3月の映画の日。『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』を観てきた。
2020年11月公開の作品。
『シラノ・ド・ベルジュラック』は、世界中で愛されている舞台劇の一つ。17世紀に実在したフランスの剣豪作家シラノ・ド・ベルジュラックをモチーフに、劇作家のエドモン・ロスタンが制作。初演は1897年、ベル・エポック時代のパリで大成功を収めた。
『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』はエドモンを主人公に、大傑作が生まれる舞台裏がいかにトラブルの連続だったかを脚色も交えながら、その初演舞台までの日々と本番を愉快で痛快、爽快な物語に仕立てた作品。
監督は、俳優、劇作家、演出家でもあるアレクシス・ミシャリク。『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)を観て、「なぜフランスではこういう映画が作られていないのか不思議に思った」のだそう。
原題は『Edmond』。フランスで「エドモン」と聞けば、エドモン・ロスタンが共通理解とてありそう。あるいは、エドモン・ダンテス(モンテ・クリスト伯)。
わたしにとっての『シラノ』は、1990年のジェラール・ドパリュデューの映画が初めての出会い。内容は.......ほとんど覚えていない。
去年の12月にNTライブで観て、実に30年ぶりに再会。こんなに奥深い映画だったのか!と驚嘆した。
今読み返すとこの感想、何も役に立つことが書いてませんね......(汗)。
この舞台の斬新さはいろいろあるんですが、そもそも「付け鼻のシラノ」ではないんですよ。 シラノは元々の戯曲の設定では、「醜男」で「大きな鼻」を人から嗤われ、コンプレックスを抱えているという役柄です。ジェラール・ドパリュデューも映画で付け鼻でした。でも、NTライブで演じたジェームズ・マカヴォイは、まぁ平たく言うと「美男」。
「あれ、醜男じゃないどころか、めっちゃ美男やん、全然鼻も普通やん」と観客が思っちゃうところが既に罠にかかっていると言いましょうか。「わたしルッキズム入ってる?」と居心地悪くさせられるんですね。おそろしいお芝居!
クリスチャンにしても、「美男だけど詩心も教養もない」というのも、それはロクサーヌやシラノとの関係においてだけそうなるもので、クリスチャン自身が「劣っている人」という証明にはならない。
結局のところ「コンプレックス」というのは、ある文化圏の狭い範囲の中での他人との比較の中で発生するものであり、ここから自由になるには、「自分がつくりあげた牢獄」から自力で脱出を試みるしかない。
そういう話だったのかと、ようやく2ヶ月ちょっとして言葉になった。ふぅ。
はい、そこへきて、映画ですね、映画、映画。封切り時にはノーチェックだったのだけれど、NTライブを観て熱いところだったので、ツイッターでふと流れてきたときにパッとキャッチしたのでした。
トレーラーを観て、「コメディなんだろうなぁ。楽しい気分になりたいし、ちょうどいいな。ドタバタしてるだけで実があまりなかったらどうしよう......」という勝手なイメージを持っていました。
しかし!いやはや!これは!!
よかった。すごくよかった。
とても映画らしい映画!
