ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

メモ「瓦が語る東大寺の歴史」@東京国立博物館

昨年11月、早稲田大学の中にある、會津八一記念館博物館を見学した。

www.waseda.jp

 

展示されていた會津八一が蒐集した品々の中に、日本、中国、韓国の瓦があった。

どうして瓦を集めるんだろう、どうやって集めたんだろう、古美術として出回っているってことなのかな、瓦ってそもそもどういう価値があるんだろう、どう鑑賞したらいいんだろう……というようなことをふと口にしたら、一緒に観ていた友達が、

「建築物をそのまま保存しておくことはできないから? 建築はなくなっても、瓦なら小さいから取っておける。そこから全体がどうだったのか、当時の技法や表現はどうだったのかとか、建築を知る手がかりとして貴重な資料になるのでは」

と言ってくれた。なるほどーー!

記念館では、そういう前提については解説されていなかったので、友達によるこの仮説はとてもありがたかった。

 

同じ月にたまたま東京国立博物館に行ったら、《瓦が語る東大寺の歴史》という特集展示があった。今熱い瓦!

www.tnm.jp

 

 

この資料はPDFで当該ぺージ(↑)で配布されてます。

 

まさに友達が言っていたようなことが解説パネルに書かれていて、興奮した!

瓦からいろんなことがわかる。

いつ誰が何のためにどのような方針で瓦を載せていた建物を造営したのか、改修・修理したのかがわかる。誰がお金を出したのか(誰の権力が強い時期だったのか)、仏教のどんな流れと関係があるのか、文様に込められた意味とは、そもそもどうやって瓦は作られていたのか、いつ頃からあるのか、など。

また、東大寺は国家プロジェクトなので、同時代の京の建築物に大きな影響を及ぼす。これがきっかけで技術が進歩する。

正倉院はやはりすごくて、傷んだものだけを取り替えて、古い瓦はできるだけ再利用することから、1,260年使われている瓦もあるとか。(←いや、これ見間違いかもしれないからあとで確認します!)

奈良時代は大量の需要に応じるために、型を使って効率的に造られたとか、平安時代には地震などの災害が頻発したので、修理のために瓦が葺き替えられてきた。

今の時代に台風や火事などの災害があって、民家を再建するときに瓦を葺き替える作業と同じなのだよな。歴史と今とのつながりを感じられる。

瓦の一枚一枚に年号やどこの寺のものなのかが入っていると、他の史実を裏付ける証拠にもなる。

 

 

瓦が重くて屋根がたわむので、瓦の枚数を減らしたり、軽量の瓦に葺き替えるなど、時代ごとの変化がある。瓦によって全体のイメージが変わる。今見ている東大寺は、ずっとこの姿ではなかったとわかるのもおもしろかった。

 

瓦の見方がわかったぞ!うれしいー!

 

おまけ。

會津八一コレクションの中で「瓦磚」という言葉が出てきた。読み方がわからなかったので調べたら、「がせん」だった。瓦のことを表すようだ。

ただ、逆に書いた「磚瓦(せんがわら)」というものもあり、こちらは壁や敷石として使われているよう。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1374608.html


たぶん……。今のところはここまで。

瓦磚と磚瓦。

気にしていたら、またどこかで出てくると思う。

 

狂言の会〈雁礫・茶壺・宗旦狐〉@国立能楽堂 鑑賞記録

国立能楽堂で「狂言の会」を観た記録。

www.ntj.jac.go.jp


以前はお能第一で観ていたけれど、最近は狂言だけの公演も好き。

最近「笑い」がしんどい。
人を貶めず、損なわず、笑うことってできないんだろうかと考えたときに、やっぱり狂言にかなうものはない、という結論に至った。落語でさえもしんどいときあるからな。

 

雁礫(がんつぶて)

あらすじ>大名が弓で雁を狙うところを、通りがかりの男が石つぶてで仕留めてしまう。大名は自分の獲物だと言い張るが……。

見栄と虚勢を追及し、やわらかくあばく。勝負に持ち込まずとも最初から誰がやったかは明らかで、むちゃくちゃを吹っかけるほうが悪いのに、みんなで付き合ってあげるところが間が抜けている。固執していると見せかけて、吹っかけているほうもダメ元、あわよくばと考える。そのしたたかさが可笑しい。

成敗されるような深刻さでもないところがいい。

茶壺(ちゃつぼ)

あらすじ>https://kyogen.co.jp/outline/post_155/
雁礫と似て、人の物を最初から自分のだと言い張り争いに持ち込む人。「相舞にせよ」と仲裁人に諭され、明らかに勝敗のつく舞を披露する。雁礫と同じく勝敗がついて「勝ったぞ勝ったぞ」で終わるのかと思いきや……そうくるか!最高!だから狂言好き。

「相舞」とは、能・狂言で、二人以上が同じ型で一緒に舞うこと。連れ舞。

「曖昧」の語源なのかと思ったけれど、関係ないようだった。精選版 日本国語大辞典によると、曖も昧も「暗い」の意味だそう。

 

宗旦狐(そうたんぎつね)

千利休没後500年記念で、千宗旦に化けた狐の話。1976年(昭和51年)初演の比較的新しい曲。点前の所作など、お茶をやっている人には「おお」というところがあるのかも。可笑しくもあり哀しくもあり、舞も謡もあって、能寄りの狂言という感じ。

久しぶりの中正面席も新鮮で良く。

スタジアム感のある視界が広がり、一部始終を見渡している感覚。

よかった。全席チケット販売でほぼ満席の客席を見るのもうれしい。

 

こんな記事があった。

能と茶に一度で親しむ好機!国立能楽堂が4月《千利休生誕500年》で茶道ゆかりの演目を上演 新作狂言「宗旦狐」では舞台上で見事なお点前が演じられる場面にも注目です。

www.fujingaho.jp

 

・・・

展示室では、能楽鑑賞教室とのタイアップ企画。「能楽入門」と題して、能の五番立にしたがって、能のいでたち(扮装)を紹介していく。主な曲、登場人物の面・装束・小道具等。いつ観てもやはりお能の品々は美しい。

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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

 
共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

映画『ヨナグニ〜旅立ちの島〜』@イタリア文化会館 鑑賞記録

イタリア文化会館の上映会でドキュメンタリー映画『ヨナグニ〜旅立ちの島〜』を観た記録。2022年5月からの公開を控えた中での、試写会的な場。

iictokyo.esteri.it

yonaguni-films.com

youtu.be


ドキュメンタリー映画
2人のイタリア人が監督で、イタリア文化会館が後援しているが、資本はフランスのよう。ハムゼヒアン氏がパリを拠点に活動していることと関係があるのだろうか。


映画そのものに監督の存在も含め、「イタリア的なもの」は一切映らず、感じられない。被写体である14歳〜15歳の人たちは、カメラや撮影者の存在などまるでないかのように自然に動いている。

映像と音とで静かに展開していく。こちらは解釈やジャッジはなく、ただただ受取っている。受け取り続ける時間。自分のいる環境との違いに引き込まれる。

違うのになぜ自分にこんなに共感があるのか。自分もかつてかれらと同じ年齢だったことがあるからか。故郷と呼べるものを明確に持っているからか。母語とは違う言語の中で生きているからか。

館長が映画の前の挨拶で「詩情に溢れた」と表現されていたが、まったくそのとおりだった。詩情。それに尽きる。とはいえユートピアではない。

トークの時間では絶滅の危機に瀕している言語、与那国語のことがメインに話されていた。私はそれはグローバリゼーションと資本主義経済による均質化や過疎化の問題が、この人口1700人の強い紐帯のあるコミュニティをも襲っているという話なのだろうと解釈した。

中学校を卒業した人たちは基本、高校進学のために一度は島を離れる。なぜなら島には高校がないから。そのことは幼い頃から言われて育つから、島を出ることは、人生の早い段階から、大人になるための通過儀礼として、かれらの前に常に横たわっている。今過ごす人たちとも必ず離れ離れになる。自立が早い。

そう宿命づけられているって、一体どんな心境だろうかと思う。

数年前に秋田の山あいの集落に行ったことがある。そこも高校進学のために子どもたちは一度集落を離れる。寮のある学校や下宿先を探す。
自分の子どもとそう変わらない歳の子なんだよな。

いろんな課題はありつつも、それでもかれらを見ていると希望が感じられる。島で生きた15年間。その間に多くのものを受け継いでいる。その蓄積が、その後の人生を力強く内から、根元から支えていくのではないか。そして外に出て、なんらかの幸をこの島にもたらす人になるのではないか。今の時代ならではのやり方で。かれらなりの感性で。先人たちが大切にしてきたことが大切にできるよう、自分のルーツとつながりながら生きる方法が、何かあるのではないか。

そこに、与那国ではない場所に生きる人たちへのヒントがあるような気がする。

受け継ぐとは。遺すとは。

映画ともトークとも関係ないが、言語の話で言えば、ロシア語忌避や排斥の動きがあるという。絶えそうな希少な言語を残したいと思う一方で、そんな言葉は絶えてしまえばいいと思うのは、ずいぶんと矛盾していないか?と言いたくなる。いや、誰に……?(軍事侵攻を肯定するわけではないが、その言葉を使って、その言葉をアイデンティティとして生きている人間がいるという点では同じなのだよな、と思ったので)

5月公開とのこと。

とてもよい作品なので多くの方に観ていただきたい。

与那国島出身の東盛あいか監督の『ばちらぬん』と二本立てで、「国境の島に生きる」という大テーマが添えられている。与那国島は日本の最西端。石垣島から127km、台湾まで111km。まさに国境の島。

東盛監督から、与那国語(ドゥナン)の紹介があったのも貴重だった。

映画からも、同時開催のインスタレーションの展示からも感じるが、やはり「沖縄」とひとくくりにはできない。


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ヴィットーリオ・モルタロッティ氏とアヌシュ・ハムゼヒアン氏の他の作品も気になる。

▼スタッフ

yonaguni-films.com


▼作品一覧

hamzehianmortarotti.com

 

昨年は沖縄の映画を4本観た。今回の雰囲気に一番近いのは、『カタブイ』か。いろいろな作品に触れることによって、その都度見え方が変わる。

hitotobi.hatenadiary.jp

hitotobi.hatenadiary.jp

hitotobi.hatenadiary.jp

hitotobi.hatenadiary.jp

hitotobi.hatenadiary.jp

 

この作品も気になる。

green-jail.com

 

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展示『上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー』@三菱一号館美術館 鑑賞記録

三菱一号館美術館で『上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー』展を観た記録。

mimt.jp

 

