ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

芸工展2018企画としての「読書会のつくり方講座」

わたしが一昨年から出展している芸工展

今年は「読書会のつくり方講座」で出展することにしました。

 

芸工展とは
https://www.geikoten.net/
「まちじゅうが展覧会場」をキーワードに谷中・根津・千駄木池之端・上野桜木・日暮里エリアで毎年ひらかれているまちの文化祭のような集い。参加者は、プロアマ問わず、表現を楽しむ市井の人たちが、日常の延長をおすそ分けする非日常との出会いの場。

 

 

読書会は、表現を味わう体験を通して、小さな表現を試みる場。

読書会のつくり方講座は、参加側から主催側に回り、日常の延長にある小さな場を営もうとする人たちの場。

なんだか芸工展にぴったりだなぁと思いました。

 

 

 

一昨年は、こんなことをしました。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

このときは、「わたしが培ってきた芸を披露する」がコンセプトでした。

ソロでやってみて、いろんな人が来てくれて、サポートもしてくれて、こんなにも自分を表現することがはじめてで楽しかったことはないというくらい、幸せな時間でした。たくさんの種を蒔いて、その後次々と芽が出て、実がなったものもあります。

 

 

 

そして、去年はことほぎ研究室という名前で、ことほぎラジオを一緒にやっていたけいさんと出展しました。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

このときも「研究成果を発表」という形で、ラジオをやっていて生まれてきたものをいろいろ並べて、試してもらう場としてひらいて。2人でひらくのは、1人のときとはまた違って広がりがあって、楽しかったなぁ。

思えばお店で働きたい感じというのは、このあたりからはじまっていたのかもしれないなぁ。

 

 

 

まちのいろんなところで、いろんなスタイルで、いろんな表現が生まれて循環する。

愛する芸工展に、今年も出展できることがうれしいです。

 

今年はいっぷう変わっていて、賛同人として協賛金をお支払いし、芸工展に出展していると宣言して、オレンジ色のてぬぐいを下げ、実施すればそれが芸工展に出展していることになるそうです。このゆるさ......^^

 

出展者はわたし・せいこであり、講座に参加される方にとっては、これが芸工展の出展企画であろうとなかろうと、正直なところあまり影響はありません。

どうぞ気になさらずおいでください。

ただ、こういう「場」としての芸工展のおもしろさ、それを生み育んできたまちのおもしろさを、ご紹介できたらなぁとは思っています。

 

 

 

 

講座はまだお席ございます。お申し込みお待ちしております♪

遠方や日程が合わない方にはオンライン講座も予定しております。お問い合わせください。

dokushokai3.peatix.com

 

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関係の中の精神的自立と境界線、または尊重と感情的な安全性

男性による男性のための支援について、2本記事を書いて、いろんなフィードバックをもらって、また書きたくなりました。

男性による男性のための支援と場について - ひととび〜人と美の表現活動研究室

「同性」の共感と応援によってしか行けない場所 - ひととび〜人と美の表現活動研究室

 

 

しかし、考えをまとめて一本の記事にするのが今どうしてもできなかったので、自分のコメントをばらばらとまず貼ってみて、最後にまとめを書きました。

 

 

 

 

あえて社会的な男性、女性とくくっているのは、それがあるという前提の社会の中で生きるときのズレや違和感があるから。

もし社会的な男性が男性を支援したり、そのズレや違和感の認識を共有する場がもっと増えたら、

いつしかどちらからも、「ほんとうに男性とか女性とか曖昧な区分けでしかないよね?多様だよね?」ってとこに至れるのではないか。

 

なるほどなー

"女性が「同姓の中で共感する」ことが強いことで、その輪から外れた人たちの「場」が少ない"

そうかー。あるのかもしれないですね。

 

うーん、うーん、、、

 

わたしは場をつくるということをテーマに生きているので、どうしてもこの発想になりますが、

もし、ある人が、生きていてズレや違和感をもっていて、それが耐え難く苦しい(阻害されていると感じる)のであれば、わたしはこうだ!と旗を立て、場をつくることで、あるいは場の一員になることで、人と出会って、自分と出会って、共感と応援を得て、顔を上げてspeak upしたら、希望をもって生きていける可能性が大きい。ぜひそうなったらいいのにって思うのです。これをSisterhoodっていうのかな。

 

言いたいのは結局そこで、それはどんな性であれ、なんですよね。ただわたしが見えている範囲では、「男性性」(ややこしいなぁ、性...)、左脳的っていうのかな...のほうが不得手で不慣れなように見えるし、思考・判断・裁定が激しい、ように思える。そういう傾向があると、恥や罪悪感や劣等感は押し込められ、怒りが蓄積され、どこかで爆発する。

 

感情的な安全性がもてる場を自分の手でつくれたらすごくいいですよ、とか、ジャッジなしに、思考判断や編集を交えずただ聴いてもらうのは良いものですよ(それは訓練で身につけられる)、ともわたしは言いたいかな。

 

「性を扱いながら、軽々とそれを超える」をわたしも見たいんだよなー

 

「支援」というものの解釈が人によって、あまりいいイメージがないのかもしれないと思った。

わたしはSupportとして使ってたんだけれども、アドバイスされるとか、内側に踏み込まれるとか、脅威だったり、大きなお世話だったりしているのかもしれない。

そもそもこのことを書き出した発端が、リスニングママ・プロジェクトで、その活動は「20分ただ聴く」で子どものいる女性をエンパワーしているんです。ジャッジなし、アドバイスなしで聴いてる。相談というのとも違う。心療内科的なカウンセリングでもない。

それはすごく支援的Supportiveなんだけど、この感じが伝わりにくいんだろうなぁ。難しいなぁ。

 

記事が読まれてうれしいけれども誰かを傷つけたり、もやもやさせたりもするんだろうなぁとも思う。

まぁでもわたしの書いたものが意図通りに伝わることっていうのはないと思っているので(わたしも本当に何を書いたのかは自分ではわかっていないし、、)、これによってなにか考えることがあったり、誰かと話すことがあったら、そういう踏み台としてあるのは、本望です。

 

 

「支援」というキーワードで語るならば、例えば、マドレボニータやリスニング・ママプロジェクトを通じて知り合ったり、ご近所さんだったり、自分がひらいた場に来てくれて知り合ったり、の女性の友人たちといるとき、おしゃべりするとき、一緒に何かをするときのこの気持ちよさといったら!という感じ。この出会いがわたしにとっては宝。

核をもった個としていて、精神的な自立があり、ユニークで、感受や感情がたくさんで、それでいて共有できるところもあり、お互いの境界を守りながらも愛にあふれていて。

泣きつくときもあるし、みっともないところもいっぱい見せて、助けてもらうときもあるけれど、すごく対等で相互的。

支援というといかついイメージがあるけれど、わたしの身近にあるのはこういうものです。

 

あとは生物的性の別があり、やはり「同性」同士でも話したほうがいいと思うのは、息子の性教育のことを考えはじめてからです。「男も、女も、カテゴライズできない性も、違いはないよね」と、ここは言えない。

 

うん、そうだろうなぁと思います。そうだろうなぁというのは、女性男性という二分された何かでつながりたくなかったり、つながりたくないテーマがあったりすることや、既存の場や関係の中に合うものがないことや、これまでそのことで嫌な経験をしてきたこと。わたしにもあるので。警戒などもあると思います。

 

頼んでないのにずかずか入って来るお節介とかアドバイスや人をカテゴリでくくるのが「支援」なのではなく。

直面している課題が自分一人で考えても、自分のこれまでの経験や全能力を投入してもどうにもならなくて、他者の力が必要なときに、個人としての核や精神的自立や境界線は確保され尊重されたまま、ジャッジされずただ聴いてもらえたり、自分が選ぶこと・自分の力で道をひらいていくことを応援してもらえる、感情的に安全な場や関係をわたしは「支援」と呼んでいます。当然ながら「弱者を助ける」というのでもない。

もしその直面している課題が、なぜわたしが理不尽な目に遭ったり違和感を覚えているのか--> Because I am a girl/woman や Because I am a boy/man というフレーズにつながるものであるならば、それは同じように【切実に苦しさを感じている者同士】でしか真にエンパワーできないのではないだろうか?という仮説です。

そして今わたしがどの立場から言っているかというと、

・Because I am a girl/womanと感じることが人生の中でほんとうにしょっちゅうあった。

・girl/woman同士の自立しつつ共感を伴う心地よい「支援」の中にわたしはいる。

・boy/manから助けを求められる。場というものに興味があり仕事にしている。

そのような立場から見て、boy/man同士の「支援」の数やバリエーションが少ないことが問題で、それはgirl/womanの側からいくらお膳立てしてもどうにもならない、切実に感じている人たちが立ち上がらないとどうにもならないのではないか、と思っている感じです。

 

 

 

友人たちと言葉を交わしてきて思ったのは、ほんとうに聴いてもらえてきてなくて、ジャッジや評価やアドバイスやマウントされてて、場で嫌な思いをしていて、「支援」という言葉にもういいイメージがない人もいるのだということ。

 

 

そもそものところで、精神的自立、境界線、尊重、感情的な安全性が人間関係の中で薄いまたはない、のではないかというのを、場をつくる仕事をしていても、日々生活していても、ひしひしと感じています。「ここでは何を言っても大丈夫と思える」という感想もよくいただきます。

 

自分も未熟だから、できない、わからないことも、もちろんあります。

 

 

 

わたしが長い時間をかけて辿り着いた関係や場は、もしかしたら特別なことなのかもしれない。わたし自身、時間もかかったし、、

 

でも、「あると信じたいけどほんとうにあるのかなぁ?」と思っている方がいるとしたら、「あるよ!」と大声で言いたいのです。

今はないところにも育める。

 

そのとてもよい関係性がどのようなものなのかを、バシッと書くというのがとても難しくて、この通り抽象的にしか表現できてなくて悔しいです。

 

精神的に自立し、他者との心地よい境界線を持つことと、共感でつながることは対立しないのです。

 

 

「聴く」とか「聴いてもらえる場」を増やしていきたいなぁ。

聴けるプロフェッショナル(カウンセラー、コンサルタント、サポーターとか)ももちろん増えてほしいし、そのお仕事でなくても聴ける人。もっともっと。

 

 

 

 

そして今回の記事で書きたかったのは、それはわたし個人にとってはとても快適な関係だけれども、感情的な安全性や、他者からの共感は必要としていなかったり、「なぜこのように理不尽なのか-"Because I am a girl/woman, boy/man"」と感じたことがない方もいると思う。その方にはわたしが書いてきたことは、的外れだと思います。

あくまでも「違和感や苦しさを感じていて、それがジェンダーギャップに起因するなら」という仮説を書いてみたものです。

 

 

誰かの生き方やあり方を批判するものではないです。

 

わたしもあなたも、お互いに「そうでないと生きていかれない」人生を生きていると思ってます。

 

 

そして「場をつくる」ということにおいては、わたしは力になれます。

 

 

うん、そんな感じだな!

