ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

きょうも東京の夜空の下で

友人でドラマ「おっさんずラブ」を偏愛している人がいる。


彼女から先日聞いた話がとてもよかったので、シェアしたい。

 

 

偏愛なので、ドラマを何回も見返す、DVDを買う、サントラを買う、関連書籍を買う、グッズを買う、インタビューが載った雑誌を読みまくる、展示を見に行く、出演していた俳優さんの舞台を見にゆく、しおりを作って撮影地巡りをする、オフ会に行って友だちをつくるなどは、当然している上で、さらに、という話。

  

 

熱烈な「おっさんずラブ」ファンたちの希望で、最近ドラマ本編のシナリオが発売されたという。わたしはたまにハマるドラマはあるけれども、それほど熱心にチェックしているほうでもないし、業界の事情も全く知らないのだけれども、こういうことは稀なのらしい。

 

一日の終わり。

友人はリビングのテーブルに座り、おもむろにそのシナリオを開き、ドラマを流しながら、聞こえてくる音を聞き取り、該当のページの該当の箇所に書き込んでいく作業をしているという。毎晩!サントラに入っている音楽はもちろん、それ以外に聞こえる音はすべて!

・どのシーンでどんな音が鳴っているのか。
・脚本のセリフと実際のドラマの内容のセリフの差異(シーンも)
・役者の表情、シチュエーションからの考察、感想

をボールペンの色を変えて書き込んでいるらしい。

そして最近では、映像に映っているもの、例えば腕時計の時刻とか車のナンバーなども扱いはじめたという。

 

 

彼女は映像の人でも演劇の人でもない。強いて言えば音楽か。

とはいえ、彼女自身はそれをなんのためにやっているか自分でもよくわかっていないのだけど、とにかくやらざるを得ない使命感を持ち、誰から頼まれたわけでもなく、日課として毎日コツコツと作業を続けているらしい。

 

書き込んでいるうちに、俳優によってアドリブの量や頻度が違うことに興味をもったり、ほんの少しの言い回しの違いで観る側への伝わり方が大幅に違うことに感動することもあるらしいが、とはいえ、あくまで副産物としての気づきであって、それが目的でやっているわけでもないところが興味深い。

 

実際の書き込みページをチラッと見せてもらったが、「やばい」しか言葉が出てこなかった。こういう情熱の表れ方...たまらん......!!

 

 

 

一つの作品の好きになり方として、自分で漫画化したり、小説にしたり、短歌にしたりという二次創作の表現として行い、同人誌を作って発表したり、フェスに出してりする人はいると思うが、そういう方向でもない。特に誰に見せるわけでもないらしい。

 

徹底的な観察。

なんというかもう、「彼女自身がおっさんずラブになろうとしている」としか思えない。

 

 

曰く、

せいこさんに、映画を観ながらメモをとるとか、感想を伝え合う楽しさや味わい尽くそうという心意気を教えてもらった。

そうで、それを聞いてなんだかとってもうれしい。

そう、彼女とは今年、「ちはやふる-結び-」を語る会や、「ちはやふる祭り」を一緒にひらいたのだった。楽しかったなぁ。

ちなみに映画を観ながらメモをとるのは、わたしも「スリー・ビルボード」を一緒に観に行った別の友人から教えてもらった楽しみ方だ。

 

 

 

彼女は「ちはやふる」ももちろん偏愛していて、語る会にもおびただしいメモの束を持ってきてくれていたのだけれども、「おっさんずラブ」のように「本編を観ながら毎日シナリオにメモする」という方向への発揮ではなかった。

ハマるものそれぞれに好きになり方、味わい尽くし方があるらしく、なにがどう違うのかは本人にもわからないらしい。おもしろい。

 

彼女がそこまでハマっているんだから気になるなぁと思いながら、リアルタイムでは追いかけていなかった。それがなんと、次のお正月に6時間一挙放映されるとのこと。

これはちょっと見てみて、感想を伝えたいなぁとようやく予約録画設定をしたところ。

 

しかも

もし、せいこさんが観てみて納得感がなかったり嫌悪感があったりしても、その気持ちを伝えてもらえるとうれしい。いろんな感じ方を知りたい。

とか言っちゃって、...うう、なんかもう愛だねぇ〜

ここまで一つの作品を愛せるって本当に幸せなことだし、作品にとっても幸せなことだ。

 

 

表現から受け取り、受け取ったものを自分を通過させて情熱を伴う表現として出して、その表現から派生した何かを受け取って、また表現して...というずっと続く循環が生まれる。

 

あの手この手で味わい尽くして、ずっとずっと楽しめる。一生遊べる。

 

「オタク」は人類が文明を持ち始めた頃からたぶんいたし、今さらこうやってわざわざ書かなくても、ハマるとか偏愛するとかってこういうものだと思うんだけれど、一つの作品に対していろんな味わい方があって、それは一人ひとり違っている。

わたしがこうやってブログを書いている今この間にも、彼女があの日課をコツコツとやっているのかと思うと、妙に心があたたまるんだ〜という話、でした。

 

表現物や自然物の存在を愛でて、祝って、寿いで、世界を豊かにしているのは、彼女やわたしも含めた、こういうちょっとおもしろい人たちの存在なんだろうと思う。

 

オタク万歳☆

 

 

(12/16 追記)

地上波での一挙放映を待たずしてもAmazon PrimeAmebaTVなどの動画サイトでも配信中のようです。

 

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観世能楽堂でお能を観た話

観世能楽堂の「観世会・荒磯能12月公演」に行ってきました。

天籟能の会を一緒に観に行った友だちがチケットを安く譲ってくれまして。


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GINZA SIXに2017年4月にオープンした新しい能楽堂。行こう行こうと思いながら、きっかけを見つけられなかったので、譲ってくれた友だちに感謝です。

 

今回の荒磯能は若手能楽師による公演なので、定例能に比べるとチケットもかなりお手頃。そして平日の13:00-16:30(解説は12:30〜)というところが絶妙で、銀座で早めのランチした後に、観能して、帰りはラッシュに巻き込まれる前に帰宅できる、というのはすごくいいです。能の支持層に年配の方が多いからなんだろうなぁ。でもこれはケアの必要な年齢の子どもを育てている人(わたし)にとってもうれしい設定。

 

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来てまずおもしろいなーと思ったのは、もともと能舞台は屋外にあって、それをお堂の中に入れてしまったわけだけれど、それをさらに地下(しかも地下3階)に埋めたというところ。

 

ここの能楽堂が特徴的なのは、それぞれの席のバランス。脇正面が極端に少ない。そしてこの脇正面が舞台にめちゃくちゃ近い(感じがする)。

 

お能の席は、金額の差はつけてあるけれど、どこから見るかは人によって好みがそれぞれなのです。S席だからいい体験ができるというわけでもないところがまたおもしろい。この感じは、クラシック音楽のコンサート以上のものがあるのでは。

 


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わたしはいろいろ座ってみた結果、かなりの確率で脇正面で良い体験をしていますが、それは国立能楽堂で特にそうであって、宝生能楽堂だと中正面とか、わりと能楽堂によっても違うかもしれず。

しかし今回観世能楽堂で座ってみて思わず、「ここは脇正面一択でしょ!」となりました。

 

一列目だったので、とにかく近い!迫力!

呼吸が聴こえてくる。

 

これがもし、人でありながら人ならぬものを観たい場合は、あまりにも生々しく人間すぎるから、そういう方にはもう少し遠い席がいいのかもしれない。

 

一列目は定例能( ↓ の写真)ではS席。10,000円。たぶん定例能なら年間指定席の枠でで既に予約されていて、ふつうに買おうとしたら取れない席ですね。今回はそういう点でも体験できてラッキーでした。


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席種の話をさらにすると、他の公演 ↓ での席は、SS、S、A、B、C席、学生席まであるので、もしかすると曲による見どころの違いなどから、この席の場所とランクの割り振りがあるのかもしれません。あくまで仮説ですが。

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荒磯能は若手能楽師による能ということで、確かにフレッシュな感じ。重鎮にはない揺らぎやエネルギーの勢い、色みたいなものがあって、よかったです。

 

能楽堂自体の若さ、わたし自身がこの能楽堂の場にまだ馴染みがない、舞台が近くで人間の存在の迫力をより感じる、若手の舞台というような上に書いたことに加え、女性の能楽師を初めて生で観た、狂言の途中で鋤の先が取れるハプニングなどなどもあったのか、没頭して心が持っていかれる能というよりは、観察する能という感じでいました。

 

同じ列で謡本を広げて指で辿ったり、赤ペンで書き込みをしたり、謡や仕舞のお稽古をしてらっしゃるのか、熱心な方々がいらっしゃいました。(追記:謡本のことを床本て書いてたのですが、床本は文楽義太夫が使うもののことでした。失礼しました!)