上野リチ, Felice [Lizzi] Rix-Ueno, 1893 – 1967

ウィーン出身の上野リチのデザイン世界の全貌を展観する世界初の回顧展です。リチの大規模コレクションを所蔵するウィーン、ニューヨーク、そして京都から作品が集結します。

チラシが撒かれはじめたときに、かわいいな、知らない人だなと思って気になっていた。そのまま行くだけだと「かわいいー」だけで終わりそうだなと思い、いくらか予習して行くことにした。

 

NHKEテレ「日曜美術館」「カワイイの向こう側 デザイナー・上野リチ」

カラフルな色彩と自由な線で描かれた鳥、花、樹木。ウィーン出身のデザイナー・上野リチは、日本人と結婚して来日。二つの国を行き来しながら、テキスタイルや身の回りの小物など、数々の「カワイイ」を生み出した。さらに、建築家である夫と手を組み、斬新な住宅や店舗を手がけながら、社会をもデザインし直そうと試みたリチ。カワイイの向こう側に夢見た“世界”とは。


関連コラム:教え子が語る"上野リチとはこんな人"

www.nhk.jp

 

京都国立近代美術館の担当学芸員さんによるレクチャーもよかった。

リチの日本での暮らしがほぼ京都にあったことを考えると、この展示は巡回元の京都で観ると尚よかったのだろうな。

彼女のウィーン工房時代の仕事や日本に来てからの活動、当時の社会背景などを聞いていると、彼女が多分野に与えた影響の大きさが気になった。本格的な研究はまだまだこれからという感じがする。

youtu.be

 

京都国立近代美術館の展覧会ビジュアルは、三菱一号館とはまた違う。館によって打ち出し方が違うので、こちらが受け取るイメージも変わってくる。

https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2021/444.html


 
 
 
 
 
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インスタライブもあった! おや、ビジュアルだけではなくて、施工も全然違うのですね!

 
 
 
 
 
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三菱一号館美術館Instagramもチェック。

 
 
 
 
 
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結局私が行けたのは会期終盤。平日の昼時だったが、とても混雑していた。

双眼鏡を持って行ってよかった。これがあれば、混雑していて作品に近づけないとき、少し離れていても見られるので。

普段あまり美術館に来ない感じの人がたくさんいた。手芸や工芸をやっているのか、スケッチをする人もたくさん。

FELICEという名にぴったりのリチの世界。
のびのびと羽ばたけたのは、インダストリアルデザインの分野だったからなのかも。しかしあの時代に、外国人の女性が、日本の京都で活躍していたということに驚く。

「戦時下」や「女性の人生」の事実は、正史によって作られたイメージをいつも超えていく。

 

鑑賞メモ

・まずは、一号館美術館でやる理由がわかる。空間に似合う。

・照明がかなり落としてあって、パネルの字まで読みにくい。そこだけスポットで照らしてくれるとありがたいけれど、近隣の照度まで上がってしまうのだろうか。手元のスマホ等で解説画面を開きながら見る。ウェブサイトでPDFで配布されている。(こちら

京都国立近代美術館蔵品が多いのは、上野夫妻が創立した美術学校が閉鎖されるときに所蔵品が同館に寄贈されたため。

・最初の部屋。七宝焼の色見本、平安貴族ふうの装束、靴のデザイン案、室内、スケッチ。リチ愛用のマント。期待高まる。

・ウィーン工房の便箋、封筒、注文書、納品書。カッコいいデザイン。

・ウィーン工房は、1903年ギルド的なデザイン工房として誕生した。ウィーン工房の活動にテキスタイル、ファッション、陶芸など、横断的に関わっていたリチ

・室内着、着物に影響を受けたデザイン。この頃は多そう。

・今もヴィンテージとして普通にありそうなバッグや服やアクセサリー

・日本、九州、さくらというタイトルでテキスタイルデザインを作っている。日本と既に出会っていた。

・色の組み合わせを変えると印象が変わるよね、という美術の授業を思い出した

・色の世界。色見本帳をめくっているときのあの幸せ感がずっと漂う。

・最近私が大好きな「あの緑」が溢れていてうれしかった。

これ↓

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・1935年〜1944年、技術嘱託として「日本占領下の外地へ、輸出された生地や刺繍のデザインを外国人が担っていたことと、そのデザインの朗らかさに驚く」という解説があり、こちらもまた驚いた。戦時下にそのようなことがあったということ。国内需要逼迫したら、輸出して外貨獲得したのか。外国人で、女性で、なぜ可能だったのか。

・これらの生地や製品は南洋向けとのことだけど、どういう人のところへ行ったんだろう? 現地に駐留する日本人やその家族? 彼の地でこういう美を愛でたり、美に慰められた人がいたのだろうか。ほとんどの人はリチの作とは知らずに使っていただろうし、今も残っている可能性もある。

・色紙にデザイン。色紙って日本発のものか。確かにこれは便利。

・リチのファンタジックなデザインが受け入れられたのは、大正ロマンからの流れかも。夢二の図案なども思い出す。

・京都の伝統的な組合がこんな革新的なことをやっていたのも驚き。友禅のデザインでさくらんぼやいちごなどのフルーツ柄。カワイイ。

・スイショウのモチーフもいい。

満洲の思い出、scenery in mulin。巻物という日本の形式を楽しんで取り入れている様子。

・走り書きの字はあんまりきれいじゃないところもいい。

・美しいものは生み出せる、どんな暴力も根絶やしにすることはできない

・タバコ容れからドレス、内装デザインまで幅広い

・作品点数の多さ。旺盛。なのに似ているものがないところもすごい。世界観は一つだけど種類が豊富、よくこれだけ生み出せるな〜

・今もこの図案を使っていろんな製品が生み出せるな。野菜、スイートピーが生地で何点か展示されているのを見て、来場者の中にはいろいろアイディアを湧かせていた人もいたのでは。

・本物の文化を持ち込むから融合できる。

・デフォルメ、図案化、平面的

ブルーノ・タウトと方向性が違ったというあたりも、もう少し知りたいし、理解したい。

 

特に考えたこと二つ。

1。なぜリチは異国の地で自分の仕事ができたのか

彼女の資質に由来することと、環境的な要因もあったのでは? もともとが中産階級の出身だったこと、本場で確かな技術を持っていたこと、伊三郎が京都出身で商工業界とつながりがある家だったこと、結婚していたこと、組合のニーズとマッチしていたことなど?

それも芸術ではなく、インダストリアルデザインの分野だったからなのか?画壇だと硬直している男社会? 商工業的なものは低いとみなされる? うるさいときは入ってこない、自由にできる?

しかし彼女の作品は芸術か商業かと線引きできるものではなく。ウィーン工房で用の美と作家性の両立を経験していた。作る人の個性や人間性は非常に重要視していた。「うまくやろうとするな」というのが彼女の教えだったと。

 

2。彼女が生涯をかけて追い求めたファンタジーとは

最後に《日生劇場旧レストラン「アクトレス」壁画(部分)》を見てわかったかも。

「人を庭に連れて行く」のが彼女の言うファンタジーなのかも。

庭にいるときのあの感じがする。自分がつくった庭じゃなくて、だれかの庭を訪問しているときのあの感じ。独自の庭だけど人も入ってこられる。人の庭だけど居心地がよい。自分の庭を思い出す。

 

・・・・・

ウィーンの19世紀末〜20世紀初のムーブメントは、2019年のウィーン世紀末展の鑑賞体験を思い出しながら観た。

日本・オーストリア外交樹立150周年記念
ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道

展覧会概要 https://www.nact.jp/exhibition_special/2019/wienmodern2019/
特設ページ https://artexhibition.jp/wienmodern2019/
感想 https://hitotobi.hatenadiary.jp/entry/2019/05/20/152315

本展は、ウィーンの世紀末文化を「近代化モダニズムへの過程」という視点から紐解く新しい試みの展覧会です。18世紀の女帝マリア・テレジアの時代の啓蒙思想がビーダーマイアー時代に発展し、ウィーンのモダニズム文化の萌芽となって19世紀末の豪華絢爛な芸術運動へとつながっていった軌跡をたどる本展は、ウィーンの豊穣な文化を知る展覧会の決定版と言えます。(概要ページより)

絵画の分野では、1897年にグスタフ・クリムトに率いられた若い画家たちのグループが、オーストリア造形芸術家組合(ウィーン分離派)を結成しました。また、1903年には、工芸美術学校出身の芸術家たちを主要メンバーとして、ウィーン工房が設立されました。  ウィーン分離派やウィーン工房の重要なパトロンユダヤ人富裕層でした。芸術家たちの実験的な精神や妥協のない創作が、この時代の数々の傑作を生み出したのです。(特設ページより)

当時の私の感想はあまりに雑だが、「19世紀後半から20世紀前半の30年ほどの短い間に、こんなキレッキレの時代があったなんて!」と思ったことはよく覚えているので、記録しておいてよかったと思う。

パナソニック留美術館での『ウィーン工房1903-1932 モダニズムの装飾的精神』のレポートも参考になる。
https://www.museum.or.jp/report/82
https://allabout.co.jp/gm/gc/386881/

このウィーン工房を創立した一人が、ヨーゼフ・ホフマン。ウィーン工房でテキスタイルデザイナーとして活躍したリチが、当時ヨーゼフ・ホフマン事務所に勤務していた上野伊三郎と出会う。

 

また、私は今回初めて上野リチを知ったけれど、目黒区美術館では2009年にとっくに紹介されていた。

『ウィーンと日本を結ぶデザイナー、建築家、そして教育者:上野伊三郎+リチ』

観に行った方々の記事。詳細でありがたい!
https://allabout.co.jp/gm/gc/40272/

http://memeyogini.blog51.fc2.com/blog-entry-635.html

・・・・・

LOQIのラインナップにもリチのバッグありました。私はこれのムンクを持っていて、愛用してます。ムンク展のときに買ったもの。

https://item.rakuten.co.jp/e-office/c/0000002031/

・・・・・

リチと関係ないけど買ったお土産。旅行したいな……。

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館内のそこここで、女の人たちが友達同士では話をしていた。もれ聞こえてくる会話からは、作品を見て感想を言い合うことだったり、思い出したこと、近況報告、家族のこと、自分自身の体調についてなど、いろいろあった。もしかしたら久しぶりに対面で会う関係もあったのかなと想像した。

作品と向き合うだけでなく、作品のある空間の中で、人と人とのつながりや交流をうながされるのも美術館のよいところだなと思う。

 

京都国立近代美術館のチラシはやはり気合が違う。紙や色もよい。

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ROHバレエシネマ『ロミオとジュリエット』鑑賞記録

ROHバレエシネマ『ロミオとジュリエット』を観た記録。

tohotowa.co.jp

youtu.be

 

1965年の初演から世界中で530回以上も上演されているケネス・マクミランによる演出(いわゆるマクミラン版)の《ロミオとジュリエット》を、シェイクスピアを生んだイギリスのロイヤルバレエが公演する。それを映画館で気軽に観られる「シネマシーズン」。

本公演はなかなか観られないけれど、シネマシーズンならなんとか。それでもお値段はそれなりにするので(一般3,700円)全部は足は運べないが、毎シーズンとりあえずプログラムをチェックしている。今シーズンも《くるみ割り人形》に続いて2本目の鑑賞となる。

ロミオとジュリエット》は、2019年にやはりシネマシーズンで観た。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

ロミオとジュリエット》のストーリーや演出に関して言えば、イギリスの演劇を映画館で観るNTLiveでも観たし、『ウエストサイド・ストーリー』のリメイク映画も観た。

といったあたりが今回の鑑賞に関連するかも。

 

観終わって直後の感想。

あらゆる表現形式を超えて、マイベストな《ロミオとジュリエット》だった。
完全に持ってかれた。すごかった。バレエってここまで感情表現するものでしたっけ?