 

 

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ハイパーセンシティブ


朝、息子を学校に送って行ったら、担任の先生に「ちょっとお時間いいですか」と呼び止められた。

 

今、理科の時間に骨や筋肉のことを扱っているのだが、前回の授業で模式図を見ながら説明していたところ、息子の様子が急におかしくなり、怖い怖いと泣いて教室にいられなくなったので、保健室に連れて行った。養護の先生と話をしてだいぶ落ち着いたようだったけれども、心当たりはありますか。授業で配慮すべき点があれば教えてください。

......とのことだった。はじめて聞く話だったのでびっくりしたが、先生が「怖いものや苦手なものは誰にだってあるし、他の人は平気でも自分はダメとかも当然あるので、それはいいんです」と、言ってくださったのが大変ありがたかった。

 

「心当たりはありませんが、もしまたそんなふうに本人が辛くなったときにどんな対応が可能ですか?」と聞き、いくつか提案をもらった。

 

家でも様子を見て聞いてみますと答えてその話は終わった。

 

 

 

それでふと自分のことを思い出した。

 

数人でごはんを食べられるカフェを探していて、入ってみたらわたしの苦手なミラーボールが回っていた。

慌てて連れの人たちに、「ほんとうにごめんなさい、ミラーボールがダメなんで…」と言ったら、「あ、そうなんだ。じゃあ別のとこにしよか」と言ってすぐ別の店にしてもらえた。

 

「えーなんで?大丈夫だよー」とか、「珍しいね」とかも一切言われなかったのがとにかくありがたかった。

 

 

わたしは規則的に回っているものや左右や上下に触れているものを見るのがとにかくダメ。

天井のファンがあるお店では、なるべく視界に入らない席に座るなどしています。

大地の芸術祭のある展示で、真っ暗闇で狭い部屋の中でぐるぐる回る電球を見つめるように言われ、これはかなりの拷問でした...。

 

乗るのももちろんダメ。遊園地のメリーゴーランドやコーヒーカップなど。

 

 

こういう苦手なもの、他にもあったなぁと思い出してみたら、いろいろ出てきた。

 

・蛍光灯の青い光

・海の波(音も)

・サイレン音

・お寺や教会の鐘のわぁぁあんという振動音

・インドの楽器のシタール

・電車の発車音楽が隣のホームのと混ざるとき

こどものおもちゃで電子音が鳴るのもの(音程が合っていないとかすぐ狂うもの)

・掃除機をかけてるときのキーンという高い音

・ストッキング

・ウールやアルパカのタートルネック

 

などなど、他にもありそうです。

 

 

小さい頃は時計の秒針のカチカチいう音がダメでした。

 

 

 

苦手を通り越してダメ。

ときにはその場にいられない、逃げ出す、というぐらい無理なときも。

逃げられないときは、手のひらにいっぱい汗をかいて、指先や足のつま先が冷たくなって、おなかが痛くなって、身をかたくして、感覚を麻痺させて、過ぎ去るのを待つ、という感じ。

 

暴力シーンの多い映画もダメで、途中で退席したこともあります。

 

 

感覚過敏というものかなと思います。もちろん中には「誰だってそうだよ!」というものもあるかもですが、意外と「まったく気にならない」という人もいたりして。

 

感覚過敏については、ぷるすあるはのチアキさんがとてもわかりやすく役に立つ記事を書いてくださっています。困っている方はぜひ読んでいただきたいな。

『感覚過敏のチアキの世界』─苦手と工夫を探検してみました(前編) - 子ども情報ステーションby ぷるすあるは

 

 

 

あるいはHSP(Hyper Sensitive Person)。

本を買ってチェックリストを試してみたら、ほとんどが該当。

わたしってなんでこんなめんどくさいのかなぁと昔から自分で自分が嫌だったけれど、そういう特性ならしょうがない。名前があったのかとわかるとちょっとホッとする。

 

 

そんなわたしなので、場所選びを任されやすい。

わたしが居心地がよくいられるところなら、だいたいみんなも安心していられるから。

 

 

 

で、最初の話に戻ると。

息子は、理科の授業のとき、何かがフラッシュバックしてしまう感じだったのか、わたしの感覚過敏の話とは違うのかもしれないけれど、「その場にいられなくなる感じ」というのはわかるので、なんとかサポートできるかなと思った。

 

という話。

 

 

 

朝顔、10月半ばだけどまだ咲いているものなのね。

 

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「同性」の共感と応援によってしか行けない場所

きのう書いた記事がたくさん読まれているようで、びっくりしました。思うにまかせた未熟な文章を読んでくださり、ありがとうございます。

 

書いたものをFacebookでシェアしたら、友人たちが「どう読んだか」をコメントしてくれました。おかげでまた進んだことがあるので、きょうも書きます。

 

 

男性、女性と二つの性を挙げることについてはかなり躊躇もしていたし、ディスカッションの中で出てきたこともあるので、きょうはやはりそのことから。

 

この世に二つの性しかない、とわたしは言いたいわけではもちろんないです。ただ、性やジェンダーについてはまだまだ勉強中なので、言葉の使い方が違っていたらご指摘ください。

 

男性、女性という言葉を使うときには、性(sex)とジェンダー(gender)の二つの観点がありますが、この記事では、自認している性別(sex)と社会的な性別(gender)について扱っています。

 

そして、社会を生きる中で、生物的であれ、社会的であれ、性嗜好的であれ、「性別」によって背負っているもの、抱えているものが違っているとわたしは感じています。

 

自分の性を生きる中での、ズレ、ギャップ、違和感、コンフリクト、悩み、困り事が起きたときに、「異性」の理解や支援も非常に大きい力になるのだけれども、「同性」同士の分かち合いや委ね合いや頼り合いの場(関係や機会)によって、エンパワーされ、人が希望を持って生きていくことに、ずっと関心があるのだと思います。

 

特に社会的な「男性」「女性」のギャップに関しては、「男性」が「男性」を「共感をもって支援する」という残されたフロンティアの耕作に着手しないと、どうにも埋まらないんじゃないかと思っています。

女性から女性

女性から男性

男性から女性

はあるけれど、「男性から男性」がまだ耕されていないように思うのです。

 

 

 

きのう参加したのは、リスニングママ・プロジェクトという団体の会でした。

リスニング・ママ プロジェクト(リスママ)は、妊婦さんや、乳児〜未就学児・小学生を子育て中の母親を対象とした子育て支援プロジェクトです。

 

子どもと過ごす毎日の中で、煮詰まったり、くじけそうになったり、逃げ出したくなったり、自分の力を信じられなくなった時、ふと誰かに自分の話を聞いてもらいたくなったことはありませんか?

 

リスママでは「聴く」の専門的なトレーニングを受けたママが、プレママから小学生の子どもを持つママの話を20分間寄り添って聴きます。

 

聴き手からジャッジされず、アドバイスされず、話が漏れることもなく、安心して気持ちを話せる20分。どんな話でも大丈夫。一度体験してみませんか?

 

寄り添って20分、「ただ聴く」を提供している。その聴き手も出産し、子育てをしている女性。

女性が女性を支援する。

そのことによって女性だけではなく、彼女がかかわる子どもたちも育まれる。

家族が育まれる。彼女の生きる世界への影響がある。

そこに喜びがあり、よき循環があります。

 

 

 

きのう男性から男性への「支援は皆無」というようなことを書いてしまったのだけれど、

・医療、福祉

・カウンセリング、セラピー

・コミュニティづくりを支援する団体

・ホームレス支援

・DV加害者向けプログラム

ピアサポートグループ

・コミュニケーションを学んだり、対話を目的とした場

などは友人たちが挙げてくれたり、わたしも思いついたりしました。

 

ただ、それらの場は女性への支援とはちょっと違っていて、もしかすると、

  • 「困り事が話せる場」と掲げず、趣味やアクティビティで仲を深めることからはじめて、次第に悩みを話しあう関係になる
  • それが「男性」特有の困り事だと明示しない(人間ならあること、会社員ならよくあることだ、的な)

という特徴があるのかもしれない。

 

そういう間口の広いアプローチもある。

行きやすいのはいい。

 

違いといえば、女性による女性のための支援は、困り事を明らかにし、「女性」特有の困り事やしんどさであることを認めるところからはじめているところも多いと感じます。

 

でも数やアプローチのバリエーションやアクセスのしやすさでいえば、男性向けの比ではない。

 

 

わたしは男性の友人の悩みも聴くことがありますが、「男性の友人にこんなこと話したことはない、話せない」ともしばしば聞きます。信頼していて、話はするけれども、気持ちを話したり、本当に困っていることは開示できないと。

