ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

〈レポート〉2021年春分のコラージュ、ひらきました

2021年3月20日(土)、春分のコラージュの会をひらきました。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

桜も咲いてきた中で迎えた春分。今年も早いですね。やはり年々暖かくなっているのでしょうか。

お彼岸の中日。ここから夏至に向けて、さらに陽の気が高まっていきます。

 

きょうはこれまで3回参加してくださっている方。前回のご参加は、去年の春分でした。そのときまではリアルで開催したんでした。過去の作品を後ろに掲示して、ご自身の変遷を楽しみつつ、きょうはきょうで何ができるのか、楽しみながらご参加くださいました。

もうお一方は、初めてのご参加。コラージュの制作は学校の図工以来とのこと。今、良さそう!とピンときてご参加くださいました。

 

いつものように《ふりかえり》と《製作》と《鑑賞》の3つからできています。 

ふりかえりの時間で、今気になっていることの荷下ろしを60分かけて、していきます。

今気になっていることを書き出してもらい、それについて5分話し、聴いていた人たちからフィードバックを受ける。それを人数分やります。

老い、ダイエット、勉強、枯渇、仕事、引越し、捨てる、語学、菜の花、落語、ブログ、申告、本、片付け、研究室、エネルギー......。いろんなキーワードに思いを載せて語り、受け止めて返し、その人の最新を聴いてみる。他の方の語りに影響を受けながら、言葉が出てくる。

 

人って刻々と変化しているんだな、一人の人生にいったいどれだけのことが起こり、内側ではいったいどれだけのことが動くのだろう。

人と話すっていいな。自分が行ったらよさそうと感じた場で、すてきな人に会えるとうれしい。

そんな言葉が出てきました。

 

 

少しブレイクしたあとは、《製作》。

先ほど話したことは一旦忘れて、何も考えず、感覚にしたがって、「これいいな」「好きだな」「こうしてみたらどうだろう」を自分と相談しながら作ります。考えないことがポイント。

他の人との会話はなくなり、それぞれが作業に没頭していきます。

わたしはオンラインの場のときは、いつもは音声ミュートにして、音楽をかけながら作っているのですが、きょうは他の方がそうしているように、ミュートにせず、他の方の作業の音を聴きながら作ってみました。

かちゃかちゃ、カタン、という音が心地よかったです。

70分ほどかけて、作品をつくりました。

 

最後は《鑑賞》。

こんなつもりでつくった、ここが気に入っている、ここはこんな工夫がある、全体として自分にとってはこんなものができた。

などを紹介していただき、その後、他の人たちで感想や質問をしていきます。

 

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わたしの作品。

なぜか超横長になった。ここ何回か試みて貼れなかった2つの大きなパーツをきょうは思いきって貼ってみた。気になった映画のチラシや、好きな映画のチラシを貼り込んだ。「みる」や「読む」の周りに余白をもたせたい。左上の「スタイル変更のお知らせ」はなんのことかはわからないが気になったので貼った。

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感想や質問をもらうことで、他の人の関わりが生まれ、自分と作品との関係に風が通るような心地よさを感じます。「ここがいいね、すてきね、らしさがあるね」と作品に対して言ってもらえるのは、自分の見た目や行動に対するフィードバックとはまた違う良さがあるように思います。

「らしさ」を自分自身がたっぷりと感じて受け取ることが、たまたま居合わせ、同じ体験をしている他者のおかげで成立する。

 

きょうのご感想

・すごく楽しかった。皆さんと話せたのも楽しかった。「これが何なのかわからないけれど、何でもいいから作ってみよう!」と思えたのがよかった。最後のほうで調子が出てきて、残り5分で「適当に」やったときがいい感じだった。充実!また参加したいです。

・これまでは、リアルの場で作るのがよかったので、オンラインは二の足を踏んでいたけれど、オンラインはオンラインで、ときどき顔をあげると二人が一心不乱に作業しているのが見えたりして、よかった。

 

わたしもとても楽しかったです。外ではバイオリンの音がして、人の声がして、平和な中で作れたこと、場がひらけて幸せを感じました。

 

出来上がった作品は、おうちの中の好きな場所に貼って愛でてください、とお伝えしています。

わたしは、行き詰まったときや自信が薄くなったときにふと目をやると、「ああ、そうだ。わたしはこうだった」と思い出して、また気持ちがしゃんとするように思います。

しっくりこなくなったら、新しいコラージュの作りどき。この会にまた参加してくださってもいいですし、ご自分で作ってみてもいいです。

こんな楽しみ方、調え方もあるんだな、とまた思い出していただけたら。

 

ご参加くださった皆様、ご関心をお寄せくださった方、ありがとうございました!