今までの自分の人生の経験すべてを使って観たような時間だった。感情が揺さぶられて、いっぱい泣いてスッキリした。すごいカタルシス

バルコニーのパ・ドゥ・ドゥで、なぜか涙が止まらなくなり、驚いた。前回観たときと、全然違うものを受け取っているなぁと思いながら没頭していた。

いろいろレビューを見ていると、「疾走感」という言葉を使っている人が多かったようだが、私はそれよりは一つひとつの場面に込められているありえない量のエネルギーの詰め込み、濃さなどを感じていた。

NTライブのロミジュリがあまりにも疾走感が"過ぎた"ので、あれを思い出すとそこまで展開は早くないように感じられる。むしろじっくりたっぷり進行してくれているな!という感じさえした。相対的な感覚なので、こういう他の舞台に影響される感覚はおもしろい。

これは初めてバレエを観る方にも楽しめるはず。
演劇要素が満載、美術・衣装の豪華さ、何より踊りと音楽の一体感。オケや観客含め、全員がノリノリで作っている舞台に、自分もどーんと乗っかるのは気持ちいい。
ノリだけではなく、自分の心の内を手探りで確認していくような深さもあって。

あまりにもすごい体験だったので、メモが膨大になった。

 

鑑賞メモ

インタビュー
「このライブビューイングは17カ国、810の劇場で上映されている」「シェイクスピアプロコフィエフ、マクミランの3つの才能」「長い間試練に耐えてきた作品。マクミランのリアルさの追求、人間真理の達人」「ダンサーが役になりきり、成長する姿」「バレエであることを忘れる」「So much pain and so much beauty」「恋に落ちて一つになる」「振り付けは同じなのに、一人ひとり違う。新しい解釈ができる」「稽古では失敗しても不安でも大丈夫。それも制作過程の一つだから」「舞台に立つより見ているほうが難しい(涙ぐむコーチ)」「すでにある自由を形にする」「実はジュリエットは踊りが少ない。男性が女性のために踊っている」「人間らしさとリアルさ、そのように表現する技術」
ダーシー・バッセルのお稽古突入(出た!)「最も重要なのは感情表現。観客に一瞬で全てを伝える」「演技しないで、感じて」「呼吸が多くを伝える」「自分の人生経験も伝える」
 
本編
・1幕のロミオ。軽い。若さを持て余す「男の子」たち。エネルギーに満ちている
・サーベルでの殺陣のシーンでカンカンいう音も音楽の一部として、ダンサーが参加してるのもおもしろい。前に見たときも思ったが、けっこう人いっぱいいるから危ない。殺陣師の指導とかあるんだろう。ただ踊るだけじゃない技術が求められそう。
・冒頭からけっこう人がバタバタ死んで、積まれているところに、現実の戦争の絵が重なる
・ジュリエットの父、キャピレットはただいるだけで場を収める力を持っている。刀狩り。調停者。頼り甲斐がある感じ。とはいえ、もともとは大人が始めたことなんだが。
・胸を抑えるのはなにを表すマイム?
・舞踏会のシーンでパリスとジュリエットが踊るところや、ジュリエットがリュート?を爪弾いてロミオが踊るシーンで弦楽器のポルタメントが聞こえる。ちょっと違和感と不穏な感じもあって、手の混んだ布石だろうか。同じ曲が3幕(?)のジュリエットがパリス伯爵との結婚をいやいやながら承諾するあたりでも出てくる。「これロミオが踊ってた曲。でも相手が違う!あなたじゃない!」というジュリエットの痛みがズキズキきた。次回から観るとき、ここの音楽の使い方に注目しよう。
・自分たちにしか聞こえない音楽と幸福の予感。『ウエストサイド・ストーリー』のステージ裏のシーンが蘇る。黄金に輝く二人だけの世界。自分を知ってもらうための踊りを舞う。踊りは人を誘惑する。その二人の世界の後ろでヤバイことが展開する。
・パーティがおひらきになって、飲み過ぎてゲロ吐きそうになっている人の小芝居なども笑える。こういうのついつい見ちゃう。
・若者が時代をつくる、新しさをつくっていく、超えていくことが、物語の中でも現れるし、それを演じる二人のダンサーによっても示されていく。
・恋をして変化していく二人。それが踊りに反映されていく。バルコニーのPDD。恋をして一つになりたいと願う人間の普遍的な感情。息ぴったりで流れるような一連の踊り、途切れることがない。めくるめく恋の渦中を表現している。テクニック的に素晴らしいだけでなく、そこに感情がのる。こちらの切なる願いものせてくれる。自分もこのぐらい自在に動けているような身体感覚も自由にさせる。
・赤、オレンジ……トスカーナの色。「イタリアの伝統色」の色見本に載っていそう。
・娼婦とトリオの踊り。娼婦の登場が多いのはなぜ?「浮浪者」の登場も。市中における人々の姿の多様さ?階級社会であることの提示?これは振り付けの範囲か演出の範囲か。そういえば、バレエの世界では「演出」というロールがない?美術監督、舞台監督がそれに当たるのか?
ロミオとジュリエットの決定的な違いは「自由」をもともと持っているかどうか。ロミオは自由に市中に出られる。友達もいる。ジュリエットには自由がない。いいとこのお嬢様は「箱入り娘」と呼ばれるが、結局のところ主体も自由も権利も剥奪されている女性のこと。ジュリエットの世界は家を中心としている。
・少年少女が惹かれあい、手をつないで世界を変える様子は、スタジオジブリ作品のテーマでもある。
・ラインダンス的な群舞。ムーランルージュっぽくもある。
・マキューシオとティボルトの決闘。はやしたてる群衆。むしろ楽しんでいる。見ていても止められない、誰がなんのためにやっているかわからない、ただ見ているしかない様子は、今の戦争を表している。楽し気な音楽が次第に不穏になっていく。投げたサーベルをキャッチする大道芸的なところもある。ほんとうにいろんな技術が必要だな!もう一度剣を握らせるのはベンヴォーリオ。マキューシオの最後までふざけようとする姿、剣をつかってリュートを弾く真似をするのが痛々しい。細かい演技。混乱するロミオ。復讐するロミオ。このときも群衆はやはり止めない、止められない。絶命したティボルトにかけよるキュピレット夫人。「なぜ甥は死ななければならなかったのか?」誰も説明ができない。家族の苦しみ。ここもまたいつもよりも胸に刺さる。コミュニティ、民族、国、そういうものに抗えない人間の苦しみ。
・ジュリエットの寝室。犯した罪の責任をどう償うのか。許せないけれども愛している。翻弄の末の行為だとしてもその都度自分で引き受けていくしかない。選択するしかない。
・寝室に入ってくる家族。わがまま娘扱いをするキュピレット。1幕での堂々たる様子はもうどこにもない。結局あなたも家父長なのね、、そこがむしろリアル。引き裂かれるジュリエット。キツいシーン。無表情。誇りを損なわれている。全身で感情を表現している。オサリバンがジュリエットそのものになっている。でも「心は自由だ」という決意を内に秘めている。伝わってくるその芯の熱さ。自由と自立を求める勇敢な行動。父親が横暴すぎる。身体がガチガチになり、全身でパリス(が象徴するシステム)を拒否するジュリエット。「私の身体は私のもの、私の心は私のもの」という叫びが伝わってくる。「もう世間知らずじゃない」自分の社会的立場に気づいた。ここまで拒絶されると出てくるのは男(パリス)の怒り。「なぜ俺の言いなりにならない?」
・自分の人生、10代の頃に、やろうとして試みて、決行しなかった大人への抵抗を思い出す。わかりやすく言えば家出とか。目覚めた人の、あの爆発的なエネルギー。
・初めて自分で決めて、自分で実行するジュリエット。宗教画のような薄い明かりの中で展開する心の動き。
・寝室のベッドは、地下墓所の石のベッドに変わる。木偶人形になったジュリエットの死を何度も確かめるロミオ。これまでにないロミオの人柄の真っ直ぐさが光る。軽率さや世間知らずな面が気になっていたけれど、マルセリーノ・サンべが踊ると、危うさというよりも健やかな成長として受け取る。
・怒りや悲しみを爆発させる踊り。
・最後、ジュリエットがわざわざ墓石に登るのはあのバルコニーの再現なのかと思うと悲しい。
・抱き合い、手をつないで出てくる二人。死後に結ばれた人たちに見える。同時に、いや二人はまだ生きていてこれから人生があるということに安堵もする。若い二人の前途に送られる満場の拍手にこちらも胸が熱くなる。
 