 

それは、女性が友だち同士でお茶をしながら、気持ちや悩みをじゃんじゃん話したり、お母さんの支援をしたい!働く女性の役に立ちたい!と明るく話すのとは対照的な世界に見えます。

 

何がストッパーになっているのか、ハードルになっているのかはわからないのですが、女性には話せるが男性には話せないというその枷は、どこから来ているのでしょうか。

 

本当に困窮するところまでいかなくても頼り合える場(関係)がもっと気軽に生まれてほしいし、動きがもっと起こってもいいのにな、と思う。

 

それは場の設えなのか、個人のあり方の問題なのか、両方なのか、、

 

 

女性が女性に対して関心を持つように。

男性が男性に対して関心を持ち、共感や寄り添いを持って支援する。

男性の人生がよりよきものになるように貢献する。

そして「困っていることをどうにかしたい」という場(機会や営み)を男性の手でつくる。

さまざまなテーマでつくる。

 

 

それでしか、「男性」のしんどさや苦しみや自己嫌悪をどうにかすることはできないのではないか、というところに、今わたしは考えがたどり着いたところです。

 

 

「同性」の共感と応援によってしか行けない場所があると思うんです。

それは「別の性」がお膳立てしてくれて行けるところともまた違う。 

 

 

わたしが女性たちと見てきた景色の美しさや、「同性」だからマジあったかい心のつながりを、男性が当たり前のように持てたらなぁと思うのは、大きなお世話かな。

 

 

 

「男性は共感は要らなくて、論理的な解決方法を最短で知りたい生き物だからしょうがない。そういう脳だから」という言説も見聞きするのだけれど、それはわたしはちょっと疑わしい。

 

 

共感も共有も支援もとても必要としていると感じます。

人はみんな必要としている。

 

 

ただ、もしかしたら、生物学的な脳のつくりや、育ってきた社会環境や、受けてきた教育や、「男性」社会からの圧力による難しさもあるのかもしれなくて、「男性」が自己共感や他者共感でつながる関係をつくっていくには、「女性」よりも意識的な訓練が必要なのかもしれない、ということは考えられます。(もちろん「女性」が全員、自己共感や他者共感にとても優れているということではない)

でも「性別」と共感力がほんとうに関係してるのかは謎。

 

 

なんにせよ、どの場もどの動きも、現象の分析や解説だけして放置したり、自己嫌悪を煽るのではなく、勇気づけるものであってほしいと願う。

 

 

 

実は子どもたちのほうがずっと進んでいるのかもしれない。

男の子だから、女の子だからということに全然とらわれていなくて、共感的で繊細で優しい。そんな子どもたちを受け入れる準備を大人がむしろできていなくて、悪いことには潰しにかかっている。それもどうにかしたい。

 

 

 

今読んでいる本、「虐待・親にもケアを」のあとがきに書いてある文章が、なんとなくこのことと関係があるように思うので、引用します。

 

出会っていくという回復のプロセスの中で、人は自分に正直にならざるを得ません。自分に正直になるとは着込んでいるたくさんの不要な服や鎧を脱ぐことです。そのプロセスには恐れと苦痛が伴いますが、人と人とが優劣で競い合うパワーゲームの中で生きている虚しさに気づかせてくれます。他者との比較、他者への優越感によってしか自分の価値を自覚できない競争社会にあって、では自分ではどう生きたいのかという多くの人が避けている課題に向き合わせてくれます。持ちすぎているものを手放し、着込みすぎている服を脱いで、地に根を張って立つ木のように素足で土を踏みしめれば、自分の存在の輝きが姿を表すという真実に気づかせてくれます。

 

 

 

性別のことについては、まだもやもやしてうまく書けていないと思うし、がさっとしたくくりにどうしてもなってしまう。 もっと丁寧で的確な言葉があると思います。

 

 

しばらくこのテーマで探求の旅を続けます。

 

 



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男性による男性のための支援と場について

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きょうは、この5,6年ほどかかわってきた団体の、NPO法人化をお祝いする会に招待されて行ってきた。そこでは女性たちが当たり前のように「女性のサポートをしたい」との言葉を口にし、海を超えて集いがひらかれ、とてもあたたかな共感と応援と祝福に満ちていた。

 

そこには希望しかなかった。

 

その幸福と同時に、痛烈に無念さと怒りを覚えたのは、一体男性が男性に対して、このようなあたたかな共感や応援や祝福をもって支援するという場や行動が、今の社会にどれだけあるだろうかということだった。

 

社会的起業や場づくりという視点からこの7年、いろいろなものを見てきたつもりだ。でも「当たり前のように」「男性が男性をサポートしたい」と公言した活動や人をわたしは思い当たらない。

 

 

あるのは、励ましたり、焚きつけたり、煽ったり、能力を試したり、恥をかかせたり、教育的指導を施したり、心の弱さにつけこんで日常から引き離すもの。

 

あるいは女性の場に男性が「混ぜてもらう」ようなもの。

 

自然な分かち合いやつながりの中で、男性が男性に対して支援する、したい、というふうにならない、なりにくいのはなぜなんだろうか。

 

 

 

感情を出す=弱い=強い者が支配してよいという合図...という図式でもあるんだろうか。

 

 

自分の息子や周りにいる男の子たち、そして大人になった男の人たちを見ていてつくづく思うのは、「男の子はバカで元気でたくましくて乱暴だから、粗雑に扱ってもOK」とか「自分の気持ちの話を聴いてほしいなんて男らしくない」というようなことがまかり通るような時代ではまったくない。

 

繊細さも強さも、男性にも女性にもある。

 

人として扱う。


つまり人権Human Rightsが、ジェンダー平等Gender Equalityの根底にある。

 

 

このことに強い怒りを感じるのは、わたしの大切な男性の友人知人たちが、人生のどこかの時点で(またはそこから今に至るまで)、人として扱われてこない、男性らしさを強要される苦しさから怒りや不安や怖れを抱き、望まない暴力を自分にも人にも振るい、傷つき傷つける様を見なくてはならない辛さに因る。

 

男性が、男性自身を嫌悪する場面もたくさん見てきた。

それもほんとうに辛く悲しいことだ。

 

 

 

それからもう一つはやはり、女性がその暴力の被害者になり、男性の傷つきのケアをする立場に回らされるという実態がとても多い。多すぎる。もうたくさんだというぐらいに多い。そしてもちろんわたしもその一人だ。

 

このことをどう解決したらいいか、日々奮闘している。個人でできることは小さい。これは、今にはじまったことではないからだ。社会や地域の問題を取り込んだ世代の問題と家系の問題があるから。どうしたらいいかわからない。

 

きょうみたいに女性同士が支援しあっている場にいると、自分は女でよかったと安堵する。ヘルプを出せる、共感を示しあえる、手を差し伸べあえる。これまでたくさんの女性たちと手を取ってやってこれた。

 

安堵してしまう。

 

それは男性でなくてよかったという気持ちがわいているということだ。つまり、同じように男性が困窮したときに、脱落者の烙印も押されず、多くの男性から共感が示され、真に心をひらけ、助け合える男性同士の多様なつながりは、男性にあるんだろうか。公然と大変だ、辛い、悲しい、苦しい、サポートが必要だと言える安心安全な場は?

 

そして、わたしの息子はどうなるんだろうか。

今は繊細で優しい息子も、よき人、よき場に出会えないとき、人生のどこかの段階で、マチスモの刃に倒れてしまうのだろうか。

 

いろいろ思い出して泣けてきたのは、「そのような場や関係があれば、彼は亡くならずに済んだのではないか」、「生い立ちの中で男性らしさを強要されず、繊細さを押し殺す必要もなく、暴力も振るわれずに、人として大切にされて生きてこれていたら、彼(ら)とわたしはもっと幸せな関係があったのではないか」という思いが抑えられないからだ。

悔しい。

 

こういう構造を変えるために、ひとつ作りたいプロダクトがある。

少し前から考えていたものだ。

場ではなくて、物。商品。

それを一緒につくってくれるデザイナーを探す。

 

 

その話も次回のリブトビ逆噴射トークライブでしようと思う。

 

 

集う人と一緒にいる時間をどのように過ごすか

今週土曜日は「また行きたい!と思える場をつくるゼミ」

 

講師のわたしも「ゼミという場」をつくりながら、前々からつくりたかった場の設計をしようと思います。

場が生まれる瞬間に、ぜひ立ち会っていただけたらうれしい。

まだぼんやりしているのですが、場で聴いてもらえると絶対に進むことがわかっているので、今はわくわくした気持ちだけ持って行くことだけ決めています。

皆さんにもそんな感じで来てもらえるとうれしいです。

 

 

 

イベント、ワークショップ、講座、会、プロジェクト、コミュニティ、サークル、チーム、プラットフォーム…「人と集まってすること」なら形態問わずです。

 

わたしで言えば…

読書会、読書会のつくり方講座、百人一首講座、場づくりゼミ、季節のコラージュの会、ポッドキャストちはやふるの映画を観る会、競技かるた練習会、ごはん会、歌会、リブトビ逆噴射トークライブ、本作りプロジェクト、お店、PTA、スタイリングの会、美術鑑賞の会、学びのシェア会、一箱古本市芸工展、読み聞かせ、文楽・能鑑賞ツアー、ファシリテーション勉強会......などがそれにあたります(わたしのはまぁだいぶ偏ってるけど...)。

 

 

 

他にも人によっては…

 

町会・自治会、当事者・家族の会、ピアサポートグループ、教室、習い事、趣味、ファンクラブ、コミュニティカフェ、クラフトの会、ギャラリー運営、医療チーム、スポーツチーム、こども食堂、朗読会、親子カフェ、お話し会、哲学カフェ、ブックトークカフェ……などなど、つくりたい場っていろいろあると思います。

