早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館(エンパク)で、『INSIDE/OUT 映像文化とLGBTQ+』を観てきた。
最初に言っておきたいのは、この貴重な展示が、入館料無料で観られるということ。
ありがとうございます。
わたしがこの展示を観にいった動機は、テーマに関心があるから。そして、演劇博物館の企画への信頼があるから。知らなかったこと、見落としている何か大切なことを学べると思ったから。
当日に至るまでに、LGBTQ+のテーマでいくつかターニングポイントはあるが、今回特に関連するものは2つ。
一つは、ライター業をしている友人が執筆していた、こちらのウェブマガジンを読んできたこと。毎回1万字を超えるロングインタビュー。当事者の言葉。人間のセクシャリティにはこんなにもグラデーションがあり、ゆらぎがあるのか、という発見。カテゴライズしていくことの危うさと意味の無さを学んだように思う。人間という生物である自分についても、新しく知っていくような感覚を覚えた。同時に厳然と「男」「女」の二項で括られる社会の生きづらさも。
LGBTERは、「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」など、様々なセクシュアルマイノリティや「ALLY」の方へのインタビューを通じ、「リアルな先輩情報」を発信するLGBTインタビューメディアサイトです。
もう一つは、『おっさんずラブ』を観て抱いた違和感。
非常に良い作品で、ドラマも映画も観て、とても好きな作品。ポッドキャストで3回も扱ったぐらい好きなのだが、どうにも違和感があったのは、性別の非対称性。
「これって"女性"同士でもこのぐらい社会的に受容されるのかな?」と思った。
自問自答するなら、「NO」。では、「なぜ?」
その答えが見つからないできた。ただ、「ここにはなんかある」という感触だけが残った。
展示の話に戻る。
去年の12月に行って、もう2ヶ月半ほど経ってしまったが、なかなか記録が書けないでいた。
書こうとすると、ジェンダーやセクシャリティ、自分のアイデンティティをどこに拠って立つものとするのか、明らかにする必要が出てくるように感じていた。
また、わたしが他の人間をどのように見ているのか、態度を決めなければ進めないようにも思える。たとえ書かないまでも、要求されている作業というのか。
それが進まない。意外に進まない。
自分自身について、他者について、明確だと思っていたが、わからなくなってきた。たとえば人間同士で名前のつかない関係は無数にある。それを人に説明するために、あるいは何かしらの社会的立場の保持のために、便宜的に名前をつけてきたにすぎない。
映画『燃ゆる女の肖像』やNTLive『シラノ・ド・ベルジュラック』や『ハンサード』を観て、友人たちと話したことの中にも多くある。その内容自体は公に語りたいことではない。映像作品を通した対話でのみ、言葉になる何かが、間違いなくある。
だから、今回の展示が、映画とTVの映像文化に主眼を置いていることには、やはり意味があると思った。
観る側が揺るがされている体験は、この展示のキャッチコピーとして付記されている、
内から見るか、外から見るか、それとも_____
にも関連するかもしれない。
外から見ていたと思っていたが、実は内だったのではないか。
内のように感じていて、実は自分は外から見ているだけではないのか。
そもそもどちらかの立場を取れるような種類のものなのだろうか。
「それとも」......何?
