ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

能『道成寺』@国立能楽堂 鑑賞記録

觀ノ会「道成寺国立能楽堂にて鑑賞した記録。

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道成寺』を観るのは今回が初めて。お能は好きだけれど、まだまだ初心者の域なので、有名な曲でも観ていないものはまだまだたくさんある。むしろ観たほうが少ないので、そちらを数えたほうが早いぐらい。

道成寺』もいつか、いつかと思いながら日々が過ぎていたが、觀ノ会のこのチラシを見たときに、「今かな」という気がした。作品との出会いはいつもインスピレーションだが、お能の場合は特にそれが強い。これまで然るべきタイミングに然るべき曲に会ってきたので、今回も勘を信じることにした。

観能仲間も2人、行くことになった。

「精神力、体力の強さと均衡が求められる本曲」とチラシには書いてあるし、「道成寺は観る方も心身が削られるので体調を整えて。鐘入りの場面では心拍がえらいことになってぐったりします」というアドバイスをもらった。

そんなに!?

緊張してチケット取るだけでぐったりして、厄が落ちた気がした。(実際はそこから当日までの約3ヶ月は厄まみれだったので、むしろチケットを取ったことで厄がついたのかもしれない……)

本や動画で予習をしていたらようやく、ああ、こういう感じかとわかってちょっと気持ちが落ち着いた。ビビリすぎ!

ダイジェストだし、流儀は違うし、本物とは受け取るものが全く違うけれど、一端を知るという意味で確認できてよかった。

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最初に解説トークがついていた。

・「道成寺物語をめぐりて」「あの「乱拍子」はいったい何か」

「乱拍子は身体の使い方、踊りの基本。舞台の上で身体をどこまで存在させられるか」「乱拍子は《檜垣》でもある」

「鐘は竹で組んだ籠状のものに布がかけてあって、下は鉛の輪っか。80kgあるので、落ちて下敷きになったら死ぬ。だから舞台ではあるけれど、やる方も見る方も命がけ」

「なぜ女ばかり蛇になるのか?非力だから。今も社会的立場は低いけれど、昔はもっとは低かった。女のままでは思いは遂げられない。欲望を遂げるには姿を変える必要があったこと。さらに生態がよくわからない、手も足もない、存在自体が武器になるような威圧感と不気味さを持ったもの、それが蛇」

「感情に訴えかけるものを排して、すべて乱拍子に緊張感を持たせるために徐々に構成されていった」

 

 

これから大曲に向かうのだという緊張感に満ちて、奏者や演者が出てくるのだけれど、シテが橋掛りを渡るときはもうまったくまとっている気のレベルが違った。

ああ、なんという孤独!

これを演るのにある程度の修行が必要で、技術だけでなく、精神も達していなくてはいけないという理由が、この時点で既に分かる。

 

そして鐘を吊ったあたりで地震が起こった。そのあと特に何事もなくてよかったから言えるけど、まるで演出の一部みたいだった。怖。もちろん舞台上は何も起こっていないかのように進む。鐘が落ちたときに能力たちが「雷か地震かと思った」という場面があるので、そこにつながっているような気もする。そんな前振り要らんけど。

 

いつもの能は、演者が皆自分の身体を役に全て預けて、舞台に従事してくれているので、観客の私はどんな感情も舞台に投げ込めて、観たいように観ることができる、という体験だった。

道成寺はこれまでに観たそれらの能の体験と違っていて、安易な感情移入や自己投影を許さない、理解させないところがある。これは『戦場のメリー・クリスマス』を観たときの感じに似ている。

 

注目の乱拍子。乱れる程に激しく速く大きく身体を動かすイメージが字面から浮かぶが、実際は真逆で、ほとんど動かないし、間合いも長い。「せぬひまがおもしろき」の究極の形かもしれない。謡が少ないのも特徴。

コンテンポラリーダンスみたいだった。急ノ舞への突然の転換は、「わかる」感じがした。多くの物事は水面下で動いている。何も起こっていないように見えて、ギリギリのバランスでかろうじて保たれているものやいつ爆発してもおかしくない動きがあり、それに気づいている人はいる、みたいな。

最中は、舞台以外からはほとんど空調の音しかしなかった。あんなに人間がたくさんいるのにな!観客が皆息を詰めて見守るような。凄まじい時間だった。終わってから思わずふぅ〜とため息が出た。あそこは30分もあるそうだけれど、体感では長いとか短いとかがよくわからなくなる。そもそもお能を観ていると時間の感覚がわからなくなるのだが。