 

 

 

「こんな場があればいいのに」
「場がこんなふうになればいいのに」
という思いは、自分の中にあるだけでは、なかなか状況の変化に結びつきにくいもの。ラッキーな偶然を待つのもよいですが、思いきって自分から動かしてみると人生がすごく楽しくなります。

 

その第一歩が「その話をちゃんと、わかってくれる人と、する」ということ。


なぜあなたはそれをしたいのか。
「わたしが」それを通じて「人と」何を分かち合いたいのか。

その「人」とは誰なのか。
交流やつながりを大切にした場をどう営んでいくのか。

 

関係をつくるのは設え方がとても大きい。

 

どんなテーマで集い、どんな場所で行い、どのような価値を大切にして、どんなつながりの濃度を期待し、どのようなやり方で一人ひとりの体験をよいものにし、関係の安心・安全・健やかさを場がどう表すか・守るか。そして、何をどの順番で、誰がどのような役割を担い、どんなタイミングで、どのように進めるか。どう時間を使うか。

 

集う人と一緒にいる時間をどのように過ごすか、を考えます。

 

 

 

わたしは、場づくりの中でも特に、

人間関係づくりの作法や設え方を扱い、活動しています

その中で、コミュニケーション、リスニング、インタビュー、ファシリテーション、ワークショップデザイン、コミュニティデザイン、ロジスティクスの技術を講座では必要に応じてお伝えしています。

 

そしてわたしがこのゼミが好きなのは、このようなことに真剣に取り組んでいる人の姿が美しいから。自分なりの動機に基づいて、人と大切な何かを分かち合う場をつくろうとすることがアートだからです。

 

 

 

 

ディスカッションを中心にしたゼミで、作法を知り、企画・設計し、ツッコミを入れ、背中を押し合い、現実の状況を変えていきましょう。

 

そろそろ動こうと思っていた方、ご参加お待ちしてます!

ご質問ありましたら、こちらまでお気軽にどうぞ。

 

 

今後の場づくりゼミ:10/13(土)、11/4(日)、11/18(日)

https://bazukuri3.peatix.com/

 

読書会に特化した、「読書会のつくり方講座」も10/21(日)に開講します。

https://dokushokai3.peatix.com/

 

 

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先日のトークライブでちほさんが撮ってくれた写真がとっても好きで、いろんなところで使ってしまう。

愛する世界にどんな橋を架けるか:杉並区のかるた講座ひらきました

阿佐ヶ谷地域区民センターにて、「ちはやふる」に学ぶ百人一首と競技かるた講座@杉並区、ひらきました。

 

皆さんが書いてくださったアンケートもじきにあがってきて、反省もたくさんあるだろうし、写真も共有していただけると思うし、日が経つごとにまた違うことを考えていくかもしれないけれど、まずは今見えていること、感じていること、を思いつくままに書いておこうと思います。

 

今回の講座は、競技かるたを通じて知り合った曽山さんからお声がけいただいて、講師を務めました。

競技かるた的にはキャリアも技術も理解も愛も、そしてもちろん練習量も、曽山さんはわたしよりずっと深い大先輩。師や先人に払う敬意や、かるた仲間や後輩に対する愛をいつもびしばしと感じています。

曽山さんは杉並区でbabyCoという子連れで行けるコワーキングスペースを運営・経営されている。杉並区では待機児童解消に取り組み、いろんな提言をされています。

 

今回は、そのbabyCoが事業者となり、杉並区の男女共同参画事業の区民向け講座の枠で、テーマに沿った講座を提案して採択されたもので、3回シリーズで開催されるもの。

【男女平等推進センター講座】マンガから学ぶ「女性の働き方と両立支援」 | こどもコワーキングbabyCo

 

その第1回目が今回のちはやふる」から学ぶ「百人一首と競技かるた」でした。

 

最終的には19名のお申し込みがあり、親子で、一家4人で参加してくださったり、託児付きだったので、乳幼児さんをお連れの方も気兼ねなくご参加いただけたのがよかったです。

 

とにかく楽しかった。
やってみれてよかった。
本物が見られてよかった。
もっと小さい頃から知ってたかった。
これからはじめたい。

…など、いろんな声もいただけて、皆さんほんとうにいい顔をしてお帰りでした。

 

曽山さんが書いてくださった丁寧な文章と写真満載のレポートで、その場の様子が伝わってきます!

babyco.suginami-kodomo.net

 

 以下はわたしの所感。画像はbabyCoさんのHPよりお借りしています。

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百人一首・競技かるたの歴史を知り

②杉並かるた会の実演、本物を解説付きで見学してもらい

百人一首を記憶しているかのような状態を作り、読手の方の音に集中して取る経験をしてみる

 

みんなが知っている手元の小さなことと、記憶に残っている微かなことと、実際をつなげていくと体験になる、世界を垣間見られる。

百人一首に詳しくない方、競技かるたが未経験の方に、わたしがはじめて伝える人となるときに、わたしの愛する世界との間に、小さな橋が架ける、その喜びを大切に。

他にも橋を架ける人は星の数ほどいるから、その方々を信頼して、わたしはわたしの持ち場と持ち分で貢献できる、確かな橋を架けようと心がけました。

 

 

 

 

 

わたしに直接いただいたご感想から。

とーーっても貴重な経験をさせていただきました。百人一首って飛鳥時代天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで時代順に一人一首ずつを藤原定家が個人的な依頼を受けて好きに?選んだものだったと初めて知りました。本物の読手の声の響きに鳥肌が立つほど感動!

特別な人たちがやるもので、とても敷居が高く感じていたのですが、子どもだけが読んでいた百人一首の漫画を私も読んだり楽しんでみたいと思います♪

 

素 晴 ら し か っ た で す!

◯1200年に及ぶ百人一首の歴史のお話が熱すぎる。子供にも聞かせたかった……。

◯解説つきデモンストレーションに感動。マンガでも映画でもピンと来なかったところが、初めてわかってきた。

◯そのすぐあとで、自分も身体を動かせるのがすごい。歌を覚えていなくても全力で取り組める仕組みが秀逸。

 

たくさん受け取ってくださっていて、ほんとうにありがたい!橋、架かったんだな!

 

 ▪️  ▪️  ▪️  

 

百人一首も競技かるたも、一生かかっても語り尽くせない奥深さを持っている。

それぞれに対して愛があるからこそ、どんな橋を架けるかが試される。

 

それをさらに、男女共同参画ちはやふる、女房、かるた会の方のデモ、実戦体験など、いくつもの線が交差するところを探っていって生まれたあの場。

 

今回の場も二度とやれないなぁと思います。

似たようなものはできるだろうし、それぞれに貴重な場にはなると思うけれども、今回のこの唯一さは、なにやら当日を迎える前からすごい予感しかしていなくて。

やはり、というべきか。

 

 

人が違うから。同じ人でも変化しているから。

その日その時、人生のその瞬間にある様々なものの持ち寄りで、場ができるから。

その唯一さが美しい。

 

 

 ▪️  ▪️  ▪️  

 

だれかと場をつくるときに、最終的に何が自分たちを支えるかといえば、知識や経験もだけれども、思いの共有や交換が大きい。

今回は事前に打ち合わせをお願いして、場の運営のキーパーソンのお二人と、進め方も話したけれども、「あなたにとってなぜかるたなのか」「わたしたちは競技者として何を分かち合っているのか」の話がかなり深いレベルでできたことが、わたしにとっては大きかったし、心強かった。

 

わたしたちは何によってつながっているか。

 

それがないとどうやらわたしは力が出せないようです。

 

▪️  ▪️  ▪️  

 

杉並かるた会の皆さんにおかれては、たぶん今までにやったことのない感じの講座だったと思うのだけれど、それも「どんなもんだろう」と受け入れてくださったことが、ほんとうにありがたかったです。

(皆さんにとって「大切なかるた」なだけに緊張もありました。。)

 

「着物の色がかぶらないようにしよう!」と、みんなで相談してきてくださったそうです。

華やか!美しい!

着物にも詳しくていらっしゃるし、皆さんお一人でさっさとお支度される。

わたしの数々のむちゃぶりにも対応してくださり、上級選手の上級たる所以を見た思い。

雲の上の存在だった方々を身近に感じられたこともうれしかったです^^

 

 

 

「物足りないよー」と言ってた子どもたちもいたけれど、ごめんねーと思いつつ、でもそれがいいんだよねとも思った。

自分が欲しいものはこんなんじゃない!こんなもんじゃない!てことがもう素晴らしい。

ならば、もっともっと欲しがって、自分を満足させるために掴みに行こう!手に入れよう!!わたしもやるよ!

 

 

 

 

ご参加くださった皆さま、杉並かるた会の皆さま、babyCoの曽山さん、スタッフさん、杉並区の皆さま、開講にご協力・応援してくださった数多の皆さま、ありがとうございました。

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次回のせいこの競技かるた関連の講座は、11/21(水)の午後に横浜のumiのいえにて。

18歳以上の方ならどなたでもご参加いただけます。

ご興味ある方、ぜひどうぞ。

こちらにもう少し詳しく書きました。

 

coubic.com

 

 

あなたの愛は深い(NVCの過去の体験から)

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先日の学びのシェア会のレポートNVCについて少しふれてみて、わたしの中で一度NVCについて書いてみたい、という気持ちがわいてきました。ので、書きます。

 

 

わたしはNVC(Non-Violent Communication 非暴力コミュニケーション)というコミュニケーションの手法を2011年から細く長く学んでいます。

 

詳しくは、日本で普及・発信活動をしているこちらの団体のサイトをどうぞ。

nvc-japan.net

 

こちらも https://www.facebook.com/nvc.u.jp/

 

 

2011年に「エンパシー・サークル」という小さなワークを通してNVCの概念にふれたときに、たくさんの共感に包まれてとても幸せな気持ちになったし、とにかく「なんてPracticalなんだろう!」と驚きました。

感情やニーズを伝える共通言語を、わたしたちは既に持っていたじゃないか...!

