漫画『夜明けの図書館』
「大津絵が好き!」という話をnoteで音声配信したら、
友人が「この漫画に大津絵のことが載ってるよ!」と教えてくれた。
『夜明けの図書館』
なんと、図書館司書さんを主人公にした、レファレンスに光を当てた漫画という。
これはなんとしたこと...!
わたしにとって図書館は、ひと言では語れない、いや、一晩かかっても語りつくせない対象。
しかも、人と本をつなげる知の泉、貴い専門職である司書さんが主役の漫画とは...!!
これは紹介してもらえてほんとうによかった。
そして大津絵よ、つなげてくれてありがとう。ますます好きになっちゃったよ。
レファレンスとは、
利用者の"知りたい"を調査・お手伝いする仕事で
図書館において重要な業務なのですたとえば昔読んだ本をもう一度読みたい(タイトルは忘れてしまったけど)
あるテーマについて詳しく知りたい など(人口推移についてのデータを)
珍問・奇問から難問まで
万(よろず)答えを求められるのです(本文より)
端末を使った検索方法なら、小学生でもできる。
それがヒットしなかったときに、問いかけて引き出して、思い当たる引き出しをどれだけたくさん持って、ネットワークを駆使して、知りたいことに近づいていけるかに、専門職の手腕が発揮される。
その専門性を一話ごとに異なる角度から迫りつつ、いち図書館司書の成長を追いつつ、物語として楽しめる。
レファレンス以外にも、図書館のバックヤードがどんな人員配置になっていて、何が行われているのかを丁寧にわかりやすく、物語の途上として違和感なく覗かせてくれている。
絵柄は、派手でなく地味でなく、うまく言えないけれど、野の花を部屋に生けたときのようにスッと馴染んでくる感じ。
「こんなすごいこと、しょっちゅう起こるわけないじゃん」と思う人もいるかもしれない。
でも、わたしが公立図書館でアルバイトをしていた半年の間でも、いろいろ見聞きしたし、それに、日頃から人の集う現場を営んでいると、信じられないようなドラマが実際に起こっている。
だから同じぐらい、あるいはそれ以上の物語はあるだろうなぁと、わたしなりにリアリティを持って読んだ。
作家さんの取材がとても丁寧なのだろう。
紹介してもらった大津絵が出てくるのは、コミック4巻の第15話。
どういう流れで登場するのかと思ったら、縦軸には嘱託職員の立場や扱いへの思いがあり、横軸に大津絵の探索があるお話で、この絡ませ方がなんともよかった。
特に印象深いのが、コミック3巻の第11話・病気を抱えた人と図書館の本。
病気を抱え
すがるような思いで
図書館を訪れる人について
深く考えたことがなかった
(中略)
消えていく不明本も
もしかしたら
潜在的なニーズで
利用者のSOSかもしれない
(本文より)
わたし自身、類似の経験をしている。
11年前、産後の心身の不調を救ってくれたのが、まさに図書館で、産前に借りたことのある一冊の本だった。
「たしかあのとき借りたあの本に書いてあったはず...」と、藁をもすがる思いで、出産前に借りた本のキーワードを拾って、どうにか検索をかけて、求める場にたどり着くことができた。あのときは決死の思いだった。
あの図書館の、あの棚に、あの本がなければ、今のわたしはいなかったかもしれない。
この経験はたぶん一生忘れられない。
図書館は、単に情報の倉庫として存在しているのではない。
この物質としての本が棚に並んでいる、背表紙が視界に入ってくる状態そのものが、まずは人を慰める。
「あなたの抱えている疑問や好奇心や悩みは、この厚みの中にヒントや答えがあります。同じテーマで考えている/いた人間が他にもいるのですよ」...と力強く承認してくれている。
図書館においては、貸し出す・返すという作業の他に発生する、
・探しているものがない、
・もっといろんな切り口・いろんな形式・いろんな時代・いろんな地域の資料が読みたい、
・そもそも何の本が読みたいかわからない、
というモヤモヤこそが宝だ。
知りたいとは、生きる意欲そのものだから。
生きようとする人。
それに応える本。
つなげる司書。
他にも、郷土史を記録する意味、子どもの利用者との向き合い、居場所や交流の場、異文化・多文化共生、学習障害など、今日的なトピックもさりげなく盛り込んで、いっそう図書館の存在意義を伝えてくれている。
2020年3月現在、6巻が出ている。
発刊は1〜2年に1冊と、とてもゆっくりだが、こちらもゆっくりとした気持ちで待ちたい本だ。
レファレンスつながりで、おまけ。
わたしが大好きなツイッターアカウント 国立国会図書館レファ協をご紹介したい。
レファレンス協同データベースは、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築している、調べ物のためのデータベースです。
目的:レファレンス協同データベース事業は、公共図書館、大学図書館、学校図書館、専門図書館等におけるレファレンス事例、調べ方マニュアル、特別コレクション及び参加館プロファイルに係るデータを蓄積し、並びにデータをインターネットを通じて提供することにより、図書館等におけるレファレンスサービス及び一般利用者の調査研究活動を支援することを目的とする事業です。(レファ協HPより)
ツイートを見てみると、全国のさまざまな図書館に寄せられた、利用者からのさまざまな調査依頼と回答の実例が流れている。
いちユーザーとしては、「こんな質問をする人がいるのか、マニアックすぎる!」とうれしくなってしまうし、「確かにこれは知りたい、知れたらおもしろそう」と思うものもある。
それに対する回答に、「こういう回答をしたのか、よくそこまで調べたなぁ」とレファレンススキルに驚嘆したり、「なるほど、こういう観点で調べ方をすればいいのか」と自分が調査するときの参考にもなる。
フォローしておくと、ときどき流れてくるツイートに心が和む。おすすめ。
もいっこおまけ。去年観た映画の感想。
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《レポート》2/11 トークバックでゆるっと話そう@シネマ・チュプキ・タバタ
建国記念の日で祝日の夜。
シネマ・チュプキ・タバタで「ゆるっと話そう」をひらきました。
お知らせページ>http://chupki.jpn.org/archives/5288
今回の映画は、『トークバック 沈黙を破る女たち』。
舞台はサンフランシスコ。元受刑者とHIV/AID陽性者が、自分たちの人生を芝居にした。暴力にさらされ、"どん底"を生き抜いてきた女たちの現実とファンタジー。舞台で、日常でトークバック(声をあげ、呼応)する女たち。
彼女たちの演劇は芸術か、治療か、それとも革命か?
芝居を通して自分に向き合い、社会に挑戦する8人の女たちに光をあてた、群像ドキュメンタリー。(公式チラシより)
この日の上映は満席。
ゆるっと話そうは予約不要で人数制限もないのですが、これはさすがにいつもの2階では入りきらないかも?せっかく来てくださったのに、隣の人と近すぎてぎゅうぎゅうになって不快な思いをさせてしまうのは申し訳ない。
...ということで、スタッフの宮城さんと相談して、同じ商店街のななめ向かいのインド料理屋さんでひらくことに。
お客様にもワンドリンクかかりますが...ということをお伝えしてのご案内となりました。
やはりこの映画、語らずにはいられないのですね。
映画の中から、「立ち上がれ!声を上げろ!」と煽られているもんね!^^
どんな場も必ずなんらかのsensitivityを持っているのですが、この日は特にてんこ盛りだったので、より具体的にグランドルールの共有をしました。
・私を主語に話してほしい。
『トークバック』という映画の性質が、呼応を求めているから。
でもこの映画で対話するなら、分析的で客観的な関わりよりも「わたし/あなたの中から何が立ち上がっているか?」を交わせるといいなと思っている。
・みんな何かしらのマイノリティであることを胸に置いて。
映画に関連することだけでも、HIV / AIDS陽性者、アルコール依存症者、薬物依存症者、シングルマザー、DV・虐待サバイバー、元受刑者、被害者遺族・加害者遺族...などさまざまある。この中にもいるかもしれない、ということを可能な限り思って発言をお願いしたい。
みなさん、あたたかく頷いてくださって、ここでかなりホッとしました。
そして、この映画の大きな軸のひとつである、HIV / AIDSについての基礎知識を共有しました。
映画に出てきた、「コーヒーカップを使わせなくなった」「妊娠したい」「HIV=死ではない」だけでも、ちょっとあやふや、知らない、わからないがある人がいるかもしれない。わたしのためにも、みんなのためにも、そこを確認して場を慣らして、また安心してもらってから、ほんとうにみんなでもっと行きたいところを目指そうと思ったのです。
参考にした資料(一部)
その後ペアで感想を交換。
同じ場所で、同じ映画を観たという経験をしているけれど、はじめましての人同士が安心して自分の感覚を表現するには、できるだけ小さい単位からはじめるのがよいのです。
わたしもペアの方に話を聴いてもらい、話を聴きました。
聴いていたら思わず涙してしまいました。
語りがとても美しかったので。
自分の気持ちを一旦言葉にできて、少し落ち着けた方から、
話を聴いていて・話をして思ったこと、
話し足りなかったこと、
みなさんに聴いてもらいたい宣言
などを手を挙げて(任意で)、話してもらいました。
映画冒頭に灯った、「沈黙」という言葉の意味について。
今ある自分の仲間との関係について。
子どもとの関係について教育について。
演劇という手法について。
対話について。
自分自身のとの向き合い方について...など、映画に登場した人物や、自分の人生を行き来した、様々な感想が聞かれました。
今まさにわいている感情、
映画の何から自分の何が喚起されたか、
映画との出会いが自分の人生にとってどのような体験だったか、
ここからのわたしはどのように生きたいか。
一人ひとりが個別のものを受け取って、それを自分の言葉で語って、みんなで大事にできたことが、とてもよかったです。
わたしもぼろぼろ泣いてしまったので、びっくりした方もいるかもしれないですね。
わたしは最近、こういう場で涙が出てもぜんぜん気にならなくなりました。
それはファシリテーターが場の中でもっとも正直であることが大切だと思っているから。
場のモデルでありたい、みんなに正直に自分らしくいてもらいたいから。
だから、「こうなってもいいんですよ、大丈夫ですよ、安心ですよ、それが自然だもの」ということを自分全部を使って表現しています。
急遽、参加してくださった坂上監督からは(そう!来てくださったんですよ!!!)、HIV/AIDSに関する基礎的な知識の補足や映画に出てきた彼女たちのその後などをシェアしていただきました。
それぞれの人生を歩んでいることが知れて、ほんとうにうれしかった。
おめでとう!幸あれ!という気持ち。
それと同時に、映画に写っているあの人たちは、どんどん変化していっているんだ、ということも思いました。
ドキュメンタリーは、まだ生きている人を、撮影者のある態度やある意図でもって編集して、残してしまう行為。
それを観る鑑賞者の中では止まったままになっていたり、鑑賞者の中のイメージや解釈で勝手に想像を膨らまして展開していく。
でもその人自身の人生は目まぐるしく変化していく。
ドキュメンタリーを見るときの作法というかわきまえが必要になるということを、あらためて思いました。
どんな場だったのか。受け手、届け手、作り手それぞれの風景。
受け手(参加してくださった方)の感想記事
届け手(チュプキのスタッフさん)のレポート。
作り手(坂上香監督)のコメント。
この日この時間、場に集った人の人生が、ふっと交錯した時間。
こういう非日常が、日常の中に据える。
非日常から日常をふりかえる。
入るときは少し緊張もあるけれど、出てきて日常に戻るときには、自分の内からほかほかと温もりを感じるような、根拠なく心強いような、世界とのつながりを感じられるような.......。
そういう鑑賞対話の場をこれからもつくっていけたらと思います。
ありがとうございました。
こちらもぜひおすすめしたい、”トークバック”製作ノート。
撮影までの経緯、撮影中のこぼれ話、もはや他人とは思えない彼女たちのその後や監督の思いをたっぷりと聴かせてもらえます。
この濃密さ!このボリューム!