 

舞台のほうの感想。

 

仕舞

女性の能楽師さんだ〜ということでビックリしていてよく覚えていないけれど、女声も美しいなぁという感じが残っています。

 

能「胡蝶」

胡蝶の精になった後シテが、すごーく狭いところを面をつけていてほとんど見えないはずなのにスッと通り抜けるところ。舞台から落っこちちゃうんじゃないかとドキドキしたけれど、さらりとこなして素晴らしかったです。

 

狂言「水掛聟(みずかけむこ)」

狂言てホッとするなぁとあらためて。胡蝶が緊迫していたわけではないけど、やっぱりオープンな中から意味を読み取ろうとしちゃうので、エネルギーは使う。狂言は、セリフも一言一句取れて、わかりやすくて、舅と婿の争いと素っ頓狂な嫁の振る舞いに大いに笑えて楽しい。それぞれの良さがある。

 

能「春日龍神

後シテの龍神が激しく舞って、ジャンプして座位で着地するシーンが2回ほどあり、まるで陳式太極拳の演武をみているよう!囃子方の演奏もかなりパンキッシュだったりして、かなりノリノリ!

その直前の間狂言の長ゼリフが終わったあとに拍手したくなりました。文楽や歌舞伎やオペラやバレエなら絶対拍手喝采なんだけど、能ではそれはだめなのよね。もしどんなふうに見てもいい能の企画があったらいいだろうなぁ。フレディ・マーキュリー応援上映みたいに。

 

 

全体としては、あらためて能の装束が美しい!

立体的な形、布地の張り感、質感、色のおもしろさ。色の合わせ方、柄の合わせ方。和のものではあるのだけも、現代の着物ともまた違う発展をしている装束。能の装束の展覧会が松濤美術館でやっていたかも。でも単体で見たいというよりも人間が着ていて全体としてどんな造形になるのか見たいから、願いとしてはファッション・ショーなのかも。そう考えると、能舞台はランウェイみたいにも見えてきます。


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シテとワキと地謡囃子方。そして客席。

もしかして自分が今生きている瞬間、誰かと交流している時間のときにも、目に見えない存在がこのようにじっと聴いて見ているのかもしれない、という気がしてきます。パラレルワールド

 

若手の方々の中には年齢が若い方もおられて、「風姿花伝」の冒頭の「年来稽古条々」を思い出し、あの方々は、世阿弥が説いたところの「二十四、五」や「三十四、五」の時期にいらっしゃるのかなと想像したりしてました。家に帰って読み返してみたらけっこう厳しい時期なのだなぁ。

 

最初に20分ほど解説が入った中で、印象的だったのが、「せぬひまがおもしろき」、つまり、なにも動きがない、セリフがない、鳴り物が聞こえない時間こそ、登場人物は心を動かしているし、観客も自由な想像ができておもしろい、味わい深いのだ、という世阿弥の言葉を紹介してくださったこと。

それから、「花」は舞台で演じるものだけが持っているものではなく、観ている人が美しい、カッコいいと感じる心もまた花なのだ、しかもその花は千差万別、十人十色、という話も心に残りました。

それを確かに感じて、言祝ぎあうにはやっぱり、感想を交わし合う場があるといいよねーと、聴きながらいつものようにじりじりとしていたわたしでした。

 

noteでも散々書いた(話した)けれど、やっぱりこんな美しいものを見た喜びをすぐに語り合える場、館や普及したい方々とつくりたいなぁ!

 

今回もまた、今の自分が必要としていた声を聴けて満足です。ありがとうございました。


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noteをはじめました

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noteをはじめました。

 

先日、「せいこの歩いている道」と題し、これからわたしがやっていきたいことについてインタビューをしてもらい、それを[要約編] [全文編] [音声編]に分けてUPしました。

 

要約編でも約8000字あるし、音源も全部で100分あってめちゃめちゃ長い。書き起こし全文に至ってはもうマニアの世界ですが、noteだから許されるかな、と。チラ見していただけるとうれしいです。

 

まずはこのインタビューの記録を載せたくてはじめたnoteですが、仕事に関する知見や意見など、何かしらまとまった形のものを書いていこうと思っています、今のところ。

 

どうぞよろしくお願いします。

 

note.mu

自分の声を録って聴いてみる

片付けをしていたら、以前学びのシェア会で発表したことがある、「自分の声を録って聴いてみたら案外いいやんの話」のメモが出てきた。

 

この話けっこうよかったんだよなぁ...という、そのときの気分がぶわぶわと呼び起こされ、せっかくなのでブログに書いて残しておきたくなり、メモをじっと見てみた。

 


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要約すると......、

自分の声を録ったものって、「え?これがわたし?」というぐらい違和感があったり、恥ずかしくて聴いていられなかったりした。わたしの場合はポッドキャストが大きなきっかけになって、相方さんと楽しくおしゃべりしている声を録って、人が聴いてくれて、声がいいとか役に立ったとか楽しかったとかいろいろ言われて、肯定され、受容されているうちに、自分でも自分を受け入れられるようになっていって、セルフイメージとのズレが調整されていって、新しい表現にも挑戦するようになって、楽しくなって、すごいよかった!なんと今や自分の声を聴くと落ち着くまでに。自給自足。みんなもやってみればいいのに!(笑)

......という話をしたのでした。

 

細かいところの話も書きたいんだけど、今はここまでかなー。

いつかまた別の形で書くかもしれないし、話すかもしれないし、なにも起こらないかもしれないし、わからない。

 

とりあえず、覚えておきたかったので、ここに置きます。

 

 

12/10(月)個人セッションdayのお知らせ

12/10(月)個人セッションdayします。

1枠60分。1人1枠。何のテーマに使ってくださってもOKです。

 

たとえば、

  • これから場をひらいていきたいが不安。どうやって人を集めたらいいのかなど、何から手をつければいいか知りたい
  • 今、場をひらいていて、これでいいのか、こんなときどうしたらいいのか、もっとよくするには、などヒントがほしい。
  • 場(関係)の仕舞い方を一緒に探ってほしい。
  • 企画をここまで考えたので聴いてフィードバックほしい。
  • プログラムの中身を相談したい。
  • 読書会のつくり方講座、上映感想会のつくり方講座、鑑賞対話会のつくり方講座、講座やシェア会のつくり方(橋の架け方)講座、トークライブのつくり方...をしてほしい(個人向けでもやります。実際にその場をやりながら解説をします、裏を見せながら表もやる、みたいな感じです)
  • 百人一首講座 http://hitotobi.hatenadiary.jp/entry/2018/08/11/172741
  • 募集文の添削、フィードバック
  • ポートフォリオを見てもらって、その作り方について質問してくださってもいいです。たとえば「上映会と対話セットの会をひらきたいがこのときどうしたのか」「PTA講座に呼んでみたシェア会を聴き逃したのでもう一回聴きたい」など。http://hitotobi.strikingly.com/#portfolio

 

 

場所はZoomまたは都内の指定カフェで対面のどちらか。
60分¥10,800税込。交通費、カフェ代はご自分の分だけ実費でご負担ください。

①10:00-11:00
②12:00-13:00
③14:00-15:00
④16:00-17:00
の4枠です。

 

お問い合わせ・お申し込みはこちらから>>
https://ssl.form-mailer.jp/fms/97f33a63303170

 

このセッションはいつでもやっているのですが、枠をつくってお知らせしたほうがコンタクトしやすい方もいらっしゃるかなーと思い、こんなふうにしてみました。

 

そうだ、これは今年やろうと思ってできてなかったことのひとつでしたー!やったー^^(まだお申し込みきてないけどw)

 

来年に向けて整理したい、希望を持ちたい、という気持ちが高まる年末。

時間内に解決することもしないこともあると思いますが、取り切られた時間と空間をご用意して、あなたの宣言に立ち会います。

 

考えるのも行動するのもあなたなんだけど、そのように未知に踏み出し、安全地帯を出て取り組んでいるあなたを知っている人がいるというのは、大きな力になると思います。

 

前にセッション受けてくださった方が言ってくださっていたこと。

 

・やっぱりこんなダメなわたしのところには誰も来ないんじゃないかと思ってしまう。結果が出るのが怖い。やりたいけどやらない自分のままでいたい。でも一度セッションで話すと宣言になり、立ち会ってくれる人がいて、なんとか怖れを超えていける。

・わたしが悪いとかダメじゃなくて、やり方や内容や仕組みに目を向けられるのがよかったと。なぜわたしが場をひらきたいのかに徹底的に寄り添ってもらえるから、人と比べなくなる。それでやってみたら、比べてもしょうがないんだってようやく思えた。

・やってみたい気持ちだけがふわふわとあって、やり方がわからなかった。自分のやりたいことや持っている条件や制限の中でできるようになるやり方があった。「それにやり方があるんだ!」というのが目から鱗

 

 

お待ちしております。

 

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hitotobi.strikingly.com

インゲヤード・ローマン展がよかった話

下半期もいろいろつくってきたので、またモノがもりもりと増えました。年末でもありますし、掃除・片付けをゆるゆるとやっているのですが、ここでモチベーションをさらにぐぐっと高めるには、やはり美しいものを見て、作り手の美学にふれるのが一番良かろうと、会期終了間際に滑り込んできました。

 

 

インゲヤード・ローマン展

東京国立近代美術館工芸館で12/9までです。(あした!)


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工芸館ってとこがいいよなぁ〜 

建物にうっとりです。

 

 

インゲヤード・ローマンは、ガラス食器や陶磁器のデザイナーで、一点ものの作家ものを目指す人ではなく、量産品をデザインする人。スウェーデンの人。

 

黒一色のファッションに、シルバーグレーの長い髪を後ろで一つに束ね、いでたちもまたシンプル。でも、話すときの口調や仕草は穏やかで朗らかで、目がきらきらとしてエネルギッシュ。ほうぼうに置かれた映像展示にじっと見入ってしまいました。そして、自宅もアトリエもその作品そのままに、びっくりするほどシンプル…!

