2022年4月、映画『主戦場』を観た記録。
2019年4月公開時は観る気が起きなかった。
観たら多大なエネルギーを消費しそうだし、ダメージが大きくて、観たあとにリカバリー期間が必要そうな気がしたのだ。歴史修正主義者(……主義?)による、聞くに堪えない言葉によって、しんどい体験になるのを怖れた。「巻き込まれたくない」と思った。
あれから3年。(もう3年!?)
デザキ監督が出演者のうちの数人から訴えられた裁判が決着したタイミングで、私も準備ができて、ようやく見ることができた。
結果、非常に興味深く、思っていたのとかなり違う体験ができた。見ることができて本当によかった。
こういう落ち着いた態度でいられたのは、いくつか理由がある。
まずは、私の日常生活が安定していること、体調が良いこと(これは大事)。
そして、「慰安婦」問題について、自分なりに調べ、考えてきたこと。
さらに、デザキ監督のインタビューを読んだり、トークを配信で聴いたりして、どういう作り手で、どういうスタンスで、制度や訴訟の詳細を聞けたこと。
これらによって、自分なりに軸を持ち、安定した気持ちで鑑賞できた。この映画は、「慰安婦」問題に関する議論の全体像が、一旦、初めて示されたものだと、私は思う。
※以下は内容に深く触れていますので、未見の方はご注意ください。
鑑賞メモ
・実際に見ていくと、論客の発言に驚くことは多々あった。しかし同時に、その発言から素朴な疑問が生まれることもあった。「おかしいと思うとしたらなぜ」「自分がどう思うのか」を考える機会が何度も訪れた。これはありがたい機会だった。
・タイトルからして、予告の見せ方からして、映画の作りからして、右派VS左派のバトルのような仕掛けになっているが、観ていくと実はそうではない。対論のようで、そうではない。それぞれの論客がどこに注目しているのかを語らせている。
・この映画の制作にあたり、デザキ監督がどういうポジションをとって作っているのかは非常に気になるところだったが、それも事前の配信トークや本編中のナレーションで少しわかった。まずは少なくとも「国家のために国民が存在する」とは考えていないし、歴史修正主義には賛同してないし、自分のアイデンティティ(日系、アメリカ国籍)との関連があるから、この問題を取り上げたのだろうと推測した。
・画期的だと思ったのは、歴史修正主義や右派と呼ばれる人たちが、自分の言葉で語るのをコンパクトに編集されているという点。また韓国も訪問してインタビューをとっている。これらをまとまって見る機会はなかなかない。
・そもそも「右派」「左派」とはくくれない。それぞれは一枚岩なのではない。一人ひとりの主張や論拠は違うし、立ち位置も違うことが見ていると次第にわかってくる。「右派」であっても慎重な言葉選びをする人もいるし、新たな切り口を提供している人もいる。「左派」でも論拠があやふやなのでは?と思うこともあった。立ち位置も変わっていくということが、終盤で描かれる。ここはスリリングだった。
・強い言葉をセンセーショナルに使うことや「大きい方の」数字を使うことの危険性がある。無関心な層を振り向かせるために、社会にインパクトを与えるために、言葉は使われる。
・「奴隷」「強制」「暴力」などの言葉の定義に絶対のものではない。人類の経験が重なるにつれ、歴史が重なるにつれ、時代によって変容していく。都度定義しなおしていく必要がある。
・「同意していれば暴力に当たらないのか(いや、そうではない)」という問題提起は先日読んだ『当事者は嘘をつく』でも挙がってきたもの。
・資料の読み方。書かれたり作られた背景や同時代性を考慮に入れなければ解釈を誤る危険性がある。これは覚えておきたいことの一つ。だが、「証言」「記録」とは何か。記録がなければなかったと言えるのか。記録があったからそれを唯一の論拠としていいのか。歴史を見つめること、検証することの難しさを感じる。
・おかしな感覚に陥る。「この人の話を信じられるか、信じられないか」と見極めをしようとしている。映像の中から「信じるに値する証拠」を自力で見つけなければならないような感覚。表情、目の動き、口調、メイクやファッション、撮影背景、限られた情報の中から。いや、そんなものは、いくらでも操作できる。この映画でその人たちが語っていることも編集の入った断片に過ぎないのが前提。それ以外の場での言動もありえるという想像も必要。
・「この人の言うことは信じられる」とか、そういう主観的であやふやなことで決めていいのかみたいなもやもやも起こる。裁判員制度なども似た感じかもしれない。映画自体が裁判みたいだったということかもしれない。
・どちらを信じるのかというような争いに巻き込まれたくないと感じる一方、もうとっくに巻き込まれていたのだとも知る。間接的に、遠くから。
・論者が変わり、さまざまな論点がテーブルに並べられていくのを見ることで、自分の中にも議論が生まれてくる。問いが生まれることによって、自分がどこまで理解していて、どこからが理解できていないのか、知らないのかがつかめる。
・正直こんなに複雑だと私も思っていなかった。挑発的な作りではあるが、疑問としてはかなり素朴。
なぜ「慰安婦」問題はここまで「問題」になっているのか?
そこにはどうやら過去の恥以上の何かがあるのではないか?