まるでもう一本追加で映画を観たかのような読後感です。
当日ご紹介した書籍。 この映画から派生することの、ごく一部。
関連書籍がありすぎて、載せきれないですね。まだまだあります。
こうしてみると、わたし自身、関心から関心をつなげ、いろんな旅をしてきたんだな、と思います。
坂上香さんの「アミティ」の本が絶版なのはとても残念ですね。図書館でも読めるけれど、再版してほしいなぁ。
おまけ。
映画についてのわたしの感想。
”人は自分の中に作り上げた「牢獄」からいかに自由になれるか”
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映画『トークバック 沈黙を破る女たち』鑑賞記録
*未見の方の鑑賞行動や感じ方に影響を与える内容です。
映画『トークバック 沈黙を破る女たち』を観た。
ドラッグ、依存症、レイプ、HIV / AIDS、孤立、虐待、貧困、前科、偏見・差別、DV...
人生は必ずやりなおせる!!
どんなに苦しいときでも、新しい未来が待っている
演劇で、声を取り戻していく"ワケあり"な女たちの物語
女たちのアマチュア劇団 ---それは芸術か、セラピーか、革命か?
アタシたちをなめんじゃない!
(映画公式チラシより)
2日後に、映画『トークバック』でゆるっと話そうという対話の場を控えていて、その準備のための鑑賞だった。
いささか直前すぎる準備だが、2014年の公開当時に一度観ているので、確認程度の作業になるだろうと思っていた。
ところが、メモをとりながら観ていて何度も、「あれ、こんなシーンあったっけ?」「こんなこと言ってたっけ?」となり、当時とは全く異なる感情に襲われている自分を発見した。
ああ、そうか、前回観た時、2014年当時。
わたし自身の人生がとにかく大変な状況だった。
何か一つシーンやセリフを観ても、そのことから想起される自分の問題に引っ張られながら観ていた。
だから映画の記憶がまだらになっていたのだ。
もちろん今回もいくつも引っ張られる部分はあった。
ほとんど、女性の人生に起こることぜんぶがてんこ盛りだ。
けれども、あの人たちの語りと踊りの全身の表現に、心地よくシンクロした。
痛みも喜びも後悔も希望も、ひたすら共に味わい、
観終わった直後は、おおお、わたしもますますtalk back, speak upするぜ!という気持ちになった。
映画の公開が2014年。
ハーヴェイ・ワインスタインの性暴力が告発されたのが2017年。
そしてさらに2020年の今。
それは暴力だ、それはゆるされない、わたしは黙らない、わたしのせいではなかった、もう偽らない…とほうぼうで声が上がって、それはもう止まらない流れ。
その時間を生きてきての今。
この映画について語ることは、社会の中でも自分の中でも、ないことにされてきたものを見つけること。
あのころのわたし、わたしたちに会いに行くことだと思った。
自分が罹患者か、経験者か、当事者かどうかに関わらず、ガンガン響いてくる言葉。
過去もわたしの一部、なかったことにするつもりはないわ
自分の声を取り戻すわ
彼女たちは私たちの延長戦だから
私がいきついたのは自分をゆるすこと、それは私の選択
泣いて気持ちを分かち合うことで成長できた
女として誇りを持って生きてほしいの
You keep me strong
......
沈黙しない。
表現として出すことで、普遍性を持つ。
あなたが辛い思いをしたのはわかる。
でもね、いつまでも犠牲者でいないで!
立ち上がれ!
カッコよくてセクシーな、ほんものの自分を起動させろ!
Stand up, Sisters!!!
挑戦する彼女たちから、勇気をもらう、励まされる。
Sisterhoodをわたしも感じた。
ダイナミズムは対話だけでも起こる。
でも演劇は、詩は、パフォーマンスは、思考判断を超えて、もっとダイレクトに届く。
感覚的で、感情的で、 自由で開放的。
劇団の名前にも意味がある。
メデア・プロジェクト:囚われた女たちのシアター
The Medea Project: Theater for Incarcerated Women
王女メディアから取られている。
メディアは、エウリピデス作のギリシャ悲劇で、夫イアソンの不貞と裏切りに怒り、イアソンの婿入り先の娘を殺害し、さらに自分の息子2人も手にかけてしまう。
劇団の主宰者、ローデッサは言う。
「愛に溺れて自分を見失うこと、あるよね。でもわたしたちはメデアを責めない。女にとっての最終手段だから」
そう、非常時、戦時下で、女性が生き延びるために、やらざるを得なかったこと。
わかる。わたしたちだから、わかる。
このシーンは、とても印象深い。
杉山春さんの「満州女塾」が頭をよぎる。
このポストカードは、 先日行った松濤美術館の「サラ・ベルナール展」で買ったもの。サラ・ベルナール主演の舞台「王女メディア」のポスターの図柄で、彼女がその才能を発掘したアルフォンス・ミュシャが製作したものだ。
「トークバック」を見ることとこのときはつながっていなかったが、ローデッサの言葉を聞いた途端、思い出した。ああ、そういうことだったのか。
サラ・ベルナールはこの役をどんな思いで演じたのだろう。
また、昨年観た「私は、マリア・カラス」の中で、彼女が唯一出演した映画は、パゾリー二が監督した「王女メディア」だと知った。この頃の彼女は、オペラ界をほぼ追放された形で、新たなフィールドを求めての映画だった。
女性が自分のままに生きることが難しかった時代。
二人の女性の人生も、わたしの中でこの名に重なり、特別な意味をもって映画を受け取ることができた。
自分の担当患者とメデアプロジェクトをつなげた医師の存在も、今回とても印象に残った。
「HIVで死んだ人がいなかった」という発見、喪う悔しさ、無力感、医療の範囲を拡張する勇気。
懲罰的世界観の中では、誰が悪いかという話になる。
どっちが悪いか、どっちのせいか。
おれのせいだっていうのか。わたしのせいだっていうの。
誰が悪者かを決めるのと、
責任を問うことや引き受けることは違う。
修復的世界観の中で対話したい。
間違っても、失敗しても、やり直せる。
人生はいつだってやりなおせる。
感想を自分の味わいながら、対話の場の前に、HIV / AIDSについての基礎知識を、対話の場の前提としてもっておいたほうがよいな、と気づいて、事前に調べておくことにした。
わたしも基本的なことは知っているつもりでいたけれど、1990年代ぐらいで止まっている気がした。
HIVとAIDSはどう違うのか?
"病=死"ではないとは、どういうことか?
HIV陽性者は妊娠できるのか?
わたしは、1987年代に出版された秋里和国の漫画「TOMOI」がきっかけで「エイズ」を知った。その頃はまだ治療法など解明されていないことが多く、エイズ=死の病と言われていた。
あのショックは十代のわたしにはとても大きかった。
さすがに今はそこまでではないにせよ、
これを機にみんなでアップデートすると、きっといいんじゃないか。
そして、前提があると、対話がもっと質のよいものになる。
映画『教誨師』でゆるっと話そうのときに、日本の死刑制度の基礎知識について共有したみたいに。
そう考えて、図書館で何冊か本を借りてきて、インターネットでも医療機関などを検索して、情報を集めた。
当日は、冒頭に5分ほど共有の機会を設けてからはじめることを、チュプキのスタッフさんにも伝えた。
当日の場もすばらしかった。
またレポートに書きたい。
(後日、書きました。こちら)
いやはや。
仕事で一つの場をひらくごとに、わたし自身、たくさんの学びをいただいている。
感謝しかない。
そしてまさかあの頃は、6年後にこんなふうにこの映画に出会い直すと思っていなかった。
人生は、わからない。
だから生き続ける価値がある。
追記:2/11 レポート
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2020年・秋、東京ステーションギャラリーの大津絵展が楽しみ!
2020年の秋、東京ステーションギャラリーで大津絵の企画展があるそうです。
もうひとつの江戸絵画 大津絵(仮称)
会期:2020年9月19日(土)-11月8日(日)
うぉ!これはうれしい!!
大津絵って何?という向きには、web和楽のこの記事で予習するのもいいですが......、
好きすぎて自分でも描いてみた。楽しい。
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鑑賞対話ファシリテーター、場づくりコンサルタント、感想パフォーマー
お仕事依頼はこちらへ。
映画『獄友』鑑賞記録
映画『獄友』を観た。「ごくとも」と読む。
http://www.gokutomo-movie.com/
やってないのに、殺人犯。
人生のほとんどを
獄中で過ごした男たち。
彼らは言う
「不運だったけど、不幸ではない」。
『SAYAMA みえない手錠をはずすまで』『袴田巌 夢の間の世の中』に次ぐシリーズ第3弾!
