ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

映画『カルメン故郷に帰る』鑑賞記録

木下恵介監督の映画『カルメン故郷に帰る』を配信で観た記録。

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きっかけは翌日に木下恵介脚本、田中絹代監督の映画『恋文』を観るため。木下恵介ワールド、どんなかな?と思って予習がてら観ようと思った。

2021年早稲田大学演劇博物館で開催の《映画文化とLGBTQ+》展の、順路の最初のほうで、木下恵介と『カルメン〜』が言及されていたことが印象に残っている。

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木下作品を観たことがなかったので、キュレーションで示される「木下恵介クィアな視点」と言われてもあまりピンと来ていなかったのだけれど、このときになぜか『カルメン〜』の印象が強く残った。

その後訪れた国立映画アーカイブの常設展示でも『カルメン〜』のポスターに出会った。これはもう観ないとアカンやつかなと思っていたところだった。

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ようやく映画の感想。

1951年公開。松竹。
国産初の「総天然色(カラー)映画」とのことで話題だった。
1945〜1952年の日本は連合国占領下にある。

浅間山の麓、軽井沢の高原に、リリィ・カルメンこと「おきん」が帰ってくる。都会で「芸術」で成功したので故郷に錦を飾りたいと、同僚のマヤ朱美も連れてくる。

ただでさえ小さな村は人の行き来があると目立つのに、ファッションがド派手な彼女たちはあっという間に村中の注目の的になる。

父は娘を不憫に思っている。姉はリリィの味方で、芸術をやっていると信じている。村の人を楽しませようとリリィと朱美が企画するのが「裸踊り」。色めく男たち。

並行して進んでいるのが、戦争で視覚を失った元教師の田口春雄と妻とオルガンのエピソード。運送会社の社長の「丸十」に借金のかたにオルガンを巻き上げられてしまったために、小学校が持っているオルガンを弾きに/聴きに来ている。弾いているのは自作の曲。カルメンの「裸踊り」の公演騒動を経て、最終的にオルガンは田口の元に戻ってくる。

 

※内容に深く触れています。未見の方はご注意ください。

不思議な映画だ。

タイトルバックで流れる「田口春雄がつくった曲」である「わが故郷」がめちゃくちゃ暗い。深刻で陰鬱。一緒に流れている絵には楽しそうな人や行事が描かれているので、ギャップが大きい。田口の弾くオルガンに合わせて、子どもたちが踊るのだが、全然楽しそうではない。

当時は高峰秀子が歌う「カルメン故郷に帰る」がヒットしたらしいし、映画を観る際の構えとしても、ポスタービジュアルの印象で「楽しい映画なんだろうな!」と観に来た客は「あれ?」と感じる仕掛けが最初にある。

今の時代から観る映画の印象としては、圧倒的にこちらの暗さだ。それでも劇中ではこの田口春雄の曲は「芸術」と呼ばれており、小学校の校長も田口を引き立てている。

最初に「この映画のテーマはギャップや対比である」ことが示されていたのかもしれない。

全体的に村の風景は茶色い。人々の身なりも地味だ。そこに目も覚めるような派手なファッションとヘアメイクの女性二人が現れる。今から見るとレトロでカワイイし、ヴィヴィッドな色合いと、パッキリした柄は、元気が出るような、爽快な気分になる。カルメンのテーマソングと田口春雄の曲が聴覚的な対比なら、こちらは視覚的な対比だ。

リリィと朱美はストリップダンサーなのだが、「ストリッパー」という単語は出てこない。まだなかったのかもしれないし、GHQの検閲があったのかもしれない。

劇中で別の呼び方もしていない。当時の人たちにとっては、「見ればその出で立ちでわかる」という暗黙の共通理解があったのかもしれない。中盤からは「裸踊り」という表現になっている。

 

リリィと朱美が浅間山や草原地帯を背景に踊り回る様子は、ストリップの淫靡さは一切なく、むしろ健康美を感じる。踊りの最中に「裸の」牛や馬がカットインするのも心憎い演出だ。ここは思わず笑ってしまう。

「本公演」の裸踊りも謎で、二人はほとんど仏頂面といっていい表情で、淡々と踊る。実際のストリップは行わず、水着とパレオをまとって踊っているのみだが、おそらく露出の多い服装が見慣れない当時の人としては新鮮だったのだろう。客は男性がほとんどな中に、女性が二人写っていて、おにぎりを食べながらつまらなそうに見ている。(ここにも対比がある)仏頂面で淡々としていて面白味がまったくない二人の踊りを見て、男性たちが静まり返って見入っている様子は、今の時代だからかもしれないが、笑ってしまう。また、別の見方をすれば、戦時下での慰問公演も彷彿とさせる。

 

とても「芸術」とは呼べないが、リリィと朱美はそれを「芸術」と呼ぶ。彼女たちはそれを誇りにしているが、どう考えても芸術からはほど遠い。なのに丸十が走らせる宣伝カーには、「裸芸術」と書かれた横断幕がかかっている。この撮り方はリリィと朱美に対して残酷と言っていいほどだ。どういう意図なのだろうか。誰からも「芸術」が「勘違い」して受け取られているような時代、ということだったのだろうか。

リリィは父からは憐まれ、村人から馬鹿にされたり、性的な眼差しを向けられているのに、それを「小さい頃に馬に頭を蹴られた影響で」「頭が弱くなって」(ここもちょっとあとで触れたいところ)「勘違いしている」という設定のまま、誰もそのことを指摘もせず、ねじれたまま、物語は進み、終わっていく。