 
舞台、制作
・言葉のない身体表現の舞台は、ふと先日観たろう者と聴者が共につくる、デフ・パペットシアター・ひとみの公演を思い出した。
・稽古現場の映像で、オサリバンに対して「彼(サンべ)につかまらないで」という声かけ。これはジュリエットのあり方も表している。彼は世界への窓ではあったが、この関係は依存ではないのだという。
・照明や美術が前回と全然違う気がした。終始暗い中で、まるで自分の心の淵へ降りていくような時間。絵巻物、レンブラントの絵画、ピータ・グリーナウェイの世界っぽくもあり。惣領冬美さんの漫画『チェーザレ』の世界観も投影しながら観た(ロミジュリは14世紀のヴェローナチェーザレは15世紀のピサが舞台。近い)
・衣装の豪華さもすごかったなぁ。時代考証を抑えつつ、この時代ならではの新しさも加えられている感じ。意匠的にも技術的にも。シェイクスピアを輩出したイギリスの底力というか。これはほとんど国家プロジェクトレベルでは。
・地下墓所の上にいる像が怪しい。
・生のステージを見てもこのくらい受け取るのか?顔の表情から受け取る感情も、ライブビューイングならではの寄った撮影やダイナミックなカメラワークの賜物かもしれず。引いて固定で観るときも同じぐらいに受け取るのか?
・2019年のシネマシーズンは、マシュー・ボールとヤスミン・ナグディ。素晴らしかったけれど、きょうほどまでには心動いてなかった。なんでなんだろう。あのときは、10代って危ういな、破滅的な面あるからだからみんな怖れるんだなとか、家父長制社会に巻き込まれる若者たちの悲劇として観た。今回はそれも含みつつ、もっと広くて深いものを観た感じ。自分の経験や状態もあったと思うが。
・マクミラン版が、ボリショイバレエに対抗するためにオファーされたとのあたりにも、今につながる物語がある。つまり冷戦とか。
・マクミラン版の初演が1965年、ウエストサイド物語が1961年。どちらかというとマクミラン版に影響されてウエストサイドができたような雰囲気があったけれど。年代的には逆だった。
・指揮者のジョナサン・ローさんも個性を出す人。大江千里さんに似てた。「格好悪いふられ方」の頃の。
 

 

spice.eplus.jp

 

note.com

 

 

 
 
 
 
 
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ROHロミオとジュリエット》は舞台として素晴らしかったんだけど、一方でダンサー同士が熱烈にキスを交わす場面や、ボディコンタクトのきわどさについて気になった。

映画のようなインティマシー・コーディネーター必要ではと考えていたところだったので、ツイッターで紹介されていたこの記事が読めたのはありがたかった。

www.nytimes.com

概念の普及とコーディネーター育成が急務。この記事に出ていた平野さんのように、客演で経験した方が、自身のカンパニーに持ち帰ってどのようにシェア・発展されるのかが興味深い。

「それを言ってしまったら、芸術として成立しないのでは」と思われていたから誰も言わなかった部分にも、やはり踏み込んでいく必要が出てきたと思う。振付家のあり方も変わっていかざるを得ない。

一観客としては、関わる人たちが誰も損なわれていない作品を信頼して受け取りたい。

また、仮にダンサー同士がカップルだったとしても、舞台上でプライベートな親密さを見せられるのはそれはそれで居心地が悪い。芸術性の観点と、観る人の立場からはどうか、今の時代の流れと照らし合わせてどうか、というすり合わせは常に求められる。

 

おまけ。TOHOのプレミアスクリーンがある館では、D-6席が最高だということを覚えておこう。ど真ん中。ほどよい空間。まるで私のための映画館のような気分になれる。

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そういえばここのTOHOでは、以前《フライト・パターン》を含むトリプルビルを観たのだった。

hitotobi.hatenadiary.jp

youtu.be

 

この《フライト・パターン》が2022-2023シーズンで3幕版の舞台になるかも?とのニュース。今の世界に対して、問いかける作品になりそう。楽しみ。

 

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〈レポート〉4/13『夢みる小学校』でゆるっと話そう w/ シネマ・チュプキ・タバタ

2022年4月13日、シネマ・チュプキ・タバタさんと、映画感想シェアの会〈ゆるっと話そう〉を開催しました。(ゆるっと話そうとは?こちら

 

第29回 ゆるっと話そう: 『夢みる小学校』

学校法人きのくに子どもの村学園が運営する、 山梨県の「南アルプス子どもの村小学校」をメインに取り上げ、生活の中で学びあう子どもたちと、かれらにかかわる大人たちのあり方を紹介しながら、 日本の学校教育の可能性を提示するドキュメンタリー映画です。
60年間にわたって総合学習を続けてきた長野県伊那市立伊那小学校や、 校則や定期テストを廃止した東京都世田谷区立桜丘中学校も取材しています。

 

▼ オフィシャルサイト

www.dreaming-school.com


▼ イベント告知ページ

chupki.jpn.org

 

フリースクール運営、スクールカウンセラー、保育園職員、教育に関心のある方、きのくに子どもの村をよく知る方、そして小学4年生と保護者の方。まるでキャスティングしたかのような顔ぶれ。

場のルール、話し方のルールを共有した後は、一つの輪になって全員で話していきました。それぞれの立場や現場で見えているものをシェアしたり、映画の印象に残る言葉や場面に触れながら思いを語りました。


ご感想(一部)

・子どもの村の卒業生はその後違う価値観に触れてどうなる?
・「校長になればいいんだよ」思いのある先生が増えてつながりができたら!
・学校が変わる未来にワクワクする
・大人がすべてを決めないのがいい
・何かをしなくてもいていい場所が必要
・みんな自分のままでいられたら
・仕事で行く学校では、大人も子どもも先生も役割を演じている
・『夢みる小学校』的な価値観を保護者が受け入れられない面も
・大人が楽しそう、大人が自由
・子どもの頃、大人とのよい出会いの記憶
・こんなに人が違うことにもっと早く気づけていたら
・「自分の意見が聞かれないといる意味がない」

今回特に面白かったのは、参加者が他の参加者へ質問をしながら進んでいく流れでした。「みなさんがどんなふうに見たのか聞きたくて」という方が多かったので、ならばとファシリテーターから「気になる方には質問してみてくださいね」と振ってみたら、「〇〇さんに聞いてみたいのですが」という質問がどんどん出てきました。

しかもそれが一人の人に偏るのではなく、満遍なく質問しあうような、網の目のような行き交いになり、場が活性化していきました。

子どもの村をよく知る方からは、日々のミーティングのこと、始めた人たちが大切にしてきた濃い価値観が受け渡されて身体化されていく過程についても、シェアしていただきました。映画と現実がつながる貴重なお話でした。

小学生の人は、この場に「自分で参加したい、他の人がどういうことを思ったか聞きたい」と言ってくれました。これもとてもうれしかったです。まさか10歳の人とこの映画について話せると思っていなかったので。「この感想シェアの場に参加した後で、また映画を見てみたい」とも言っていました。

 

皆さんのふりかえり

・いろんな人がいることをあらためて知った
・職場でもっといろんなことを話し合いたくなった
・自分の教育観の大切な部分を言葉にできた
・みんなにいる意味があるってお互いに思える社会になれば
・将来の夢の一つが校長先生になった
・子の学校の先生に映画を勧めたい

 

ファシリテーターのふりかえり

たった70分とは思えないとても濃い対話時間になりました。

映画を通じて話し合えたのは、「子どもと大人が共につくる、学びの場の可能性」ということだったかなと思います。

お一人お一人の背景もじっくりと聞いてみたいと思いつつ、やはり場の趣旨として、映画の感想を話すことから何かを発見していきたい思いがありましたので、なるべく映画に言及しながら、映画に紐づけて語るように整理しました。映画と自分の経験とを行ったりきたりしながら、漏れ出るものを少しずつ積み重ねながら進めていくことで、この顔ぶれだからこそ見えた景色があったように思います。

チュプキ代表の平塚さんが、「映画館という仕事を通じ、映画や作り手の力を借りて、もしかしたら"教育"ということをやっている面もあるのかもしれない」とおっしゃってました。私も、このような場をはじめとして、自分の仕事を通じてできていること、これからもできることがたくさんあるなとワクワクしてきました。

アンケートより(掲載許可済)

・映画を観て、「誰かと今の気持ち共有したい!」と思って、職場で「映画観て!」って勧めたりもしましたが、なかなかそこまでは行き着かず、今回、こういう場があり、色々な立場の方のお話が聞けてとても有意義な時間でした。

・映画を観て、すぐに思いを忘れないうちに語り合える場がいつかあるといいなと思います。

ドキュメンタリー映画と、ミニシアターが好きで色々な映画館へ行きましたが、とても良い映画館に巡り会えたなって思ってます。これからも通わせて?いただきます。

 

ご参加くださった皆様、ご関心をお寄せくださった皆様、チュプキさん、ありがとうございました!

〈ゆるっと話そう〉は来月も開催します。
次回は第30回。詳細が決まりましたらまたお知らせします。

 

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▼監督の舞台挨拶

 

南アルプス子どもの村の中学生の出した声明

対話を重ねて共に生き、学ぶ日常を作ってきたかれらだからこその、ほんものの言葉。ぜひ全文読んでいただけたら。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=4973107669422269&id=255994201133663

 

▼パンフレットの表紙に書かれている言葉

"Let's make children happy first, everything follows. " (A.S.Neill, 1883-1973)

ニイルは、きのくに子どもの村学園の理事長・学園長の堀さんが影響を受けた教育者の一人。彼が創立した学校 Summerhill Schoolは現在もイギリス、サフォーク州レイストンにあります。ついでに調べていたので、ご興味ありましたら。

www.summerhillschool.co.uk


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映画『金の糸』@岩波ホール 鑑賞記録

岩波ホールで映画『金の糸』を観た記録。

moviola.jp


3月11日の午後を家で一人で仕事をしながら過ごしたくなくて、映画を観に行った。毎年この日はトラウマ反応が出てひどく落ち込んだり、感情が揺れたりして不安定になる。東京で経験した私ですらこのようなのだから、被害の大きかった人たち、人生がすっかり変わってしまった人たち(環境としても、内面としても)の中には強い反応に苦しむこともあるのではと想像する。

 

映画はそのような人生の不運や理不尽も飲み込んだ、長い時を扱う物語だった。

人の一生を四季に例えるなら、これは冬。しかも晩冬。人生を何十年という単位でカウントする人たちにとってのリアルな物語。春や夏を生きる若い人たちにはたぶんちょっと想像がつかないであろう。私も10年前だったら、半分ぐらい寝てしまったかもなと思う。静かで、繊細で、思索に満ちた映画。とても岩波ホールらしい、良質な小品。


老い、死、別れ
喪失、記憶、救済、秘密、病、孤独
母、父、娘、息子、孫、
女性
世代、遺産、栄光、愛、夢
重荷、刷新
音楽、歌、詩、言葉、文学
共産主義、民主主義
民族、文化、
金継ぎ、モザイク、パッチワーク、曼荼羅

先をゆく人からの贈り物、手紙。

 

歌が二人をつなぐ「あの若い日々」を象徴するものになっているところは、同じく冷戦時代にも触れていた映画『コールド・ウォー』も思い出す。

旧ソ連時代の高官だったミランダが印象に残った。


この映画が撮られたのは2019年。

物語に没入しながらも、ウクライナでもこのような街並みが破壊されているだろうかとつい考えてしまう。
傷を癒やしている途上に、今また新たな傷が作られる。前時代の悪夢が繰り返しやってくる。

本当に、心から、一刻も早い終戦を願う。

 