 

繊細なフォルムと精緻なライン。デザイナーと職人がきりきりと技を磨いで作り出したガラスや陶器が、窓から入ってくる夕方の光に包まれて、そしてそれを真剣な眼差しで見つめる鑑賞者の人びとがいて、その光景はもう、たとえようもないほど美しかったです。いいものを見た。

 


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窓の向こうに立派な銀杏の木。

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印象深い言葉をいくつか。

 

素材本来の美しさを生かす、普段の生活で使える、長期にわたって生産される、多目的に使える

 

わたしにはよくあることなのですが、嫌いなものから何か別のものが生まれてくるのです。問題の根本は技法や素材ではなく、挑戦しないわたしにある、とわかるようになりました。醜いものから美しいものを生み出そうとする挑戦です。

 

ガラスや陶芸だけでなく、どんな仕事も自分自身を起点に置きます。私自身のニーズがデザインのはじまりです。

 

光が水を一面に照らす光景は、どんな天気でも、どんな時間帯でも美しいものです。

 

多くの方から「何かお願いします」という依頼の連絡を受けます。でもコラボレーションをするには特別な理由が必要です。

 

 

 

「インゲヤード・ローマン」展、簡潔な器ににじむ感性

casabrutus.com

 

 


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外に出ると世界が美しく見えて、玄関脇の傘立てに目が留まった。
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工芸館に行くと、美術館のコレクション展のチケットももらえるので、久しぶりにのぞいてきました。愛が漏れ出ているキャプションと、どの部屋にも椅子がたくさん置いてある、この「まぁ座ってぼーっとゆっくり見ていけば?」と言いたげな設営が好きです。

相変わらず豪華な常設展で、切り取り方も新鮮で、また新しいことを教えてもらいました。

 

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北の丸公園は銀杏がきれいでした。


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オンラインシェア会がとってもパワフルだった話

11月半ば、息子が通う小学校のPTAで「子どもの話を聴くコツ講座」をひらきました。

そしてひらいたことが大変よかったので、居ても立ってもいられなくなり、「PTAに『子どもの話を聴くコツ講座』を呼んでみたよ!Zoomシェア会」をひらきました。お知らせ記事はこちら

 

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当日は8人もの方がZoom会議室に集ってくださいました。ありがたかった!

幼稚園や小学校のPTAでこの講座を呼びたい人たちと、これから講座の講師をやりたいリスニング・ママプロジェクトのリスナーさんたち。

その後も、Youtubeに期間限定でアップしたものを見てくださった方が40人ぐらいいらしたみたいです。ありがとうございました!!

 

 

この経験はわたしにとってなんだったかというと、

表現、自由、楽しみ、ユーモア、直感、協力、貢献、相互性、創造性、意味、共有あたりがキーワードになってきそうです。

もっともっと他にもあると思うけれど、とにかく楽しくてうれしくてよかった!!

いいことしかなかったです、これまた。という感触だけが残っている。

 

それから、

  • この講座を呼ぶことを前提にPTAの担当をしてみる
  • 自分の経験を人に伝えるシェア会をして、喜びを共有したり、自分の整理の機会にしたり、価値を伝えたり、広めたりしてみる
  • 「うちの講座を開催してみませんか?」という説明会的な場をひらいてみる

......とか、みんなどんどん場をつくったらいいのにー!と思いました。

自分が「いいな」と思ったものを、ちょっと「押しつけがましい」ぐらいの感じで踏み込んで手渡していく。

それをして何になるかは、実はよくわからない。やる前には「いいことがある」ぐらいにしかわからない。でも、やってみたら「おおー、こんなことに!」という景色が広がっている。

このシェア会は、なんだかそんな熱と、それを支える技術や思考フレームや手法をお伝えできていたならうれしい。

 

 

いただいたご感想

オンラインなのにそれぞれが持つ「この講座を届けたい」「実現させたい」という情熱が伝わってきて、何度も胸が熱くなりました。

せいこさんのお仕事である「場作り」にはとても細やかな配慮や信頼、つながり、安心安全があるのを体感できて、さらに実現させるためにはこんなにも事前にできる準備があるのか。という驚きと感動がありました。

 

せいこさんのやってよかった、こんなにもこれがあれが...もう本当に♡という気持ちが画面からも伝わってきて、なぜかうるっとなったりしました。きっと学校のみなさまとのやりとりでもせいこさんはこうやってせいこさんだったんだろうなぁ、とただただよい日、よいこと、よい経験でした、というお話を聴かせてもらっただけではないものを受け取った気がします(言語化むずかしいですが)。

たった1時間とは思えない濃い&よい時間でしたありがとう!

  

 

イベント企画で気をつけること、よく知らない者同士で円滑にコミュニケーションをとるヒント、企画書や場のつくりかたなどもちりばめられていてリスママの講座を呼ばない人にも一見の価値あり。(と動画をすすめてくださった)

 

すごく励まされました。講座系を企画するときに、「みんながやりたいもののほうがいいのかも」とどこかで思ってしまっていて。でもやっぱり「私が」がベースなんだよなぁ。私は、私で、いいと思うものを広めていこう。情報も方法も持っているから、そこは堂々として、でもできないことはできないと言えばいいんだなと思いました。来年度に向けて、私がいろいろ経験して、これは!と思ったものを熱を込めて企画すればいいんだ!

 

せいこさんが自分を飾ることなく丸ごとご自分をさらけ出したこと、に感動を覚えました。PTAに消極的だったせいこさんが、委員さんや世話人さんとのやりとりが楽しかったという感想を持ったり、保護者の中に同じ体験をした人がいて心強く感じたり、、と心の動きがとても聴いていて嬉しかったです。

 

こどもの話を聴くコツ講座の中身の力だけではなく、せいこさんがPTA活動として講座を呼んだからこその意義も受け取りました。

 

 

他にもたくさんたくさん、ご感想をいただきました。それから投げ銭も。

ありがとうございました!

ご参加くださった方も、応援してくださった方も、PTAの皆さまも!!

 

・・・

 

シェア会で話したことを、ここに書いてまとめることもしたらきっといいんだろうけれど、やっぱり話すという表現でしかできないから話したんだろうなぁとも思うし、実際今それを書いて残そうという気力がないので、ご感想と、あとはシェア会をひらくにあたってつくったストーリーボードを自分の記録も兼ねて貼っておきます。

 

(12/15追記)

落ち着いたら書けるようになってきましたので追記します。ご参考までに。

「リスママをPTAに呼ぶとなぜいいのか」

-そもそもPTAは、「子どもの学校での学びや生活の環境を整えるために活動する」という目的があり、保護者や先生のかかわりにより、子どもにとって有益になることにどんぴしゃりだから。

-自発的に外部の講座にお金払って出てみようと思わない人も、PTA講座なら行ってみようかな、学校だし、無料だし、信頼があるし、、ときてくれる。

-「なぜ聴くとよいのか」漠然とそう思っていたけれども、発達段階、年齢、きょうだいの有無、特性などを考慮しながら解説してもらえて理解できる。

-講師の事例が適切で、笑えて、メタファーがわかりやすい。共感的でオープンマインド。

-思いやりや心がけではなく、知識と技術とすぐに使えるという実感が得られる。(へえー!とか、だからだったのか!と実感することが大事)

-設営にほとんど手がかからない。PCやプロジェクターが要らない。テーブルと椅子が人数分、ホワイトボード、マイクとスピーカー&アンプ、資料2点+アンケート配布のみ。託児スペースもレジャーシートと図書コーナーの本、ぬいぐるみと紙と色鉛筆あれば十分。

-90分でできる。PTAの希望により調整してもらえる。
●レクチャー(30分)
 -子育てのゴールはどこ?
-子どもの成長段階と関わりの変化
 -どうして聴くといいの?
●ワーク(20分)
 「ただ聴く」を体験してみましょう!
●レクチャー(30分)
 -言葉ではなく気持ちを聴く
 -生きていく力、自己肯定感と自己効力感
 -15年後の親子関係は?
●質疑応答(10分)

 

 

 

パフォーマーや場の守人としてのわたしは、「何をどの順番でやった」とか「何をしゃべった」とかの記録やレポートが苦手で、感触しか伝えられない。。

が、表現、パフォーマンスする側の人って、こうなるのもしょうがないかなぁとも思います。当日その場に立ち上がり、起こり、一人ひとりが持ち帰ったものがすべてなので。あとは書くとしたら自分の感触しかないのだな。。

 

わかりやすさについては、わたしの芸を気に入ってシェアしてくださる方によって、説明されていくのを待ちます。

 

こういうわたしの芸や機能をどう売っていけばいいのか、ブレインと共に再考中です。

 

まずは今の時点で自分が貢献できること、お金という形で戻ってくるとうれしいものについてはこの下にまとめてみました。

 


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これをやってみて、さらにこれをどう活かせるかなぁと考えたときに、

自分の経験を誰かにシェアしたい人、

講座やイベントを提供している団体に所属している人のための

①シェア会のつくり方講座

②シェア会のつくり方個人セッション

③講座の呼び方/講座の呼んでもらい方個人セッション・コンサルティング

④しゃべる(講演とかポッドキャストへの出演)

が具体的にお力になれるなぁと思いました。

 

①の講座は、90分〜120分の間で設計します。対象者やご要望をうかがいながら講師謝金として設定。

 

②③のセッションは、通常の個人セッション料金を基準に60分10,800円(税込)〜

 

は、何をしゃべるかなどはご相談。

 

▼ご依頼・お問い合わせはこちらへどうぞ!

