新宿K's Cinemaで上映中の台湾巨匠傑作選2021侯孝賢監督40周年記念 ホウ・シャオシェン大特集を追っている。
※作品の内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。
12本目は、侯孝賢監督作品『フラワーズ・オブ・シャンハイ』。
原題:海上花、英語題:Flowers of Shanghai
1998年、日本・台湾合作
あらすじ・概要 https://www.ks-cinema.com/movie/taiwan2021/
これは、演劇? それとも夢?
黒字に赤のタイトルが鮮烈。このフォント、このタイトルクレジットにまずぐっと掴まれる。
続いて、きらびやかな娼館の室内、調度品、衣裳をまとった人たちの物憂げな仕草、大敗的なムード、そこにたゆたうように流れる音楽......。あっという間に、非日常の時間と空間に放り込まれる。
じゃんけん酒飲み、ごはん(美味しそう)、水タバコ、アヘン、おしぼり、お茶、言い合い、噂話、愚痴......。これが延々と繰り返されながら、トレイラーのような耽美な世界観が2時間弱、ずーーーっと続く。
切り返しなしで、左右にゆったりと振れるカメラ。じっくりと撮っているが、クローズアップもなく、一定の距離感を保ちながら、質感を映し出している。画面に映るものすべてが「ほんもの」。どのシーンを切り取っても、画になる。
画になるが、俳優を撮っているというわけでもない。人間が作った美の中にいる、美しい人間。その造作だけでなく、醸し出す雰囲気、存在感、すべてが観る対象になっている。どこに目を移しても発見があるし、美を感じられる。
美を表現するのに、これほど贅沢に盛り込まれ、これほど抑制的に撮れるというのは、すごい。だからこそ2時間も飽きずに、いつまでも観ていたいと思わせるのかも。
聴き慣れない言葉も耳に心地好い。
実際は、上海語がメイン。主役のトニー・レオンは上海語が話せないため、母語の広東語で。羽田美智子は日本語で同じ長さのセリフを話し、そこに広東語で吹き替えという複雑さ。言語の違いが分かれば、もっと味わいが違うんだろうなぁと悔しい。
あらすじや見所はあるような、ないような感じだが、まったくわからないと、それはそれで見るとっかかりがなく、何が起こっているのかわからなくなりそうなので、予習しておいてよかったとは思う。
映画を通して、ドラマ的な起伏も少ない。トニー・レオンが嫉妬に狂って、室内の調度品を破壊する場面や、妓女が客と心中しようとする場面あたりが一瞬そういうものではある。前者の場面も、その引き金になっている羽田美智子が演じる妓女の浮気と思われるシーンも、一瞬のことで、今の感覚から言うとあまり明示的ではないので、何が起こっているのかわからない。
まるでお能のような奥深さだ。確かに「男女の愛と葛藤」なのだが、こちらが能動的に観にいかなければ、その機微を感じることが難しい。会話と画面に映っているものがすべて。断片的な情報しかないため、妄想で補う。いや、むしろ補うことが推奨されている映画だ。放置されていると考えると不親切だが、どのように妄想してもいいと言われると心地好い。観たいように観てよい。
仄暗い中で、蝋燭の明かりが消えたり点いたりするような、瞼を開いたり閉じたりするような場面転換が何度も行われるが、常時同じ建物の、限られた部屋が映るだけで、外の世界のことはほとんどわからない。
ごくたまに朝や昼間の光が差し込むシーンがあり、それはそれでまた美しい。それ以外はずっとランプや蝋燭の光が室内をぼんやりと照らしている。たぶんそういう時間帯は夜なのだと思う。そのぐらい外のことがわからない。外からは、雨の音、虫の声や蛙の声、鳥の声などが聞こえてくるだけ。
この点、閉鎖的で観ていて苦しくなるかなと心配したが、演劇の舞台のようなので、思っていたような心理的圧迫は感じなかった。
男が女の元に通う、あなただけだよと言いながら他の女とも関係する、待っているしかない女。「あなたに捨てられたら生きていけない」という女。男は女に気に入られようとあの手この手を尽くすが、社会的立場としては女のほうが圧倒的に弱い。男から贈られる装束。お付きの女性が取り次ぐ、もてなす......。なにやら平安時代の貴族の館、和歌の世界、女房の日記文学の世界のよう。
美を追求しつつも、映っているのは、日常の生活。
人とすれ違うときの何気ない仕草、水タバコを取り扱う所作。完璧に使い慣れた道具のように扱う。どこに何があるのか、十分把握しているような馴染み方。
どんな場所にも、どんな時代にも、日々の生活がある。営みがあるということを思い出す。
お皿の片付け方、おしぼりの絞り方、椅子の座り方、お茶の飲み方......。お粥の湯気、タバコの煙、衣装の艶や刺繍の繊細さ。ディテールが細かく、正確。