こんなシンプルな言葉で...!

 

 

NVCのリストにある言葉は、一つひとつはよく知っている言葉、でも「そんな言葉があったのか!」というぐらい自分の中で忘れていたような感覚がありました。

http://nvc-japan.net/material/feelings_needs_list/

英語のリストも見ると、よりストレートにとらえやすい Feelings Needs

 

 

内面の感情やハラの底にある望み(ニーズ)の言葉は、ただ言葉として存在している。

思考判断や解釈を加えられていないと、まるではじめて見る言葉のように鮮やか。

 

 

自分の気持ちがわからない、相手の気持ちがわからないときに、事実と感情とニーズに分けて聴いていくと、もやもやの正体が見えてくる。

自分を聴いていく、相手を聴いていくのは、分厚い雲間から一筋の光が差し込むような、そこに希望を見出すような道のり。

 

 

なぜ対立や葛藤が起こるのか。

どうすればそれを超えて、あるいはそれと共生しながら、自分と人とさまざまな濃淡で、あたたかに、つながりあうことができるのか、自分の人生を生きてゆけるか、を日々模索し続ける。

いろんなものでできているわたしの、傍らにあるもののひとつがNVCという感覚です。

 

人と話をしていても、セッションの仕事をしていても、場を催したり進行していても思うのが、いかに今の自分の実感とつながった言葉を使えるか、語彙を増やし続けられるか、表現を豊かにできるか。それを意識したはじまりはNVCでした。

 

 

 

わたしは、NVCの勉強会やワークショップには、必要を感じたときや、関心の合ったものにたまに参加している程度で、まったく熱心な学び手ではありません。

「入会」や「入信」もないし、何の強制も制限もないし、どのように使うかもその人次第であることと、中心で活動している人が探求し続け、いつもどこかでオープンな場がひらかれているということを常々ありがたく感じています。

実際に先日シェア会で話した、サラ・ペイトンによるファミリー・コンステレーションはそのような流れの中で出会ったもので、とても得ることが大きい、有難い機会でした。

 

 

タイトルの言葉は、そんなNVCの勉強会の一つで、5年ほど前にひらかれたもので、そのときのファシリテーターの方からいただいたものです。

 

わたしが自分で話した話の中に、自分が思い当たる中で重要なニーズを取り出してみてと言われて、たぶん、共感、サポート、安心、理解などを挙げていたと思うのだけど、

「違うと思う。あなたの一番大きなニーズは《愛》だよ。あなたは自分で思っているよりずっと深くて大きい愛をもっている。そうわたしは感じます」

とわたしの本質に向けて、まっすぐに言われた。

 

そのときのまっすぐに届いた感触と、そのあとに涙が溢れて、とても解き放たれた熱い感情を今もありありと思い出すことができます。

 

 

怖れや不安があると見えづらくなるのだけれども、そんなときこそ自分の真ん中に愛をもってくると、ああ、これでいいのだという感覚になれる。 This is it.

 

「愛」を日頃から当たり前のように使っていると、大げさでもなく、深刻でもなく、スカしてるんでもなく、ただあるものになるなぁというのも、ここ7,8年の実感です。

 

 

NVCの目的は「自然な分かち合いが可能なつながりの質にたどり着くこと」

The purpose of NVC is to create the quality of connection where everyone’s needs are equally valued and strategies to meet needs contribute to connection, harmony, and peace.

 

それもすごくいいなぁと思っている。

 

 

 

自分の学びに役に立ったことは、他の誰かにも役に立つかもしれないな、とも思って書いてみました。

 

 
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爽やかな集中感 競技かるた体験会@umiのいえ、ひらきます

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11/21(水)午後、お世話になっているUmiのいえよりお声がけいただいて、「爽やかな集中感 競技かるた体験会」ひらきます。

 

「お世話になっている」というところに、うれしそうな感が出ますね、我ながら。

 

タイトルもつけてくださったんですよ。

 

うん、うれしい。

 

Umiのいえは明るくて温かくて居心地のよいスペースです。

普段は女性や、お母さんと乳幼児が多く出入りするところなイメージだけれど、男性も、もちろん性の別を問うことなく、テーマに関心がある人も違和感なく来られる時間帯も多く作られている場所。

時には避難場所に。時には学び。ゆるやかな、または濃いぃつながりの場所にもなる。

 

温かいのは、女将の麻紀子さんやスタッフの方々の愛が大きいから。

愛は身体を温めるなぁと実感する。

そうだな、身体をすごく大事にされている場所です。身体の健やかさ。

だから今回、競技かるたなんだと思う。

そこに加えて、「文化」とおっしゃってました。

 

 

麻紀子さんは群馬県の出身。

群馬県で「かるた」といえば上毛かるたしかない、という熱い土地ですが、それゆえにあまり百人一首には親しんでこなかった。だからやってみたい!とのこと。

 

スタッフのさとみさんは「ちはやるふる」の大ファン。

漫画や映画では見たり感じたり自分なりに理解はしてきたけれども、実際に体験はしていない。そこが繋がったら次の景色が見えそう。

 

麻紀子さんとさとみさんも入ってくださって、10名で旅しようと思います。

 

 

大人同士が勝った負けたの真剣勝負を通して、自分の中の熱にふれる。

そんな体験の旅をわたくし、せいこがガイドします。

 

競技かるた成分多めです。
未経験の方向けにやります。
18歳以上どなたでも。
横浜駅徒歩5分。

 

ぜったい楽しいよ!お待ちしてます!!

 

 

 

Umiのいえさんからのご紹介も^^

今回は初の試みなので、大人のみで~!
小学生ママ、いかがでしょうか。

日常の中では味わえない、ルールにのっとって全力でやりきる快感
静かに燃えるひととき
または、1000年前の和歌にこころ寄せるひととき

結構からだも使います!

ビビビ!ときた、そこのあなた~!!是非。
ちはやふる読んでるけど、やったことない、体験してみたいという方も大歓迎です(スタッフさとみ、まさにそれです)

 

coubic.com

 

 

 

なんとなく競技かるたの場が続いていて、なんだろこの流れ。おもしろいな。

 

ちょっと前までは、「他にもやっているのに、競技かるただけを教える人」みたいに思われるのってどうなんだろう、とぐずぐず考えていたけれど(こういうのを厨二だと息子に言われるのか笑)、誰かにとっては競技かるたの人で全然いいやって感じにほんとうに思えてきた。

 

ほんの少しの、熱く語り合う友人にだけ本質が理解されていれば十分。

他の人とはいろんな面で出会う。身は一つなので、その面でだけ。

これって他の人もきっと通ってきた道なんだろうなぁって感じがする。

 

 

 

「競技かるたが関心を持たれている」のは感じていても、どういう背景からそれを見ているのかは、当然の如く人によって様々で、「そこに何があるからなのかな」というところを、呼んでくださる方とやり取りしながら場をつくっていくのが、わたしにとってはとてもおもしろいところ。

 

古典や、古来からの武道が持つ盤石さに、身も心も預けきって、どこを切り取って、どう楽しむか。

 

講座が楽しみです。

たぶんまた今回も、人と場所の力で、これまで経験したことのない場になる。

 

 

 

意味を超えてゆく: リブトビ逆噴射トークライブのじわじわ

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10/6、風土はfoodからにて、逆噴射トークライブの第1回をひらきました。

 

録画。Facebookのアカウントを持っている方は、たぶんまだ見られると思います。

https://m.facebook.com/events/2161189974156018?view=permalink&id=2170705303204485

 

 

たっぷり90分、まったくどんな顔してるか気にせずに。

もう取り繕っていられない感じで。

こういうふうにいたいという願いだけもって、でも今の自分でできることを精一杯に。

刻々と変化していく中で、場に集ってくださった(今後録画を見る方も含め)人たちと、相方のちほさんを信頼して、常に自分を刷新し続ける勇気をもって、あそこにいた。

 

会場では、随時ツッコミやつぶやきが入ってくるのが、心地よかった。

舞台のこっちとあっちなんだけど、段差や時間差がなくておもしろかった。

基本遮られないけれども、影響をびしばし受けながら話すっておもしろい。

 

こちらで重さ深さのある話(冥界的な場所)に入っていったときには、会場も水を打ったようにしいんとなって、一緒に入っていってくれているのを感じた。それはほんとうにありがたかった。

 

 

 

 

こちらで用意していたおやつと、みんなが持ってきたお土産で、食べたり、スマホみたり、立ち歩いたり、関係ない話したりして、好きなほうにいてくださって、よかった。

(ぶどうがすごく美味しかった。お賽銭代わりにもうひと房いただきました。)

 

わたしたちの後ろに張っていたポスターが、スクリーンの黒枠と相まって遺影っぽくて、お通夜の日みたいでおもしろかった。「仕舞い方」だし。

 

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舞台(彼岸)にいる人に、必要以上にかかわらなくていいということが、安心になるということもある。こういう場もいい。

でもやってる時間中に、その感じが変化していくときもあるよね。講演会の質疑応答の時間とかさ。急に接近するときに、もう少し準備して近づいていけたりするといいのかもな。

 

 

見ていてコメントをくれたり、あとでメッセージをくれた人もいて、ありがたかった。

その中で、「その場を大事に思ってる人が仕舞う立場になる、という話が聞けて嬉しかった」という友人のコメントに、思い当たったのは、わたしたちは90分、それを言い方を変えてあれこれ言ってたのかということ。(他の受け取りももちろん無限大で可能)

 

「その場」であり、「その関係」であり。

 