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大きなテーマほどみんなで手分けして(オンライン読書会)

おととい、オンライン読書会『虐待・親にもケアを』に参加した。これは、もうほんとうに、ひらいてくださってありがとう!な場。

https://www.facebook.com/events/505606646625683/

 

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読書会の型としては、輪読形式。

章や節で参加者が分担して読んできて、レジュメをつくり、数分で要約を共有し、その後ディスカッションをするというもの。

自分の担当以外も読んできてもいいし、読んでこなくてもいい。また、今回は時間がなくて読めなくても、関心があれば聞いているだけでもOK、など参加しやすい形。

 

勉強会型の読書会で分厚い課題本があるときに、一冊まるごと読了でなくてもよく、自分の担当パートの精読に集中できるというのは、とてもありがたい。

そして、自分の担当パートに集中していたからこそ、他の人が頭と心をつかって読んでくれ、解説してくれていた部分が、体系を構築しながら自分の中に入ってくる。読書会のあとに未読のパートを読むと、一度通っておいて、かきわけて、けもの道じゃなくしておいてくれているので、するすると読める。

 

この感覚は、効率がよいという以上に、受け取るものが大きく深いことが素晴らしい。

 

 

 

 

***

 

型について脱線。

 

「輪読」については、以前、読書会って何?どんなことをするの?でも書いたが、簡単に言うと「勉強会型の読書会」と言えると思う。

・輪読についてはこの説明がわかりやすい。>> 輪読のススメ - Qiita

・輪読にあたってどんな力が必要なのかの説明も興味深い。>>

輪読のコツ【大学教員によるやり方の解説】 - 京極真の研究室

確かに、読書→解釈→発表→議論をするので、ただ読むだけではない力が求められるし、テーマへの強い関心や参加の動機も要る。

・最近輪読形式の「アクティブ・ブック・ダイアローグ」という型が開発され、マニュアルがシェアされている。

未来型読書法 アクティブ・ブック・ダイアローグ®(ABD)公式サイト

(わたし自身は「本が裁断される」というプロセスがどうしても受け容れ難いので、本家本元の場には行ったことがないのだが、、)

 

 

***

 

 

多くの人がそうであるように、わたしもまた虐待の被害や事件についてニュースをみたり、ウェブで記事を読んだりすると、苦しくて身体的にも辛くなるほどの影響を受けて、何ができたんだろう、わたしに何ができるんだろう、ということをその度に考えている。

 

この本は、MY TREEプログラムの実施に携わっている友人から紹介されたもの。数ヶ月前に入手したものの、手がつけられて(読めて)いなかった。この本があることも、読むことも希望ではあるけれども、テーマが重いので、どうしても一人では怖れ、怯えがある。

かき乱されたあとにどう日常へ立ち直っていけるか、ということを想像すると、どうしても及び腰になるところがあった。

 

 

でも誰かと一緒なら手をつないで見にいけるんじゃないかと思った。

 

実際見に行ったことがある。

「夜と霧」の読書会「いのちを"つくって"もいいですか?」の読書会 をひらいたことを思い出す。

ブログは書いていなかったけれども、ちょうど一年前にひらいた「月刊総合診療:特集・今そこにある、ファミリー・バイオレンス」の読書会もした。

 

それら体験はとてもよかったこともわかっている。

 

そして今回もやっぱり参加してよかった。

 

交わした言葉や内容について今はうまく綴れない。

もう少し時間をおいてから書けたら。

 

 

 

 

あまりにも大きなテーマに身がすくむ。一体どうしたらいいんだろうと無力感にも苛まれる。

でも、わたしはここまでは考えた、このことを知った、今は違う景色を見ている、つないだ手は増えた、とは言える。

 

自分がどこに立ってそれをどのように見ているのか、自分の日々の暮らしの中で何がそれとつながっているポイントなのかが明らかになる。

自分にとっても希望だし、それを口にすることが、場に居合わせているメンバーの希望にもなるなら、また取り組んでいける。 

 

そして日常に戻って新しいフィルターで見てみると、ほんとうに些細な日常の会話や、公共の「場」や「場所」にどれだけそのつながっているものが散らばっていることよ!と思うのです。無力なんかじゃない。

 

 

そんなことを考えられた場。ありがたい。

 

そして同じように考え、言葉にしている仲間がいることのありがたさ。

ameblo.jp

 

 

レジュメというか、なんというか、書き散らしたメモになってしまったもの...

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ファミリー・バイオレンスの読書会のこともここに記録しておく。


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この流れでいえば、「虐待によって健康被害・死者が出ることは公衆衛生の観点から非常に大きな課題だし、社会経済にもたらす損失は非常に大きい」ということと「医療の現場で虐待のサインをみつける機会があり、見つけたらどのように対応するかに取り組んでいる現場、問題視している現場がある」という文脈を持って今回の読書会に臨めたことは、わたしにとって非常によかった。

 

専門家が横断的に活動しており、他職種の連携があること、市民の小さな浅い〜大きな深いかかわりをすること、その中にいくつも効果をあげている例を知り希望を持つことが、同時に起こっていくとよいなぁと思っている。

 

この先、同じメンバーで、あるいは時には入れ替わりながら、読み進めて行くのが楽しみだ。

 

 

 

ファミリー・バイオレンスの読書会のときのメモが出てきたので貼っておく。いっしょにひらいた相方さんが書いてくれたもので、これを見ているとなんだかあたたかい。センシティブなテーマをより丁寧にひらいていこうとした痕跡が、わたしをそのような気持ちにさせる。
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だれのための場 〜子連れと場についての一考察

前々から書こうと思っていたのだけども、いざ書こうとするとそれだけでふーっと深呼吸せずにいられない緊張を覚えるこのテーマ。

 

場をつくっていると、「そこに子どもを連れて行っていいですか?」という問い合わせが来ることがある。

また日々メディアを通して見聞きするニュースだったり、友人知人との会話の中にも「子連れ出勤」「子連れイベント」というテーマが出てくることもある。

それはしばしば論争の種になっている。

 

 

もともとわたしは、「子どもを連れて来てもいい=優しい場とは限らない」というテーマで、場をつくる(主催)側からの景色を書こうとしていた。そして何度も書いては消し、書いては消し、していた。

この一年ぐらいずっと。

 

難しいのは、「~が~であるときにもよる」っていう条件をたくさん出すことになるからだ。

しかしそれを全部書くとわけがわからなくなる。

 

 

 

書く衝動が生まれたときの、過去の自分のツイートを引用してみる。

 

「子どもを連れて来てもいい=優しい場とは限らない」というテーマで、主催側から見える景色としてブログ書きたいけど、けっこう勇気要るこれ。何のため・誰のための場、参加者の満足度、親と子・大人と小人の境界、自由と尊重と選択、受援力、働きかけ力、東京の子育て環境等の話、たぶん。

 

逆に言うと、子どもを連れて来てはいけない=優しくない場のときもあるし、=優しい場(安心できる場)のときもある。「どちらかが正義」ということではなくて。子の存在も、子にかかわる大人の存在も、どちらも軽視してはいけない、尊重したいということ。

 

さらに「子ども」の想定の話でもある。日本では0歳0ヶ月から18歳まで「子ども」と表現される。これは参加者はできるだけフレンドリーに解釈したいから、主催側がちゃんと提示したり条件をつけたりしないといけないよね、とか。このテーマは本当にここ6年、紆余曲折があります。。

 

夫婦や一緒に子育てしている人とのパートナーシップ、生活や人生のある時期を共にしているファミリーシップの話でもある。あるいはワークライフバランスや働き方の話でもあるし、Lifelong Learningの話でもあるし、専門家・専門職とは何かっていう話でもある。多岐に亘る。

 

ひとつの場をつくったときに「その場にかかわる人」がみんなハッピーでいてほしいっていう気持ちがある。

 

 

シンプルにわたしが一番書きたいことからはじめてみると、「そこはだれが何を目指す場だと意図されているか」ということに尽きる。

場と子どものことについて書きたいので、子どもと大人という軸で切ってみると、

だれのための場というのは、

  • 大人と子どもの両方のための場なのか、
  • 大人のための場なのだけれど、子どもも「いてもいい」場なのか、
  • 子どものための場なのだけれど、大人が「いる必要がある」あるいは「いてもいい」場なのか

何を目指す場なのかというと、例えば

  • お互いの声がよく聞こえる環境で集中して議論や作業に取り組む場なのか、
  • 集まった人同士が交流しゆるやかにつながる場なのか、
  • 様々な年齢の人が思い思いに過ごし、表現や活動を自由に楽しむ場なのか、

など。もっとたくさんあるだろう。

 

それから、先のツイートにも関連するけれど、場を守る人としても、育てている子どもがいる親・保護者としても、願いとしてもっているのは、親が親役割を離れて一人の大人/個人として集中して働いたり学んだりすることと、子が安全と健康が守られた環境の下、子どもらしく伸びやかに過ごせる時間は大切なもので、親と場をつくる人はもちろん、かかわる人全員によって確保されてほしいということだ。