わたしは、既存の社会の仕組みを当たり前のように取り込んで生きてきたと思っていたが、今や桃の節句の雛飾りにも、「お内裏様とお雛様、男と女に二分されるということか......」と考え込んでしまう。ようやく気づいたというべきか。
こんなにも明確に存在があるのに、社会は無視し、辺境的なものや、題材として扱うのみで、仕組みに組み込もうとしてはこなかった。自分も加担してきたことへの後ろめたさのようなものがあるかもしれない。消費的に関わったことさえもある。
そして、気づいたのに、未だに変化が遅々として進まない多くの場、組織、環境がある。その中を言い訳をしながら生きざるを得ない。言い訳をしながら子どもに説明する。ダブルスタンダード。
それなのに映像文化に触れるときだけ、「世の中もだいぶ変わってきたよね」と訳知り顔で発言するする自分もいる。そんな両面の自分の姿が、展示を見る中で暴露されているようで、居心地が悪かったのかもしれない。
映像文化が世の中の変化を作っていることを信じていると同時に、これほど強固に性別二項で設計された人間社会のシステムが抜本的に変更される未来など、本当にありえるのか?という疑念もある。
もちろん変更されてほしいが、今でさえ女性の人権を無視するかのような選択的夫婦別姓の導入、緊急避妊薬の薬局販売、不同意性交等罪の創設、生理用品の軽減税率の導入も、進まない現状を見ていると、しばしば絶望的な気分になる。
「それとも」。
クィアな視点で語り続けていくことによって、あらゆる市民の人権が守られていく社会への願いもある。
今回の展示は答えではなく、再考するきっかけを提示しているのだ。
これまでの映像作品は、どのように社会の写し絵となってきたのか。
人々の意識をほんとうに変えてきたのか。
今ここから、クィアな視点で社会を再考し再検討していった先に、どのような未来があるのか。
展覧会チラシより。
内から見るか、外から見るか、それとも──。
性の視点から映画やテレビドラマの歴史を紐解くと、目の前に広がるのは男女の恋愛物語だけではありません。そこには同性同士の恋愛や情愛、女らしさ/男らしさの「普通」に対する異議申し立て、名前のない関係性などを描いた物語が存在します。
2010年代には、「LGBTブーム」を契機にLGBTQ+の人々を描く映像作品が次々と製作され、性について、また「普通とは何か?」について考える機会が増えました。本展では、戦後から2020年初めまでの映画とテレビドラマを主な対象に多様なLGBTQ+表象に着目し、製作ノート、パンフレット、スチル写真、台本、映像などの多彩な資料とともに歴史を振り返ります。
いまを生きる私たちが一度立ち止まり、過去の物語と現在を繋ぎ合わせることで、様々な性や人間関係のあり方を尊重する、映像文化の魅力を改めて認識する機会となる事を願います。
LGBTQ+とはLGBTとは、レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシャル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字からなる性的マイノリティの総称として、使われてきました。本展では、LGBTに含まれない性のあり方を示すために、自身の性のあり方を(まだ)決めていないクエスチョニング(Questioning)と、社会の想定する「普通」には含まれない性のあり方を生きる人を指すクィア(Queer)の「Q」に加え、他の様々な性の多様性を含む「+」をつけ、より幅広い性のあり方を考えます。
展覧会の英語のタイトルは、
Inside/Out: LGBTQ+ Representation in Film and Television
となっている。
Representationとは「表象」。「映画とTVにおける表象」がタイトル。
表象とは何か。
これもまたひと言で説明しにくい言葉だ。
しかし展覧会では、そんなことはお構いなしに、鑑賞者が知っている前提で進んでいくので、無我夢中で食らいついていくしかない。(いや、あるいはあえて説明せず、展覧会全体の鑑賞を通して知らしめるという意図なのか)
表象の問題は、近年、広告の炎上案件の文脈で目にするようになってきた。
こちらは「表象」という言葉は使ってはいないが、内容はそれに当たると考えられる。
端的な解説を見つけた。
ハワイ人とキリスト教:文化と信仰の民族誌学(14)「表象と言説」/天理大学 国際学部地域文化研究センター准教授 井上明洋
(PDF)https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000gd7n9-att/q3tncs00000gd7vj.pdf
「表象」とは、「何か」を用いて「あるモノ(対象)」を表すことである。用いられる「何か」は絵画や映画といった視覚的なイメージでも良いし、文学や活字メディアなどの言語的表現手段でも良く、また音楽などの聴覚的表現手段でも良い。一方、表される「モノ」は、具体的なものから抽象的なものまで様々であって、さらに言えば、それらの「モノ」が実在するものなのかどうかはそれほど重要ではない。