ここには「芸術」に対する木下恵介アイロニーが込められているのだろうか。世俗的な映画が、もしかすると芸術からはいくつも下に見られていたとしたら、その目線に対する反発のようなものを、リリィに込めたのかもしれない。田口の音楽のように何か難しげな顔をして、考え込むようなものが芸術のすべてか? 人々の心を掴み、見たいと思わせるのは芸術の本質ではないか?......とでも言いたげだが、どうだろう。評論などをちゃんと読んでいるわけではないので、私の仮説にすぎない。

 

彼女たちが憐まれたり、馬鹿にされたりしているが、あからさまに蔑まれる様子を描いていないのも、不思議なところでもある。敬遠する、嗤う、無視するなどはあっても、軽蔑する人物があまり出てこない。同時代でもっと激しい差別を受けている作品もあるので、『カルメン〜』の描き方は不思議に感じる。もしかしたら、そういったすでにある差別に対する批判を込めているのかもしれない。

憐まれたり、馬鹿にされても、リリィたちはまったくそれを受け取らない。その様子はたくましくも見えるのだけれど、同時にそんなことってあるのかな?とも思えてくる。それは、自分たちの身体が性的な眼差しを向けられていることを気づかず、理解せず、「みんなが私たちの芸術を見に来ている」という解釈をしている様子にも思う。ただ、彼女たちも一方的に馬鹿にされたり搾取されているわけではなく、「田舎の男たち」と逆に馬鹿にする態度でもいるのが、この映画のポイントだと思う。「故郷に錦を飾る」とか「父を安心させてあげる」など言っているが、けっこう「田舎」や「田舎者」を馬鹿にしていて、「あなたたちには都会の最先端のことなんてわからないでしょう」という態度をとりながら、様々な場所に乗り込んでいく。村は平穏を脅かされて騒然とするが、彼女たちはそれを楽しんで見ている。こういう構図をどう読んだらよいのか。一つに、受け取らない&差別し返すことで、彼女たちへの差別は無効化されているとも考えられるが、それだけではないものも感じる。

 

リリィの「奇抜な」行動は、父によって「田舎から出てきた頭の足りん子」というセリフやで説明されている。現代の感覚や社会通念ではあり得ないため、一瞬ギョッとする。前の時代の表現を見ているといかに当たり前に出てくることかと思う。当時の描き方はそうであっても、現代では差別に当たる。作品紹介や解説を(ネットで検索した範囲だが)見ていると、映画に出てきたそのままの言葉を使ってしまっているのが気になる。現代の視点から見ての補足が必要ではないだろうかと思う。

 

木下恵介映画の特徴として「弱い男」が描かれていることをLGBTQ+展で見たが、『カルメン〜』でもやはり弱い男性が出てくる。

田口春雄は教師だったが、出征して失明したことを理由に教師を辞めざるを得ず、一家は妻の働きで生計を立てている。借金のかたにオルガンも奪われる。周りは貧しくとも戦後の日本で新しい暮らしを始めているのに、自分だけがどこか取り残されているような悲しみを抱えている。弱い。

リリィの父・青山正一は、家出した娘が性産業に従事しているらしいことは薄々気付いていたが、それを認めることができなかったともらす。不憫には思うが、怒鳴りつけて追い出したり、勘当したりするような強い男の振る舞いができない。「裸踊り」をすると聞いても、せめて観に行かないように頼むしかできず(「娘の恥ずかしいところなんかみたくねえだ。校長さんも見ねえでくだせえ」)と泣き崩れる。「踊りたいなら踊らしてやろう」愛しているが何もできない男。丸十に文句を言いにいくが、「みんなあいつの裸を見て笑いにくるんだ」とどこかズレている。ここにもねじれというか悲哀がある。

笠智衆演じる小学校の校長は、「100円とって裸踊りを見せるのは教育者としてやめてもらいたい」が、「踊りたいのをやめさせるのは人権の蹂躙だ」(戦後突如現れた「人権」のこの馴染まない感じ!)など自分の意見が揺らぎやすい人で、権威が薄い。この正一と校長のやり取りは笑ってしまう。笠智衆は小津映画の印象が強いから、このコミカルな役が珍しいのもあって、余計に笑ってしまう。

結局、校長と正一と何人かの男たちは、「裸踊りは観に行かずに自宅で酒を飲む」という選択をする。男たちが弱さや情けなさ、つらさをきっかけに連帯する図は新鮮に写る。少なくともわたしの知っている1950年代の日本のイメージにはなかった。

 

この物語の中で新鮮な女性の像としてあるのが、リリィの姉・青山ゆきだ。リリィを理解し応援する「アライ」的な存在としている。リリィの服を借りて運動会に来て行ったり、リリィが裸踊りをすると聞いても眉をひそめたりすることがない。それはそれでリリィがやりたいならやればいいじゃないかという感じ。父親のリリィに対する思いには共感するが、ゆき自身はリリィを恥ずかしく思ったりはしていないように見える。普通、家族の誰かが狭い村のコミュニティの中で、そこまで目立つ行動をしようものなら、今後どんな白い目で見られるかわからないと思いそうなのに。ゆきというキャラクターはどういう意図で描かれていたのだろう。

 

最後は田口春雄の元にオルガンが戻り、例の陰鬱な音楽が中断され、呑気なブギウビで終わる。こちらはいろいろかき乱されてぼんやりしている。非常に複雑な観賞後。

非常に語るポイントの多い映画だった。有名な作品なのでまたどこかで出会うと思う。

 

この予習の後に見た田中絹代監督の映画特集でもいろいろな発見があった。

1950年代〜1960年代の日本映画、やはりおもしろい。

 

(追記)

さらに穿った見方。「女性が元気だと場が活気づく」という方向で「活躍を期待」されるが、「やることの中身」に対しては蔑みがある……そんな構図にも見えてくる。

 

映画とは関係あるようなないような話だが、おもしろかった。

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 2020年に著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社