 

「子連れ」という言葉も曖昧で、「子が親とその場にいる」と「その場が託児所を設置している」がごっちゃになっていることがあるが、わたしが慎重になりたいのは、「その場が託児所を設置していなくて、子が親とその場にいる」という状況が良いときもあるし、「誰が何を目指す場?」に照らしたときに、必ずしも良い、優しいとは言えないこともあるのでは、というところ。

 

場の目的や、集う人同士の関係性によっては、子どもを連れてきてもいいよと言われる場合もある。その場で行われることに対して、子どもがいることで中断される可能性について、全員が了解・許容しているなら、やむを得ず連れていかなければならないときなど特に助かることだろう。

わたしにも多々身に覚えがある。

 

 

***


抽象的になってしまったので具体的なエピソードを一つ。以前こんなことに遭遇した。

 

大人向けのエクササイズの講座で、参加予定の人から「3歳の子どもを実家に預けて参加する予定だったが、急に預けられなくなった。どうしても参加したいので連れて行ってもいいか」と問い合わせがあった。

主催者はOKを出した。

会場には高価な精密機器が置いてあった。エクササイズは大人向けの内容で、子どもが真似をして楽しめるような、身体を動かす遊びのようなものではない。連れてこられた子どもは手持ち無沙汰なので、その辺を歩き回ったり、高価な精密機器に手をかけたり、親が構ってくれないとぐずったりしていた。

会場の貸主はその機器を大切にしていたし、子どもも苦手なのか、機嫌を悪くし、講座にはぴりぴりとした空気が漂っていた...。

 

誰が悪いという問題でもないこの経験は、わたしの中にずっと残っており、「子連れ」という言葉を聞くとき、何年も前のことなのにいまだにサッと心をよぎる。

 

 

どうしたらよかったのか。

 

今の自分がもし主催者だったとしたら、まずは運営メンバーと相談する。そしておそらくこのように返事をするだろう。

「この講座は大人だけを対象としており、3歳のお子さんを連れていらっしゃっても見守りができる余剰スタッフがおりません。子どもがのびのびと安心安全に過ごせるスペースもありません。さらにせっかくいらっしゃっても、お子さんのケアのためにエクササイズに集中して取り組めないととてももったいないと思います。とても申し訳ないし残念ですが、今回は参加をお断りさせてください」。

 

これが唯一の正解ではない。けれどもその場に集う、関わる全員にとっての安心、安全、満足とは何かと考えたときに、時には「断る」ことも出てくる、ということが言いたかった。大人が集中して何かに取り組む場は、子どもにとっては居心地のよくない場にしばしばなる。

 

話は少しずれていくが、子どもにとってほんとうに楽しい場、居心地のいい場か、という問いは、わたし自身、子どもが4〜5歳ぐらいになるまで直視できないでいた。

「本来大人向けの場で、見守りのスタッフもいないが、自分で見守っているなら連れてきてもいい」という場や、「大人も子どもも対象の場」に何度も連れて行っていたが、子どもが興味が持てず、飽き、わたしに構ってもらえないのでぐずり、中座したり途中退出したりして、やり場のない怒りを抱えながら帰途につく、ということがよくあった。

 

乳幼児を気軽に預けられる人がいない、施設がないという問題はあると思う。

 

子どもの月齢・年齢、発達段階や性格や特性にもよって、「うちの子は動き回らないので一人で静かに過ごせるので大丈夫」ということもあるだろう。もしかしたら状況によっては、運営メンバーの中に「予定にはなかったけど、他を調整してみようよ。わたし見守りするよ」という声があがるかもしれない。

 

ケースバイケースとしか言いようがない。

 

その場にかかわる全員で知恵を絞り、事前に設計し、当日起こることに対応し、場としての誠実な態度を、最後は場を守る人が引き受けるんだろう。

 

今年になって場づくりのエッセンスを教える、伝えるようになって、だれのためのなんのための場なのかをよくよく準備し、起こりうる可能性を検討し、参加者と共有することの大切さをより感じている。

 

 

この原稿も何ヶ月もあたためていたが、ようやく心構えができたのでリリースしてみる。

 

 

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途中の分かち合いはじゃぶじゃぶの温泉(学びのシェア会)

仲間内でひらいている学びのシェア会に参加してきました。

なんともう6回目!

 

学びのシェア会とは、数ヶ月に一度、個人的にシェアすることで、発表する人もそれを聴く人もお互いの学びを活性化していこうじゃないか(それはいい!楽しい!)という集いです。

第1回

第3回

第5回

でも書きましたが、とにかく毎回楽しい。

毎回コアになる運営メンバーは居つつ、単発参加でふらっとくる方がいたり、同じ人しか発表しないのでもなく、居心地がいい。

今回は過去最多の9名が参加でした。(定員は10名)

 

 

つくりについてもう少し書くと、

・発表者による発表15分と参加者との対話15分を3セットで3時間半

・会場は区民館(ホワイトボードがあるところで個室)

・会場費を人数割り

・おやつ持ち寄りウェルカム

・参加者10名(発表者3名含む)

・1ヶ月前にテーマとプロフィールを募集

 

そしてこれがとっても大事な、

!注意事項!
※受講した講座の丸写しNG
※受講した講座の資料流用NG
としたうえで
※シェアされる内容は、あくまでもその人個人の受け取ったものであり、伝えた側の意図とは違っていることを前提として受け取る
※シェアの内容を二次使用する場合は、原典(もとの講座や本など)にあたってからを推奨。
※少人数で気楽にやってOK(編集しきれてなくても、学びの最中のものでもよい)。発表者だけが主とならず、対話自体でさらに学びが深まることを意図する。

 

 

こちらは友人または友人の紹介で成り立っているクローズドな場なのですが、気になる方がいたら、ぜひぜひ真似してやってみてほしいです。

 

 

 

今回すごかったのは、チェックインで近況や前回からあったことなどのシェアを1人3分ずつぐらい全員が話していくのですが、この25分ぐらい時間がすでにエネルギッシュだったこと。

 

いつも何かとつるんでいる友人の、

「学びのシェア会に出て人生が進んだ!」

「最新のわたしはこうなの!」

という喜び、、歓び、悦び、慶びがあふれていて、胸がいっぱいになりました。いや、そのときの表現では、「頭がおかしくなりそう」でしたね。。

 

今回は、

マルセル・デュシャンはキライだ!

・インタビューについて〜ジャーナリズムとエディティング

・子どもの育ちをかぞくの外側から支える可能性と多様性

 

いやー、どれも自分に関係がありすぎる話で、頭からけむりがでそうなぐらい、頭も心もいっぱい使いました。

 

おもしろい!!!しか出てこない。ここにくると語彙が貧困になる現象多発!!

 

ここでやっているのは、学びのシェアであり、宣言であり。
生半可な途中の分かち合いこそが生きている実感だと思える。

 

見た目にもわかる完成や到達って、ほんとうに一瞬なんだなって思う。

テープカットとか、表彰式とか。

そして次の瞬間にはそれももう過程になっていく。

でも取り切った場や時間があるから、スポットライトがあたる瞬間があるから、限り有ることを感じられて、生きていける。

 

 

この学びのシェア会にくるとふしぎなのが、「この人がわたしの代わりにこの分野の見聞を広めていてくれた、学びを深めておいてくれた、ありがとう!」という気持ちになるところ。

 

自分の体系をつくるには、こうやっていろんな人の学びを取り入れ、刺激を与えていくことも大事だと思うのです。というか、そうしないと体系立てられない。それを一生続けていく。

 

 

途中で見えている景色や手触り、自分にとっての真実、実感をもっともっと出していこうと勇気をもらう。

それは客観や統計を無視することではなく、それらを読み解く力をつけることで、その時代の、その必要のために、使う人間を育んでいくことになる。

 

 

 

都会のど真ん中に、その日その時間だけいきなり湧く温泉みたいに、じゃぶじゃぶ、あったかい場です。

 

 

いつもありがとうございます。次回も楽しみ。

 

 

 

▼ライチさん

http:// https://ameblo.jp/lychee-tangerine/entry-12423196446.html

こうやって書いてもらえると、共感めちゃくちゃするけど、個体としては違う体験をし、違う表現をしているのがわかっておもしろい。
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▼まゆみさんのブログ

丁寧なレポートだぁ。すんごいメモとってたからなぁ。才能ですね。

mayuminaba.hatenablog.com

 

 

 

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箏を演奏させてもらった話

今年の夏の話。

文京区千駄木にある島薗家住宅で、和楽器の体験会に息子と行ってきた。

 

箏(こと)と尺八の演奏を聴いて、自分でも演奏してみれて、最後にもう一度演奏を聴くというもの。合間でお菓子とお抹茶もいただけて、親子で2,000円。なんてお得な!