冤罪青春グラフィティ『獄友(ごくとも)』
(映画公式HPより)
この映画を見ようと思ったきっかけ
2016年に金聖雄監督の前作『袴田巌 夢の間の世の中』を見ていた、ということが大きい。
それ以来、2018年に再審が取り消されたこと、2019年にローマ教皇来日時のミサに参加されたことなど、袴田さんのことは気になって、チラチラと追っていた。
映画でじっくりと観たかった、
袴田さん以外の冤罪事件についても知りたかった、
今現在、袴田さんはどのように過ごしておられるのか、支援者の方から聞いてみたかった、
というのが足を運んだ理由だった。
そもそも子どもの頃から、
冤罪や死刑はわたしのライフテーマであった。発端はここに書いた。
わたしがこのテーマに関心を持っているのは、罪を犯した人に対する処遇をみれば、その国の政治や権力が、人間というものをどのように考えているか、端的に知れるからだ。
わたしの中で個人的にひっそりと抱えていたこのこと。
最近になるまでほとんど誰にも話したことがなかった。
しかし見渡してみれば、実にさまざまな人がこの問題に取り組んでいて、世に伝え、考える場を持とうと各自のフィールドで取り組み、声をあげている。
そのことに勇気をもらい、わたしの立ち位置からもまた伝え、共に悩み考える場をつくっていきたいと思っている。
昨年、映画『教誨師』でゆるっと話そうのために調べたら
第一審が裁判員裁判の被告人で確定死刑囚となった人が30人以上いた。
裁判員制度は2009年に開始、10年経って、様々な問題点が出てきている。
にもかかわらず、
裁判員制度の導入からこの10年間、死刑制度の存続の是非について、大きな議論にはなっていません。また、裁判員が死刑判断に加わることについても、何も変わらないまま、今後も裁判員に選ばれた市民が重い判断と向き合うことになります。
拠って立つ刑法の不平等・不公平さ、
杜撰な捜査、理不尽な逮捕、
強引な取り調べという手続き、
懲罰と反省としての収容という根本思想...。
これらいずれに対しても疑問が大きい中で、自分が裁判員として参加することに違和感が拭えない。
まして、冤罪で無期懲役、冤罪で死刑。
可能性ではなく、ほんとうに起こる。起こってきた。
裁判員制度だから冤罪がなくなるとは思えない。
なぜなら、裁判にのる以前の取り調べの段階で、すでに冤罪は起きる。
裁判員になって、取り返しのつかないことに加担するかもしれない。
5年に一度の内閣府の調査では、大多数が存置を望む、厳罰化を望むという調査結果が出た。
しかしこれも十分に議論した上での回答とは思えない。
調査の仕方にも問題がある。
にも関わらず、それを理由に存置されるというのは、あまりにも脆弱だ。
さまざまな経緯、考え、思いを持ちながら、映画を観た。
『袴田巌 夢の間の世の中』で観たシーンもいくつか入っていた。
まだ出所したばかりの袴田さんは、獄友の桜井さんからの将棋の誘いに、「知らない人だ、帰ってくれ」と突っぱねていた。
視線も定まらず、何かに怯えているようでもあった。
次第に金監督とも応答が成立するようになり、何時間も将棋を指したり、誕生日には桜井さんと真剣の将棋を指すまでになっていた。
直前まで同じく獄友の石川さんと笑いながら指していた桜井さんが、黙って真剣に指しているところは、とても印象深い。
最初は姉の秀子さんと二人だったが、終盤には一人で外出をする姿も映る。
秀子さんの家は相変わらず片付いていて、清潔で、明るくて、風通しがよく、あたたかで、穏やかだ。まるで秀子さんそのもののようだ。
まだ無罪になっていない人がいる。
殺人犯というレッテルを貼られたままでは、まだほんとうに自分のところに自分の人生を取り戻せたと言えない。
その苦しみをまざまざと感じた。
映画には映っていなかったけれど、「ほんとうはやったんじゃないか」という心無いこともたくさん言われ続けていたのではないかと思う。
抗い続け、戦い続けること、やっていないと言い続けることが、どれほどのエネルギーなのか......まったく想像を絶する。
獄友5人の獄中生活は、31年7ヵ月、48年、29年、29年、17年6ヵ月。
全員が冤罪。
うち二人は再審が開始されていない。
もっとも社会生活を充実して営むはずだった年齢の頃を、刑務所で暮らしてきた。
これはいったい...。
いったいどういう国に自分は生まれ落ち、暮らしてきているのだろうか...。
すべてにおいて、これらの経験は想像を絶する。
それをもたらしたのはシステム。
システムを支えている一人ひとりは、その多くが善き人だ。
その善き個の力は、システムに組み込まれた途端、打ち消される、自ら引っ込める。
こんなに壮絶な体験をしてしまったら、世界への信頼を一切無くし、心身共に疲れ果て、生きる意欲もなくしたり、長年のギャップを埋められずに苦しんで、恨みで目の前が真っ暗になって、自暴自棄になって...ということがあってもおかしくないはず。
しかし、映画で切り取られた彼らは明るく、仲間を思いながら、日々を噛みしめるように、力強く生きている。
そういう面を、もしかしたら金監督だから見せているのかなとも思う。
獄友の友。
金監督が、撮っているのは、人間。
一人ひとりの生と、その人と周りの人との関係。
語り。表現。
「(こんな)行動をしよう!」や「(これ)に反対しよう!」などの明確なものを掲げた運動のための映画ではなく、やはり、「冤罪青春グラフィティ」。
観た人の中に立ち上がってくるものがあること、それが大切と言ってくれている。
もう気の毒だし、胸が痛くなるし、もしも自分や身近な人がこんな状況になってしまったらと思うと、苦しい。
けれども、映画が進むうちに、「彼らは生きているのだ」と実感する。
今、獄友たちが生きて、語り、笑い、集い、憤り、悲しみ、、表現していることに対して、深い敬意や親愛の情が湧いてくる。
だからこそ、人間が他の人間の尊厳を損ない、奪ってはならないのだと、思いを強くする。
とりわけ、社会的に不利な立場に置かれやすい、排斥されやすい人たちが、しわ寄せを被り、生命の危機に晒されやすい。
それをどのように防ぎ、守っていくのか。まだまだ成熟へは遠い。
たくさんの愛のある映画ではあるが、無念さも大きい。
どうかどうか、袴田さんと石川さんが、生きているうちに、再審無罪を勝ち取れますように。
わたしも祈っている。
袴田さんを救う会・門間(もんま)さんのお話
・救う会は、1980年最高裁で死刑判決が出てからすぐに発足した
・現在、巌さんは83歳、秀子さんは87歳。一日も早い再審無罪をと願って活動している
・1,000万筆集めたら変わるかもと言われ、途方もない数字だが集めよう!と決めた。一人の署名でもとてもうれしい、とても大事。
・釈放されたからそれいいじゃないかと言う人もいるが、「仮釈放」であり、無罪と言われたわけではない。まだ「死刑囚」であり、収監も停止されているだけ。
・ローマ教皇の訪日時は直接は会えなかったが、ミサに参加したことは大きな力になっている。恩赦も請求している。
・ヨーロッパで署名活動もした。スペインやイタリア。拙い英語だが、"Innocent Prisoner"と言って、パネルを示したらすぐに理解してくれて、たくさんの人が署名してくれた。
・浜松では人気者。声をかけて手を振ってくれる人も。警察も、巌さんが道に迷ったときに家まで送り届けてくれたり。
・死刑判決文を書いた裁判長も、人生を壊された一人。彼についての映画もある。『BOX〜袴田事件 命とは〜』。
・巌さんに、「何を考えながら歩いているの?」と聞いたら、「困る人が一人もいないように」と答えた。
そういえば、『教誨師』...。
拘置所で文字を学んだ石川さん。
先に挙げた映画『教誨師』のモデルに、心当たりが足されていく。
林真須美死刑囚...冤罪の疑いがあると言われている。
そして、先日死刑を求刑された植松聖被告...。
終わった話でも、架空の話でもなく、現在進行形。
やはり、話り、共に考える場づくりが急務だ。
場の担い手が出てくることも...。
いつもお世話になっているシネマ・チュプキ・タバタ
で観た。
もう過ぎてしまっているが、2月前半のラインナップがなにしろすごかった。
そんな骨太なラインナップでありつつ(?)、「お店」なところがやっぱり好きだ。
この日も、上映を開始するときはトイレから出てくるお客さんを待っていただけでなく、予約を入れていたけれども来館していないお客さんへ、スタッフの方が電話をかけていた。
「なんで来ないんですか?(怒)ってことじゃなくて、道に迷ってないか心配で、電話してるんです」
とのこと。
人間に人間として接するって、こういうことだよなぁ...。
懲罰的世界観から、修復的世界観へ。
わたしも行ったり来たりしながら、移行する。
_____________________
書籍『妊娠小説』『紅一点論』
わたしがフェミニズムにはじめて出会ったのがこの2冊だった。
『妊娠小説』(1997)
『紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』 (2001)
どちらも高校生か大学生のときに、友人から勧められたものだ。
読んで仰天した。
言われてみれば。
自分が、考えたこともなかった、不思議にも思わなかった、当然のように受け取っていたことに驚いたし、そんな都合のよい世界の具現が、良きものや時に高尚なものとして流布し継承されてきたことに驚いた。
そしてその次に、ものすごく気持ち悪くなった。
わたしは、わたしたちはどうしてこういうものを見させられてきたんだろう。
飲み込まされてきたんだろう。
そして、なぜ誰もそれに唱えないんだろう、という怒りも湧いてきた。
それがわたしのフェミニズムとの出会いだった。
それと、「起こっていることの構造を見る」ということの初めての経験でもあった。
今はようやくそういう背景や視点も含めて鑑賞できるようになってきた。
きっかけをありがとう。友人にも著者にも。
思えば、友人は若くして博識な人だった。
とても同じ高校生とは思えないような。
流れ込んでくる知があまりにも壮大で深淵だったので、わたしは一人では何も発見できない、何も思考できない人間なんじゃないかと、一時期はほんとうに悩んでいた。
十代の頃、特に本を通じていろんな世界を見せてくれた。
今は離れていて、どうしているか知らないけれども。
思い出すほどに、ほんとうに感謝しかない。
「ミイラ "永遠の命"を求めて展」鑑賞記録
息子と国立科学博物館の企画展「ミイラ "永遠の命"を求めて展」に行った。
金曜日の夜間開館を利用して行って、最初はおもしろく観ていたのだけれども、だんだん怖くなってきて、駆け足で流し見て、最後の写真撮影のブースだけにっこり笑って出てきた。
あちらこちらからの声が反響して
そういえば前にも、古代アンデス文明展に夜間開館で行って、怖い怖いと言いながら見たんだっけ。
怖がりなくせに観に行くし、わざわざ夜に行くし。
なんだか学習しないうちらである。
小さい頃はミイラのことを、雑誌「ムー」に出てくるみたいな、世界の神秘やロマン、わくわくするものと捉えていて、特に怖いなども思っていなかった。
今になって怖くなってきたのは、
過酷な環境の中で、死んでても殺してでも、生命と対峙し、生きのびようとする人間という種族の根源的で強大なエネルギーを、物体からびしばしと感じてしまうからかもしれかい。
野蛮とか未開とか非人間とか、そういうことではなくて。
自然界や、共同体の内や外に恐ろしいものがあって、その正体がわかっていないとき、こうなる。
しかもそれは、人間はかつてこうしていました、と遠いものとして見られない。
未知のウイルスと対峙している我々としては。
今回は、「ドイツ・ミイラ・プロジェクト」の研究結果を土台にしているということで、ドイツの博物館などからの出品が多い。
- ライス・エンゲルホルン博物館 Reiss-Engelhorn Museen Mannheim
- レーマー・ペリツェウス博物館 Roemer-und Pelizaeus-Museum Hildesheim
- ミュンスター大学附属考古学博物館 Archäologisches Museum Münster
- ゲッティンゲン大学人類学コレクション Institute of Social and Cultural Anthropology and the Ethnographic Collection
しかし、
どうしてドイツでミイラの研究が盛んなのだろう?
ということが今は知りたい。
この本を読んだら、もっと詳しいことがわかるのかも?
常設展、落ち着く…。
七人の侍〈午前十時の映画祭〉 鑑賞記録
七人の侍(4Kデジタルリマスター版)を観てきた。
午前十時の映画祭とは、
映画界を代表する映画人たちが選定した、時を経ても褪せない魅力を持つ名作を、映画業界のネットワークを生かして、全国の東宝系を中心とする映画館で、毎日十時から上映する企画。
2010年にはじまり、フィルムからデジタル上映になるなど、形を変えながら続いてきた。
10年目を迎える2020年にFINALとなる。http://asa10.eiga.com/2019/jissi.html
(...ということだと思いますが...違ってたらごめんなさい)
やっているのは、ずーーーっと知っていたのだけれど、一度も行けたことがなかった。
サウンド・オブ・ミュージック、テルマ&ルイーズ、ウエスト・サイド物語、アラビアの
思えばこれらのデジタルで蘇った映画たちを映画館のスクリーンで観られるなんて、ほんとうに贅沢
この上映に感想シェアの場(チュプキでやっている"ゆるっと話そう"のような場)をセットできたら、また違っていたかもしれないなぁと思います。
きっと、その時代にリアルタイムで観ていた人と、今はじめて観た若い人たちとの交流があり、さまざまな視点と感性が交差する、よい場になったろうなぁと思います。
自分が、映画文化の継承にまだまだ貢献できていないことを悔しく思います。
まぁでも!
きっとこれから先もある!
最後の最後になってしまいましたが、感謝の気持ちを込め、どうにか『七人の侍』を観ることができたから、よかった。
いやー、よかったです!ほんと、このタイミングで観てよかった!
4Kデジタルリマスターを映画館で。
画も音もきれいになって、台詞も聞き取れるようになって(一部よくわからないとこもあるけど)、この映画の本来の魅力をどーんと受け取れました。
この名作を映画館の大スクリーンで観る、この僥倖よ。
モノクロがとにかく美しいのです。
家のPCやTVモニターでは、ここまで実感できない。
それにね、やっぱり没頭して鑑賞することが歓迎され、貴ばれている場所で体験するってやっぱりいいものだと思います。そのための専用の館で。
襟を正すというのか、こちらもきちんと準備をして、非日常に入っていく体験というのは、やはり専用の館で、お金を払って得られることかなと思います。
これは「日常にアートを」っていう話とはまた別のことです。
尺について
きょうは207分のオリジナル版です。3時間27分。
昔、高校生のときに観たのは、短縮版でした。それでも160分あったな。
音が割れていたり、台詞がよく聞こえなかったり、画面が暗かったりして、途中で寝てしまいましたね。
207分は、まぁ長いといえば長いのだけれど、映画の作り込みが凄まじいから、引き込まれて見入ってしまいました。
未見の方には、これはぜひオリジナルの長いほうを観ていただきたい。
それと日頃から、能、オペラ、バレエ、コンサート等の舞台鑑賞、美術館や博物館などでの鑑賞、競技かるた等で鍛えているので、3〜4時間ぐらいはわりと平気で、集中力が持続します。
前の晩もよく寝て、体調を整えて臨みましたよ!
