公開延期となっていた『あなたの顔』をようやく観ることができた。
封切られて3日後に観るなどとは、わたしにしては早い行動。観られるときに観ておかないと、いつまた制限がかかるか知れないから......。
詩的な映画。
13人の顔が数分ずつ登場する。沈黙、語り、存在、光と影……ビクトル・エリセの短編映画(オムニバス映画『ポルトガル、ここに誕生す〜ギマランイス歴史地区』の一編)を思い出す。
ある人は若き日の栄光を語り、
ある人は植物や動物のように微動だにせず、
ある人は忙しなく動作し。
まばたき、声、笑い、皺、毛、化粧......。
日常生活で誰かの顔をこんなに凝視し、観察することもない。
しかも50代〜80代ぐらいの人たちの顔。わたしにとっては少し上から親の世代、か。
自分の顔だって、歯磨きと化粧のときぐらいしか見ない。見たとしてもこんな客観的な眼差しを向けることもない。どこかバイアスをかけて見ている。
一度だけ、自分の顔に驚いたことがある。
2013年のワタリウム美術館で開催されたJR展。
http://www.watarium.co.jp/exhibition/1302JR/index_e.html
顔のもつメッセージ性をつかったJRのInside Out Projectに、鑑賞者も参加できるというので、出かけていった。会場に用意されたフォトブースで顔写真を撮り、特大(B0サイズ?)のポスターにしてもらえる。データはここにストックされ、プロジェクトの一部となる
わたしもちょっとドキドキしながらブースに入り、シャッターボタンを押した。巨大な印刷機からポスターが吐き出される。それを受け取って、驚いた。
わたしの顔が、
わたしはここにいる!!
と言っていた。
大きく引き伸ばされたわたしの顔は、わたし自身が思っているよりもずっと力強く、眼差しは凛として、生命力にあふれていた。
その時期は仕事が激務で、美術館にも仕事の帰りに這うようにして行って、全然希望も見いだせていない時だった。どれだけげっそりした顔が出てくるのかと思っていたから、ほんとうに驚いた。
しかも、顔が勝手に語っているのだ。実に雄弁に。あらゆることを。わたし自身の存在を超えて。
このことは、その後のわたしの人生を変えるぐらいの強い力を持っていた。
それで瞬時に、なぜJRがこのプロジェクトを続けているのか、顔にこだわっているのかを体感した。(その後JRには、映画「顔たち、ところどころ」で"再会"した)
こういう過去の経験を持って観ているわたしは、『あなたの顔』で表現されていることをとてもよく理解していると、勝手に思っている。
坂本龍一が音楽を担当したということでも話題になっていた。
事前に坂本のコメントを読んでいて納得したのだけれど、音楽というより音、もっと言えばノイズに近い。その顔から発せられるような、向き合っているわたしが感じ取って出しているような。存在の音、というのか。
ドキュメンタリーとくくるのはだいぶ違う。
パンフレットに書いてあったが、「映像と音のパフォーマンス」がぴったりくる。
わたしは、この作品が商業映画にのっていることがうれしい。
もっともっとアートの文脈にだって乗れたのだろうけれど。
そうするともっと鑑賞の機会は狭まっていただろう。
わかりやすく採算が取れるような映画ではなさそうだけど、でも映画館で観られてよかった。
あの時間を大勢の他人と共有できてよかった。
夢のような76分。
こういう映画が好きだ。
ミニシアターに通っていた大学生の頃に観ていた、ツァイ・ミンリャンの映画を、新作をこうして観続けることができるなんて幸せだ。ツァイ作品にいつもいつまでもリー・カオシャン(李康生)が出ていることがうれしい。
こういう映画も好きだ。
映画の幅広さ、懐の深さが好きだ。
家に帰って、一番顔を観察しやすい他者として、我が息子の顔をしげしげと観察してみたのだけれど、年若い顔には何も刻まれていなかった。さっき見てきた顔たちとはまったく違う。人相すら漂わない。
まだまだ変化を遂げていく可能性に満ちて、輝いていた。
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