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91歳とは思えない、溌剌とした監督の姿。作品。これもまた森美術館で観た《アナザー・エナジー展》を彷彿とさせる。ハリウッドの男性映画監督とは全く異なるフィールドで、テーマで手段で、アナザーエナジーを発揮して作られた作品、とも受け取った。


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7月に閉館する岩波ホール。あと上映待機しているのは2本。どちらも観に来るつもりだが、もしかして最後になる可能性もあると思い、たくさん写真を撮った。
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展示『生誕110年 香月泰男展』@練馬区立美術館

練馬区立美術館で香月泰男展を観てきた記録。

www.neribun.or.jp

 

3月5日

前期の展示が明日までなので、慌てて行ってきた。

ずっと観たかったシベリア・シリーズ。シベリア抑留の記憶から描かれたもの。すごかった。後期も来て、シリーズ全て観ようと思う。
まさに今観るべき作品、足を運び、声を聞くべき展覧会。
世界に激震が走った今このときに、死者たちとの対話を通じて、生について、人間について、世界について思いを馳せたい。

 

鑑賞メモ

・初期から透明感はあまりない。透過性が低い。確かな強さ、明確な、存在の中につまっているもの。きっぱりとしている線。

・俯く少年、覗き込む少年。実態としての少年ではなく、心象としての少年。

・シベリア・シリーズの間にも身近なモチーフ、家族、草木、虫、川などを描いている。

・シベリア・シリーズは画集と展覧会がきっかけで生まれたネーミング。「脈絡のない絵画の集合体に秩序を与え、整理するとともに全体を俯瞰する」ため。

香月泰男自らによる解説文がついている。背景を思いながら鑑賞できる。作品の横にも掲示してあるが、字が小さいので、手元にハンドアウトもあるのはありがたい。

・たくさんのスケッチ。画材屋で購入したスケッチブック、子どもの使う学習ノート、本の束見本、タバコの空き箱にまで描く。素描、構図の研究、展示計画、自筆文の下書き、日々の心境まで。作品という形になる未満のこういうスケッチはよい。

・シベリア・シリーズの中で印象に残ったのは、「1945」「海〈ペーチカ〉冬」。

(香月の言葉)再び赤い屍体を生み出さないためにはどうすればいいのか、それを考え続けるためにシベリア・シリーズを描いてきた。

・立体感。方解末という日本画の材料と油絵具と炭を混ぜたマチエールが、立体感と深遠さを与える。黒にグラデーションがつく。

・人間の見分けがつかなくなる、人間がそこまでいってしまうという恐怖と、絵と対面して、微かな違いや表情から個別性を見つけようとする自分の衝動と。

・上階の展示スペースではカーペットがはがされて、設営のためかいろんな記号や線が書かれた木目の床が剥き出しになっている。わざとなのかわからないが、作品とのつながりが感じられてよかった。

・「復員〈タラップ〉」1947年5月21日、引揚船で帰国したとき、それまでほとんど目が閉じられていた抑留者たちは目を開き、抑留者ではなくなっている。ただ一人、香月本人が眼帯をして片目を閉じて描かれている。

・人々の声にならない絶叫、死者の無念さ。

・「-35℃」昔、とある博物館で経験したことがある。-35℃に設定された特別室。入ると一瞬でまつげが凍る。寒いどころではなく、内臓がすべて凍りつきそうで話すこともおぼつかなかった。

・母からもらった唯一の物、絵具箱を肌身離さず持ち歩いていた。絵具箱を持っていることが、厳しい抑留生活の中で画家の精神を支えたのかもしれない。

ソ連、という字面にいちいちぎくりとしながら観る。今ロシアで行われていること、ウクライナで行われていることはこのようなことなのだろうか。それは私を「あなた方の苦しみは癒える間もなかった」とわざわざ報告に来た使者の気分にさせる。

・「デモ」に添えられた文章。

ナホトカで初めて私はインターナショナルを歌わされた。スクラムを組んでラーゲリの中を早暁からねり歩いた。そうすれば早く日本に帰してくれるということだった。スクラムを組んでデモるなど、ソ連邦にはない。それはソ連邦の指導者にとって外敵よりも恐るべき力になるからだ。(香月泰男


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3月25日。後期展示も来た。
シベリアシリーズを全部見たくて。
身近なモチーフも描きながら、ときどき浮かんでくる記憶を絵画に描きつけた、その全体像を後年シベリアシリーズと呼んだのだそう。

復員した1947年からいきなり描き始めたのではなく、いろいろ実験を積み重ねた上で、1959年からすべての準備が整ったかのように、画材と画法がカチリと決まり、描かれだす。
もっと小さい絵だと思っていたので、それもイメージが違った。メインのサイズは、72.8×116.7

それからとても立体的。香月が開発したマチエール。油彩と日本画に使う方解末と木炭を混ぜたもの。
土を塗りたくったようなゴワゴワやざらつきと、雲母のようにキラキラしている。昔の民家の室内の壁を思い出す。

やりきれないのは、「シベリア抑留」的なことが、今まさに進行していること。

美術館で絵を見たからって戦争が止められるわけではないけれど、居ても立っても居られなかった。帰宅して、日本赤十字社の緊急支援に寄付をした。

「もう二度とこのようなことが起きないように」と多くの人が願って、作品を作り続け、私は鑑賞者として観続けてきたあの時間、あの積石。吹き飛ばないように必死に守る。

そしてきょうも言語を学ぶ、文化を学ぶ、楽しむ。それがなんの役に立つか、とても良く知っているから。

 


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まさに今、この言葉を。


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ときどき見返したくて購入。自分が見た印象をそのまま持ち帰れる図録ってなかなかない、うれしい。展示以外の作品も収録されている。充実。

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youtu.be

 

練馬区立美術館のツイッター。発信に温度が感じられて好き。そういえば毎回メモを取っていると「ボード使いますか?」と貸してくれるのがうれしい。

twitter.com

 

以前この本で香月泰男美術館のことを知って行ったみたいと思った。「個人美術館」という言葉はおそらく筆者の造語だが、ぴったりの表現だと思う。一件一件の取材が丁寧で、情報だけでもエッセイだけでもなく、行きたい気持ちにさせるコンパクトなガイドになっていて、作家について調べるときにときどき開く。

 

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展示『描くひと 谷口ジロー』@世田谷文学館 鑑賞記録

世田谷文学館谷口ジロー展を観た記録。

www.setabun.or.jp

 

私にとっては、はじめましての谷口ジロー。一作も読んだことがなかった。
ここ数年、鷗外、漱石、一葉のことを調べていて、私はなぜ辿り着いてなかったんでしょうか。

代表作の一つに、関川夏央さんとのコンビで描かれた〈『坊ちゃん』の時代〉シリーズは、図書館でも書店でも幾度となく目にしてきたのに、なぜか本格的に出会うこともなく、今まで来てしまった。

ゆえに今回の企画展は是が非でも足を運ばねばと思っていた。

 

来てみたら、いやはや、想像以上にすごい描き手だった!

谷口さんの作品はとにかく密度がすごくて、原稿を10倍に拡大してやっと普通に見られる。細かく描き込んでいるのもあるし、スケールが大きいのもあるし。うまく言えないけれども、「圧縮されてる」という感じがする。

展覧会の紹介

緻密な作画、構成によって描き出されるその作品は、谷口ならではの世界、時空間に読者を惹きこむ力に満ち、深い読後感を残すことでも知られています。

……納得。

 

鑑賞メモ

・1947年生まれ、2017年2月11日に69歳で死去。

・会場入り口で、「私はなんでも漫画にしたいと思っています」という谷口さんの言葉が紹介されている。見終わって「理解しました」となる展示内容。好奇心、尽きないエネルギー、挑戦。

・漫画の原画はやはり良い。少しでも関心のある作家の原画展はやはり来ようと思う。

・「栄光と暗黒が共にある明治。現代の原点である明治」by 関川夏央

・動的、質的、独自の時間の流れがある

・恥の感覚

・どれだけ、どのような取材をしているのか。この人自身の人生経験は。どうすればここまで深く入り込めるのか、作り出せるのか。

・脚本があることでのびのびと作れるタイプの作家。監督、撮影、キャスティングに専念できる。「なんでも漫画にしたい」からこそ人と組む。組める人でもある。

・友達が愛猫を亡くしたところだったので、『犬を飼う』や『そして…猫を飼う』のところでは共感して思わず涙がこぼれた。

・読者の対象が男性に限定されている感じはする。自分は含まれていないというか、あまり想定されていない感覚。だから今まで通ってこなかったのかもしれない。

 

 
 
 
 
 
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コレクション展もよかった。

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特にじっくり見たのは、やはり森鷗外のコーナー。

森茉莉小堀杏奴。「パッパ」が亡くなった前後のことを杏奴が、海外にいる茉莉に手紙で知らせている。この文面が涙を誘う。

手紙を提供された小堀鷗一郎さんは杏奴の息子さんで、ドキュメンタリー映画『人生をしまう時』の被写体になっていた方だ。こうして作品と作品、作品と現実世界がつながってゆく。

ムットーニの作品が動いているのを初めて見たのもうれしかった。

《漂流者》《月世界探検記》の2点。

美しかった。

あの箱を10人ぐらいの人たちと息を詰めて見ている時間もよかった。間違いのない平和という感じ。


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特装本を購入。とてもしっかり作ってあっていいお値段するので、一冊だけ。やはり「舞姫」のところが気になって第二部を。このサイズで読むのが一番適切な気がするのだ。

読んでみてもやはりそう思った。このサイズが谷口さんの世界を堪能するには必要だ。

最近どこかで「高校の国語の教科書から『舞姫』を除外したほうがいい、あんな酷い作品を載せておくなんて」という投稿を見かけて、とても残念に思った。確かに現代の感覚で読んでいたらあれはただの酷い男の酷い仕打ちに見える。

でもあの作品は、当時の時代背景を提示しながら読んでいく必要があるのだ。関谷さんと谷口さんが試みたように。

明治という時代を通して今の自分たちは何者なのかを知ろうとする態度が必要で、そこに『舞姫』を位置付けることで見えてくるのは、文豪・森鷗外と呼ばれた一人の男、森林太郎の苦悩、、イエと個人、国家と愛、日本と西欧とのはざまに立つ人間の苦悩であり、それは普遍の性質を持つのだと。

教科書からはもう除外されているかもしれないけれども、このことは個人的にも何度でも言っていきたいとあらためて思う。


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www.huffingtonpost.jp

www.sankei.com

japannews.yomiuri.co.jp

twitter.com

 

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METオペラLV《リゴレット》鑑賞記録

METライブビューイング・オペラ《リゴレット》を観た記録。東劇。

www.shochiku.co.jp

 

youtu.be

 