1954年製作の映画。
黒澤明14本目の作品。
戦後まだ10年経っていない中で、これを打ち立てねばという気概に溢れている。
俳優さんたちがキラッキラしている。特に木村功。なぜか三船美佳に似ている。
若いエネルギーってやはり素晴らしいな!と思う一方で、数多くの伝説を残す黒澤明の現場、さぞかし過酷だったろうなぁと想像しながらも観ていました。
あれもこれも作ったのか?
これは演技じゃなくて素でやってるかも?
いやまさか?でもあり得る...とか、脳内でいろいろ考えてしまいます。
ハブとなるもの
以前、聖書を読む会という学びの場に参加していたときに、この世界を知ろうとするときに
・ハブになっているものにアクセスすること
・その原典を「読む」こと
の2点が大事と教わりました。
今回の「七人の侍」はまさにそれだったかなと思います。
歴史を変えた映画、さまざまな映画に影響を与えた革命的映画を堪能できてよかったです。
ようやく積み残しの荷物を取りに来られたような気がします。
〈午前十時の映画祭〉
このあと残っているプログラムは、
「七人の侍」と「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ3本です。
ぜひお運びくださいませ。
過去の映画祭のラインナップは、トップページ右下のプルダウンメニューから。
残っている印象、感想あれこれ
- メタル感のある画面。まさに銀幕。
- わたしが生まれたとき、当然まだ黒澤明は現役で映画を撮っていて、『乱』の人として認識していた。その後、『夢』『八月の狂騒曲』『まあだだよ』から亡くなるまで、同時代の人だった。それがもう古典の人になっているんだなぁ!時代の移り変わりが早い。
- あり得ないことを起こす、身分・立場の境界線を持ったまま協働する。
- 強風、砂埃、大雨、泥、空腹、板の間、むしろ、寒さ......常時快適さがゼロの環境!
- 漫画『銀牙 -流れ星 銀-』を思い出す。みんな犬みたい。いや、どちらかというと、銀牙のほうが七人の影響を受けたのか。
- どうして百姓の「金にも出世にもならん」話を受けたのか、というのが実はまだ謎。まずは実際に食えることが死活問題だったから?百姓を哀れに思って?単におもしろそうだから?お互いの人柄に惚れて、ただ一緒にプロジェクト回してみたい!と思ったから?はみ出してる人たちが、人との関わりあいを通して、生存意欲を確認した?このへんの豪気・豪胆さみたいなものがよくわからなかった。
- 一人ひとりのキャラが立って、役割分担がされていく過程がなんとも絶妙。
- 「可哀想で純真なだけじゃない百姓」というリアリズム!ここを描いたのがすごい。落ち武者狩りしちゃう。。
- この映画における百姓って何を示そうとしているのか?今の社会背景からも近づけられそうな感じもある。
- 戦いの最中に発生する勝四郎の性の目覚め、久蔵への思慕なども、効いている。若さがあふれてるんだ、勝四郎...。
- 女の人が、戦争時にどういう立場になってしまうのか、もリアル。
- 三船の何をしでかすかわからない、アイスブレイカーな役割や、単純さと、一人だけみんなと違うことの劣等感や人生における複雑さを抱えた、なんとも言えないキャラクターを三船が相当入り込んでいて、すごい。
- 実際に野武士との戦いがはじまってからの、息もつかせぬ感じ。ずーっと何かが少しずつ展開していく。緊張と弛緩と、視点の置き方。すごい。そしてかなりエグい。野武士もエグいが、百姓もエグい、グロい。正義と悪とか、そういうことではない。
- 野武士あと何騎、種子島(火縄銃)あと何挺と、頭の中でこっちもカウントしていく感じ、イイ巻き込み方。
- 野武士の人たちがいったいなんなんだかよくわからない。野武士の顔や見た目も映るのだけれど、そこに寄らないので、人間一人ひとりの印象としてはない。だからなのか、野武士が襲われても、亡くなっても、こちらに痛みが走らない。逆に過剰な憎しみが芽生えるようにも描かれない。七人に魅力を感じながらも、戦の物語をこんなに引いた場所から観られるってちょっと不思議な感覚ではある。
- 今だったらちょっと考えられない、できないような無理が、人にも動物にも環境にもかかっていたんだろう。名作だけど、なんというかあらためて凄まじいものが出来ちゃったんだなとちょっと呆然とする。命がけの映画。あとは莫大なお金と...。
というわけで、いろいろ知りたくて観た
復習にトークショーもよかった。
こちらは2016年の4Kデジタルリマスター版上映記念のトークショー。
製作、撮影、時代背景が語られております。鑑賞後にぜひ。3本とも必見です!
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映画『プリズン・サークル』 鑑賞記録
*個人の主観的な感想ですが、鑑賞行動に影響を与える可能性があります。観る・観ない・感じ方を左右されたくない方は、読まずに、またはいつでも途中で退出してくださいませ*
映画『プリズン・サークル』を観てきた。
サブタイトルは、「ぼくたちがここにいる本当の理由」。
あらためて眺めると、語りを聴かせてくれた一人ひとりの顔が浮かぶ。
受刑者たちの顔にはモザイクがかけられているのだけれど、ずっと観ているうちに、次第に判別がついていく。
一人ひとりであり、ぼく「たち」でもある。
この映画を観る前に
・いじめがテーマの読書会をひらいて、
坂上香さんが監督した前作2本、
・「Lifers ライファーズ 終身刑を超えて」を観て、
・「ライファーズ」の感想を友人とZoomで語り、
・「トークバック 沈黙を破る女たち」を観て(こちらは二度目)、
・シネマ・チュプキ・タバタで「トークバックでゆるっと話そう」という対話の場をひらいて、
・冤罪被害者5人の"青春"ドキュメンタリー「獄友」を観て、
・虐待予防を考えるシンポジウムの文字起こしの仕事をして、
......ということが、ここ最近の流れとしてあった。
並べてみると、濃いな、今月...。
おつかれさん、わたし。
ほとんどどれもレポートが書けていなかったけれど、今観ておくべきだと思い、『プリズン・サークル』の鑑賞を優先した。
また、この映画はできるだけたくさん受け取りたいと思い、自分の関心を明確にしておくことを心がけて、こんな記事も書いておいた。
この映画を観た後に
当日はいつものようにメモをとりながら観て、終わってから友人を感想を語った。
(あ、でもその前に観終わってすぐ、思わずハグしてしまった。)
友人は子どものお迎えが、わたしは息子の帰宅があるので、時間の制限がある中で濃く語った。
こういうとき、わたしたちってほんとうにいい時間の使い方ができて幸せだなと思う。
制限でもあるけれど、ありがたい枠やルールにもなる。
また、
あとで感想を語る前提で、友だちを誘って映画や舞台や展覧会を観に行く。
感想を語るときは、時間を決め、脱線せずにその感想を一生懸命話す。
という文化が、わたしの周りでは定着していることもうれしい。幸せ。
友人の感想を読んだり(1回目、2回目)、一緒に感想を話したことも刺激になって、次々と言葉がわいてきた。
メモをとってとりあえず貯めておいたが、 こんな状態のまま、全然まとまらない。
とにかく今はリリースを優先しようと思うので、感想はいつものようにだらだらと書く。
個人的な主観なので、これから映画を観る方で、ご自身の新鮮な感覚が影響されそうと感じる方は、読む読まないはご判断くださいませ。
感想いろいろ
- 「ライファーズ」を観ているときも、わたしは決して他人事という構えだったわけではない。でも、国や言語が違う、ということの大きさを、「プリズン・サークル」を観て実感した。社会のリアルな実感の程度が全く違う。没頭して観た。それだけでもう、日本の刑務所が舞台となっていることの意味を感じた。
- ナレーションはない。説明の字幕は最初のほうだけ。彼らとわたしたちとのあいだに関係ができてくると、だんだんと少なくなっていく。
- わたしがはじめて対話、ワークショップ、ファシリテーションというものに出会ったのは2010年12月だった。その場のことをありありと思い出した。そのときのことはここで話した。
わたしはそれまで「わたしはわたしについてのほんとうのことを話したことがなかったんだ!」と実感し、また「こんな話し方があるんだ」という衝撃を受けた。そのとき話した内容も覚えているが、誰にも話せないことを話した。心のやわらかい、傷つきの部分に触れて、またそこを優しく聴いてもらえたことで、涙があふれたことも思い出す。 - だから、プリズン・サークルで行われているTC(Therapeutic Community)という場とアプローチに似たことは、その後も多く経験し、また自分自身も主催・進行しており、見知った光景だった。意味や意図や効果についても理解して観ている。
そういうわたしとしてこの映画を観ていて、とても不思議な感じになったのは、音声だけ聴いてて、罪を犯した背景を知らなければ、まるで「いつもの場」のようだったからだ。ほんとうに境目がない、と思った。安全な場所から「わたしだってあっち側だったのかも」と言っているわけではなくて。この感覚は奇妙だった。受刑者の中からファシリテーターを務める人もいる。
「いいことをしゃべろうとかじゃなくて、本音を話してほしい」まるで、まるでほんとうに「いつもの場」。
エレクトリカルパレードを流しながら動く自動配膳機や、私語厳禁の食事時間や刑務作業の風景を知らなければ、刑務所か刑務所じゃないか、まったくわからない。つまり特殊な人たちではない。わかっていたけれども、あらためて衝撃と共に実感した。 - わたしも感想を交わした友人も、ファシリテーターやコンサルタント、セラピストやカウンセラーという仕事をしている。つまり、人の話を聴く仕事だ。
そういうわたしたちは、人の話を聴くにあたっては、さまざまな自分自身がカウンセリングやセラピーを受け、回復し、今も常に回復し続けながら、自分を調律、調整、ケアをしながら、仕事をしている。
そういうわたしたちから見て、この刑務所内で行われいているTCは、非常にタフな取り組みだと感じた。週に12時間、半年から2年かけて参加するプログラム。 - 刑務所以外であれば、日常の中に逃げ込める先がたくさんある。家事をしたり仕事をしたり、自由に移動もできるし、気晴らしをしたり、あるいは別のものに依存することもできる。でも、刑務所の日常は、取り決めがあって制限されている。自分の気分で食べたいものを選ぶこともできないし、服はみんなと一緒だし、ヘアスタイルは丸刈りにしなくてはいけない、いつ何をするかが徹底して決められている。
- そんな中で、プログラムを受講して、徹底的に自分と向き合うことが求められる。服役という同じ状況の同じ性別の人たちが、同じプログラムを受けているという特殊な環境。だからこそ回復が早いとも言えるのかも、という話をした。それから、TCを受けることは回復であると同時に、過酷な懲罰なのかもしれないとも思える。
- 彼らは普段は番号で呼ばれるのだという。TCのときだけは名前で呼ばれる。刑務所ないで激しく罵られたりもする。TCのときは目を見て話を聴いてもらえる。「ライファーズ」の感想を話したときに、友人が「懲罰ってなんだろう?」「懲罰と回復って両立しないのではないか?」という問いを出してくれたことを思い出した。懲罰というのは、名前や服や会話を奪われること?罵倒して同じような怖い思いやさらなる恥辱を味わせること...?人間性を奪うことと、人間性の回復とが同時にある場所。ここはまだ混乱している。
- 「人間を番号で呼ぶのをやめてほしい」と思った。たとえば、そういう要望って、誰にどう言えばいいんだろうか。あるいは、どうしてそうすることになっているか、誰か説明してくれるのかな。