 

「和のものに興味がおありですか?」と聞かれたのだけど......どうなんだろう?
あまり考えたことがなかった。そうでもないかも。そうなのかも。

楽器も音楽も好きだし、それぞれが「道」のものって一度のぞいてみたい気持ちがある、というのは確か。

 

 

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まずは箏。

「心の琴線に触れる」っていうやつだ。

でも触れただけでは音がしない。

本物は太くて硬いし、親指、人差し指、中指に爪をつけてかなり強めに弾く。左指で弦を抑えてテンションを調整するのもかなり力が要る。

ギターピックのように使ってトレモロしたりも教えてもらった。

実際やってみると当たった感触や、自分の身体に響く感じは、ただ見ていただけと全然違う。

和装の美しい女性の手さばきがエレガントだなぁ、きれいな音だなぁというぐらいだったけど、やってみたときに感じた力強さを足すと、最短でキメていく感じが競技かるたっぽくてカッコいい。

 

 

 

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ずっと「あさきゆめみし」のこのページが昔から気になっていて、「和琴、箏(そう)の琴、琴(きん)の琴ってどう違うの?」と思っていたのがきょうついに明らかになって興奮した。

・箏(そう): 現代で「こと」といえばこれ。昔は「そう」、今は「こと」と呼んでいる。琴の字は箏が常用漢字でなかったための代替として。奈良時代に中国から渡来。13弦。
・和琴(わごん): 日本にもともとあった琴。6弦。
・琴(きん): 白い「柱(じ)」がなく、弦を抑えて弾く。奈良時代に中国から渡来。

…ということはこの絵は和琴と琴が逆なのかな??

 

 

 

 

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尺八はリコーダーの唇ではさむところがまるごとないので、息を当てるのが難しくて、まず音が出ない。

がんばってやってると過酸素になるので休み休みする。

楽譜を見るのが好き。数式もそうだけど、言語がそれぞれに違うのがおもしろい。

そこそこのもので10万円、プロが一生使うものでも50万円と、楽器というカテゴリーの中では意外に廉価。

 

 

島薗家といえば、以前読書会をした「いのちを"つくって"もいいですか?」の著者の島薗進さんは元当主の甥御さんなのだとか。ご縁を感じる。

 

見たこと聞いたことはあるけれど、実際のところは知らないようなものに思いきって分け入っていくと、自分の体系がまた豊かになる。

 

楽しい。

ボナール展がよかった話

ピエール・ボナール展に10月はじめにいってきて、ずっと放置してましたが、徒然と書きます。

 

bonnard2018.exhn.jp

 


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すごくよかった!

色を浴びた!

目は美しい色を見ると幸福なのだ!!

 

去年の三菱一号館美術館ナビ派展のときは、若々しく前途にあふれた若者たちのムーブメントだった。

今回は扱う範囲も焦点も解釈も違っている。

 

わたしも変化していて、あの時とは違うものを受け取っている。

でも「また会えたね!」って感じ。

去年のことをいろいろ思い出しました。

ポッドキャストで、「オルセーのナビ派展がよかった話」を配信したこととか。

この展覧会のサブタイトルの、"The Never-Ending Summer" だなぁと思いながら観てました。

 

ボナール一人を切り出してその画業人生を深堀りしてみると、目覚めたあとに思い出す夢のような、気配だけで実態のつかめない影のような、謎めいた感じが残る。

 

 

 

ナビ派展のときは、仲睦まじい、画家にとって最上最高のミューズと見えていたマルトも、実は不穏さを抱えた親密さだったのか?ということを年表が教えてくれた。

ボナールが二股をかけていた?マルトの友人の自殺、神経症の治療のための入浴が日課のマルト、ボナール20代半ばで知り合ったのに60近くになって結婚、結婚するまで本名も実年齢も明かさなかったマルト…などなど。

 

顔をぼかして描くのはなぜかも気になりました。

彼が追究した画法、技法以外にも、女性遍歴や彼の持つ独特の性的嗜好または性的強迫観念となにかしら関係があるのではないか。野次馬的な想像かもしれないけれど。

 

そんなことは置いておいても、この色彩の感覚はとにかく素晴らしくて、プロの写真家が実際の視界よりも鮮やかに撮ってみせて鑑賞者をハッとさせるように、油絵の具の科学を駆使してそれを行っているような。

色を感知する器官が呼び覚まされるような刺激がありました。

 

 

これをより楽しむには、モネ展のときと同様、片目をつぶって利き目だけで見る方法。おすすめです。

 

そういえば、晩年のモネと交流していたという話もあったな。みんな知り合いで狭い世界にいる感じはまるで平安貴族のよう。

 

 

先日ムンク展に行ったので、ちょうどボナールと同じ頃に、ムンクはパリとベルリンを行き来していて、ナビ派からも影響を受け、カメラが19世紀末頃から出回りはじめ、二人とも写真を絵画制作に活かすということをしている。たまたま同時期にひらかれている展覧会で同時代性を感じられるのはうれしい。

 

 

たまたまだけど、10/3はボナールの誕生日だったのでよき記念の鑑賞日となりました。

 

観終わったあと、友だちと待ち合わせて話せたのもよかった。30分だけだけど、この感想を交わし合える時間が有るか無いかで、もうぜんぜん違う。人間と鑑賞体験が結びついてゆくこと。わたしにとってはもうなくてはならないものになってしまった。

 

いっぱい描いた。もっと描きたかったなー!

 

 

会期終了は12/17(月)国立新美術館にて。

火曜休館です。


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リフレクティング(トークとプロセスと場)

久しぶりに「場」の勉強に行ってきました。

 

リフレクティング。家族療法の一種、対話の手法、コミュニケーション・モデル。

 

主催していたのは、NPO法人マザーハウス。犯罪からの回復とグループセラピーを行う団体です。https://motherhouse-jp.org/

 

講師は矢原隆行さん。リフレクティングの研究者であり、リフレクティングが実践されている刑務所への視察や、実践してきた方々との交流もされています。

 

募集の文章はこんな感じでした。

リフレクティング 「場」と「間」を大切にするひととき。

 

 

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単に矢原さんがずっと話しているだけの講演のようなものではなく、マザーハウスの岩崎さんやスタッフさんや協力者や参加者がみんなでつくる講座であり勉強会でありイベントでありワークショップであり、もっとシンプルに「集い」という趣のあるあたたかな場でした。

 

 

とにかく時間がゆっくりとすすむ。

友人も参加しているからとはいえ、はじめて参加してこんなにしっくりくる場は久しぶりでした。

急がず、焦らず。自然のコールにしたがって。一切の無理がない。

配慮されていてうれしく、心地良かった。

 

場をつくるということに真摯である人と一緒にいる、

真摯につくっている人の場にいると息がしやすい。

来てよかった!と何度も思った。

この体感を忘れないようにしようと思います。だから書いておく!

 

 

 

まとまらないからいつものようにメモを並べる。場で見聞きしたこととわたしの感想が混じっています。すみません。うまく分けられなかった。

 

・話せる場。正直になれるところ、裁かれないところ

・一人ひとりに語りかけられているか、たくさんいても一人ひとり

・生き生きとした場であるために場←→間、互いに生み出しあっている

・藤岡淳子さんのグッドライフモデル。性犯罪者の回復ワーク

・回復。人間は生きている限り必ず回復する

・観察を観察する

・「あれかこれか」から「あれもこれも」へ。(「それをやめてこれをしろ」から「今までやってきたことに加えてこれもやってみたら」へ)

・話し合いのプロセスの新しい共有の仕方

・目の前にその人たちがいたらしないような失礼な話を、専門家同士では平気でしている。それを見られているところで配慮をもってしてみるとどうなるか

・舞台を鑑賞する

・みるーみられるの逆転。演者と鑑賞者の入れ替わり、行き来

・コミュニケーションとは情報を渡す行為ではない

・How you are、一人ひとり全く違うという前提

・専門家のあいだでも意見が分かれている、その画を観る

・アイディアとアイディアの間にあるもの、出たアイディアからずれたもの

・矯正プログラムとしてではなく、「刑務官が入所者との会話をうまくできるように、またその機会を最大限に生かすことができるように手助けするために」

・場の設定。形式だけではない、その場をどうやってつくりあげるのか。言ってみれば当たり前のようにも見える数々のことが、実際にやろうとすると難しかったり抜けてしまったりする。何をやるかよりも、設定し、人とつくりあげていく。葛藤や対立も含め、やり取りしながら場をつくる中で生まれるものが価値、意味、成果。

・Trialoguesの有効性(話す、聴く、観る)

・「囚人と職員のどちらの味方か?」「私はそこに橋を架ける者だ」(Wagner, J.)

・入所者の家族、出所者と出所予定者およびその家族をリフレクティングに招いたら来てくれた。そのことが最大のエビデンス。こんな豊かなエビデンスがあるだろうか?

・プログラム化、マニュアル化ではなく

・「私自身は刑務所の"雰囲気"に注目しています」(Wagner,J)

・そもそも場をつくること自体が変容。単なる対話実践、形式のことではない。対面的な相互行為を実現させ、実質あるものにするための地域変革、社会変革。

・一当事者の姿をありのままにみること。偏見や先入観や既成概念を排除して聴く

・囚人化されない

・話す人を主役にする、どこまでも話し手が主人公、話し手のためにある場

・展開や解決をしようとしない(感想をあーだこーだ話す、に近い?)