またまた決闘モノでした。男の見栄や男社会の生きづらさから溜め込んだ憎しみのために女が犠牲になる話、と私は見た。

 

昨年度聴いていたラジオフランス語講座で、オペラ《ペレアスとメリザンド》の展開に対する講師のコメントで、「なぜ悲劇ては女が死ぬのか。ミソジニーではないのか」というものがあった。いや、ほんとうに。

最後の死ぬときには赦しを与えてゆくので、聖母マリア的な慈愛の象徴にもなっていて、勘弁してくれと思ってしまう。

 

さて、《リゴレット》本編。

明るい曲調と裏腹に、進行している物語は、差別、排除、支配。

アリア「女心の歌」は、いかにも「太陽降り注ぐイタリアらしい陽気さ」に満ちているようなのに、そこに到るまでの経緯と、今まさに起ころうとしている出来事を考えると、ギャップがすごくて目眩がするほど。

↓聞くと誰もが「あーあれか!」とわかるぐらい有名。

youtu.be

 

"La donna è mobile" 女心は揺れ動く、変わりやすいよね〜と歌う、この公爵のチャラさが徹底していて良い。なぜか危機をスルリと抜けて一人呑気に生き延びるところが、皮肉というか。いやでも、現実ってそんなもんよねとも言える。

偽名を使って箱入り娘をたぶらかす感じは、若くてギラギラしていた頃の光源氏のよう。世界は自分を中心に回っている。

 

リゴレットが娘ジルダへの"愛"ゆえに公爵に復讐を仕掛けるというあたりは、これまた「決闘」モノ。ほんとうにそれは彼女への愛ゆえなのか?自分への愛ではないのか?と言いたくなる。

『最後の決闘裁判』『ウエスト・サイド・ストーリーなどでも明示される「男の見栄」と男社会の中で溜まった憎しみが、とあるきっかけを得て暴発する。その犠牲になるのはいつも女という構図。先日のアカデミー賞のアレもそうですよ。(→関連記事)自分の所有物を汚された、自分自身が傷ついたかのような錯覚で反応する。犠牲になるとかとばっちり食うとか。

 

とはいえリゴレットの不憫なところは、彼の容姿や社会的立場ゆえに嗤われ、不当な理由でホモソーシャルから排除される点。その先どうやって生きていくのか。彼にとって共同体からの排除は、おそらくほとんど死を意味する。

どれだけの絶望か。それゆえに憎しみは深く、深すぎるがゆえに、があらたな負の感情他者の中に芽生えさせてしまう。

しかしリゴレットは道化として、宮廷内で人を嗤い、窮地に陥れてきた経緯も持っている。今は自分が窮地に立たされる番。加害と被害の立場は紙一重。どこかでいつかこんな日が来るとわかってもいたのでは。

 

公爵の下僕達の「群衆」ぶりにも驚く。彼らは自分たち一人一人には考えがなく、命令されてもいないのに自発的に忖度する。公爵の一挙手一投足に反応する。集団としてやっているから怖い。あるいは、リゴレットに対する仕返しか。どちらにしても個人ではできないから集団になってやるところがエグい。責められても「オレのせいじゃない」と言いたげ。

「たった一日てこうも変わってしまうのか」

なんだこれ、現代の話か。ここでも音楽は楽しげなのに、舞台で展開している出来事は残酷極まりない。

 

リゴレットはジルダを外界に出すまいと管理する。「この街に来て3ヶ月になるのに教会にしか行っていない」「道化の娘は辱めを受けるから」。
ジルダにとって父は愛する家族ではあるが、自立を阻害する存在。公爵がどれだけクズでも、彼女にとっては唯一の社会への窓というところがつらい。恋愛の対象というよりも、自由をくれる存在が大きいのでは。

もう1幕追加して、リゴレットを救ってあげてほしいぁ。私なら3幕から書き換えてジルダも救いたいけど……。娘をこんな形で亡くして、しかも自分のせいで、この人もう生きてられないよね。

 

酒場の場面では、兄妹の関係もいびつ。「奴は金になる」兄利用され、女を使わされる妹。しかしこの妹にもちゃんと人格と歌のパートがしっかりと与えられているのはいい。この人にはこの人の人生がある。たとえそれが悪の道でも。兄のスパラフチーレは悪さがギンギンに溢れていて役としては魅力がある。

山場はオケもやる気満々で、目が話せない。

 

冒頭で伯爵夫人が夫を平手打ちしたあとに、ものすごい勢いで突き飛ばされて床に転がるように倒れる場面があるけど、あれはちゃんと申し合わせてるんだよね?だとしてもめちゃくちゃ怖い。ちょっとしたシーンだけど、舞台にいるのがほとんど男性しかいないし。。。演出やりすぎ。必要なくないか?

演出によるものか、一人ひとりに人生の物語があることがわかる作りで、今っぽかった。アール・デコの舞台美術と衣装もピッタリ。天井までぴっちりとデザインされている。

最後になってしまうけれど、歌手がよかった。ジルダ役のソプラノ、ローザ・フェオラ、鳥かフルートかって感じで、楽器と一体化しているというか。ジルダの微妙な立場や変化する心情も伝わる。次に彼女の出演作があったらぜったい優先的に観たい。

リゴレット役のクイン・ケルシーもその心の深いところに抱える怒りと悲しみ、娘を愛おしむ気持ち、絶望と微かな希望など、繊細に歌っていて泣ける。

リゴレットが復讐を決めたとき、「天罰を下すのはオレだ」、ジルダ「なんて恐ろしい喜びに目を輝かせているの」と歌うところもゾワゾワした。

これなんだよ、これ。「復讐の喜び」という悪魔に人間は取り憑かれてしまう。 ゆえにこのオペラは、「復讐を企てれば、自分にとって最も大切なものを永遠に失う」という教訓とも見える。

「ゆるしてあげて彼を。私たちにも報われる日がくる。不実な人のために赦しを乞うわ」

先日の《リゴレット》父娘の関係は、《エウリディーチェ》を彷彿とさせる。母娘、母息子、父娘、父息子、いろんなパターンでの成長と自立の阻み方を見て、自分への教訓や生い立ちの再考、世界の理解に活かしている。

溺愛は美しそうでその実、境界侵犯か共依存か。起こりうることとして理解。

 

近い時期にロイヤル・オペラハウス・シネマでも《リゴレット》の上映もあるようなので、見比べてみたい。

http://tohotowa.co.jp/roh/movie/?n=rigoletto2021

 

 

▼見どころレポート

www.shochiku.co.jp

 

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幕間のインタビューからメモ

・ジルダが何を選択していくのか、どのように深みにはまるのか、公爵の本性を知ってどうするのか、公爵の不遜な態度が見どころ。

・ワイマール共和国の設定に読み替えたのは、政治的な抑圧を受けている社会だから。女性への抑圧、貴族階級からの抑圧。。

・舞台美術、衣装デザインを1920-1930年のアール・デコをモデルにした。照明デザインは模型を作って。映画のような場面展開をするために舞台を回転させて、魔法のようにした。(感想:ここのリサーチがすごい)

・COVID-19の状況で明日には中止かもしれない中でやれることをやる、仕事に対する思い入れの深さをお互いに感じた。


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鑑賞対話イベントをひらいて、作品、施設、コミュニティのファンや仲間をふやしませんか?ファシリテーターのお仕事依頼,場づくり相談を承っております。

 
共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

映画『第七官界彷徨 尾崎翠を探して』@国立映画アーカイブ 鑑賞記録

国立映画アーカイブで『第七官界彷徨尾崎翠を探して』鑑賞。

まとまらない感想をバラバラと。

・ずっと観たかった作品。本は、高校生の頃に雑誌『オリーブ』で紹介されていて読んだ。あの頃『オリーブ』は本や映画や音楽など、文芸世界への架け橋になってくれていたのだ。

浜野佐知監督とヘアメイクの小林照子さんもいらしていて、同じ空間で鑑賞するという僥倖。 時を越えて、スクリーンで、多くの観客(95%ぐらい埋まってた)と自分の原点の映画を共に観る……どんな心境でいらっしゃるんだろう。緊張してお声かけられず。

・上映前に監督から、「悲劇の人生として語られることが多いが、私はこれだけの女性が老いて虚しく亡くなっていったわけがないと思った」とおっしゃっていて。私も、尾崎翠は悲劇で幻の女流作家なんかじゃない!と思ってました。うれしい。「白石さんが翠を演じたことで、現代に蘇ったかのようだった」とおっしゃっていて、観て納得。

・女性、作家、表現、老い、愛、死。書くことをしなくなった翠の日常にも、一人の時間や、孤独や、彼女独特の世界への目の向け方があったことを感じられた。自分も老いについて少しずつ考えている今の時期なのでとても響く。そして人生のごく早い段階で書いた物語表現が、やはり彼女の真髄なのだとも思った。また読みたくなった。

・『滝を見に行く』を思い出す。

・ライブハウスと、翠の日常と、第七官界彷徨の3つの世界を行ったり来たりするのが、リズムができてくると段々心地よくなってくる。

・「この作品を映画にしたい。邪魔が入ってもなんとか闘ってものにしたい」そういう意欲があったんだ!