それから、「仕舞い方」ってタイトルだけど、手法じゃなくて「方」の話をしていたんだなぁとおもった。お能でいうところの、シテ方ワキ方囃子方、とかの「方」。

 

「誰もわたしのようには愛していない」ということの孤独みたいなものもありながら話していたなぁとも思う。それは誰も肩代わりできないし、人間って本来そこでは絶対的に孤独な存在だよね、でもそれがあってよかった...みたいな、わからんけど、そういう温かさもこんこんと湧いてきた。

 

 

こういうことができるようになったのも、ことほぎラジオをやってきたことがすごく大きかった。あれがなければ今のわたしはない。感謝しながら、今もラジオからもらったものを日々還元しながら生きている。

 

人の前で自分のINSIDEを話す経験。

それがどう解釈されるかは、わたしの意図を超えている。

 

 

わたしはもっともっと自分の中に入っていって、INSIDEをひらいて表現していきたいという欲と望みがある、と今回のライブで自覚した。

 

 

それが何になるのかはよくわからないけれど。

今は、ただもうじゃぶじゃぶしていて、それを出さざるを得ないという感じでいる。

 

「INSIDEをひらいて見せてくれてありがとう。わたしも自分のINSIDEをOUTしたくなったよ。意味なくやるっていいね」とメッセージをくれた友人がいて、とてもうれしかった。

 

 

そうだ。

表現で、人と、深くつながりたい。

創造とつながりによって、自分を外から内から壊し続けたい。

 

創造は、意味を超える。
選択の際には、「分からない」ことが起こる、
つまり意図を超える。

というのを体験してしまいました。
ないものを作るのが創造なら、
意図できるはずないじゃん!だよね?

https://ameblo.jp/lychee-tangerine/entry-12408356793.html

 

...ということですな。

これを書いたライチさんも来てくれていて、さっそくブログに書いてくださった。

ameblo.jp

 

 

 

友人のナカオクミさんが描いてくれたスケッチ。わたしのスカートの色だ。

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ちなみにこの日の石井ゆかりさんの日報はこんな感じだった。ちほさん@獅子座、せいこ@山羊座。ちほさんもわたしも石井ゆかりさんが大好き。

 

あー、なんかとってもそんな感じの日だったなぁ。

しかもちほさんはいつもこんな感じの優しさなんですよねぇ。

大きくて受け取りやすい優しさを気前よくどーんとくれる。その気前のよさによって傷つくことだってたぶんあるんだろうけど、そういうとこも含めたちほさんに励まされたり、一緒に笑えたりするし、なにより彼女のそういうところが好き。

 

ライブ中は、なんでかよくわかんないけど、取り乱してるところもよかったなぁ。

そこは全然共感しないで聴いてたわたし(笑)。鬼か。でも、そういう自分が出せたのも、このトークライブはよかったな。配慮して、汲み取って、ボリューム大で共感するとかも、やめてた感じ。相当にわがままにいました。それもまたわたしだ。

そういうことに挑戦できたのもよかった。

 

うん、まだどんどん出てくる。

これからもきっと、わけがわからず衝動や疼きだけがあるほどに、あとから意味がわかってくる。

この、いつくるかわからない時間差が楽しい。

 

 

 

そんな二人であと2回やるよ!来てね!見てね!

第2回:11/16(金)リブトビ逆噴射トークライブ vol.2:ゴルゴ事件 | Peatix

第3回:12/8(土)vol.3:子育て(Peatix準備中)


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あらためて、応援、関心、好奇心、共感、信頼、探求、愛…言葉、思い、お賽銭...えとせとら…

 

たくさん持ち寄ってくださってありがとうございました!

 

 

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いよいよ明日!逆噴射トークライブ!

いよいよ、明日は逆噴射トークライブ

 

Facebookのイベントページで3日前からカウントダウン投稿をしています。

これいっぺんやってみたかったんだ〜 

楽しい。

 

 

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そして、こーんなでかでかポスターつくってみたよ!ちほさんの分もあるよー!

 

JRというアーティストがいまして、Inside Outというプロジェクトをやっているんですが、それへのオマージュ。

こっちに書いたけど、「顔たち、ところどころ」という映画が公開中なので、気になる方はぜひ見てみてくださいませ。サイズがA0だから実物はけっこうな迫力です。

どんなふうに貼ろうかな!

 

 

 
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ちほさんが、こんなブログを書いてくれた。

11月と12月の予定も出ました。

liveco.hatenablog.com

 

「公演」になったねぇ。

そうかー、ショールーム型ラジオでインスタレーション作品を見せる公演なのか。

 

日を追うごとに、やると決めて未来の地点に旗を立てて、そこへ向かっていく間に、それぞれに起こることが全部ここに集約されていくのが、いつも本当におもしろい。

 

集約といえば、これまでの経緯も。

そのときどきで、なぜか興味がわいて、どうしても理解したい、でもできないできない、なんの役に立つのかと泣きながらやったことも、楽しくて楽しくて仕方がなかったことも、向いてなくて止めたことも。全部が。ここに。

 

 

疼きが起こったときには、それが何を意味しているのかわからないことがほとんどで、そのとき言えることをまずは書いて置いてみて、人目に触れさせながら、それから時間をかけて雨が降ったり晴れて乾いたりさせながら、だんだんわかってくる。

 

でもそれもすぐに、瞬きしている間に、あっという間に変化していく。

ああ、生きているんだな、と感じる。

 

 

 


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ひとつのプロジェクトを走る(踊る)相方さんと、このように盛大に影響を与え合い、あたたかいもの通わせている様を、わざわざ人に見せるというのは、照れるけれども、やはりとてもうれしいものだ。

 

 

 

「わたしたち」は、個別の、固有の、唯一の人間である。

そのわたしたちは、「何によって繋がっているのか」ということを、揺らぎながら、移ろいながら、その都度、言葉にしていくこと、表現していくことをわたしは好む。

 

「なにによって」という言葉、音が好きだ。

 何に依って

 何に拠って

 何に縁って

 何に因って

 何に寄って

 何に酔って

ひとつではなく、いくつもの意味が重なるところにある、何か。

 

 

 

することの話をしながら、生まれる関係。

関係の先に、現れてくるものを作りたい。

 

立場や役割にはもう悩んでいないけれど、社会的に付与されて内面化してしまったバイアス、規範をもっともっとほどいて、超えていけたらと思う。お互いに。

その先に、また出会い直せることがあると思う。

 

 

 
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最後に、唐突ですけど、明日の投げ銭・お賽銭・ドネーション(なんでもいいや!)について。

 

あした会場でもオンラインでも、わたしたちの「踊りおしゃべり」を見物し終わって、「おもしろかった!」「何か感ずるところがあった!」みたいなことが内からわき出たら、それを投げ銭(あるいはお賽銭)の形でぜひ表していただきたいなと思っています。

 

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投げ銭〈り〉人を表現者にしてしまう ¥5,000

投げ銭〈ぶ〉人生を素晴らしくする ¥2,000

投げ銭〈と〉感じたものを表現する ¥1,000

投げ銭〈び〉あなたから世界へのことほぎ 無料
------------
となっております。

 

参加できないんだけれど、中継も見られないんだけど、わたしたちが今回やろうとしていることに、「いいぞぉー」と応援してくださって、それをどうにか表現したい方も、「お賽銭箱」へお気持ちをお入れいただければ、わたしたちを通じて、きっと願いや祈りが届きます。

 

お賽銭箱をあなたの好きなように在らしめ、お使いください。

 

\\\ お賽銭箱の設置場所はこちら ///


10/5(金)本日中
https://peatix.com/event/436238
10/6(土)明日以降
https://liveandbeauty2.peatix.com

 

 

 

やばい〜、楽しみで眠れないかもしれないな! 


明日会場で、オンラインで、お待ちしております。

そして、読んでくださってありがとうございます。

わたしにとって最も興味深い存在のわたしの今

一体わたしという人間は、何をやっても大して上手くならないし、すぐ忘れるし、修了もできないし、いつまでたっても詳しくならないし、多くの人から「すごい!」と認められることもないし、「〇〇ならせいこさん!」みたいなものが全然ない。

それが小さい頃から今に至るまでずっとコンプレックスだった。いろいろ手を出すわりに、なんでもそつなくこなせて器用、というのでもないから。

 

 

今も事業の話をするときに、「うーん、いろいろやっててなんだかおもしろそうな人だなという印象だけある。〇〇屋さんっていうわかりやすい看板を掲げないと、仕事を頼まれないですよ」とアドバイスされることが度々ある。


でも「わたしって何屋さんなんだろう?」と考え出すと全然わからないし、追い詰められる気持ちになるので、一旦保留にしている。今はとりあえず自分の心が動くものや、お声がかかるものに携わったり、営んでいる。結局ひとつのことしかできてないと思ってるから、そのうちわかるんじゃないかしら。

 

 

 
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わたしは叙情的、情緒的なことですぐ胸も頭もいっぱいになってしまって、一部を知るだけでだいたい「へぇーー!」と、満足できてしまう。

お酒に弱くて、ちょっとの量ですぐ酔っ払うのだけど、それとすごく似ている。

 

わたしが今見ているのはほんの一部なのだろうな、ということを何につけても感じる。ある程度把握した!と思えるようなことがひとつもない。

 

世界は膨大で深遠すぎるし、人のことはよくわからないし、自分はいつまでも不完全な存在だ。

 

 

たぶん理論や仕組みについてあまり興味がないのだと思う。

多角的、多面的に知りたい気持ちもあって、別のところで予期せず出てくると、「おお!つながった!」「こういう文脈で見るとまた違う感じがするなぁ」という喜びがある。

 

でも、「最初から全部を見据えてある程度の高いレベルで知りたい」、「俯瞰したい」、「関係することは一気に網羅したい」、みたいな達成欲求(?)があんまりない。

 