 

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次回は6月21日(月)夏至の日に開きます

2021年のスケジュールです。
夏至:6月21日(月) 秋分:9月23日(木・祝) 冬至:12月22日(水)

いずれも二十四節気の当日です。ぜひご予定ください。

詳しくはまたこちらのブログでご案内します。Peatixのフォローもぜひ。

hitotobi.peatix.com

 

年に4回、暦の節目につくるコラージュの会をひらいています。

雑誌やチラシや写真を切って、台紙に貼り付けていく、
だれでも気軽に楽しめるコラージュです。
自主開催の他、単発の出張開催やオンラインファシリテーションも承ります。

お問い合わせはこちらへ。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 

2020年12月 著書(共著)を出版しました。

『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社

映画『春江水暖』鑑賞記録

映画『春江水暖』を観てきた。

www.moviola.jp

youtu.be

 

Bunkamura ル・シネマに行くのは何年ぶりか。ひょっとしたら15年近く来ていなかったかもしれない。シアターどころかロビーの様子も色がグレーだったこと以外はほとんど思い出せないし、行ってみて、「ああ、こういうところだったな」という懐かしい感じも全く湧いてこなかったので、ずいぶん長い時間が経っていたらしい。

お久しぶりです。

 

『春江水暖』は、配給がムヴィオラさんだからという理由もあって、チェックしていた。2019年に観た『ぶあいそうな手紙』がとてもよくて(感想こちら)、配給はどこなんだろう?と探ると、なんと『『タレンタイム』『細い目』の配給さんだった。

しかも『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』(感想こちら)も『郊遊<ピクニック>』もムヴィオラさん。観ていない作品のほうが圧倒的に多いけれど、とても好みのラインナップ。ということで、次回新作公開があったらぜったいチェックしようと思っていた。

宣伝が出はじめ、noteの連載を読んでいたら期待がどんどん高まった。

note.com

 

いろいろ他のことをやっているうちに、公開から4週が過ぎてしまい、慌てて『ぶあいそうな手紙』を一緒に観た友人に声をかけて、出かけた。

 

 

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杭州市、富陽。大河、富春江が流れる。しかし今、富陽地区は再開発の只中にある。顧<グー>家の家長である母の誕生日の祝宴の夜。老いた母のもとに4人の兄弟や親戚たちが集う。その祝宴の最中に、母が脳卒中で倒れてしまう。認知症が進み、介護が必要なった母。「黄金大飯店」という店を経営する長男、漁師を生業とする次男、男手ひとつでダウン症の息子を育て、闇社会に足を踏み入れる三男、独身生活を気ままに楽しむ四男。恋と結婚に直面する孫たち。変わりゆく世界に生きる親子三代の物語。(『春江水暖』公式ウェブサイトより)

 

 

 

わたしは、今年はもう『春江水暖』を超える映画を観られる気がしない。

わたしにとって全部がある、とても特別な映画だった。自分がこういうものを必要としていたなんて思いもしなかった。時間が経つほどに静かに降りてきて沈んでいくものがある。期待以上の映画体験だった。

 

遠くへ行けた。海外旅行に行ってまず受けるあの衝撃、全く違う文化に来ているんだ、という実感。この行き来の難しいときに、ふわりと遠くに運ばれて、ただただうれしい。

わたしは中国の言葉は全くわからないが、主に映画を通して観てきた蓄積があるのか、登場人物の話す言葉は、北京語とはだいぶ違うように聞こえた。実際に「富陽の方言と標準語の2つ」が登場しているそうだ。そういうことを感覚的に受け取るのも、海外旅行と似ていた。

地図を広げて、ざっくりと大きくとらえていた「中国」の中の、「富陽」というまちにいきなりピンが刺さった感じ。旅の醍醐味。

 

 

わたしが10代終わり〜20代初めの頃によく観ていた侯孝賢、楊德昌などの台湾ニューウェーブの系譜がくっきりとしてある。『童年往時 時の流れ』『非情城市』『ヤンヤン夏の思い出』など。監督自身もかれらの映画から多くの影響を受けているとインタビューで語っている。

いや、台湾の監督だけではなく、わたしが美を受け取ってきた全ての映画の遺伝子を感じた。この歓喜と感謝は、とても言葉では言い表せない。

手法は現代的で、因習にとらわれず、自由。軽やかな革新がある。クルーの組み方も、資金の集め方も、作り方も撮影の進め方もコミュニケーションも、今の時代の人らしさが見える。

そう、映画のあるジャンルにおいて、世代がぐるりと交代した感があるのだ。

あの頃、わたしは台湾ニューウェーブの作品群を少し背伸びをして観ていたところがあったと思う。しかしこれは紛れもなく、同時代感がある。様々な人生経験を経てきた今、わたしの物語だという気すらする。それを自分より若い人たちが作ってくれているという喜び。グー・シャオガン監督の観察眼と感性、物語る力、構成力がすばらしい。