映画ってほんとうにいいものだなぁ〜と幸せな気持ちにさせてくれる、極上のエンターテインメント。
歴史、伝記モノへのイメージが変わった。
作りがやはりちゃんと「今」っぽい。「これは昔の話を再現しているんだ」と頭で修正してあげなくていい。今起こっていることとして観客がわくわくできる。
人種差別や格差、社会階級なども描いているからでしょうか。
脚色を施すけれど、考証はあくまでも細かい。でもお勉強にならずにちゃんとエンタメ。それでいて歴史への理解が深まるし、もっと知りたいという余地も残してくれる。
その他の感想バラバラと。
・モノをつくる過程や、あらゆる発明発見は、誰かの何気ない一言や偶然の出来事が元だったりする、あの着想の瞬間、化学反応(ボン!)のわくわくがある。脚色もあるだろうけど、時に現実は想像を超えた偶然を起こすから、嘘とも言いきれない。
・サラ・ベルナールやアントン・チェーホフが登場するベル・エポック時代の雰囲気は、『ディリリとパリの時間旅行』や、松濤美術館のサラ・ベルナール展の記憶も次々に立ち上がり、終いにはももクロの『幕が上がる』(2015)も!サラ・ベルナールはここでもやはり「ぶっ飛んでる人」として描かれる。
・詩人には即興力が必要!詩を繰り出していくシーンは小気味良い。
・19世紀終わりに「詩劇は時代遅れ」と評された。早稲田大学坪内逍遥博士記念演劇博物館でもらった資料によれば、この頃は【近代自然主義演劇】が盛んだった。1873年エミール・ゾラが『テレーズ・ラカン』を発表、1879年ヘンリック・イプセンが『人形の家』などの社会劇を執筆。"劇の主人公は王や英雄ではなく市民となり、リアルな心理描写と舞台表象によって現実を再現しました。テーマを鮮明にするために全要素の統一を行う者が演出家として立つようになり、コンスタンチン・スタニスラフスキー、アンドレ・アントワーヌ、ゴードン・クレイらが活躍しました"とある。もちろんチェーホフも。(ちなみにこのあと、第一次世界大戦を経て、ブレヒトによる不条理劇が出てくる。なるほどー)
・活動写真が登場する。エドモンが街を歩いていて、活動小屋で観ているのは、リュミエール兄弟の『工場の出口』。「みんな活動写真を観るようになって、演劇は廃れるのでは」と言うエドモン。
そういう時期もあったかもしれないけれど、『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』は映画制作の資金調達が困難で、まずは演劇でやってみた。そして当たったので映画化したという背景を持つ映画。『戦火の馬』も『フリーバッグ』も演劇の舞台から話題になったもの。「今はタッグを組んでやっているよー!」とお知らせしたくなった。
・「ムーラン・ルージュの中って初めて入った!ああなってたんだ!フレンチカンカンの当時の本物を初めて観た!」と興奮してしまった。「ロートレックの絵のまんまだー!」「娼館てこんなとこか」......。これは再現、フィクションだとわかっているのだけど、今そこで観ているような気分になる映画。技術がすごいのだと思う。カメラワークも凝っている。
・エドモンがジャンヌをロクサーヌに見立てたことで、すったもんだする関係。「執筆や作曲する男に必要なのは願望だ。願望が満たされると筆は止まる」これって勝手だなーと思うけど、わかる。いや、でも、芸のためならなんでもやるのいいの?それが男を許しすぎてきたんじゃないの?いや、でも女にもあるよね。性別じゃないよね。うーん。。ここ複雑。さらに、「才能を疑い、崇拝しなくなったから愛せない(自分の才能を信じ、崇拝してくれるから愛せる)」ということってあるの?あるかも......心当たりのようなものが......など、「シラノ」の本筋と同じく、人間の性(さが)を突きつけてくる!入れ子式に楽しめるところが、監督のストーリーテラーとしての手腕なんだろうなぁ。
・幕が上がる前の主演俳優同士のやり取りにぐっときた。ここは大事なところなので書かない。ぜひ映画を観て確認していただきたい。「こうやって125年近く後になっても、この作品は残っているよ!」とこの日のこの人たちに言いに行きたくなる。
・エンドロールが終わるまで心憎い演出が続く。ぜひ最後までじっくり観てほしい!
そうだ、大事なことを言い忘れていた。大事なので赤にしておこう。
どこかで『シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台を一度観てから、この映画を観るのがやっぱり順番としていいと思う。そのほうがより楽しめる。
劇場は下高井戸シネマ。
前々からこの駅前に映画館があるのは知っていたが、訪れたことはなく。マンションの2階。客層も他ではあまりない感じ。
25年ぐらい前、わたしが出入りしていた頃の京都みなみ会館の雰囲気を思い出す。
見逃した映画を拾いにまた行きたい。
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