ちょっとずつ自分のペースで、自分の内発的動機にしたがって、知っていきたい。

偶然を楽しむ。

だから時間がかかる。

一回でぜんぶが整理できない。

「消化酵素」が少ない。

 

 

でも、伝えてくれる人に友愛や親しみや敬意を感じていたら、体系を嵐のように一気に聞いて、自分を最大限発揮して、整理しまくっていくのはすごく楽しい。

 

 
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きょう、今、これを綴っているひととき。

自分から見えているのは、そういう自分。 

 

 

最近は自分のその中途半端さがおもしろいなぁと思ってきた。

 

中途半端さの他にも、自分が直面すること、自分が対応したこと、自分の歴史...つまり当事者研究を楽しんでいる節がある。

わたしを通して、人間を理解しようとしてもいる。

 

 

 
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ここのところ、週末にひらく2つの場に向けて準備をしているのだけど、「そういう自分として、みんなの前にいてもいいんじゃない?」という思いが、度々わいている。

 

 

人の前に立って自分を表現したり、自分を通して何かの価値を伝えることを、「目立ちたいんだね。サインの練習しといたら?」と言われたり、表現したい自分を抑えて「まるで自分大好きみたいじゃん」と自分を叱責している人を見ると、うーん、そうではなくて...と言いたい気持ちがわいてくる。

 

わたしの感覚としては、「自分が好き」というよりも、「自分のことを最も興味深い存在だと思っている」んだよね。

 

それを恥じずに、後ろめたく思わずに、怖れずに出していっていいんじゃないかしら、と思いはじめたところ。

 

特に誰のお墨付きもないけど。

誰かのためとかでもないけど。

 

自分が踊りたくてたまらないのなら、ただ踊ればよい。

 

 

 

6月に亡くなった友人と、以前、「どこまでが自分か、自分と自分でないものの境目はどこか」という話をしたことがあった。「結局、一番不可思議で興味が尽きないのは自分だよね」とそのやり取りは終わった。

今またちょっと違う話をしたいんだけどな。

ああ、彼と話したいなと痛切に思う。

 

 

 
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きょうふと、ARTという言葉をOxford Dictionaryで引いてみたら、最初にこれが出てきた。

The expression or application of human creative skill and imagination, typically in a visual form such as painting or sculpture, producing works to be appreciated primarily for their beauty or emotional power.

 

ここから"typically in a visual form such as painting or sculpture" を除いて、"works"を「作品」だけじゃなくてもっと広い意味でとらえたら、それはすごくわたしのお仕事だ!という感じがして、わくわくした。

 

 

なんでやるのかわからない。でも楽しくてうれしい。

そっちのほうが光っていて、そっちのほうが愛がある感じがする。

まずはそちらに歩みを進めてみよう、という今。

 

この三連休が明けたら、どんな世界が見えているんだろう。

 

 

 

受付中★ 

 

10/6  リブトビ逆噴射トークライブ

peatix.com

 

 

10/7  杉並区男女平等推進センター講座:「ちはやふる」から学ぶ「百人一首と競技かるた」

babyco.suginami-kodomo.net

 

本気で読書会を主催したい方向け: 読書会のつくり方講座をひらきます

10/21に千駄木で読書会を主催したい方向けの講座をひらきます。

読書会のつくり方講座

 

「本気で」と煽っておりますが、ぜひこの機会に本気で考えてみてほしいな!と思って書きました。

 

★ ★ ★

 

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わたしは2014年〜2016年白山夜(はくさんよる)という読書会を営んでいました。

2014年に立ち上げるまでに、ワークショップデザインやファシリテーションについて学ぶと同時に、教える仕事もしていました。なので、ある程度の設計などはできたわけですが、それでも読書会というものがどのようなものなのか、どのようなプログラムが可能なのかは、実際に現場に行ってみないとわかりませんでした。

 

いくつかの読書会に行ってみて、主催している人に話を聞いてみて、どれもとても参考になるし、よい場なのだけれど、わたしがひらいてみたい場とちょっと違う...とどれに関しても思っていました。

 

そのあたりの気持ちをこのメッセージに込めて、ひらきはじめました。

 

立ち上げに協力してくれた相方さんが場所も提供してくれて、いつも応援し励ましてくれました。フライヤーも刷って、ホームページもひらいて、会う人会う人に「読書会をやるんだ」と話して。

 

「でもそれだけがんばってやって、誰も来なかったらどうしよう」とひらく前はびくびくしていたのですが、相方さんが「大丈夫、二人いれば場になるから!」と言ってくれた言葉を、今でも場をひらくときにはおまじないのように唱えています。

 

記念すべき第一回に、近所に住む一人の女性が来てくれたことを、ほんとうに昨日のことのように思い出します。彼女とはそれからずっと親しくしていますが、ほんとうに今も、そのときの丁寧な申し込みのメールの文面そのままの人です。この出会いはほんとうに宝物でした。もちろんその後来てくださった方からも、たくさん宝物の出会いをいただきました。

 

うまくいかないこともありますし、いろいろな事情や変化によって、結果的にこの読書会は仕舞ったわけですが、この場での経験は、何年経っても、幾度となく、わたしにいろんなことを教えてくれています。本気でつくったこと、やりきったことを、ほんとうによかったと思うし、場にも人にもとても感謝しています。

 

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そんなこんなをいろいろと書きましたが、、ともかくお伝えしたいことは、自分の動機から場をひらくことには、何にも変えがたい興奮と幸福があるということです。

 

自分の安心領域から出て(殻を破る)、自分の領域をストレッチする必要がありますが、ひらいてみたときに、自分の見たかった景色が、自力では至れなかった場所に展開されていることに驚く、というような体験でもあります。

一回だけの読書会でも、コミュニティとして存続していく読書会でも、同じようなことが起こるのではないかと思います。

 

 

もう一つは、読書会をひらいてみたいときには、「読書会に参加するのが一番」ということです。場は人。取り上げる本のジャンルだけではなく、進め方も場で大切にしていることも人によってまったく違います。

ぜひ、いろんな読書会に参加されることをお勧めします。

 

 

 

過去に何本か記事を書きましたので、こちらもご参考までに!

 

過去に配信したポッドキャストの中に、読書会を番組として収録したものがあります。
ご興味ありましたらぜひ聴いてみてほしいです。
 
「森の読書会」

 

 

10/21のつくり方講座はこんなふうに考えています。

 

[自己紹介] お互いのことをちょっと知ってみる
[解説] 読書会とは?
[体験&ふりかえり] 持ち寄り紹介型読書会
[解説] つくり方・進め方
[体験&ふりかえり] 感想シェア型読書会
[解説] つくり方・進め方
[解説] 企画の立て方
[ワーク] 自分の読書会を企画しよう
[発表&フィードバック]
[ふりかえり] きょうどうだった?

 

 

もしわたしの場にも興味をもっていただけましたら、ぜひいらしてください。

あなたらしい読書会を一緒に企画・設計していきましょう!

 

お待ちしています^^

 

dokushokai3.peatix.com

 

 

 

✴︎今後の予定です✴︎

 

10/7(日)杉並区男女平等推進センター講座 マンガから学ぶ「女性の働き方と両立支援」ーー「ちはやふる」から学ぶ「百人一首と競技かるた」

http://hitotobi.hatenadiary.jp/entry/2018/09/28/103347

 

10/13(土), 11/4(日), 11/18(日) また行きたい!と思える場をつくるゼミ

http://hitotobi.hatenadiary.jp/entry/2018/09/16/110234

 

11/21(水) 爽やかな集中感 競技かるた体験会

https://coubic.com/uminoie/174356

 

12/23(土) 自分の今とこれからを見つけるコラージュの会《冬至編》

https://collage3.peatix.com/

 

《随時》場づくりサポート個人セッション 

http://hitotobi.hatenadiary.jp/entry/2018/07/18/124924

調べ学習が楽しい話

以前ポッドキャストで、「調べ学習が楽しい話」という話をしました。

doremium.seesaa.net

 

 

配信した頃に書いていたメモをブログの下書きに見つけたので、投稿しておきます。

 

 
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絵で見るある町の歴史

図書館で借りてよかったので、高かったけど、買ってしまった本。ある川沿いの町(おそらくヨーロッパ西北のあたり)の12,000年にわたる変遷を見開きページで追っていく本。「ウォーリーをさがせ!」や屏風絵の「洛中洛外図」のようにこんなところでこんな人が!と細部を追っていくのも楽しい。

わたしがこれを買ったのは、西洋絵画を見る時に役に立つなと思ったから。世界史は好きなんだけど、年代・年号を暗記するのが苦手で、それらと出来事とを結びつける感覚も弱い。「1,600年ごろ」って言われたときに、その頃の暮らしや風俗がパッと浮かぶと、それをひとつの軸にして、作品を見られたり、同時代の作品と比較したり、より深い理解ができるのではないかと思ったので。歴史的に西洋絵画の中心と、この本の「ある町」はだいたい近い感じがする。発展させて、「その頃日本では...」「その頃アメリカでは...」とかも、パッと把握できるようになりたい。

 

 

名字と歴史のはなし

百人一首と競技かるたの講座の講師を務めることになって、平安時代のことをあれこれ調べていたときに、「そういえば藤原ってめっちゃ人数多いんだけど、なんで?」「近現代までの名字の付け方の変遷って?」と疑問がわき、読んでみたらおもしろかったので、これも買ってしまった。教科書で知っていた日本史を、名字をいうテーマで串刺しにしたときに、あれとあれが関係していたのか!とか、そういう関わり方だったのか!という発見があって、おもしろい体験でした。これが絵がいっぱいでカラフルで見開き一テーマな感じがわかりやすいので、大人向けの「雑学なんとか」よりもわたしは好きです。「名字のひみつ」というシリーズで他に3冊ほどありました。

 

 

 

イスラームってなに?