- 以前、男性による男性のための支援関係があってほしいということを何本か書いたけれど、プリズン・サークルで描かれていたのはまさにそれだったかなぁと思う。「怖かったし、嫌だったよね、悲しかったよね」という労わりあいや、「どうしたの?」「大丈夫だよ」「一歩一歩やろう」「一緒に考えよう」という共感や親愛の表現。「相談してね」「よく話してくれたね」という受容。
- 競わされて、強くなれ、弱さは命取りだと脅されてきて、「一緒に戦える奴なら存在していてもいい」となってしまった結果がこうだとしたら、そうではない関係、Brotherhoodが、なにかここにはあるような気がしたよね、とも話した。
- TCを経験した人たちは、「生まれ直す」という経験をしているようにみえた。
聴いてもらえなかった、見てもらえなかった、大事にされなかった人たちが、自分の表現、言葉の力を奪われて、損なわれて、信じられなくなって、使えなくなっていった過程に目を向けて、一つひとつ、時間をかけて言葉を取り戻している。感情の名前を教えてもらいながら、誰とどんなつながりを持ちたかったのか、どんな切なる願いがあったのか、自分が歩んできた道のりを自分の言葉で語る試みをして、言葉を取り戻していっている。 - 最初はぼんやりとしていて、何を考えているのかわからなかった人が、どんどん輪郭を際立たせて、生命力に満ち溢れていく様は、胸に迫るものがある。感情や言葉や人間性を取り戻すと、悩むし苦しくなる。映画「ハウルの動く城」のラストで、「ウッ、なんだ、身体が重い」「ハウル、そうなの、心って重いの!」というセリフを思い出す。
- どんな人間にも日常と非日常が必要なのではないか、ということをここ数年いろいろな人といろいろな取り組みをしてきて、考えている。わたしも日常の中に鑑賞や競技かるたや旅行などの非日常の時間を組み込んでいる。そこでは日常にいては見えなかったことが映し絵になっている。そこで省みて発見し、得たものをもって再び日常に戻る。行ったり来たりすることで、どんな過酷な環境でも、人間は正気を保ちながら、生きていける。
刑務所の受刑者たちにとっては普段の生活や刑務作業が日常で、名前を取り戻し、会話をしながら、過去を辿りこれからの人生を考えるTCが非日常になる。TCとTC以外の時間を行き来している。 - 「犯罪傾向の進んでいない男子」を対象に行われているプログラムとのことだが、「Lifers ライファーズ 終身刑を超えて」を見ると、累犯受刑者たちの再犯率低下の有効性も証明されている。こちらも作品として記録として存在することが大きな希望だ。
- 男の人が子どもを出産をすることは今のところないわけだけれど、でも男の人だって、自分で自分を「産む」ことができる、と常々思っている。プリズン・サークルで起こっていたのは、適切な表現なのかわからないけれど、鉗子をつかって引き出すというよりも、言葉が産み出されるのを、その人がその人を産むのを、男の人たちが助産していたようにも見えた。そこにあったのは「応援」「約束」。
産み出す力は一人ひとりにある。分娩の過程も人それぞれ。 - どうしてそのイメージがあるかというと、最後に出所していく一人の元受刑者の顔を見たときに、ほんとうに美しかったから。わたしが息子を出産したときのことを思い出した。そういえば生まれたばかりの人間ってあんなふうに、曇りのない眼で世界を見ていたっけな。
- 人の話を聴く、自分が話す。そのことによって回復していく。
え、聴くとか話すとか、そんなことなの?それだけなの?という感じだと思う。もちろん適切な環境や聴く作法、話す作法はあるし、 十分にトレーニングされた人が場を運営しているわけだけれど、それだってものすごく特殊なものではない。「だって誰だってこういうときは緊張しちゃうよね?」とか、「こっちのほうが話しやすいよね」とか、そういうhumanityに基づいて設えられている。ほんとうにすごく簡単なことなのだ。でもそれが難しいのは、なぜなんだろう。
- ここは刑務所だ。そのことに何度も混乱するし、胸が痛くなる。聴いてもらえなかった、見てもらえなかった、言葉の力を信じられなくなった、自分や他人を損なうことでしか自分の存在が実感できない......その痛みをケアし、人間性の回復を目指す場が、刑務所の中だということに、言いようのない無念さを感じる。
映画の中でも、「もっと早くやるべきだった、TCとかそういうことじゃなくて」と話していた受刑者がいた。思わず「それはあなたのせいではなく...」と言いたくなった。
ほんとうにその場が、刑務所より前に、できるだけたくさんほしい。 - 彼らが持っているファイルの厚みに目が留まった。犯罪の起こる仕組みや、人間関係の築き方、話し方聴き方、いろんなことを学んでいる。毎回配布された資料が綴じられているのか、あるいは資料の束が綴じられた状態で渡されるのかはわからないけれど、テキスト(教科書としての)だけではなくて、自分で記入したものもおそらくたくさん綴じられていて、その経験と学びの蓄積を感じた。
- 虐待防止のシンポジウムの中で、「虐待という現象として表出しているだけ」という言葉があったけれど、まさにこの映画を見ていて感じた。どう表出するかは、ほんとうにぎりぎりのところの分かれ目というだけなのだと思う。それが、詐欺、窃盗、殺人、虐待、DVに向かう場合もあれば、病気、自死、自傷に向かう場合もある。たまたま自分以外への犯罪に振れたときに、刑務所にいくことになるけれど、振れたほうによって病院になったりする。いずれにせよ、人間の苦しみの表れ方のひとつ、にすぎない。
- どこで回復の場に出会えるか、ということだけで。犯罪に振れて刑務所に入るとき、この島根あさひ社会復帰促進センターに入ることも、TCを受ける確率もものすごく低い。(日本の受刑者4万人強のうちの、40人/クール)
- 虐待にせよ、窃盗にせよ、表出した現象だとしたら、言葉をもっと的確なものに再定義していったほうがいいのではないかと思った。その言葉が含んでいるイメージを超えて、一つひとつ、背景や構造も含めて、再定義していく。単にカテゴリとイメージとして、「加害=悪、罰せられるべきこと、被害=可哀想なこと」のような、単純なものではなくて。
- この映画を観ることで、救われる人がいるのではないかという気もした。
間接的にTCのプログラムを受けることができる。
実際わたしは、この映画を観ることで、癒えていく自分の傷があった。彼らと一緒に自分と向き合うような136分間だった。
だから、いろんな人に観てほしいと思うのは、こういう理由もある。
誰でも、何かしら、被害の体験、加害の体験をもっている。向き合って反省して...ということではなくて、ただ、それを抱えていることを赦してもらえる。そういう温かな時間でもあった。 - 坂上監督の作品は暴力的なシーンはない。もちろん、人の語りの中には、過酷な環境で生き抜いたことが含まれているけれども、それは観る人を損ねようとか、社会の辛い現実を直視させようとか、そういう意図はない。わたしもその場にいて、じっと語りに耳を澄ませている、というような時間だ。その人が今目の前にいて、真摯に自分の実感とつながった言葉だけを話しているとき、内容が何であれ、思わず聞き入ってしまう。
被写体といつもそのような信頼関係をつくっている人なのだろう。 - 一つ自分の中でクリアになったのは、「誰かを罰したいのではなくて、その行動をしないでほしい」ということだ。すごくシンプルに。窃盗、詐欺、強盗殺人、傷害致死...という行動をしないでほしいと思っている。
でも「なぜその行動として表れるのか」の背景や出元を人間を中心に聴いていかないと、止めることができない。
そう思ったのは、加害のときに乖離が起きている受刑者の語りがあったから。
だから、やっぱり予防というのは聴くことや、安心安全な場(環境や機会や関係)を社会にたくさんつくることしかない。それも、できるだけ年齢の低い時期から。
ふりかえり
感想を書きはじめたら、ずいぶんとたくさんになってしまった。
これでもほんのさわり。肝心なことが書けていないんじゃないかという気がする。
そのぐらい、受け取ったものがたくさんで、ほんとうに幸福な鑑賞体験だった。
このタイミングで、この映画に出会えたことがうれしい。
わたしも暴力の連鎖を終わらせたいと願っている一人だ。
誰もが、生きているうちに、なんとか間に合ってほしい。
この映画を見た人たちは、きっとそれぞれのフィールドで、それぞれの切実さで、それぞれの専門性で、やっていくだろう。
観た人とのあいだに不思議な連帯を感じる。
実際に観て話した人は数人なんだけれど。
きっとみんなそうだ、という不思議な手応えがある。
わたしの職分からは、やはりこれを言いたい。
いまこそ、いろんな「サークル」で対話や議論をしよう。
わたしたちがないことにしてきたもの、
ずっとあったけれど、ほんとうはなんなのかよく見てこなかったもの、
怖くて、なかなか一人ではみることができなかったものの姿を見よう。
定義し直そう、新しい表現を与えよう。
人間のことを大事にした、安心安全で健やかなサークル(場)なら、怖くないし、そのことで傷ついたりしない。
むしろ育みあって、希望を分かち合って、生まれてきて、生きてきてよかったなと思える。
そういう仕事をこれからもやっていく。
◆過去作品
『トークバック 沈黙を破る女たち』
『プリズン・サークル ぼくたちがここにいる本当の理由』
◆制作団体・out of frame
http://outofframe.org/index.html
◆坂上香さんの著書
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今すぐプラドで実物を観たくなる、映画『プラド美術館 驚異のコレクション』鑑賞記録
*個人の感想ですが、鑑賞行動に影響を与えると思います。公開前ということもあるので、左右されたくない方は、読まずに、またはいつでも途中で退出してくださいませ*
試写状をいただいて観てきました、『プラド美術館 驚異のコレクション』
2020年4月10日公開の映画です。
観るにあたっては、まずこれが基礎知識ですね。
プラド美術館(Museo Nacional del Prado)とは
- 公式HP(英語版)https://www.museodelprado.es/en
- スペイン・マドリッドにある国立美術館。
- 2019年11月19日。開館200周年を迎えた。つまり開館は1819年。神聖ローマ帝国滅亡後、フランスに対する独立戦争が興り、ナポレオンのスペイン領制圧を経て、独立戦争が集結し、スペイン王が再興した頃。ゴヤはオープンのときまだ存命だった。
- 所蔵作品は、15世紀から19世紀にかけての代々のスペイン王家のコレクションが中心。
- 所蔵品は油彩画、素描、版画、彫刻など、2万点超。展示されているのは、このうちの1,000〜1,500程度。また3,000点が他の美術館(企画展等)や研究のために貸与されていて、残りは収蔵、修復の状態。
- 所蔵作品自体の時代は、12世紀のロマネスク様式の壁画から、19世紀のフランシスコ・デ・ゴヤまで。特に16世紀、17世紀の西洋美術を代表する重要な作品を所蔵する。
- エル・グレコ、ティツィアーノ、ムリーリョ、ズルバラン、リベラ、ソローラ、ヒエロニムス・ボス、ゴヤ、ベラスケスなどの芸術家による重要な作品を所蔵。特にゴヤとベラスケスの作品群は世界一の規模。
実はわたしは、13年ぐらい前にスペインを旅行したことがあるのですが、マドリッドでプラド美術館に行ったのかどうか、記憶がないのです。
マドリッドにいてプラドに行かない...ってそんなことあり得るのか、って感じですが...。行ったけど忘れたのかな。うーん。