・喫茶店の隣の席でしゃべっている人がいるようにいる、聴く

・「言いたいことが言えるっていいですね」

・病院につながると、ソーシャルワーカーが住所をつくってくれる。まずは病院につながれれば

・リフレクティングの型をライセンス化するようなものではなく、これがいいと感じた人がやる、マニュアル化したものをコピーするのではなく、それぞれのオリジナルで広がることもまた、リフレクティング・プロセスでは。「自分たちの現場でやりたい」という思い、情熱。同じ場所で同じ形がただ続いていくために続いていくことよりも。

・安全に内側にいられる状態

・黙っているからといって考えていないわけではない

・ここでの「会話」があなたたちの「会話の」役に立つかもしれない

・可能性をそっと置く

・「わたしにとってよい会話とは、わたしの言ったことについて答えることである。わたしに対して考えていることを言うことではない」

・ちょうどいい違い。次の一歩が出しやすい(まったく違うと鑑賞できない。「オネアミスの翼」のちょうどいいズレ感は意図してつくっているから)

・「縦の関係が残らないフラットな場ってほんとう?ぬぐいがたくあるからこそ斜めの関係を入れていくことができるのでは」あるものをないように見立てることへの違和感。

・「人を見て、自分であることを続けていく」

・〜が印象的、〜な感じがした

・繰り返す言葉

・やったことのないものはイメージできない、イメージできないものはやれない

・計画を一緒に立ててくれる

・自分の経験を話せると、聴いてもらえると、うれしい

 

 

 

「場をつくっています、つくり方を教えています」と自己紹介すると、空間プロデュースやPlace Makingのほうに捉えられることもあって、「あーそっちじゃなくて関係性のデザインや設計のほうです」と言っているんだけれども(それもまだ遠い気がするけど)、そうそう、わたしが言ってる場ってこういう方向です、ということが全面に満ちていて、説明不要でそこにいていい感じがありがたかった。

もちろん何者でいてもいなくてもそこにいられたと思うけれど、「人の集まる場を設計していて」とさらっと言っても、「ああ、それね」と思い至ってもらえる感じ。

 

 

 

それから、わたしにとって非常に大きかったのは、リフレクティング・プロセスという概念。

「僕らがどんなふうにやっているか、つまり僕らが見つけた結論じゃなく、どんなふうにそこにたどり着いたのかを見せるのは、彼らの役に立つんじゃないだろうか」(トム・アンデルセン

矢原さんも繰り返しおっしゃってたのが、どういう形式、どういうトークをするかだけではなくて、リフレクティングの場が立ち上がっていくまでのプロセスや、リフレクティングが起きたあとに起こるプロセスこそが本質なのだということ。

このあたりは、わたしが去年から少しずつ取り組んでいる、つくり方を見せる、経過を共有する、その経験をふりかえる、それらを発表したりすることを講座という学びの場にしたりアート作品にする、ということにとても非常に近い。

 

あるいは、これはまた別途書こうと思うけれど、みるーみられるの逆転。演者と鑑賞者が入れ替わる、行き来することによる新しい創造の開花ということでもある。そこには素朴な感想を安心安全に話す場が不可欠。

これはぜひ他のアーティストとチャレンジしてみたいことです。

 

 

リフレクティングの可能性は非常に大きい。

 

とてもとても勇気づけられる場でした。

 

 


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わたしの持っている文脈を並べてみると……

一日保育士体験、映画「むかしmattoの町があった」上映会、映画「夢の間の世の中」、裁判傍聴、証人尋問、映画「望むのは死刑ですか?〜考え悩む世論」、冤罪、極限芸術(クシノテラス)、「生きていく絵」、「プリズンブッククラブ」やまなみ工房、自死遺族、聖書、宗教、多職種連携、医療、介護、看取り、ジェンダーギャップ、リスニングママ・プロジェクト、カウンセリング、セラピー、周産期医療、産後ケア、子育て、Family in Transition(FAIT)、Meditation, Facilitation、ワークショップデザイン、コミュニティデザイン、インターフェイス、表現、離婚、シングルマザー、リブトビ逆噴射トークライブ、演劇、鑑賞、虐待、DV、モラルハラスメント、グリーフ、発達障害プレイバックシアターインプロヴィゼーション、オープンダイアローグ、ファミリー・コンステレーションポッドキャスト、十五分文庫……

 

......ほかにもたくさんたくさんある、数々のものが、きょうこの文脈で、わたしの内で語り直される爽快さがありました。

(わたしが個人的に体験したものとそうでないものが混ざってます)

 

 

 

帰宅して息子とバトル。

「おかあは二重人格だ。悪いおかあと、ままのおかあがいる。悪いおかあは一度キレるけど、20分黙っていたらままのおかあに戻る」らしいです。

確かにキレたけど、ケンカふっかけてきたのは息子だぞー!思春期めんどくせぇ。

 

対話って大事だよねって勉強してきて、でも帰るとちゃっかりこんなで、まぁこれはこれで愛おしい日々...なのかな。

 

 

勢いで矢原さんの著書「リフレクティング」を購入しましたが、パラパラ見ていて、ぬおー、これはおもしろい!!対話という見えにくい現象をこうやって言語化できる人はすごいなぁ。でも関心がない人から見たらなんのことかさっぱりわからないかもしれない、ひとつの「道」の感じもまたオタクっぽくて好きです。

 


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カウンセリングってどんなもの?

自分では手に負えない問題がある、関係者と話していてもどうにも進まない・話し合いにならない・話し合いが持てない、、などのとき、カウンセリングを利用するということを覚えたのは、わたしの人生にとって大きなことでした。

それによって道がひらけて、今のわたしがあるといっても過言ではありません。

 

 

先日読んだカウンセラーの信田さよ子さんの「傷つく人、傷つける人」(ホーム社)という著書の序章「カウンセリングってどんなもの?」が、カウンセリングを利用したことがない人向けの説明になっていて、とてもわかりやすかったので、引用します。

 

 読者のみなさんはカウンセリングにどんなイメージを持っていますか。精神科・診療内科などのクリニック受診とどこが違うかをご存知でしょうか。

本書では最初にそのことを説明しておきましょう。

 寒気がして熱っぽいときは薬を飲む、検温して三八度以上あれば近所の内科医を受診する。このように体が不調のときは医療機関を利用します。

 では職場で問題が起きている、同僚とうまくいかない、上司の叱責に深く傷つき仕事に行きたくない、といった状態になったときはどうしますか。

 あるいは過程で、夫から暴言を吐かれ続け苦しくてたまらない、結婚しえtから実家の母親のことがうとましく思え会いたくなくなった、自分は人間としてどうなのだろうと考えると苦しくなってしまう......。

 こんなとき、だれに、どこに、相談したらいいのでしょう。

 自分のことばかりでなく、ときには家族の問題で苦しむこともあります。父親のアルコールの飲み方、弟が引きこもってゲームばかりしている、母親がカードで高額の買い物をし、消費者金融からの借金が発覚して父に暴力をふるわれている、こんなとき、どうしたらいいのでしょう。

 そんな人たちに対して「カウンセリングに行く」という道があることは、意外に知られていません。

 

(このあとは医療機関とは異なる相談機関としてのカウンセリングについての説明が続きます)

 

信田さよ子さんの原宿カウンセリングセンターの場合、たとえばこんなテーマを扱っているそう。

  • 夫婦関係、親子関係、その他の家族関係
  • 職場の人間関係、学校人間関係、恋人関係、その他の人間関係
  • ED(摂食障害)、AC(アダルト・チルドレン)、共依存
  • DV加害者、DV被害者
  • 親への暴力被害者、親への暴力加害者、虐待加害者、虐待被害者
  • 子育ての悩み、不登校、引きこもり、うつ、自傷、アルコール問題、薬物依存、ギャンブル、借金・浪費、PTSD、性被害、性加害、生き方、、

(わたし自身は原宿カウンセリングセンターに行ったことがないので、推薦しているわけではありませんが、信田さんの著書は何冊も読んでいます)

 

 

 

 

それから、友人でカウンセラーの高橋ライチさんの扱うテーマの一部はこんな感じ。

人生全般

  • 人生の目的
  • ライフワーク人生設計

対人関係

  • 親との関係
  • 子どもとの関係
  • 夫婦関係
  • 家族の問題
  • 対人全般

パートナーシップ

  • 恋愛不全・恋愛依存
  • セックスレス
  • セックスが苦手
  • 自分の女性性を受け入れる・楽しむ
  • 不倫問題
  • 離婚・離婚後の自己回復

生活

  • 家事のストレス
  • 食・睡眠・運動など
  • 生活習慣の改善

仕事

  • 仕事の悩み
  • 仕事のブレストや企画、進行管理など頭の整理
  • 仕事・趣味・勉強などの目標達成
  • 仕事と家庭のバランス

内面

  • 性格・欠点・陥りがちなパターンを変える
  • 自己肯定感をあげたい
  • 怖いもの・苦手の克服
  • コンプレックスを手放す
  • 過去のトラウマを癒す

 

 

 

「自分の悩みはそこまで名前がつくものではないけれども、何かモヤモヤが晴れない」「いつも同じパターンに陥ってしまって苦しい」「友人にも相談できない・してもどうにもならなかった・むしろ傷ついて悩みが深くなった」というようなときは、その話が、友情から親身に聴いてもらえる範囲を超えているのかもしれません。

 

聴くや課題解決のトレーニングを積んだり知識を持っていない人は、望まないアドバイスや励ましや願望の押し付けをしてしまう場合もあるし、「重い話」だと聴く方も話す方も心理的負担になることがある。いつも同じ話を聞かせて申し訳ない、という気分になることもあるかも。