・町子役の柳愛里さん、良い。 赤い縮毛、可愛い。

・クレジットに「クィアなみなさん」を見つけて衝撃。1998年の時点で既にクィアという言葉があったことに驚き。公開当時観ていたとしても、きっとなんのことかわからなかっただろうな。

・とにかく没入した。ボーッとしながら帰った。ホームの端を歩かないように気をつけつつ。 映画自体、きっとすごいエネルギーで作られていたのだろうなぁとも思うし、ああ、そうか!第七官界を体験してたってことか!とも思う。映画を観ているときにいるところが第七官界なのかもしれない。人と人とがわかりあえない現実世界からの解放、それに浸っている時間のことだとしたら納得。

 

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映画評

wan.or.jp

 

 

浜野監督の2019年公開の作品、『雪子さんの足音』も観たい。 

https://yukikosan-movie.com/

youtu.be

 

 

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舞台《DANCE SPEAKS》セレナーデ/マラサングレ/緑のテーブル @東京芸術劇場 鑑賞記録

東京芸術劇場で《DANCE SPEAKS》セレナーデ・マラサングレ・緑のテーブル のトリプルビルを観た記録。

dancespeaks.sdballet.com

 

知らない演目、知らないカンパニーだったけれど、こちらの記事がきっかけになった。「ピナ・バウシュの師匠」というところに「お?」となってページを見に行った。

bijutsutecho.com

 

この公演は、2020年3月にCOVID-19の影響で一度休止になったそう。公演キャンセルが次々に決まっていった頃ですよね。団員の皆さん、つらかったでしょうね。わたしもあの時期はつらかった。。

そして2年後の今、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が行われている只中で、「平和会議」を意味する「緑のテーブル」が上演されるという巡り合わせもすごい。

演目は2020年から変更されて、《セレナーデ》《Malasangre》《緑のテーブル》のトリプルビルに。

開演前の総監督の小山久美さんからの解説があり、既に舞台の一部という感じでよかった。一つひとつ淀みなく、ユーモアものせて話してくださって、おもてなし感もたっぷり。そのあとの舞台がより楽しみになった。

音楽も踊りも演出も、全体的に難解さはあまりなく、バレエやダンスを劇場で観たことがない人にもとても楽しめる作りだったと思う。

 

セレナーデ
DANCE SPEAKSという全体をまとめるテーマに基づくと、冒頭のこれはどのようなメッセージだったのか。アメリカにバレエを根付かせたいというバランシンの思い? バレエ学校の生徒にテクニックを教えたというその「学校」というキーワードに引っ張られて、私はなんとなく『わたしを離さないで』を重ねながら観ていた。

 

Malasangre
日本初演。貞松・浜田バレエ団との共同制作。スペイン語で直訳すると「悪い血」、転じて「腹黒い人」の意。ラ・ルーペと呼ばれたキューバの歌手、グアダルーペ・ビクトリア・ヨリ・レイモンドへのオマージュ。軽快なラテン音楽にのせてキレのあるダンスが続く。最高だけど、これもただ楽しいだけじゃないような。怒りに似たものも感じる。破れんばかりの拍手は、みんながちょっと元気になった瞬間だったかも。クラシカルで"清純"な《セレナーデ》に続いての《Malasangre》の猥雑さへの流れ、ギャップもよかった。

ステージ上には、黒い蝶。これが舞い上がる様子もまたしびれた。

 

緑のテーブル
中世ヨーロッパで流布した「死の舞踏」と第一次世界大戦の影響を受け制作された/1932年の初演では、振付のクルト・ヨース自身が「死」を演じた(パンフレットより)

スターダンサーズ・バレエ団の初演は1977年。団の歴史とつながる演目だったのか。

国際会議の場で好き勝手に物を言い、振る舞う各国の代表たち。何かを決める気はなく、ああ言えばこう言う、あちらが優勢になればあちらにつく、かき回したい人が遊ぶ。戦争を利用して金儲けしようとする者たちが蠢く。召集され戦わされる兵士たち、その家族たちの怒りや悲しみや絶望。

慰安所のようなところも出てくる。兵士をけしかける道化。道化は人々に笑いももたらし、戦時下に人々の精神を立たせる効果もある。笑いと慰め。しかし犠牲になる女性たちがいる。そしてその道化もまた死を迎える。今起こっている多くの現実との重なり、苦しくなる。

最後にまた緑のテーブルに集う各国の代表たちが出てくるが、何も変わらない。同じことを繰り返している。この人たちの気まぐれに、一般市民が翻弄されているなんてと怒りも覚える。

「死」の踊りは思い出すとまだ少し身体が震える。私が一人で踊るときの、底無しの暗い穴のような、虚無が迫ってきて、逃げ出したいほどだった。あれを踊っている人もまた人間なのだと思うと、その孤独さはどれほどのものだったのか。

 

「死」を演じた池田武志さん。

 

思わずツイッターで感想をお伝えしたら、丁寧にお返事をいただいた。

自分がこの役に向けて何の問題もなくまっすぐリハーサル出来ている日常と、世の中が迎えている全くそうではない現状と照らし合わせて...いかに自分が幸せなのかを噛み締めながら演じるこの「死」という役はとても重いものでした。

その重さ、観客としては想像するしかないけれど。私は隔絶された孤独や不可触の虚無といったものを感じて、ただただ恐ろしく冷たく。逃げ出したいような時間だった。

最近、恨みや憎しみの感情を覚えたときに、自分には理解し得ないことを深追いしてはいけないという戒めとして、あの死の踊りを思い出したので、そのこともお伝えした。

受け取ったものをなかなか文字表現にすることができなかったのだけど、池田さんとのやり取りで、メモ程度でもなんとか書いて残してみようと思えた。

こうして、作り手の方とダイレクトにやり取りができる時代、ありがたいことです。また池田さんやスターダンサーズの舞台も拝見したいです。

 

当日は友人と観に行き、イタリアンバルで恒例のアフタートークをして、ようやくひと心地ついた。直前まで、「死」の踊りの衝撃に呑まれていたから。

気張っていい席とってほんとうによかったと思う。そもそもこの舞台に出会えたことも一期一会。

私は1階席のわりとステージに近いところで、友人は3階席の最前列で、ステージを見下ろすような席だったためか、抱いた感想は全然違っていて驚いた。

見る人間の違いにもよるし、見る場所によって受け取るものも違うのはいつも本当に不思議。

 

 

youtu.be

 

balletchannel.jp

 

2年前の公演向けに作られたプログラム。400円の特価。とても美しい。銀の箔押し、背の緑、中の写真やインタビュー類も充実。隅々まで意欲溢れる公演だったことをこのプログラムによっても記憶に留められる。
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*追記*

"Malasangre"

www.sdballet.com

 

Fever

youtu.be


Si Tu No Vienes

youtu.be

 

Ya No Lioro Mas

youtu.be

 

Guantanamera

youtu.be

 

 

 

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展示「夢二がいざなう大正ロマン - 100年前の文化と女性を中心に - 」 @竹久夢二美術館 鑑賞記録

根津の竹久夢二美術館で「夢二がいざなう大正ロマン ―100年前の文化と女性を中心に―」を観た記録。

www.yayoi-yumeji-museum.jp

www.tokyoartbeat.com

 

夢二美術館の展示でしたが、この下は夢二作品にはほとんど触れていません。あしからず。

 

夢二の活躍した大正時代。大正浪漫と呼ばれた文化生活。モダンガール、宝塚、カルピス、森永ミルクチョコレート。

さまざまな表現が生まれ、刺激を与え合い、発展していった。その中で、社会が、少女や女性をどんなふうに見ていたかもわかる展示。のびやかで、いきいきとした面もありつつ、女性が生きるには強い制限もある時代だった。

 

まずは時代背景。

今から100年前が大正時代にあたる。1922年(大正11年

明治時代についてはあれやこれやで学んできたけれど、大正時代はまだまだぼんやりしている。短いし。1912年〜1926年の15年間。

明治が45年、昭和が64年、平成が31年なので、圧倒的短さ。

 

少女雑誌の隆盛。『少女界』『少女の國』『少女画報』『少女世界』『少女倶楽部』『新少女』『少女の友』……!タイトル決めのブレインストーミングか!というぐらいのバリエーション。

雑誌文化も活況に満ちてた頃だったが、少女という存在が新たな市場ターゲットになっていたというのもこの時代らしい。「現実を生きる大人の女性」になる前の束の間の自由を謳歌するのが少女で、そこに目をつけた大人たちがいるということか。

ちなみに「現実を生きる大人の女性」たちが読んでいたのは、『婦人公論』『婦人画報』『主婦の友』『婦人世界』など。先の2つが今もあるのが興味深い。『主婦の友』も2008年まで刊行されていた。当時の内容は良妻賢母を後押しするための、生活実用、流行風俗、婦人問題、名家の紹介、文芸等、とのこと。

 

唐澤富太郎の『女子学生の歴史』によると、

女学生とは12歳〜17歳。尋常小学校に6年通ったあと、4年制の女学校に通うのがだいたいこのぐらいの年齢。

女学校は1923年(大正12年)に5年制になり、全国で529校になった。

家事裁縫は必修。学問というよりは、良妻賢母の育成がメイン。

1922年の初婚は平均で23歳。親が決めた相手と結婚するのが一般的。

ゆえに、少女でいられる期間の貴重さが際立つ。

少女同士の友情物語も人気を博し、吉屋信子による女学校、寄宿舎ものの物語は、やや同性愛的傾向を帯びるほど、少女同士の親密な関係を描いていたとのこと。

それ以外の絵画や挿画、装丁などは、展示されていたのはほとんど男性の手によるものだった。少女向けなのにやはり仕事は男性にとられていたのだろうか。それとも光が当たっていないだけで、女性の仕事もあったのだろうか。

 

大正時代といえば、平塚らいてうが立ち上げた『青鞜』が明治44年(1911)〜大正5年(1916)の活動。彼女たちが体現していた「新らしい女」は、教養高い、ハイカラ風の女性で、夫人の新らしい地位を獲得する女性という意味でも使われたが、世間的には、「因習に逆らう奇異な行動をする女たち」というラベリングにもなっていた。奇異な行動といっても外食先での飲酒や遊郭見学などだが、当時としては相当にあり得ないことだったのだろう。

これに関連して思い出すのは、ヴァージニア・ウルフの『ある協会』や田房永子の『男しか行けない場所に女が行ってきました』。

 

 

 

イムリーに辛酸なめ子さんによる記事があった。これぜひ読んでもらいたい。

www.yomiuri.co.jp

 

『大正期の家族問題』も家族から時代背景を見たもの。この中に女性の社会的立場のことも多く出てくる。

 

 

別のテーマで。

オペラ好きとしては、関連する展示はよかった。

1917年(大正6年)の浅草オペラはオペラとは名ばかりで、日本流にダイジェストした軽演劇のようなものが多かったそう。音楽的な技術も高度とは言えなかったと。

帝国劇場に雇われたイタリア人のローシーが、オペラの本格的なレッスンをつけようとしたが、受けず。

1919年(大正8年)にロシア大歌劇団(Russian Grand Opera Company)が来日して本物のオペラを上演したそう。この経緯や日本側の受け止めについては、森本頼子氏による論文『大正期日本における白系ロシア人のオペラ活動』 (金城学院大学, 2020年)が概要を得るのによいので、記しておく。インターネット上でPDFファイルで確認できる。

 

大正時代のファッションは単純にとてもかわいい!!! 夢二の図案や装幀もいい!