ソフィア王妃芸術センターでピカソの『ゲルニカ』を観たのはありありと記憶があるのに。こちらは20世紀現代アートを所蔵展示している国立美術館です。
こちらも大変見応えあります。プラド美術館からは徒歩10分。https://www.museoreinasofia.es/en
さて、映画の話。
どんな映画か。
うーん、これはもうほんとうに語り尽くせない要素がたくさんあります。
ほんとうに膨大な量のことが次元や時間や地理を超えて、ぎゅっと詰まっていて。
まずは印象としては。
とにかく非常に気合いの入った、プラド美術館のプロモーション映画。
スペイン(もしかしたら、マドリッドを中心としたスペイン、かもしれないけれど)の誇るプラド美術館を、この200周年と機に世界に再び発信するんじゃーい!!という気概を感じます。
プラド美術館が持っているのは、いわゆる古典と言われる時代の作品。
国の宝ではあるけれど、ただ所蔵して展示替えしていくだけでは、ただの昔の古いもの、観光資源としての消費の産物。
そうではなく、今の時代を生きるたちとして、ここまでの文脈・鉱脈を辿りながら、どのように新たに解釈して価値づけし、次代に遺していくか、その挑戦の一環としての映画製作なんだ......ということをわたしは受け取りました。
プラド美術館はなんのために興り、なんのために存在しているのか、そしてこれからどんな価値を提供していくのか。
どんなコレクションを持っているかのビジュアルの確認なら、ウェブサイトを見に行けばよいわけですが、(これはこれですごい贅沢なページ...>Collection - Museo Nacional del Prado)
人間って「有名だから関心を持つ」わけではなくて、必ずそこに橋を架けてくれる存在がある。
この映画で言えば、
スペインにルーツを持つ人、プラド美術館に携わる人にとってなんなのか、という語りや物語の体験を得ることで(編集や脚色も含め)はじめて、どんな価値があるのか、どのように見たらいいのか、「わたし」にとっての価値は何か、を考えられるようになる。
とにかく、プラドは誇りなんだ、プラドはすごいんだよ、と思っている人たちの姿をみるだけで、何をか感じざるを得ない。
惜しむらくは、「これからの構想」をもう少し観たかったな。
映画でインタビュイーとしても出てくる建築家のノーマン・フォスター卿がプラド美術館200周年記念事業「諸国王の間」のリノベーションを担当しているそう。
それがどういう計画で、何を目指しているのか、というところまでもう少し観たかった。
まぁ、この映画を作っている段階で出せることがこの範囲だったのかもしれないけれど。
ちなみにノーマン・フォスター卿の「卿」という称号。LOAD。もともとの爵位なのか一代の称号なのか。
映画『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』を観たときも、へえ、イギリスってそういう一代だけの称号とかがあるんですね、と思ったんでした。
メモがわりにこの記事を貼っておきます。また調べる。
美術ドキュメンタリーというジャンル
映画の印象としては、昨年観たこちらを思い出しました。
「プラド美術館」もつくりがけっこう似ている。
圧倒的な情報量の多さと、かなり振り切ったストーリーの編集、脚色がある。
ナレーション、作品、インタビュー、関連風景がメインで、俳優を使った演技や再現シーンなどはないけれど、音楽も含めて、かなりドラマティックな仕立て。
単なるドキュメンタリーを超えて、実際にあるものを材にとりながら作られた、こういう一つの創作ジャンルという感じ。
なんと呼べばいいのかまだ名付けられないけど、今回は「美術ドキュメンタリー」と呼ばれていたので、わたしもそのように呼んでみることにします。
こういうジャンルを映画として展開する流れが、ここ3年ほどきているなぁという印象です。
「これこれこういう人、こういう物としてのイメージがあるけれど、実は今の時代としてあらためて見てみると」という切り口や編集で語り直されている、出会い直しに橋をかけてくれています。
画家、彫刻家、歌手、映画監督、、など、いろんなパターンもありますね。
知っていた人には新鮮な視点を。
知らなかった人には出会いのきっかけを。
映画がますます幅を広げ、進化していってるなぁという感じがします。
だれにとっておもしろいか。
これは完全にわたし個人の見解です。
とにかく情報量が多い。盛り盛りです。
固有名詞もたくさん出てくるので。
歴史的、文化的背景の基礎知識も要求されます。
なんらかの自分のバックグラウンドと引っかからないと、辛いかな、という感じもします。
...ああ、あの絵どっかで見たことある、名画って言われてるやつだよね。
...よく覚えてないけど世界史で暗記した中にある。
...スペイン、イタリア旅行で観光したなぁ(これから行ってみたいなぁ)。
など、
何しらヨーロッパの歴史の流れや、その土地に身体を運んでみた経験、あるいは根本的な関心などがあったほうが楽しめます。
ざっくりとでも。
それがないと、どうしても情報と映像の洪水、という感じになるかもしれないです。
基本は既にあって、そこに流れをつくって、新しく魅せている。
ある文化圏、ある関心層の人にとっては既知のことは、一から説明しない。
NHKスペシャルなら、日本の人にとっての文脈を添えてもらえますけどね。
もちろんその文化にいなくても、関心が薄くても、「これによって新たに知る」ということもあるかと思います。
それが映像の力だと思う。
美術、芸術、スペインの歴史のことをもっと知りたかった!
という人にとっては、わくわく楽しい美術館ツアーです。
乗り物で連れて行かれるアミューズメントパークのアトラクションみたいです。
いろんな知識欲が刺激されて、
あとでこれ絶対調べよう!
そういうことだったのか!
そういう面もあったのか!
など、Amazing!な体験が続くので、いっときも目が離せません。
なんというか、「速い」のですね。
視覚的、感覚的、思考的にとても速い。
どんどん話題やテーマが展開、転換していく。
処理の速度が要求されている感じがする。
これについていけるとすごく楽しい。
だけれど、「間(ま)」がなさすぎるのと、絵の中の物語と、当時の時代背景と、現在との時間軸が行ったり来たりするので、集中していないと振り落とされてしまう。
振り落とされるというのは、処理が停止して、映画と自分との間が断線してしまう状態です。
観るときはぜひとも前日によく寝て。
そして、鑑賞中は集中できる環境をつくるとよいと思います。
振り落とされちゃったと思われる方々が、わたしの周りでよくお休みになっていましたので...。
映画『クリムト エゴン・シーレと黄金時代』のときは吹き替え版でしたね。
字幕版でこの情報量だから余計にキツいんだろうなぁと思っていましたら、やっぱり吹き替え版もつくるんですね。よかった。
今井翼、プラド美術館の魅力映すドキュメンタリーで吹替を担当(コメントあり) - 映画ナタリー
余談ですが、
『みんなのアムステルダム国立美術館へ』は、カッコよさとか、ドラマティックとか、情報の処理などとは無縁で、のんびりとしていて、可笑しくて、こういうのもよかったです。
感想いろいろ
参考になるのかわからないので、自分のメモ書きとして。
- 「それってそういう絵だったのか!」「この人そういう人だったのか!」
基本的に鑑賞者はどんな作品でも展示物でも自由に観て、自分なりの印象や感覚を持ったらよいのですが、古典絵画の読み解きに関しては、一定の学説に基づいた正解があるので、それを踏まえていないと十分に味わえない部分があります。それを映画の中ではたくさんの作品を挙げながらずーっと見せてくれます。王朝、戦争、同盟、宮廷内での私的な出来事など。
あとは画家と宮廷との関係、画家の人生ももちろん。 - 旅行でトレドのエル・グレコ美術館に行ったときに、たくさんの作品を観て、自分の中に一定のエル・グレコの解釈があったのですが、この映画でそこに新たな光が当たったというか、色彩が加わった感触があります。
- スペインおよびヨーロッパの歴史を美術・芸術の面からおさらいしているけれど、あらためて膨大で細かいなぁと驚嘆です。当地の歴史の教科書ってほんと一体どうなっているのかしら...。とりあえずこういうものも調べながらプレスシートを読んでいる。もっともっと歴史をわかりたい。
- もちろんその中でも、いろんな解析技術の発展や、修復の過程で発見される新しい事実があって、そこからまた解釈が広がって、ということがずっと行われている。その、美術館の裏側で起こっている壮大な営みを感じられます。
- 冒頭で館長、副館長、修復担当者、建築家、俳優、舞踏家など、そのあとも映画全編を通して登場してくるインタビュイーが、自分の「推し作品」を挙げていくところが好きです。「気分や時間帯によって選ぶ絵が違う」...そう、やっぱりそうですよね!
- それぞれの絵には経緯や記号や意図があるけれど、収集は「特別な戦略はなく、心の赴くままに」していったというところが、いい。
- 修復担当の人の語りが詩的でよかった。「絵が語る声を聞いて」とか。偏愛に導かれて仕事をする裏方の人の話っていい。修復の部屋が天井が高くて、柔らかい光の明るい部屋なのが印象的。
- その時代の人にとって絵画とはどういうものだったのか、を追っていける軸もあってよかった。「官能的な絵」の話題のところとか。
- どうしてスペインにヒエロニムス・ボス(フランドル)やティツィアーノ(ヴェネツィア)のコレクションがあるの?という疑問が、歴史の流れと共に説かれて、とてもわかりやすかった。
- 現代もほぼ同じ製法で作られている芸術や工芸の工房が映るところも印象深かった。タペストリーの工場、金細工の工房。今も世界のどこかで、このような職人が技法や伝統を受け継いでいっているんだ、という驚きと喜びと感謝が湧く。
- 女性の画家、静物画、裸体画、セクシャリティ、アイロニー...当時は理解や受容がされなかっただろうものが、今見ると最先端!
誰の言葉だったか忘れたけれど、慌ててメモに走り書きした。
人間は自分たちが想像するよりはるかに大きなそんんざいです。
美は魂が喜ぶこと。
美は私たちの心を動かし、窮地から救ってくれるのです。
芸術は日々の生活のほこりを魂から流してくれます。
ほんとうに、そう思う。
「暇で恵まれた人が余剰や余暇の範囲で楽しめばよい」というものではない。
なくてはならない、人間の普遍的な営み。
それを思い出させてくれる館の存在。
伝統と革新。
勇気づけられる映画でもありました。
おまけ。
ナビゲーターがジェレミー・アイアンズ!
個人的に「おお...」と思ったのは、ジェレミー・アイアンズがナビゲーションしてくれるところ。
世界的に有名な俳優で、有名な作品いろいろありますが、
わたしにとってはもう、デヴィッド・クローネンバーグ監督『戦慄の絆』の人!
これしかないって感じです。
1988年の映画で、ジェレミー・アイアンズが一躍有名になったきっかけの作品です。
たしか中学生か高校生のときに観たんです。
今観ても絶対おもしろいと思うなぁ。
そういえば、ジェレミー・アイアンズはイギリス、ワイト島の出身。
先日観たMETオペラ『蝶々夫人』の演出を手がけた、アンソニー・ミンゲラもワイト島の出身だったなぁ。ここでもつながってくる。
そうだ、そしてわたしは、プラド美術館に行ってなかった疑惑があるので、
生きているうちに行きたい!
短時間での回り方を親切に書いてくれてる人がいたりする。
まぁそうだよね。膨大なコレクションだから、時間がかかるだろうねぇ、と想像する。
行く前にまた予習して、映画「プラド美術館」で出てきたやつだ!と言いたいですね!