 

仮にトレーニングしていて知識をもっている人でも、友人が相手だとどうしても「なんとかしてあげたい」と思ってしまうかもしれない。

 

 

もちろんカウンセラーも人間なので、相性の合う合わないがあります。

「よきカウンセラーに出会えることは人生の宝」と言ってもいいぐらいだと思っています。

 

 

 

感情的な安全性のある中で本当に思っていることを話せるって大切なことです。

 

 

 

ずれるかもしれないけれど、少し広げると、専門家とは、そのテーマで世界を見渡し、収集して経験して蓄積して、仮説と検証を日々繰り返して感性を磨いているので、見通しがつけられ助言ができる人である、とわたしは思っています。

 

そして相手の話だけを集中して聴く、全部の自分をつかって聴くというのは、会話とは違って不自然な状態です。その「不自然な」聴く器としての機能を一定時間、来談者のためだけに確保する約束ができ、実行できるというのは、やはり専門家やプロ、お仕事として聴く人なのではないかなぁと思います。

 

専門家に「それはよくあることです」とか「それにはこのような名前がついています」と言ってもらえることで、安堵するということはある。「わたしだけじゃないんだ、わたしが悪いんじゃないんだ」ということが救いになることも。

 

 

深い悩みを持っているけれども誰にも相談できず、孤立してしまい、本当は望まないほうへ足を踏み出してしまったり、そこから抜けられなくて苦しんでいる人の話を見聞きするにつけ、「カウンセリングがもっと身近になるといい」とつくづく思うので、書いてみました。

 

カウンセリング以外の人と人とのつながりの中で解決されていくのであれば、それはそれでよいし。でもそれがない場合にはカウンセリングがあるよ、と言いたいです。

 

なんとかつながって、そして生き延びてほしい。

 

あなたには力があるから。

生きることが祝福されているから。

 

 

 

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★小学生以下のお子さんがいるお母さんの人には、20分オンラインで無料で聴いてもらえるリスニングママ・プロジェクトをどうぞ。わたしが個人的に応援しているプロジェクトです。

https://lis-mom.jimdo.com/

 

 

★原宿カウンセリングセンターは性別問わずです。

http://www.hcc-web.co.jp/

 

METオペラ「サムソンとデリラ」がよかった話

先日の「アイーダ」に続き、今季どうしても観たかった「サムソンとデリラ」にも行ってきました。 

今季のMETライブビューイングのラインナップはなかなかよいです!

https://www.shochiku.co.jp/met/

 

はじめてご覧になる方は、「カルメン」や「椿姫」など有名な演目もあるので、ぜひ体験していただきたいなぁ。

 

METライブビューイングがおもしろい話についてはポッドキャストで話したこともあるので、ご興味あれば聴いてみてください〜 32:54からその話してます。

第11話 ひょっこり動物感: 週刊ことほぎラジオ

 

わたしはこのあとは「マーニー」を楽しみに。映画とオペラの融合?解説以外で出演しているレナードを観てみたいのと、なんといってもファッションに注目。15着もお色直しですってよ!幕間にインタビューがあったのですが、イメージボードが素敵だった。

 

同じくレナードが出る春の「カルメル修道女の対話」も期待してます。

 


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先日ムンク展がよかった話で書きましたが、予習しているとたくさん受け取れるので、今回はいつもより気張って予習しました。

 

まずは聖書。去年勉強していたので、おびただしい付箋つき。

 

サムソンについて書かれたのは、旧約聖書の「士師記」の13-16節が該当します。そのまま読むと、誘惑する女&破滅する男...歌舞伎や文楽で言うところの「傾城」かな。洋の東西を問わず、やっぱりおもしろい(かった)のかな?

3回うまくいかず、4回目でバーン!とくる、この繰り返しは昔話の形式。読み聞かせをしたりするとここはけっこうおもしろいのかもと思ったりしました。

が、それ以上は思考も想像も進まず。なぜここをフィーチャーしたのか、オペラを観てみたらわかるかも。

 

次はYoutubeで「サムソンとデリラ」で検索してとにかく聴く聴く。音楽を入れておくと、その場面になったときの情景の立ち上がり方が全然違ってきます。

「バッカナール」はフィギュアスケートでよく聴く曲で、宿敵サムソンを捕らえたことに狂喜するペリシテ人の饗宴シーンでバレエダンサーが入ってくる場面。曲をよくよく聴いて、オペラ動画も観てみて、実際の演出はどんなだろうと楽しみになりました。

 

 

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で、当日どうだったかというと、いろいろと、いろいろとありましたが、、、

まず衣装!!衣装が最高に美しい。METのコスチュームデザイン展とかあったら行きたいし、写真集があったらほしい。もう眼福とはこのことです。

あれもこれも着てみたい〜 描いてみたい〜 一日中眺めていたい〜 一瞬一瞬を音と共に目に焼き付けたい〜 とたいへんな騒ぎでした、わたしの中で。

 

それからなんといっても、もうこれさーR15じゃないのか?!というとっても官能的な舞台でありました。振り切れてて楽しかった。

ガランチャもアラーニャも、酸いも甘いも嚙み分けた大人の色気たっぷり。

オペラ歌手ってこういう表現をどうやってトレーニングしているんだろう?と知りたくなりました。相当いろんなことをしているはず。。

 

「バッカナーレ」の男性ダンサーの肉体美をフィーチャーしているところも、もうなんか...ひえー...ってなりながら凝視してました。ああいう酒池肉林かぁ。ううーん、美しかった。

 

にしてもいくら異教の神だからって、真っ二つはなかろうて...というダゴン大仏...。

 

いろいろと斜め上いっててよかったです。

 

 

去年「椿姫」を観る会をひらいてから、何人かMETライブビューイングの話をする仲間ができたので、観るとそこで感想を話せるのが楽しいのです。「こういう話ができる仲間がほしい!」と思っていたそのままの、いやそれ以上のつながりが自分に今あるのがうれしい。感謝。

 

 

 

直後のツイートメモ。

 

 

 

アイーダ」のときに、ガランチャが幕間にインタビューに出ていて話していたこと「役に新しい解釈を加えたい」や、今回もインタビューで「神や宗教、社会が違えば、もっと違う人生が二人にはあったかも。役にはより優しく豊かな人間性を与えたい。悪女は見飽きたでしょ(笑)」と話していて、そして実際に舞台の上で彼女の解釈を観せてくれて、ああ、好きだなぁと思った。そういう演者の姿勢が。

 

考えてみれば、演者や演奏者というのは、その作品の最高の研究者なのだよね。

すばらしいおしごとを観せていただいたように思う。

 

 

 

他にわいてきた感想をつらつらと箇条書く。

 

・「ろくでもないことをしてしまうけれど、だいじょうぶ。あなただけじゃない」と言ってくれている。

・MET歌劇場で生で観てみたかった

・オペラも能のように徹底的に主観的に観て、自分が救われるために使えばよい

・「恋をしましょう、姉妹たち。いつも恋を!恋をしましょう」のシーン美しかったぁ。

・アラーニャの"I love to sing!"とにこやかで真っ直ぐでよかった。正直さっていいな。

・「アイーダ」の幕間インタビューで、アラーニャが「目が塞がれているから石臼をどのぐらい回せばいいのかわかんなくて困った」みたいな話も頭に入れながらみているとたのしかった。シーズンを通してみているとこういうお楽しみにも会えるのか。

・ガランチャは去年「薔薇の騎士」で観て、若い男性の役だったから、ちょっとタカラヅカ的に観ていたんだけど、今回の成熟した大人の女性そのままでどきどきした。

・2幕の掛け合いはほんとうに辛いのだけれど、支配とか暴力の現場で起こっていることそのままという感じで、非常に現代的だと思った。試す、巧みに聞き出していくところがスリリングでもあり、目を覆いたくなるほど辛くもあり。

・デリラも操られている、たきつけられている、煽られている、怖れを注入されて、自分が「憎しみ」そのものになろうとする姿。

「わたしの心を痛めつけるのはやめてくれ」

「わなたは変わってしまった。変わらないのはわたしだけ」

「わたしを責めるのか。君のために心のすべてを話しているのに」

「心を偽っているから」

「君の幸福と心に秘めている秘密は関係ない」

「わたしを責めるの?」

・明るい曲調なのに歌の内容はえげつなく暗く、反対に暗い曲調なのに歌の内容は気味が悪いほど明るく、そのギャップに震えた。

・ガランチャのインタビューでなんの話だったか、オペラ?歌?芸術について?「ハチミツやオイルの代わり。川。この世界の一部になれる」

・自分の神のために正義を尽くすことは、相手の神を冒涜することにもなり得る。

・ライティングや衣装や大道具小道具に、赤と青のテーマがあったかな。

・最後の終わり方がオペラ版?この演出?ではよくわからないので、士師記やっぱり読んでいてよかった。

 

 

あとはこのレビューもよかったな!

forbesjapan.com

 

 

カーテンコールでは自動的に涙が出てしまう。

役を全うしたあとの安堵や仲間とのつながり、観客の芸に対する惜しみない拍手、愛に包まれる時間。

 

今回もよき鑑賞体験を、生きる力と希望を、ありがとうございました!

 

 


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