(中略)
「表象」という言葉が用いられる時、単なるシンボルや記号とは異なり、「誰」が「何」を表象しているのかということが、しばしば重要な問題となってくる。(中略)「表象」によって「あるモノ(対象)」に意味が生成するのだが、「表象」する側が、どの位置からどのような角度で対象に対して視線を投げかけているのかということが、生成する意味に対して視線を投げかけているのかということが、生成する意味に大きな影響を及ぼしているのである。
(本文P.9より引用)
「誰が何を表象しているのか」
まさにこれは鑑賞において、欠くことのできない視点。
どのように見て、解釈するかは自由。ただ、誰がどのような意図で作ったかという奥に隠されたものまで、対話を通じて読み取っていくことが重要。
軽視されることによって見えなくするもの、存在しなかったとされるもの、可視化することで見えなくしてしまった存在に目を凝らす訓練でもある。
あるいはどんな社会規範や社会通念が強化されたのか。
対話に意味や価値があるのは、まさにその自分からは死角になっている領域に光を当ててくれる人が現れるからだ。異なる背景、異なる当事者性。それによって自分が生かされていると言える。
展示の中で指摘されていることは、わたしの『おっさんずラブ』で抱いた問題意識とも近い。
いくつかの作品を除けば、その大部分がゲイ男性の表象に集中しており、表象のアンバランスがなぜ起こるかについて考える必要があるだろう。また、性的マイノリティを描く作品を作るために作家の性的指向は問われないが、カミングアウトしている作家が少ない現状も見過ごすことはできない。(図録p.41 第5章 ゼロ年代以降の国内メディアとLGBTQ+)
展示を通じて問われていたことは、今のわたしにはまだ読み解けないものが多い。ただ、「表象」や「クィア」というキーワードで、ここからの社会、この時代に生まれた映像作品を批判的な眼差しを向けていくことはできると思った。
また、セクシャリティや関係性を表す言葉は、人間の規定にもつながり、尊厳を傷つけることも起こる。非常に繊細なものとして、使い方に敏感でいたいとも思う。
わからないものへの不安があることを知りながら、あえて名前をつけずにただあるがままに接するというレッスンをもっともっとしていきなさいよ、ということではないかな。
対話のために便宜的に共有できる言葉を使ったとしても、定義を確認しながら、そして振り回されず。しかし知ろうとし続け、使われ方を批判的に見ていく。そのような態度でいたい。
展示からは「反省」という言葉がしばしば見られるのも、印象に残っている。
不可視化の歴史を発掘する試みは、博物館や美術館においても近年実践されており、マジョリティを権威化する規範を軸としたキュレーションの歴史を反省誌、マイノリティの歴史、記憶、表象を尊重する展示やアーカイブへの転換が目指されている。(図録 p.6 展覧会趣旨)
成人映画が女性を性的に搾取してきた側面に対する反省と批判は産業史的観点から検証される必要はあるが、(p.25 日活ロマンポルノと薔薇族映画にみる性のカタチ)
ここはまだようやく気づき始めたところ、声を上げ始めたばかり。
痛みも噴出し、罪悪感に塗れる。それでも過去の歴史を問い直し、新しく作るときには反省を生かす、不断の努力の積み重ねによってしか、成せないものがある。一過性のムーブメントでは終わらせない覚悟も然り。
しかもそれに評価を下すのは、今のわたしたちではなく、後世の人々だろう。
今のわたしたちが過去の歴史を検証し、評価を下しているのと同様に。
図録は展示物の一部の図版はもちろん、一度読んだだけでは咀嚼できなかった各章の問題提起、専門家による論考、さらには年表、参考文献、展示リストまで収録されており、充実の内容となっている。
会期中に完売となっていたが、エンパクの図書室では閲覧ができると思う。興味のある方は、施設に確認してみてほしい。
図録の代わりにはならないが、もう少し詳しい概要はこちらで読める。担当学芸員さんによる紹介。
観たい映画や映像作品が一気に増えた展示でもあった。
3階の常設展示がリニューアルでさらに充実していた。無料で配布している演劇史をまとめた資料は、保存版といってよいほどのクオリティなので、入手をおすすめする。わたしは演劇史について調べたいときは真っ先に参照している。
同時開催していた『三国志の風雲児たち』展も、小さいスペースながらもよかった。台湾布袋戯の関羽の展示には、映画『台湾、街かどの人形劇』が蘇った。
行った日はクリスマス・イブ。
エンパクの建物にクリスマスツリーがよく似合っていた。
おまけで、関連記事。
もしかすると偏りは、日本における「男色文学」の歴史の影響なのだろうか。
エンパクでの過去の展示。
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