これら疑問にしたがってデザキ監督はリサーチを進めていく。実は私もその疑問は持ったし、自力では踏み込んでいけない領域だったので、ありがたく思ったところがある。
・シンガポール出身のホー・ツーニェン氏が《ヴォイス・オブ・ヴォイド》《百鬼夜行》で、正史に載らない太平洋戦争下の秘密をアートの手法を使っていくつも暴いたように、日系アメリカ人のアイデンティティを持つミキ・デザキ氏もまた、「外」からタブーに迫っている。当たり前になっているが実はよくわからないもの、得体が知れないから直接触れないできたものは、外の人のほうが扱えるのかもしれない。『主戦場』は、「含まれている」、輪の中にいる者からは思いつかないようなアプローチや手法だと感じた。
・自分と国家とを同一のものと考えたり、国家のために国民があると考える部分は突飛な考えではなく、うっすらと埋め込まれているような危険性も自覚する。自分のルーツに誇りを持つことで生きる手応えを得ることと、自国主義に陥ることの違いは何かは自分の中でも明確に論じられるだろうか。
・結局のところ、何か結論めいたものが出ているわけではない。終盤にデザキ監督なりの見出した、この時点での意見は示されるが、それはデザキ氏のものであって、従わなければならないものや、正解というわけでもない。
・元「慰安婦」の人たちへの敬意や尊重は、映画中で描かれているが、彼女たちが求めているのは何かは、『主戦場』では真ん中には置かれない。これまでの『ナヌムの家』のような彼女らにピントを当てている映画ではない。それは、当事者を不在にしたまま紛糾し、複雑に拗れ、歪み続ける問題の有り様を描いている映画だからだと思う。そして、問いを持った人が調べなくてはならない仕組みになっている。他にもこの「領域」では、まだぢ多くの立場、多くの視点が見過ごされているように感じる。
・自分で調べ、考え、時に人と対話し、議論しながら学び、探究していくしかない。
・それは何のためにするかと言えば、次の言葉に尽きると思う。『「慰安婦」問題を子どもにどう教えるか』平井美津子著(高文研, 2017)
戦争にはこの満蒙開拓団の女性たちや「慰安婦」のような性暴力がつきまとう。戦争のエピソードではなく、戦争の本質なのだ。(p.6)
今戦争を学ぶのは、戦争への過程、加害、被害、抵抗や反戦、加担といった戦争のあらゆる面を見ていくことで、戦争の実相を知り、そのことが再び戦争が起きることを防ぐ力になると思うからだ。「戦争はいやだ」と言うだけでなく、戦争が起きたらどんなことになるのかということを歴史の真実から理解しておくことが今こそ求められている。(p.5)
だから、「右派」や「歴史修正主義者」を糾弾するためではなく、「私」「私たち」観客であり傍観者であり当事者に向けて問うている映画なのだと思った。
・「従軍慰安婦」という言葉を初めて聞いたとき、私は10代だった。ニュースで何度も取り上げられていたので音声として耳に残っている。新聞にもよく載っていた。当時はあまりよくわかっていなかった。私もその時代を目撃してきた傍観者であり、大人から史実を教えられなかった当事者だ。そういう立場から、この問題と関係がある。
・「慰安婦」の訴えはどうしてそこまで問題になるのか。先出の書籍の中で、著者の平井さんもこう綴られている。
私が子どもたちに教えていることはそんなに問題があることなんだろうか。(p.86)
これを人権の問題として、国益とは別に考えるべきではないのか。
・性暴力の訴えに対して声をあげた人に対するバッシングの傾向は強い。性的同意年齢の13歳から引き上げ、選択的夫婦別姓や同性婚の法制化は進まない。保健体育の教科書で卵子の老化、困窮者支援に売買春法しか適用できる法制度がない、医科大学女性合格率の操作、都立高校女性合格率の操作……。挙げればキリがない。これが何を示すのかということだ……。操作や加害を認めると本当に都合が悪いのは誰か。そして、なぜ都合が悪いのか。
・「嘘をつくほうが悪いのではなく、騙されるのが悪い」と答えていた人のメンタリティ。どうしてこれほど自己責任論が強く、減点方式で、懲罰的指向なのだろうか。
・鑑賞後しばらくボーッとしながら「主戦場」というタイトルを見返して、「いったい誰が何と戦ってるんだろう」という気分になった。今後どうなっていくのだろうか。そして自分はどのような立場でいればよいのだろうか。
私はこのような感想を持ったが、他の人はどうだったのだろうか。
まったく何の前知識もなく、「"慰安婦"のことを今回初めて知る」というやわらかい状態の人が観たらどう思うのか、どう考えるのだろうか。
会員限定。じっくりお話が聞けたのでよかった。映画を観ながら出てきた制作意図やプロセスなどの疑問に対する答えにもなっていた。スラップ(Slapp)訴訟という言葉を知った。アーティストやアクティビストを黙らせるために訴訟を起こす、一種の言論弾圧。Controversial(物議をかもす)という言葉も何度も出てくる。
関連記事
2022/1/15〜2022/11/30 WAMでの展示。
「平和の少女像」とは。
韓国の彫刻家、キム・ウンソン氏とキム・ソギョン氏による作品。2011年、ソウルの在韓日本大使館前に設置されて以来、20体を制作。多くは韓国にあり、2体はアメリカにある。現在はドイツにも。アートを通じて戦時性暴力を批判する民主化運動を行っている。他の作品として、ベトナム戦争での旧韓国軍の性暴力を批判する作品 "Vietnam Pieta"がある。
あいちトリエンナーレ、KBSの報道
続いている話……。
岸田首相、ドイツ首相に直接「ベルリン少女像を撤去してほしい」(2022.5.11)
慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策|外務省(平成26年10月14日)
読んだ本(一部)
こちらは未読。まだまだ勉強が必要。
教科書検定の問題に関連して、これも気になる映画。
通底するものを感じる……。
この映画も思い出した。"Denial"。学問、学術的研究が、できるだけ裾野広くあることが、修正に対抗する手段の一つと言えるだろうか?
wam訪問記録。
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