聖書の勉強をしていたきたこともあって、他の宗教はどのようになっているんだろう?との好奇心から借りてみました。4冊シリーズで出ています。2017年8月〜2018年3月と最近出た本なので、今の世界状況に沿っているところがよいです。同じイスラム教徒でも国や地域によって異なることを、4カ国のイスラームの子どもの生活からリアルに感じられます。子ども向けの本は、シンプルで網羅的すぎない、そして読み手に親しみを起こさせることを大切にしているところがいいのかもしれません。

 

 

 

アニメなんでも図鑑 

この本自体が、アニメ博物館のような編集、構成、レイアウトになっていて、すごく楽しかったです。時間を忘れて館内見学してしまう。作り手の熱をびしばし感じる本。作業工程の表現の仕方は他の分野でも参考になるんじゃないかしら。

  • アニメーションと「アニメ」は違う(というところから、えー!!となる)
  • アニメの歴史(それぞれの時代、社会の中でどのように求められてきたか)
  • アニメのジャンル(それぞれのアニメによって得られる印象、効果、向き不向き)
  • 特徴(アニメという形式によって何を表現しようとしているか)
  • アニメのできるまで(知っているようで知らなかった制作工程)
  • アニメの作り方(原理を使って自分でもやってみれるアニメ、何がおもしろいのかを自分でもつくることを通して理解できる)
  • みておきたい傑作アニメ(アニメとアニメーション、日本と海外に分けて)
  • アニメにかかわる仕事につくには(こどもにとってもいいし、大人にとってはこれからその仕事につかないまでも、誰がどうやって制作にかかわっているかを知れる、制作や業界を支えるパーティ) 

 

 

 

 

図書館のこどもの本のコーナーにはお宝ざくざく!

 

 

この記事で書いた、宗教学を教えてくれた先生によると、

あたらしいことを学ぶなら、小学生向けの本を読み、

小学生向けの本が理解できたら、中学生向けの本を読み、

中学生向けの本が理解できたら、高校生向けの本を読み、

高校生向けの本が理解できたら、基礎的なことはほぼ理解したと思っていい。

とのことでした。

 

新しい分野を勉強するときに取り入れている考えです。

 

 

途上だから分かち合いたい: 第5回 学びのシェア会に参加した

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友人たちと隔月でひらいている「学びのシェア会」に参加しました。

過去のレポートはこちら。(第1回第3回

 

すべての場には参加できない、すべての本は読めない、すべての人の話は聞けない...でも信頼と友愛の前提のある人たちが、それぞれ見聞きしてきたことを、その人の身体を通って学びに変えたものをシェアしてもらうことで、「体験」できるのではないか。

 

そして、自分が学んだことを関心をもって聴いてくれる仲間にシェアすることで、より学びが定着し、深まり、さらにこの先の学びへとつながっていくのではないか。

 

そんなことを目指してひらいている非公開・招待制の場。

好奇心旺盛で学びの欲求に満ち満ちているメンバーに、いつも刺激をもらっています。

 

今回は8名が参加。過去最多。はじめて参加の方が毎回1〜2名いらして、ほどよく風が入っていくのもいい感じ。

 

 

チェックインでは、

「勉強が好きで、テーマを見つけて一人でコツコツ学んでいるけれど、ときどき孤独」

「学ぶのは好きだけど、出す場所がない。でも誰に何を伝えたらいいのかもわからず」

「子どもの頃から勉強が好きだったけれど、好き!とおおっぴらに言えなかった。でも今はそれが言える場所があってうれしい」

「学びのシェア会は、『がんばる勉強』ではなくて、なんだろう?ただただ楽しい」

などなど、一人ひとりの微熱を感じながらスタートしました。

 

 

 

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わたしは、8月に参加した、CNVCの認定トレーナー、サラ・ペイトンがファシリテーターを務める「ファミリー・コンステレーション」のふりかえりを共有しました。

NVCについても、サラ・ペイトンについても、ファミリー・コンステレーションについても、わたしが知っていることや、話した内容は詳しくここに書けないのですが(書けないのでこういう会で話しているというのもある)、「サラ・ペイトンの」ファミリー・コンステレーションというグループセラピーがわたしの人生のどのような部分の解釈を容易にしたか、サラのいる場への信頼や、ファシリテーターとしてのサラの存在の唯一無二さ(サラだからこそこのような体験になった)などについて発表後の対話も含め、自分の中に落ちました。

これを発表した意図は、あくまでも、一つのセラピーやコミュニケーションの手法を推奨するわけでも、勧誘するわけでもなく、個人的な体験(わたしに何が起こったか)としてシェアしたいということだけで、そこから皆さんが自由に自分の関心や理解につなげてフィードバックしてくれたことが、とてもとてもうれしかったです。

 

 

 

 

 

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稲葉麻由美さんの「右脳から体験するNVC

同じくサラ・ペイトンの来日セミナーのひとつで、ファミリー・コンステレーションの前日にあったワークショップ に参加しての学びのシェア。左脳的な能力を使ってコミュニケーションをしてることから起きる分断や分離についての分かりやすい解説と、右脳を使った共感の体験、について。

麻由美さんの説明はいつもながらにわかりやすく、しかもきょうはいつもに増してユーモアにあふれていて、かわいかったです。さっそく学びを発揮している。

 

麻由美さんのレポート

mayuminaba.hatenablog.com

 

 

 

 

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高橋ライチさん。「かぞくと自由と選択と幸福」。

ライチさんがメンバーの一人として催した「かぞくってなんだろう展」や、クルミドコーヒーでのミヒャエル・エンデの「自由の牢獄」の読書会に参加しての学びのシェア。

一本のお芝居を見ているような、壮大で深く深く潜っていくような語りに圧倒されました。

 

ライチさんのレポート

ameblo.jp

  

 

★ ★ ★

 

出てきた印象的なワード&フレーズいくつか。

 

家族システムの中でバランスを取ろうとする子ども

聡明さ

右脳と左脳の役割分担

複雑性を保持する

非現実な夢の推測

どうやったら世界を達成するか?(左脳)

どうやったら世界とつながれるか?(右脳)

話す仕事は身体感覚とつながりながら

「新鮮な」メタファー

活動と変化がすべてで、できあがったものは大切な抜け殻

見える世界と見えない世界

壁抜け、井戸掘り

プラトンの洞窟

意味を超える創造

選ぶ前にはわからない

一度した選択にしばられなくていい

誰も信じてくれなくても選択する

夢、アート、詩という窓

道しるべは自分の「意味」を知らないが、他者に貢献している

ファシリテーターや講師であるということは「人間界で人間でいることへの挑戦である(容易に道具となりえるので)」

 

★ ★ ★

 

わたしが知りたくて、でも自力では至れなかった部分を、同じ時間を生きている仲間が掘り進めてくれていた!という感じがすごくして、ありがたい時間でした。

 

人の学びを聴くことは、情報としては「二次三次」なんだけれども、その主観ごと味わっている感じがよいのだよね、と。そこもみんなと分かち合えている感じがまたあたたかい。

 

到っているからではなく、途上だから。

分かち合いたい、受け取り合いたい。

 

チェックアウトは、こんな感想が出ました。

「(ひと言も発しなかったけれど)なにもしないで浴びていて、まるで温泉にいって、知らないおばちゃんたち(失礼!)が、あーだこーだ話しているのを聴いているような、すごくあったかくて気持ちよかった。集団の中にいてしゃべらなくてもいいってなかなかない」

「この会に来ると、言葉が不自由になって、うれしい、楽しい、しか言えなくなる。段取りができなくなってそういう自分がおもしろい」

「生きているプロセスのシェアをしている」

「人の根源的な喜びは世界に貢献する」

「不確かなことでも、うまく話せなくても、わかってもらえることもある、という希望をこの場では確認できている。教える場(講座)も持っているがそれとはまた異なる喜び」

 

ああ、きょうもほんとうに終わってから、楽しい!うれしい!幸せ!しかなくて、身体中が喜ぶ感じ。

あー、きょうはいい天気だったし、よく眠れそうです。

 

 

きょうの場を経て、また探究が進みそうです!学びの仲間に感謝!

会の感想とは別に、場にいて自分の中でふつふつわいてきたことがいろいろあるのだけれど、これもまたぼちぼち書いていこうと思います。

 

「自由の牢獄」の読書会やりたいな...。

 

 

★ ★ ★

 

楽しそう!と気になった方は、ぜひお友だちやお仲間でやってみてくださいね!

わたしは会場予約&おやつ係をやっています^^ 学びの場におやつは欠かせないのだ!

 

【スケジュール例】

「登壇者による発表(20分)」&「参加者との対話(15分)」を3セット

13:30-13:40 チェックイン(名前、来たきっかけ、楽しみにしていることなど)

13:40-14:00 1人目発表

14:00-14:15 1人目の発表についての対話

14:15-14:35 2人目発表

14:35-14:55 2人目の発表についての対話

14:55-15:05 休憩

15:05-15:25 3人目発表

15:25-15:40 3人目の発表についての対話

15:40-16:20 全体シェア

16:20-16:30 チェックアウト(きょうの感想)

16:30-16:40 撤収、終了

 

 

 

【注意事項】

❌受講した講座の丸写しNG
❌受講した講座の資料流用NG
としたうえで、


☆シェアされる内容は、あくまでもその人個人の受け取ったものであり、伝えた側の意図とは違っていることを前提として受け取る
☆シェアの内容を二次使用する場合は、原典(もとの講座や本など)にあたってからを推奨。
☆少人数で気楽にやってOK(編集しきれてなくても、学びの最中のものでもよい)。発表者だけが主とならず、対話自体でさらに学びが深まることを意図する。

(他にもあるかも)