先日の記事で紹介した朱天文さんの本『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』から、引用する。
『フラワーズ・オブ・シャンハイ』が撮ろうとしたのは、(中略)日常生活の痕跡、時間と空間が創り出すその瞬間の、人物の生き生きとした様子、その輝きを撮りたいということなのです。(p.216)
自分の手にあるもの、水タバコでもアヘンを吸うキセルであっても、道具という存在を意識しないほど慣れることにより、生活のリズムに近いものになっていること。そうすれば暮らしの中で、話をする姿ひとつにしても、すでに一部分となります。(p.218)
脚本を書くときによく人物を立ち上げると言いますが、立ち上げるのではなくて、肝心なのはその人物が登場したとたん、その人物を信じることができるかどうかなのでしょう。(p.220)
(長回しについて) 一つのシーンを一つのアレンジで見せるため、そこに何があるかは観客が自分で選択して見ることになる。映像からもたらされる情報は多元的で、複雑であり、これが長回しの系統ということです。(p.224)
このくだりを読んだときに、ああ、これは絶対に『フラワーズ・オブ・シャンハイ』を観なくては!と思った。この映画が気に入った方は、ぜひこちらの本も読んでほしい。
美しさに呑まれながら、映画として観てみると、娼館だから性的な描写があるのか?と思いきや、全くない。皆無。それを匂わせる寝所は映っているものの、どちらかというとごはんを食べているシーンのほうが印象に残る。そもそも客と娼婦が身体を寄せたり、積極的に抱き合ったりする場面も、数えるほどしか出てこない。(ふりかえってみると、もう少し王と小紅の仲睦まじい様子も見てみたかったな。)
男たちは昼間から娼館に入り浸り、ごはんを食べたり、酒を飲んだり、妓女とたわいもないおしゃべりに興じている。どういう身分、どういう仕事の人たちなのだろう?どういうところから金を得ているのだろう?そもそも租界なのに、「外国人」の出入りが全くない。租界の妓楼とは?調べたくなる。
断片的な会話を通して知る、この妓楼のヒエラルキー、規範、花街のしきたりが徐々に見えてくる。「7歳で女の子を買ってきて、10年かけて一人前にする」「商売に向いていない子は嫁がせる」。見受け話。遊女に正妻は無理、嫁ぐといっても妾になるのか?
映っているのは娼館だけだが、遊女たちは客と外出したりはできるようだと会話から知る。娼館で働いて家族を養っているらしい。借金もあるようだ。置屋の女将にぶたれたという訴え。売り上げのほとんどを女将が持っていってしまう。(性差の日本史展での、遊郭の経営者に酷い目に遭わせられていた遊女の日記などを思い出す)
遊郭という閉鎖的な空間。女たちの人生が少しずつ垣間見える。ここで生きるしかない女たちの悲哀のように見ようとすれば見える。すごく美しいのに、こんなに作り込まれて完璧なのに、一皮むけばもしかしたら、はりぼて......。
かりそめの関係と言いながら、男たちはもう何年も通っていて、妓楼の事情に精通している。また、ここだけで完結する深い情のようなものでつながっているようにも見える。
どうして毎作こうも違うんだろう。
通底しているものはあって、侯孝賢らしさはあるのだけれど、同じことはやらないと決めているのか、いろんな大人の事情でこうなるのか。ぜんぶ違うという印象。一つ一つが強烈な個性を放つ作品。
やはり全部観たい、観なければ、もっと知りたい、もっと創作の奥深さに触れたいと思わせる。
映画館の暗闇の中で、画と音に包まれながら鑑賞できる幸せ。
デジタル処理によって、ますますその美しさを発揮している。
これは良い夢をみた。
2019年TOKYO FILMEX上映時、オリヴィエ・アサイヤス監督のトーク。映像とテキスト。
『フラワーズ・オブ・シャンハイ』 Flowers of Shanghai | 第20回「東京フィルメックス」
メインテーマ。ここを流しているだけでうっとりする。
半野喜弘さん、その後映画音楽をたくさん作り、ご自身も監督をされている。
『フラワーズ・オブ・シャンハイ』での抜擢の経緯はこちらの記事にあった。
(追記 2021.6.7)
『フラワーズ・オブ・シャンハイ』は、中国の小説家、張愛玲(チャン・アイリン 1920〜1995)が清代の小説を現代語に翻訳した『海上花列伝』を原作としている。
張愛玲は、脚本を担当している朱天文の師である胡蘭成と深い関わりがあり、一時期結婚もしている。張愛玲と胡蘭成の関係をもう少し調べてからこの映画を見ると、また何か違うものが見えてきそうだ(下世話かもしれないが)。
そうしないまでも、この映画に流れ込んでいた支流について、また一つ知ったことで、わたしにとってのこの映画の存在が、また立体的になったと感じる。
さらに追記。
まさにこの二人の恋愛を描いた香港映画があったようだ。
『レッドダスト』原題:滾滾紅塵、英語題:Red Dust 1990年