ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

展示『拝啓、森鷗外様』展 @鷗外記念館 鑑賞記録

鷗外記念館で開催中の、『コレクション展 拝啓、森鷗外様 -鷗外に届いた手紙』展に行ってきた。

 

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moriogai-kinenkan.jp

 

ここに来るのは、昨秋の『森家の歳時記』展以来だ。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

このときの展示がとてもよかったので、「この一年は鷗外を読んで過ごすぞ!」と思っていたのに、なかなか叶っていない。

「まだ読めていないのに、来ちゃってすみません」という、誰に詫びているのかわからないような気持ちを抱えてつつ、やってきた。ほんとうはもう少し鷗外の作品世界を理解してから来たかったのだよな。

だから、たぶんこれは鷗外サンに言っている。すみません。

 

鷗外も踏んだ敷石が残る。

 

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今回は手紙の展示であることにも興味があった。

先日訪れた、漱石山房記念館の津田青楓展を見ていて、手紙がほとんど電話のような役割を果たしていた当時の人々の息遣いが見えるのはおもしろいなぁと気づいたからだ。

今回は鷗外記念館のこれコレクション展ということで、鷗外に届いた900通あまりの封書や葉書の中から選りすぐりを展示しているとのこと。

前期・後期に分かれているが、すでに前期「年賀状を楽しむ」は終わっており、後期「文学者のたよりを読む」を観ることとなった。

 

企画展を観る前に、常設展をおさらいしてみた。

B1階の壁沿いの展示は、生涯を追いながら、鷗外の人となりを紹介するもので、ここはたぶん基本は変わらなそう。

60歳で死去。今から考えるとかなり若い。医者だったが延命は拒否し、最後は墓に森鷗外ではなく森林太郎と書いてくれと遺言したあたりに、生き様を見る。

若い頃からエリート街道まっしぐらで、常に公人として生き、またこの時代に男性であり家長でありということで、一見恵まれているようだけれども、個人としての選択があまり許されてこなかった人なのかなとも想像もする。このあたりについては、ビデオブースの上映に詳しい。ビデオ上映をすべて観ると35分ぐらいかかるが、平野啓一郎さん、森まゆみさん、安野光雅さんなどがお話していて、鷗外のイメージが覆るようなお話をしてくださるので、ぜひ観ていただきたい。時間に余裕を持って!

 

真ん中のスペースが、前回来たときと違っていて、鷗外本の装丁の展示があった。これもまた津田青楓の装丁や、この少し前に行った小村雪岱の装丁なども見てきたので、食い入るように見てしまった。

鷗外は、医学界、文学界、美術界でも活躍した多彩な才能を持ち合わせる人だったこと。東京美術学校(元東京藝大)の講師や、美術評論家などの仕事もしていて、そこから交友関係が広がり、装丁の仕事をお願いするようになった、とある。

漱石山房記念館で知った橋口五葉や、書道博物館で知った中村不折による装丁もある。

たまたま同じ時期に行った展示同士がつながっているのはやっぱりおもしろい。

 

常設と企画の間にある、森家の家系図もおもしろい。江戸時代から続く名家。

初代は1649年。森玄佐と言い、源正直という名も持つ。鷗外は14世11代に当たる。鷗外の後は、27歳で結婚し翌年離婚した最初の妻の子(男子)に継がれている。現在は、17世14代の森憲二さんが当主。医学博士とある。

名家とはいえ、男子が継ぐ、婿入りするなど、家父長制の世界でもあって、これが現代も当たり前に続いているおうちもあるのだなぁ、とこういうふうに目に見えるようにされると、改めて実感する。

 

 

そして、ようやく企画展。

・展示されているのは明治23年(1890年)から大正6年(1917年)の封書や葉書。

・この頃の郵便はとにかく「用件」が多い。ちょっとした質問や近況伺いや連絡事項などが葉書で送られている。日本で電話サービスが始まったのが、1890年(明治23年)。当時は電話料金も高くて、サービスエリアもごく限られていたからか。

