできている。
特に映画が公開された日本の1984年といえば、家庭にビデオ録画再生機が普及しはじめているけれど(それでも30%程度)、VHS方式とβ方式の"戦争"をやっていた頃で、セルビデオは高価で、レンタルビデオもあるけれど全国で2500店程度と、まだ一般的ではなかった。(データ参照)
つまり、「映画館で動員できるかが勝負」だった。今もそれはある程度機能しているが、様々なメディア、チャンネル、物販などの多数の販路がある中でいえば、当時はとにかく興行で当てて回収できるかどうかが、映画の命運を左右していただろう、と想像する。
そういう時代背景に思いを馳せながら観た。(もちろんもっと大きな動き、、政治、経済、国際情勢なども頭に入れておくと、さらに受け取るものがあるだろう)
映画は映像と音。
当時、ほとんどの観客は漫画を読んでいない。今よりずっと知名度がない中で、あの世界を瞬時にリアルに体感させる、造形にはかなりエネルギーが注がれたことと思う。単に漫画の線をセル画に落として色を塗るようなことではない。(そうだ、この時代、セル画だった、、、)
虫の飛行、メーヴェの滑空、王蟲の疾走、ガンシップとコルベットの空中戦など、動きを捉えるカメラ位置や切り替え、ズームイン・アウト、パンなど、まるで一緒に撮影チームに混じっているかのようなリアリティがある。
なんといっても、鳥のように飛ぶことへの憧れ、そのビジュアル化。
生まれたときからCGを見慣れている世代からしても、リアリティを感じているようだ。(「リアリティとは何か」という問いは、おもしろい)
映画館の大画面で観ると、細かいところまでよく見える。
映画では「描いていないものは存在しない」ことになる。そして描いていてもピント外にあるものは注目はされないが必ず視界には入っていて、観客の中で世界観を構成する。
風の谷の石塀はこんなふうに積まれていたのか、
こういう風車が、何基、こういう間隔で、
葡萄がなっていて、
海との距離はこのぐらいで、
腐海の木の高さはこのぐらいで、
光弾を使うとクイやカイにも影響があるのか(そりゃそうだ)、
胞子を一つでも入れると大変なことになるという切実度合い、
肉体的な傷つきの度合い、
ナウシカの予感や感覚の「ハッ」という反応の鋭敏さ(現代人にないもの)、
風の谷はほんとうにずっと風が吹いているのか(以前茅ヶ崎の旅館に泊まったときに、一晩中海風がすごくて全く眠れなかったことを思い出す)、
腐海の底から見上げた景色はこんなか(サグラダファミリアやコロニア・グエルを思い出す)、
ほぼ唯一の食事のシーンなのにチコの実がほんとに不味そう、
「ガンシップは風を切り裂くけれど、メーヴェは風に乗るのだもの」というその感じ、、、
映像化されることで浮かび上がってくるものや、自分の経験をつかってこの世界との関係がつくられるようになることに興奮する、というのか。
映像化されたら想像力が貧困になるということはないんだな、と思ったり。
音もすごい。
風の音(吹いているときと、止んでいるとき)、虫笛、メーヴェのエンジン点火音、爆撃の音、腐海の反響、虫の羽音、気圧、、、
一つひとつの効果音、背景音、劇伴、とにかく計算が緻密で作り込まれている。
ここが久石譲と宮崎作品とのはじまりだったのだなぁ、、と感慨深い。
そうだ、この後に出た数多の漫画やアニメや映画や、、、どれほど多くの表現に影響を与えたかと思うと、これが歴史のはじまりだったのだ、という感慨深さがあるのだな。
戦争漫画、戦争映画
ナウシカのDVDを持っているし、地上波放映で何度も何度も観て分かっている物語だった。
それなのに、映画館で、しかも今のわたしとして、今の状況下で観ると、まるではじめてのように新鮮だった。
それは映像と音のこともあるし、一旦漫画を経由して戻ってきたから相違に気づくということでもあるけれど、一番感じたのは、一切の手抜きなしの戦争漫画であり、戦争映画だった、ということ。
同じ辺境国のペジテを裏切らせたり、巨神兵を生物兵器として出演させたことで、より戦争映画になっている。