いやしかし、能楽師の身体能力ほんますんごいですね。毎回思うけど、今回は特に。
どうやって鍛えてはるんでしょうか。

 

狂言(アイ/能力)の台詞が多く、動きも転がったり押し問答したりで笑いがあって、人間味がある。強い緊張のある舞台、人間でなくなったかのような人物たちの中で、親近感を持てる存在はありがたい。観客との架け橋になっている。

 

あらすじの方に注目してみる。

妄執の対象は自分が殺した男ではなく鐘。そうならば「女の情念」の話じゃなくなる。「純粋な念だけがある」ということを事前解説でも話されていたけれど、そうなると性の別関係なく、いろんなものが当てはまってくる。

目的はとうになくなっているのに、「鐘が吊られる」という形が生まれると、自然に起動する何か。カミュの『ペスト』に"ペストは何回でも現れる"というようなことが書いてあった、ああいう感じに近いかもしれない。

一人の人間の持ち時間じゃ到底足りないような、長い時間をかけて潜伏している「あれ」。予感だけは山ほどあるのにどうしても止められない「あれ」。能力(のうりき)が一旦結界を張ったのに、女をアッサリ入れちゃうようなあの感じ。

100年もの間、鐘を釣れなかった人々の苦しみがあるというふうにも読める。受けた打撃の強さがそれほどまでに深かった。話題にすることもできなかったのかもしれない。100年という時間の長さが必要なのかもしれない。そういうことって歴史の中である。

 

事前解説で「蛇が執心してるのは男じゃなくて鐘。鐘が重要。しかも鐘は落ちていればOKだけど、吊ってあるのはNG。吊らせたくない」ということをどなたかがおっしゃっていたのが気になっていた。

それについての仮説。

私はプーチンまたはロシアのことを思いながら観ていた。

ウクライナがほしい、そこにいる人間はどうでもいい、ウクライナを奪還する」みたいな外側、形、器への固執。ロシアとウクライナとの長い長い歴史は、けっこうな妄執を生んでいるのではないか。

そんなふうに、寂しさや傷つきから自分自身とのつながりを手放すと、漂っている念に付け込まれる。乗っ取られる。そういう「虚無」との闘いは、『風の谷のナウシカ』や『はてしない物語』でも出てきた。

私たち人間は、それらの物語や演劇の力でかろうじて現世に踏みとどまれているのかもしれない。 あるいは、踏みとどまらせることが、人間が創作することの目的なのかもしれない。

 

道成寺》は、父親が娘の自立を父親を阻んだ("愛"の歪み)末の悲劇とも見ることができて、オペラの《リゴレット》を思い出す。

あるいは、同意なき性行為に及ぼうとした上に、認知の歪みからストーカーと化し、呪い殺すまで支配しようとした犯罪者にも思える。そしてその念に触れた者が、次々に加害に手を染め、今に至るまで犠牲者を出し続けている……そんな物語にも読める。

「若い僧の美しさに愛欲を覚えて強引に契りを交わそうとする」という物語だとしたら、『薔薇の名前』も思い出す。いずれにしても「男性」が作った物語ではある。

 

ジェンダーといえば、解説者は5人中3人が女性。お客さんには馬場あき子さんのファンの方も多くいらしていた模様。お能の客層としても女性が多いものね。演者は男性が多いけれど。そういうジェンダーを意識したキャスティングや内容にしたのかもしれない。伝統文化の分野にも波が来てると感じる。

 

会誌『觀 - Ⅴ』500円相当と、番組(プログラム)がお土産でついてくる。

番組のほうは、一般的な演者やあらすじ、見所解説の記載だけではなく、道成寺の特異性を成立過程や装束などで説明している。特に舞台進行表が貴重。これは永久保存版。

 

このおまけにさらに、前段として60分、2種類の解説トークがある。これでこのチケット代はほんとうにお得だった。リーズナブル。納得がある。

中正面は鐘後見のがんばりも見られた。中正面の後ろのほうでスタジアムっぽい画角で全体を俯瞰するのも迫力があって好きだが、今回の3列目あたりの近さもよい。

 

冊子や解説トークもそうだし、こういうイメージビデオをつくるところにも、『道成寺』という曲へ向かうための強い覚悟を感じるし、觀ノ会という能会が共有したい価値や進もうとする方向の一貫性も見える。伝わってくる。

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*追記* 2022.6.21

片付けものをしていて見つけた。これだ〜

橘小夢(たちばなさゆめ)《安珍清姫》(大正末頃, 弥生美術館蔵)


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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年