公開は、2020年4月10日です。お楽しみに。
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鑑賞対話ファシリテーション、場づくりコンサルティング、感想パフォーマンス
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『夢のユニバーサルシアター』とシネマ・チュプキ・タバタとわたし
映画のあとに観た人同士が対話する「ゆるっと話そう」という場をひらかせていただいている、シネマ・チュプキ・タバタ。
その代表をつとめる平塚千穂子さんのご著書、『夢のユニバーサルシアター』を先月ようやく読み終えました。
少し読んでは胸がいっぱいになり、「うーん、今日はここまで!」と本を閉じ。
またしばらくして別の日に開き、少し読んでは反芻し。
......と、なかなか読み進めるのに時間がかかりましたが、ようやく最後まで行き着きました。
とても読みやすい本なんですよ。
その気になればたぶん1時間ぐらいで読んでしまえる。
でも、どうしてもそうしたくない感じがわたしにはあったんです。
2019年6月に、映画『沈没家族』の配給元・ノンデライコさんに紹介していただいて、はじめてチュプキを訪ね、「鑑賞対話の場をひらかせていただきたいんです」とお願いしました。
平塚さんは二つ返事でOKしてくださいました。
「わたしたちも、チュプキの前のスペースで、映画を観たあとに感想を話してたんですよ〜。でも今はなかなかそこまで手が回らなくて。ぜひやりましょう!」と。
そこでひらいたのが、「沈没家族でゆるっと話そう」。
「ゆるっと話そう」というタイトルも、平塚さんがつけてくださいました。
それから毎月ひらかせていただき、2月の上旬にひらいた『トークバック』で9回目となりました。
スタッフの宮城さんとも一緒に場をつくることができて、ほんとうに毎回毎回喜びがあります。
その喜びには、いろんなものが詰まっているのだけれど、大きいものとしてあるのが、やはりこれ。
- 観客同士で対話することの価値を共有している
- 鑑賞対話ファシリテーターの専門性を理解してくださっている
この2つがあるから、ここで場をひらくお仕事が成立できています。
この価値の共有ができているのはなぜなんだろう。
平塚さんの、チュプキの、何に由来しているんだろう?
と常々思っていたのですが、本を読んだらなんとぜんぶ書いてありました。
「うちでも昔やっていた」と平塚さんがおっしゃっていたことの詳細がありました。
たくさんの人が、それぞれの人生を歩んでいるこの世界で、同じ時に同じ映画を、同じ場所で観ているというのは、偶然で片付けてしまうことはできない貴重な出会いだと思います。映画を観たら「さようなら」ではもったいないと、入場料にはドリンク代も含め、ゆっくりお茶を飲みながら作品の感想を語ってもらえる時間を毎回設けることにしました。ただ、いきなり知らない人の前で「感想を」と言っても話しづらいと思ったので、「どういう経緯でここに来てくれたのですか?」「どのシーンのどの言葉が印象的でしたか?」などと私たちから話しかけていって、皆さんの会話を促していきました。(p67 『夢のユニバーサルシアター』)
館の人で、やってる人が、いた!!!
いや、知ってはいたんですが、そういうことだったのかぁ......と文脈ごと、ほんとうに理解しました。
そして、本の他のページからも、
- みんなに映画のよい体験をしてもらいたい。
- やったことがないけれど、まだこの世にないけれど、でもきっとこれをやったらみんなにとっていいことがある。
- こういうのがあったらいいなって思うなら、それはきっと必要なこと。
- ずっとやってみたかったことを、やってみよう。
- チャレンジしてみよう。つくってみよう。だめだったらまた考えよう。
- 小さく確かな手応え、手触りを信じよう。
こんなこともたっぷりと受け取りました。
(実際にこの通りに書いてあったわけではなくて、わたしの受け取ったものとして)
ああそうか、だからわたしは、あんなにもするりと受け入れていただけたのだな、
チャレンジを応援していただけたのだな、
場を任せてもらえたのだな、
とあらためて深く感謝の気持ちがあふれました。
観客同士が対話する場があることは、価値である。
その劇場の特色になり、集客に貢献し、よき循環を生み出す。
そのことを劇場の人、館の人が知っていて、認めてくれている。
どう説明すればわかってもらえるんだろう、どうしたら信頼していただけるだろうと、自分の仕事の展開についていつも頭を悩ませてきました。
でも、あれこれ説明しなくても、
「ああ、あれのことね、あれをしたいのね、それはいいわね、あなたなら大丈夫ね
と、言ってくださる館の人が存在した!
現にここにいる!
ということは...他にもきっと平塚さんのような方がいるはずだ!!
ということなんだな!
映画館に限らず、館の人。
作り手の人、届け手の人、きっといる。
平塚さんの前向きなエネルギーが伝染します。ふくふく。
この本は、映画館を作ってみたい人、聴覚障害や視覚障害をもった人、
あるいはその支援をしている人の役に立つのはもちろんのこと、
すてきなアイディアを持っているけれど、本当に実現できるんだろうか?
と半信半疑だったり、まだ今少し勇気が出ない人の背中を強く押してくれます。
何をしたか、
何が起こったか、
そのときどんな気持ちだったか、
そのときどきで何を大切にしてきたか、
一貫して何を大切にしてきたか、
が詳細に綴られています。
平塚さんがラジオ番組で話されているのを聞いたり、イベントのトークを聞いたり、 お会いした時に断片的にうかがっていたお話が、こうして一冊の本として、一つの物語として綴られている、まとまっていることが、わたしにはとてもありがたいです。
ライブで聞く話には、それはそれで、すごく受け取るものがある。
でも、文字や文章や本という表現形式だからこそ受け取れるものもある。
自分の好きな場所で、好きなペースで、何度でも味わえるのは、やはりいいよね。
わたしが今仲間と書いている本も、誰かにとっての、そんな存在になるといいなぁ。
それから、わたしも、チャンスをあげられる立場になったときには、チャレンジする人をどんどん応援したいなぁ。
チュプキ設立時のクラウドファンディングにはタイミングが合わなくて関われなかったのですが、今見てもあたたかい思いが詰まっていて、このページは素敵です。
この頃、平塚さんや、支配人の和田さんがどんな道の途上で、どんなことを考えていたのか、本を読むと、そのドラマを時間差で体験させてもらえます。
シネマ・チュプキ・タバタは、映画をめぐる新しい文化の発信地。
「お店」のような気軽さ、人とのほどよい距離感と、居心地の良さがあります。
「こんにちは、きょうなんか美味しい映画ある?」
「きょうはねー、あったかい気分になりたいなら、この映画がおすすめですよー」
そんな会話を交わすまちの定食屋さんみたいな、おみせみたいな映画館。
本を読まれた方は、ぜひほんもののチュプキを訪れてほしいです。
シネマ・チュプキ・タバタ
バリアフリー映画鑑賞推進団体City Lights(チュプキの運営母体)
鑑賞対話ファシリテーター・舟之川聖子
「弱法師」能楽師コメンタリー上映 鑑賞記録
お能のコメンタリー上映という、画期的なイベントに行ってきた。
https://www.sunny-move.jp/sunny/speventinfo/
能が上演されている映像を流しながら、能楽師の演者が一人、楽器奏者が一人、それぞれの立ち位置から、どこで何が起こっているのかを解説してくれるものだと思われる。
何の演目を観るのか、申し込み時点では不明でした。
でも、これは行ってみたいぞ!と思ったのは、リード文にグッときたからなのです。
能を観慣れない人からすると、そのパフォーマンスは一切隙のない完璧なひとつの構造体のように思われます。
しかし人の手によって築かれた芸術であるからには、そう易々と成り立っているわけではありません。
生の舞台を淀みなく遂行するための能楽師たちの暗躍がものすごく小さな単位で目の前にあふれていることに、
観客は気付く余地もありません。それはとてもスリリングではないでしょうか。
知る必要はないかもしれないけれど、知るとその凄味が迫力を増します。
能の静謐な舞台で密やかに巻き起こっているあらゆることを、目と耳を凝らして追いかけてみます。
特に、
知る必要はないかもしれないけれど、知るとその凄みが迫力を増します。
というところが好き。
コメンテーターは、
のお二人。
「弱法師」の公演映像を一曲まるまる流しながら、シテ方と小鼓方の能楽師さんが掛け合いのコメントを入れていく。
おもしろかった!!
なんとなんと、聴いてみたかった話がどんどこ出てくる。たとえば、
・舞台のどんなシーンで、どんな感覚でいるか、何を考えているか、何が見えているか
・舞台に出るまでに何をしているか、どんな心境か
・身体的なことも含め、どんな役作りをしているか
・何をどこまで決める権限があるか、どこまで自由か
・どんなふうにその作品や登場人物を解釈しているか(超個人的、超主観的に)
・何を大切にしているか
・あなたにとってお能とは
特にグッときた話は、
・舞台で恐怖心がある。朝起きて行きたくないぐらい嫌。でも幕から出るとだいじょうぶ。おそらく記憶することに対する恐怖心がある。
・各流儀による謡の違いがあり、一文字違うと鼓を打つタイミングがズレてしまって破綻する
・能は到達すべき点があるが、技術点を狙っていくのではなく、未知のことに挑戦していく気持ちを持ちたい。そして相反するようだが、実は破綻しているほうが、人間惹きつけられる
・ありとあらゆるトラブルを自分の中にストックしておく
・アクシデントが起こる可能性を徹底的に排除することと、人に訴えられるものをつくる、その狭間にある
・お稽古は、ぶち壊されること。こうやったらいいと教えてもらうことではない。(ある程度の水準になったら、ということかな?)
わぁ〜これを書きながら思い出しても、やっぱりいい時間だったなぁ。
教科書に書いてあるような、客観的で正しいことではなくて、ご自身の実感や感情や心境や体感の話が聞けたことが、すごく貴重だった。
それに加えて、ご自身の役や流派、経歴などの立ち位置が掛け合わされて、唯一無二の感覚としてシェアされた感じがした。
あくまでわたしの個人的な感覚だけれど、
パフォーマー、アーティストの方は、その芸や表現、作品やパフォーマンスを見てもらうことが最も重要なので、そこまでの制作過程、思考・思想、その人自身の人生と表現の関わりについて、出すことを好まれない方が多いように感じている。
特に伝統芸能に携わる方が、自分の実感を話す場というのは、なかなか珍しいし、貴重だと思う。
ワキ方能楽師の安田登さんは講座、講演、執筆など多数されていて、ざっくばらんな感じで表現されているけれど、お能の世界全体からいったらやっぱり特殊だろうなぁという気がする。
「弱法師」も観てみたかったので、こんな贅沢な解説で予習ができてうれしい。
この曲について聞けば聞くほど、今のわたしたちの社会で起こっていることの映し鏡という感じもする。600年も前の作品なのに、とても今必要なものを見せてくれている。
まだ記憶が新鮮なうちに観たいなぁ。
自分なりのペースで少しずつお能のことを知っていけるのが、いつまでも、喜び。
★「能ってなんなん?」シリーズ。よかったら聴いてください。
蝶々夫人@METライブビューイング 鑑賞記録
オペラ鑑賞でもいつもお世話になっているライブビューイング。
映画館のスクリーンで、迫真の映像でメトロポリタンオペラ(松竹系)やロイヤルオペラハウス(TOHO系)の舞台が観られてしまうというもの。
過去に観た作品の感想を書いたものはこちら
椿姫
魔笛
トスカ
アイーダ
サムソンとデリラ
マーニー
さて。
今回観たのは、『蝶々夫人』
https://www.shochiku.co.jp/met/program/2085/
わかりやすい新国立劇場のダイジェスト動画。
わたくし初鑑賞。
しかも「日本が舞台で芸者が出てくる悲劇」ぐらいのざっくりとした認識。
今回はじめてあらすじをちゃんと知って、おののいた。
観られるかなぁ...。
というのも、最近、子との離別や子の喪失の物語が、どんな表現形式のものでも、やたらと苦手になってしまっていること。能の「隅田川」も怖くて観られない。
また、蝶々さんからピンカートンへの感情を「不滅の愛」「一途な愛」と描かれるのは、納得いかない。
しかも「日本人女性」というステレオタイプが満載??