ゆえに、観ている間、ずーーーっと緊張がある。
これがけっこうしんどい。
大国と小国のパワーバランス。
大国に侵略され、暴力でねじ伏せられ、環境の変動に抗いようもなく翻弄される人間。殺戮のシーンには恐怖をおぼえた。
日本の歴史を突きつけられるようなシーンも多々。
それぞれの正義の主張、「はじまったら止められないんだ」という言葉や「空気」、対話が不可能な相手や状況、トリニティ実験-原爆-3.11の原発事故を彷彿とさせる巨神兵、荒廃したペジテの爆撃跡(シリアを思い起こさせる)、、
寒気がするシーンが多々あった。
仮に2巻以降もアニメ映画化されていても、わたしはとても観られなかっただろう。凄惨な死が延々と続いていくのを、漫画だけでも辛いのに、映像と音でも体感するって過酷すぎる、、
「歴史」や「年代記」には大きな出来事、事実、主要人物の記録があるが、その中に生きていた一人ひとりの個性や願いや感情や小さな行動は残らない。「人々」としてくくられていく。(わたしもまた同様に)
たまたま同時期に、『この世界の(いくつもの)片隅に』が上映されていることを、ただの偶然とは思えない。こちらは人・人・人の物語だ。
差し出されているこれらを、自分が知りたいことの「ヒント」として受け取ってみると、何か見えてくるのではないか。
漫画とは別の世界線。
この映画が作られた時点では、漫画は全7巻のうち2巻までしか刊行されていない。
ほんとうは長大な物語の最初のほんの触りだけを、しかも無理に改変して尺に押し込めた、実は失敗作だったのではないか?ぐらいにわたしは長いこと思っていた。
土鬼(ドルク)も、森の人も、虚無も、巨神兵オーマも、シュワの墓所も、世界の秘密もないアニメ版。
ナウシカは世界の救世主、スーパーヒーローで、環境問題を訴える活動家・戦士で、彼女一人のぎりぎりの自己犠牲によって、贖罪された!よかった!♪ちゃんちゃん♪というふうにも見えてしまう。
少女一人が期待され頑張らされていることや、スーパーヒーローかつ母性を持った救世主として神聖視されたまま終わっていることの違和感が、ずっとあった。
でも今みると、この物語は一つの可能性、一つの世界線、アニメーション映画という形式を生かした表現として成立していて、とても美しい。
たとえアニメ版が漫画への入口とならなくても、ナウシカという存在を軸にして語られる「生きよ」というメッセージは変わっていないことには安堵した。
漫画を読んだ者には、「これは世界の秘密を知る旅のはじまりにすぎない」ことはわかっているので、世界線の一つとして観ることができる。
時間が経っていて、そのあとに起こったことをわかっているからこそ、こんなふうに逆説的に語れるわけだけど、まるではじめから見越して作られていたかのよう。自分が今、SFを体験しているようでもある。
ふと思ったのは、当時のふつうの人たちにとって、この映画はもしかしたら「自分の命と地球の命」というスケールの対比をはじめて体感した出来事なのかもしれないということ。
生物や地理や歴史で学んでいたことが、ここに現実味(フィクションなのだが)を帯びて立ち現れるというか。(少なくとも当時小学生だったわたしにはあった)
エコロジーブームはあったけれど、積極的な活動家とは異なる層にも、訴えかけたのではないか、歴史にも環境問題にも関心がなかった人々の意識が向いたということはあったかもしれない。もちろん映画はそこを意図してはいなかったと思うが。
当時どのように受け止められたのか、
今どのように受け止められているのか、
興味深い。知りたい。
なんといっても今、わたしたちは、「簡易的な」マスクをして、人と物理的距離を保ち、腐海や瘴気の世界を観ているのだ。
この現実の凄まじさに衝撃を受けている人は多いはずだ。
これを作ったがゆえに、宮崎さんは、漫画の続きを描けたのだろうなぁと思う。