・『サロメ』の和訳について訪ねている葉書など、おもしろい。回答しやすいようはじめから往復葉書で送っているものなど、なるほどと思う。返信用封筒を入れるような感じで、葉書を使うのか。

・洋行した友人から届いた海外の絵葉書に「当地で鷗外の作品を思い出しました」というようなことが書いてあるのが、けっこうグッと来る。「あーあれが、林太郎君の小説に出てくる景色、建物だ〜!ほんとだ〜」と、船に乗って遥々来た異国の地で会えるというのは、今の人が想像する以上の興奮だったのではないか。

・しかしこの時代の方々は、当然の教養として、書が上手い。

・鷗外の交友関係の中に、川合玉堂がある。龍子記念館でも観て山種美術館で開催中の展覧会に行かなきゃと思ったところ。またここでも会う。

・日本では1871年明治4年)に郵便事業が創業する。東京ー大阪間ではじまり、1872年には北海道の一部を除き、全国に広がる。1883年には東京府下の集配が1日19回とある。19回!!それは電話代わりに使うわけだ!電話が不得手だから郵便や葉書を多用した説もあるけれど、これだけ集配があるなら、それは利用しただろう。

・転居届などもたくさん!鷗外の人脈の多彩さが忍ばれる。またこの頃の人は引越しが多いイメージもある。引越しの歴史について研究している人もいるだろうか。当時の住宅事情と引越しについても知りたい。

・戦中は、鷗外も軍医として戦地に赴任したので、軍事郵便の扱いも多い。軍事郵便には慰問の意味合いもあって、綺麗な絵葉書で送ると喜ばれたのだそう。以前は、表面が宛名、裏面が文字と決まっていたらしいけれど、郵便制度がだんだん発展する中で、宛名面の1/3(1907年)や1/2(1918年)に通信文を書いてよくなったと。なので、表に用事を書いて、裏は美しい絵葉書などにできる。絵葉書は画家が美しいのを描いていたそう。こういう軍事郵便用の葉書の展示は横山大観記念館にもあった。画家はこういう形でお国に貢献するような感じだったのだろうな。

・鷗外が軍事郵便葉書を3枚使って原稿を送ったりもしている。実物で見るとすごい。ある意味紙面が限られていて、使いやすいのかもしれない。制限があるほうが思考がまとまるというか。

・当時の官製葉書は今のものよりサイズが小さい。

 

 

 

今回の収穫

・郵便についてもっと知りたくなったので、次は郵政博物館に行きたい。 

・文京区の歴史についてもっと知りたくなった。鷗外が生きていた頃のこの地域がどのようだったのか。文京ふるさと歴史館にも行きたい。

 

・歴史に名が残るのは男性で、その妻や娘には光が当たってこなかったのではないか、など、「性差の歴史」の観点から最近は展覧会を観ている。今回は二人目の妻、森志げが小説を書いていたことを知った。こちらの図録には、森家の女性たちの人生が紹介されているが、特に志げの項は相当に痛恨であり、痛快でもある。

批評家たちは志げの小説を「鷗外的」「(鷗外の)亜種、変種」と述べた。果たしてそうだろうか。そのトピックは、月経、結婚、初夜、避妊、流産、悪阻、妊娠中毒症、死産、出産など、女性のセクシャリティの諸相にわたる。レズビアニズムにも近接する女性同士の親密な関係や、女性だけの親密圏(今風に言えば「女子会」)において語られる女性の心身をめぐる秘密(すなわち「女子トーク」)もテーマとなっている。(図録『私がわたしであること 森家の女性たち 喜美子、志げ、茉莉、杏奴』p.24より)

 全集も出ているようなので、機会を見つけて読んでみたい。図録のバックナンバーも充実していて、売店で購入できる。

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・今年は日独交流160周年とのことで、ドイツ大使館がいろいろと催しや企画をしている。こんなインスタグラムのアカウントも>>https://www.instagram.com/its.rintaro/

 

次回来るときは、何作か読んでから来よう。きっと!!

 

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