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舞台《百物語》@KAAT神奈川芸術劇場 鑑賞記録

KAAT 神奈川芸術劇場で『百物語』を観た記録。

www.puppet.or.jp

www.kaat.jp

 

先日、《フェイクスピア》を観て感想を話したのをきっかけに、そういえば「白石加代子の百物語」学生の頃からずっと観たかったんだよなぁ、と思い出した。《フェイクスピア》のメインキャストの一人が白石加代子さんだったので。

そうしたら、知り合いが2人、デフ・パペットシアター・ひとみ《百物語》に関わっていることを知って、流れでチケットを取った。

私の好きなパペットでもあるし、シネマ・チュプキ・タバタさんとのコラボレーションで知った「ろう者と聴者が共に」という世界をまた一つ見たいと思ったから。

 

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いやはや、よかった。

気圧低下で雨も降って寒く、身体的には朦朧としていたけれど、それがかえって異界を旅するのによかったのかも。

99の物語から14をとって、それぞれに解釈された世界。
うたのある物語も3つあった。


怖さと笑いと、生と死と。
人間と人形だからできること。
歌と打楽器のみの、一番原初的な音楽。

人形劇といっても、いろんなサイズ、いろんな遣い方の人形が登場する。

一人で遣うもの、二人がかりで遣うもの。人間が演じながら支えるもの。
龍(じゃ)踊りのような遣い方もある。

舞台上ではいろんなことが同時に起こるので、何かに見惚れていると何かを見落とすので、なんだかもったいない気がしてしまう。見えているから全部見ているわけじゃないというか。むしろ音だけのほうが全体を知覚できているんじゃないかと思ったりする。

何が生きものなのか、生きているとはどういうことなのか。
魂を吹き込まれるとは、魂とは。


KAATの大スタジオが、囲炉裏で火がくすぶる民家か、宿場の本陣のような趣を見せる。
お客さんの中に赤ちゃんがいて、ときどきフガフガいってる声も演出の一部に聞こえたり。

話はあるが、ただただ没頭して、不思議だったり怖かったり、おもしろかったりという感情を沸かせているだけで、ざわざわしている心がだんだんスーーッと鎮まっていった。こういう時間は、社会が激変している時期にとてもありがたい。

 

アフタートーク付きだったのもよかった。

構成、演出の白神ももこさん:

「ダンスはものすごく訓練しないとできないことがあるけれど、人形ならすぐ試せるのがいい」「人形がまともで人間が変わってるかもと思うぐらい」

舞踏家の雫境さん:

「人と人形はできること、できないことが違う。実験して機能を高める作業をくりかえした」

音楽のやなせけいこさん:

「打楽器の生演奏をステージ上で見せるのは、誰がやっているのかわからないのではなく、音を出しているほうが見えるのがいいと思った」

などが印象に残った。

様々な位相での異なる存在とのコラボレーションが起きていた舞台。
記憶に残る体験の一つになった。

 

後日、図書館で原作である杉浦日向子さんの『百物語』を借りて読んだ。

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以前この作品を読んだときは、画材や描き方、物語が作り出す世界が一編ずつ違うことを楽しんでいた。

『百物語』の舞台を観た今は、一編一編が舞台の世界観とつながって、ビジュアルが自分の中に立ち上がっていることを楽しんでいる。色や音や手触りなど、二次元を超えていろんな楽しみ方も得ていることに気づく。

より怖さが増したし、楽しい読書になった。

舞台で観たものを直接再現するわけではない。紙で物語を読みながら、自分が好きなように展開しながら遊んでいる。たとえるなら、折り紙作品を広げて一枚の紙にしたり、また折って折り紙作品にしたりを繰り返すような作業。

舞台を経由して原作を読むと、一つひとつの物語が異界とつながる穴のような役割をしていることに気づく。

現実からこぼれ落ちてきた不思議、切り捨てられたもの、ないことにされてきた説明できない恐怖。禁忌。妖(あやかし)や幻の存在を思い出させてくれる。

人間の中の魔、人間には理解できないこの世の摂理。
自然界における人間の小ささのようなものにまで想像が及ぶ。

 


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▼記事

デフ・パペットシアター・ひとみ新作『百物語』を語る〜白神ももこ(演出)×大杉豊(表現監修)×足立沙樹(出演)「当たり前をそっと道端に大事に置いておく」 

spice.eplus.jp

 

直接は関係ないけど、こういうニュースが入ってきた時期だったということと、《百物語》のアフタートークで「自分のふつうをすり合わせながら、一緒に作っていった」というお話をされていたことを思い出して。

www.huffingtonpost.jp

 

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〈レポート〉3/24 『香川1区』でゆるっと話そう w/ シネマ・チュプキ・タバタ

2022年3月24日、シネマ・チュプキ・タバタさんと、映画感想シェアの会〈ゆるっと話そう〉を開催しました。(ゆるっと話そうとは?こちら

 

第28回 ゆるっと話そう: 『香川1区』

2021年の衆議院選挙において、全国的にも注目された選挙区、香川1区の候補者や支援者、有権者の姿を追ったドキュメンタリー映画です。

 

▼ オフィシャルサイト

 

▼ イベント告知ページ

chupki.jpn.org

 

▼当日の参加者

満席での開催となりました。9人中7人が「ゆるっと話そう」に初めて参加される方でした。今回のイベントで初めてシネマ・チュプキ・タバタを知ったという方もおられました。

石川県からご参加の方は、「『香川1区』を観たあとに石川知事選挙と金沢市長選挙があった。今まであまり関わって来なかったが、映画を観て大事なことだと気づき、今回の選挙ではちゃんと話を聞いてみようと自分なりに動いてみた。きょうも皆さんと話をするのを楽しみしている」と申し込み動機を話してくださいました。

また、「封切りで観に行ったがシェアできる友達がいなかったので、今日話せるのはうれしい」と期待を話してくださる方もいました。

この日はスペシャル企画で、大島新監督と、前田亜紀プロデューサーも同席し、皆さんの感想を一緒に聞いたり、ところどころで補足をしてくださいました。

 

▼進め方

まずはブレイクアウトルーム(小部屋)で参加者だけで少人数で10分話しました。

各部屋は私かチュプキのスタッフさんがゆるやかに進行し、「きょう楽しみにしていること」や「今浮かんでる感想」を一人ずつ話していただきました。

その後メインルーム(大部屋)で全員でシェアしました。

小部屋で出た興味深かった話、思い出した他のトピックなどをシェアしていただきながら進めました。

 

みなさんの感想(一部紹介)

・『なぜ君』と『香川1区』
車から手を振る人、道路工事の人、高校生など、前回よりも候補者・小川さんに近づいている。ああいう雰囲気はどうして生まれたのか?

・他のドキュメンタリーとの違い
大島監督が自分の存在もぐいぐい出していく感じがする。両陣営描くといいつつ、やはり大島さんは小川さん寄りなのかなと思った。

・陣営の雰囲気の違い
推薦状が天井一面に貼られているけれど、事務所は閑散としている平井陣営と、窓に鳥の切り紙が貼られたり、人々が和気あいあいとしている小川陣営。

・マスマーケティングとファンマーケティング
前者は平井さん、後者は小川さん。まさにこの構図を感じた。PR映画ではないが、あながち間違いではなく、『なぜ君』はファンマーケティングを支える部分になっていたのでは。

・選挙っておもしろい
利権によってつながっている陣営と人間性に惹かれて集まった陣営との対比が描かれていて興味深かった。直近の石川は、利権×利権、保守×保守の選挙だったので残念。

・家族が出馬した経験
家族総出で選挙を戦う様子に、立派だなと思いつつ、巻き込まれている部分も感じる。実は自分の親が出馬したときには自分は協力せず、親戚から顰蹙(ひんしゅく)を買った。

・暴くことによる傷つき
これまで見ることなかった選挙のリアルな現場を暴いて白日の元に晒している。それは正すために必要なことかもしれないが、自分にもある醜いところを醜いままに描かれるのは、観ていて傷つきもした。

自民党支持者への気がかり
自民党支持の人が見たらどう感じるのか。インタビューに答えた人などは自分の撮影シーンが善悪構造のように描かれていることについて、観たらどう思うのかなと考えてしまう。→「今のところ写っていたご本人たちからのご意見は入ってきていない」と大島さんよりお答えあり。

・前田プロデューサーの撮影時に詰められる」シーン
見ていて怖かったがご本人はどう感じられたのか?→「怖いより憤慨していた」と前田さんよりお答えあり。

 

監督とプロデューサーよりご感想

最後に、皆さんが感想を話されるのを聴いていてどう思われたかと、きょうのご感想をうかがいました。

大島さん:「作品の感想を話してもらえるのは制作側として喜びだが、さらに選挙や政治に関心を持ったというお声も聞けるのは本当にうれしい。他にもいろんな感想が出たが、どれも伺えてとても嬉しかった」

前田さん:「劇場のトークイベントやティーチインで質疑応答の形で皆さんの感想を聞けるのもうれしいが、こういう少人数の感想を語る場で聞ける話もまた貴重で、参加できてよかった」

お二方、お忙しい中、ご参加ありがとうございました。

 

写真左上から時計回りに:大島監督、舟之川、前田プロデューサー、チュプキスタッフ・俵さん、チュプキスタッフ・宮城さん

 

▼ファシリテーターのふりかえり

1時間ちょっとの短い時間でしたが、一人ひとりの感想が持ち寄られ、いろいろな観点や思いにふれ、ファシリテーターの私自身は、『香川1区』を観た直後と同じぐらい感情が揺さぶられました。

今回は出てきたテーマの中から掘り下げていくというよりも、多様さをとりあえずテーブルの上に出してみる時間だったように思います。それでいて、実際に出てきた率直な言葉や感情を味わうための沈黙もあり、皆さんが映画と深くつながろうとしていた感覚も私にはありました。

逆に、ポンポンと話が弾んでいかないことに緊張を覚えた方や、次に何を出すべきか迷ったり、制作のお二人がおられることでもしかしたら遠慮した方もいらっしゃるかもしれません。

終了後にいただいたアンケートを元にチュプキさんとふりかえりをして、次回以降、もっと皆さんが話しやすくなる工夫を取り入れていこうと話しました。ご意見お寄せくださった皆様、ありがとうございました。

ご参加の皆さんには、今回をきっかけに、感想シェアの楽しさをご自身の周りにもぜひ広げていただければと思います。『香川1区』をおすすめして、「あとで感想を話そうね」と約束する……なんていうのもアリです!

ご参加くださった皆様、ご関心をお寄せくださった皆様、チュプキさん、ありがとうございました。

 

次回の〈ゆるっと話そう〉は、4月13日(水)20:00〜『夢みる小学校』です。
https://chupki.jpn.org/archives/9166

ご参加お待ちしております。

 

 

チュプキさんで栽培中の大根。なぜかは映画を観た方にはわかります!



▼チュプキさんでの舞台挨拶
(スレッドを展開すると続きのツイートがあります)

Facebookでのまとめはこちら)
https://www.facebook.com/cinema.chupki.tabata/posts/3194593510784306

 

▼資料

www.nhk.or.jp

www.asahi.com

toyokeizai.net

news.ksb.co.jp

 

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年