「これじゃない!」という怒りのようなもの。相当込み入っていて、自分でもどう運ばれていくかわからないが、はじまってしまった物語を最後まで引き受けて描いたということが、ほんとうにすごいと思う。
物語としてもすごいが、そのエネルギーがすごい。
それが時を超えて、世代を超え、国境を超えて、さまざまな人たちに読み継がれ、今、コロナの時代にあらためて解釈されている。そしてその解釈は果てしなく自由だ。
うーん、これは、もはや古典。
混迷を深める世界のリーダー
混迷を深める世界を生きる我々が、今この作品に触れる意味は大きい。
一人ひとりの力が全く及ばない自然の動きによる災害。
人間の行動の結果がもたらす多種多様な被害。
手応えが感じにくい世の中、社会の動きの中で、それでも呑まれずに、五感を使い続け、地に足つけて生きよ......そうナウシカが言っているようだ。
不安が強くなると、人間は強いリーダーや旧時代の「父権」を求め、同調圧力に怯え、保守化する。
しかし今必要なのは独裁ではない。自分の代わりに決めてくれる人でもない。
今の時代のリーダーシップは、違いを繋ぐ結節点になること。その人の存在が見えにくかったものを照らすこと、言葉の力を尊ぶこと。
そしてそれをする人は一人の救世主ではない。
「ナウシカにはなれずとも、同じ道は行ける」(漫画『風の谷のナウシカ』)
「私は敬われたくもないし、蔑まれたくもない。私はただ共に歩んでいきたい」(映画『タゴール・ソングス』)
「本当に強い人間は、周りをも強くする。後進には希望を、仲間には勇気を、相手には敬意を。時間も空間も超えて、永遠になるんだって」(映画『ちはやふる〜結び』)
「その役割というのは、多分過去誰も経験したことのない、どの国の歴史にもない、初めての型式(かたしき)のリーダーシップにならざるをえないと思うんですよ」(映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』)
いろいろな作品にヒントがある。
作品を通じて、人が他者と分かち合えることが、尊い。
(ナウシカに関しては、こちらのブログにとても丁寧な解説・解釈があります)
「虚無」に食われないこと。
そして今もっとも重要なのが、虚無との付き合いだ。
突き詰めていくほどに、知れば知るほどに、世界にあるもののつながりや因果関係が見えてくると、「虚無」に食われやすい。
絶望や孤独や諦念が極まると虚無化する。
その巨大な曼荼羅の前で精神を保つのは、どんな強い人であっても難しい。
また、人間は不浄のもの、呪われたもの、この厄災は人間に下された罰、と見ると、今自分が立っている場所が小さく小さくなって、この世界に居ることが難しくなる。
ゴミを出さないことに取り憑かれた人のドキュメンタリー映像を観たこと、
去年の夏、東京都の臨海エリアにある生ゴミ加工工場と最終処分場を見学したこと、
などが、わたしの記憶から立ち上がってきた。
ああ、そうか、白と黒、敵と味方、良いことと悪いことの二元論に持ち込むと、最終的には人間存在の否定につながるのか。
『風の谷のナウシカ』は、そこにブレーキをかけてくれる物語だ。ナウシカ自身、虚無に取り込まれるような危ない目に遭っているが、いろいろな存在の力によって最終的には救助される。
あのくだりを追体験することは、非常に大きな救いになるはずだ。
これからの時期、世界に立ち上がってくるのは、おそらく「虚無」だ。
「わたしの中にも闇はある」
「生命は闇の中に瞬く光」
「光や聖性の裏には虚無がある」
「すべてが混濁した中に生きることこそ人間」
ナウシカの物語は、ほんとうに示唆に富んでいる。
そして、これを一人の人間が生み出したということがすごい。
生きることを手放してしまうところまで行くと、いけない。
引き返せなくなる。行ってはいけない。
だから、 そうではなくて、
「ただ、生きよ」。
喜びも欲望も手放さない。
虚無に呑まれるな、あきらめるな。
生きよ。
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