子を思いながら自分が亡くなる『蝶々夫人』。
それを感情にガンガン訴えてくるオペラで…。
プッチーニだから、より感情が動きそう…。
散々迷ったけれども、先に観た仲間から、「人形が出るらしい、文楽からインスピレーションを受けているらしい」と聞き、人形劇好き、文楽好きのわたしとしては行かねばなるまい、と腹をくくりました。
2017年の#MeTooから、芸術がこの問題にどう取り組んでいっているのか、立会い続けたいという気持ちがある。
それに今回の見所は、2008年に亡くなった映画監督のアンソニー・ミンゲラが演出をしていること。『リプリー』『愛しい人が眠るまで』『イングリッシュ・ペイシェント』の監督だ。
それはきっと美しい舞台に違いない!
いろいろ感想メモ
いつものように雑多な感想を並べます。
・全体として日本の文化への深い敬意や愛を感じた。入念なリサーチの上に成り立っている。
パッとみるだけで、日本の伝統芸能...能、文楽、歌舞伎、日本舞踊などの要素が取り入れられていて、それが本質の深い理解と共にある。もともとのプッチーニの曲からしてもそうだし、ミンゲラの演出もだし、歌手たちもそう、他の舞台に関わる製作の人たち全員がそれを共有している感じ。
・逆にアメリカはこんな描き方されて大丈夫か?と心配になるくらい。NYでやっているわけだけど、お客さんはどういうふうに観ているんだろう。
・蜷川実花の映像世界を彷彿とさせるコスチュームは、平安貴族やら武蔵坊弁慶やらで時代はいつ…烏帽子はそんな被り方じゃないし、そんな着物斬新すぎる...宗教…とかいろいろツッコミどころはあるけれど、「だいたいこんな感じでしょ?」と雑な感じやバカにしている感じが一切ない。意図を感じる。奇抜なのに不思議とこういうのもアリだな、と思えるのは、敬意と愛があるからかも。
・帯で下半身が安定するから、歌いやすかったとかあるのかな?
・ピンカートンは代役になったそうで、1幕は彼の緊張が伝わってきて、えらく疲れた。他の人はみんな役になっている、舞台の中にいるんだけど、肝心な人が素のままで、役になってないからすごく変な感じがした。
堂々とゲスな役をやってほしかったんだけど、視線うろうろ、表情筋固まり、棒立ちに...。蝶々さんや脇を固めるスズキや領事にかろうじて助けられている。やっぱりオペラってただ歌唱がうまいだけではだめで、演技が重要なのだと知る。2幕は出番なしで、3幕は少し緊張もほぐれたのか、演技も出てきてよかった。
代役の準備はしていたけれど、言い渡されたのが2日前で、彼にとっては初役で、しかもライブビューイングの収録日という、彼としては何重にもプレッシャーのかかる、大変な日だったことを幕間のインタビューで知る。おつかれさまでした。
・ホイ・へーの蝶々さんはイメージしてたのと違って北条政子っぽかった。線の細い人だったら痛々しさが倍増していたかもしれないから、北条政子でよかった。だんだん引き込まれた。ホイ・ヘーとしての解釈がちゃんとなされていて。しかし15歳で現地妻にって、今から考えると犯罪...。
・1幕冒頭から死の匂い。不穏さしかない。痛々しくて狂気をはらんでいるけれども、どこか惹かれる。この感じ、完全に文楽の「曽根崎心中」を観に行くときのやつだ!
・2幕。蝶々さんの衣装がかわいい。ピンクと黄緑。菱餅みたい。「ある晴れた日に」泣ける...。
・2幕、衝撃の人形の坊や登場。わかっているのに衝撃!!バーン!と登場する。ここの演出がすごい。今思い出しても鳥肌。
・人形遣いの人たちは、人形と同じ表情になっているのがなんとも言えずよかった。よく漫画家が描いている人物と同じ表情になりながら描くと言うけど、そんな感じ。抱っこされているときの足の動きや、「お母さん、大丈夫?」と顔を覗き込む仕草など、細かくてリアル。すごい!能面を参考にしているのか、あごの角度や照明の当たり方で表情を変えて見せていて、演技している!
・人形が、止まった時間の象徴であったり、生身の人間では叶わなかったことを表現する存在として描かれている。
・2幕の最後はまさに「せぬひまがおもしろき」。色と音楽とかすかな動きで絶望を表していて、圧巻!「観客に様々なことを想像させてくれる演出」まさに!
・文楽を展開、発展させて新しい表現を作り出していてすごかった。ミンゲラ、すごい!年末に行った演劇博物館の人形劇の展示でも言われていたけど、ほんとに人形劇って発展し続けているんだな!
・スズキ役のエリザベス・ドゥショングの演技が素晴らしかった。「スズキは黙っているときがもっとも雄弁」とインタビューでも答えていたけれども、ほんとうにそれを体現していた。蝶々さんの夢想を痛々しそうに見ているスズキや、蝶々さんと一緒に歌っているスズキ。二人にしかわからない愛や信頼や絆が感じられる。
・アンソニー・ミンゲラが指導しているところが間で入る。次に何が起こるかわからないという感じで演技して、と。「何が起こるかわからない、だから伝わる」「ここは振り付けではないんだ、欲望からなんだ」
・今回はMET常任照明デザイン担当の方へのインタビューもあり。裏方の人にもスポットを当てていく、このMETLVのインタビューはいつも楽しみ。
・METの合唱の人は、48時間中に4役もこなす?!というのもすごかった。「ちょっといいかしら?きょう夫の誕生日なの。おめでとう!」とかも、すっごいアメリカっぽい。
・いろんな時代の日本の人たちが蝶々夫人を観て、そのときどきでいろんなことを考えてきたのかなぁ。今のわたしと同じ気持ちではないかもしれない。残念に思う演出や舞台も多々あったかも。
・3幕。「僕には耐えれらない、僕は逃げ出す、僕は卑怯者だ、僕は卑劣だ!」おそろしいほどの正直さ!!許すことはできないけれど、やっぱり何も考えてなかったのね、と確認ができて、思いっきり悪態がつける感じになる。
・観ているうちに、自分の中から蝶々さんに対するsisterhoodがあふれてきて、びっくりした。今の時代ならもっともっとできることがある。世が世なら!ああ、でも今の世でもこんなことはいくらもあるのかもしれない。いやいや、だからこそ。
・今の時代であれば、女性が身分の低い者と侮られ差別され、社会によって損なわれることも、名誉のために自分または他を殺めることも、もう起こってはならない。世界のどこであっても。ということを受け取る。「逃げんな、てめえ」と言ってもいいんだから。
・こんなに悲しい物語なのに、どうして普遍的なのか。わかっているけれどやってしまう。知っているけれど止められない。そういうことが人間には起こるよ、ということなのか。人間には芸術を通した悲劇の疑似体験が必要なのかもしれない。「王女メディア」「菅原伝授手習鑑」「源氏物語」「舞姫」など、古今東西の物語が浮かぶ。
・そういえば一番最初にMETライブビューイングに連れて行ってもらったときに、すごく文楽っぽいなって思った。「なんつー酷い話!」「な、なぜそうなる?」と思うような物語なのに、なぜか音楽や演技で没入してしまうし、しばらく経つとまた観たくなる、というようなことが起こる。オペラと文楽はもともと親和性が高い表現形式なのではないか?
・蝶々さんにとって生きのびるための選択だったのかもしれない。1幕から、ピンカートンとは、愛というよりも何か別の関係があり、その歪さが気になった。蝶について話すあたりや親戚との関係も気になる。
蝶々さんの生い立ちはどうだったんだろう。それが選択に影響してる可能性を考えてしまう。映画『トークバック 沈黙を破る女たち』を観てからだったから、叔父から性暴力受けてたんじゃないかとか、親戚たちもわかってて知らんふりしてたんじゃないかとか、邪推してしまう。
・最後カーテンコールで蝶々さんがホイ・へーとして出てきたときに、「よかった生きてて...」と本気で思った。
・ロイヤルオペラハウスのライブビューイングのタイトルバックと共に出てくるあの音楽が流れた。そうか、蝶々夫人だったんだね!!でも曲名がわからない。まだまだオペラ初心者のわたし。
ふりかえり
いろいろ思うところはあったけれども、ただの酷い話、可哀想な話ではなく、芸術の形で受け継がれている物語の普遍性と底力を感じた。
他の演出でも劇場でも、またバレエなど他の表現形式でも、観てみたい。
お能にするなら新作ということになりますね。
こちらの本もやっぱり買おう!
キーンさんのオペラ愛、METLV愛を感じつつ、鑑賞体験をふりかえりたい。
次回楽しみにしているのは、「アクナーテン」
https://www.shochiku.co.jp/met/program/2086/
次から次へと観るたびに世界を広げてくれるライブビューイングに感謝!
そうだ。
感謝といえば、わたしは劇場の2階席や3階席がちょっと怖い(高所なので)ので、生で見るとなると1階席。
でもオペラの1階の席、めっちゃ高い!!!
...ということで、生で観るなら、「もうこれは絶対散財しても観る!!」というものに限られそうです。
そういう意味でもライブビューイングありがたいです。
ものいう仕口展@LIXILギャラリー銀座 鑑賞記録
京橋に行く用事があり、そういえばLIXILギャラリーで建築部材に関する展示をやってたっけ、と思い出して寄ってみた。
ものいう仕口
「仕口」とは、柱と梁のような方向の異なる部材をつなぎあわせる工法とその部分のことで、日本の伝統木造建築において世界に誇る技術です。大工技術の粋として発展し、風土によって異なる民の住まいにも用いられてきました。 本展では、福井県白山麓にあった築200年以上の古民家で使われた江戸時代の仕口16点を、個々の木組みの図解説と併せ紹介します。一軒の家を支えてきた木片の素朴な美しさに触れながら、先人の優れた大工仕事をひも解きます。(展覧会HPより)
昔の民家やお寺などで、木材に凹凸の部分をつくり、それをはめ込むだけで頑強な骨組みができる伝統的な工法があり、大工が備えるべき基本的且つ非常に重要な技術......と曖昧な知識はあった。
そうか、仕口とはあれのこと、これのことだったのか。
しぐち
しくち
呼び方が二通りあるらしい。
接合部の凸凹のことを「臍(ほぞ)」というらしい。
あー、臍を噬む(ほぞをかむ)の臍だ!
おへそ。
臍帯血の臍の字。
ここには民家を解体したときに出る古材のうち、再利用の過程で不要になった柱や梁の部分が展示されている。
建築や建設の世界の人にとっては不要なものだろうけれど、形態に魅了された人にとっては、もうお宝とも言うべきもの。
それがこうして陽の目を見る。
わたしの目の前にある。
家の部材のはずだけれど、まるで彫刻作品か、太古の文明の忘れ形見のような、不思議な静けさと温かみをもって、まだ生きてそこにある。
木目が、波紋のような、さざ波のような美しさを見せてくれる。
しばし見とれた。
もちろん、構造物としての解説もついています。
やっぱりここのギャラリーはいいなぁ。
昨年『台所見聞録』という展示に来て、こんな感想を配信しました。
よかったら聴いてみてください。
毎回無料でいい展示を見せていただいています。
ありがとうございます。
こちらのギャラリールームは2Fにあり、出たところの休憩スペースでは椅子に腰掛けてLIXIL出版の本を閲覧することができる。
1Fでは書籍や企画商品を販売している。
書棚を見ながら思いついた!
たぶんこのシリーズが好きな人、いっぱいいると思うのよね。
マニアックなテーマばっかりだから、何かを偏愛していたり、人が見逃していることにわざわざ目を留めてじっと見ているような習慣の人が好きなんじゃないかなぁ。
みんながそれぞれ持っているLIXIL出版の本を持ち寄って、紹介しあう読書会をやったらぜったい楽しいと思う。
LIXIL出版さん、書店さん、図書館さん、読書会をひらいてみませんか?
鑑賞対話ファシリテーターへのオファー、お待ちしてます^^
▼うちの子たち。ほんとはぜんぶ集めたいぐらい好き!
▼目録。眺めているだけでわくわくする。