名作を継承し、超える存在の登場に、多くの映画好きが歓喜している。
わたしもまた同様に。

 

ヤスミン・アフマド作品も彷彿とさせる。
変わりゆくまちに影響を受けながら、生きる人たち、家族の物語。
親子やきょうだい間の確執、病気、障害、介護、親孝行、結婚するのは子の責務......世代によって異なる価値観の衝突。とにかく常にお金の話をしている。家と車、物。弱い者がさらに弱い者を叩く、でも実はそれはかれらにもどうしようもないところで起きている動きからの波及......。

国も文化風習も違うのに、身につまされ続ける感覚があり、たまにどきりとする発言もあり、ただただ美しいカメラワークもあり、150分もあるのに、1秒も目が離せない。



どの登場人物にも感情移入できる、どの立場もわかる。全員にしっかりとフォーカスが当たっている家族の物語だから、誰にとっても自分を探せるのではないかと思う。それぞれの人が、自分の人生を生きていて、衝突や分断、転落を繰り広げながら、生き抜いている。

そして世代は老いと死によって交代していく。家族のために生きること、成功と繁栄だけが人生の目的ではなく、精神性も大切にする若い世代の登場。

 

かれらを写す眼差しはどこまでも優しい。どの局面もむやみに表情のクローズアップをしたり、それらしい音楽を挿入して「悲惨」さを掻き立てることもない。わたしたちは入り込みすぎずに、けれども親しみをもって一人ひとりの生を見つめることができる。

引いて引いて、ロングテイクやロングショットで見せる富春江の四季や富陽のまちが映されると、それもこれも、悠久のときの流れに溶けていくように思える。

そのようにして人々はどの時代も生きてきたのだ、と受け入れられる。「赦し」のような感情も湧いてくる。

 

一方で、「中国の(あるいはこのまちの)社会保障はどうなってるんだろう」「家族間の自助(というより依存)が前提の社会って辛いな」「こういうとき日本はどうなんだろう」なども頭に浮かんできて、映画のあと友人とはこのあたりについて感想を話した。

 

一人の力がまったく及ばない、大きな流れに影響を受けながら、地べたに這いつくばり、もがきながら生きていく愛おしい人間たち。そのようにわたしもまたどこかの誰かから、ある家族の物語として撮られているようで、思わず後ろを振り返る。

なんだろう、またすぐに観たくなっている。

 

 

パンフレット掲載のロングインタビューでのグー・シャオガン監督の語りも良い。レビュー2本、ムヴィオラ代表の武井さんの挨拶も読み応えあり。ぜひ入手されたし。買い逃した方はオンラインショップもあるみたい。

 

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こちらにもインタビューが掲載されている。いつまでネットにあるかわからないけれど、貼っておきます。これが長編第一作とはほんとうに信じがたいクオリティ。

news.yahoo.co.jp

 

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展示『時代を描く 龍子作品におけるジャーナリズム』@大田区立龍子記念館 鑑賞記録

2月の半ば、「梅が盛りです」とのツイートを見て居ても立ってもいられず、出かけてきた。元々行く予定にはしていたのだけれど、こういうきっかけがあるとうれしい。

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大田区立龍子記念館『時代を描く 龍子作品におけるジャーナリズム』展。

https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi


日本画家・川端龍子(かわばたりゅうし1885-1966)は、「大衆と芸術の接触」を掲げて、戦中、戦後の激動の時代、大衆の心理によりそうように大画面の作品を発表し続けました。そして、「時代を知るがゆえに、時代を超越する事が出来る」という考えから、これまで日本画で描かれてこなかった時事的な題材を積極的に作品化しました。それらの作品には、龍子が画家となる前に新聞社に勤めていたことから、時代に対するジャーナリスティックなまなざしが強く表されています。

本展では、太平洋戦争末期の不安や憤りを赤富士に表現した《怒る富士》(1944年)や、終戦間際に自宅が爆撃にあった光景を飛び散る草花に表した《爆弾散華》(1945年)、多くの犠牲者を出した狩野川台風の被害から復興を目指す人々の力強さを伝える28メートルの大作《逆説・生々流転》(1959年)等、龍子が時代を力強く描き上げた作品群を紹介します。世界が大きな不安を抱えたこの時代に、川端龍子のエネルギッシュな作品の数々をぜひご覧ください。(公式ウェブサイトより)

 

 

youtu.be

 


芸術を補給している……生き返るわ……。

今回の企画もとても良い……良いよ……。

「戦中戦後の人々の心に芸術を」と描かれた作品の数々。

確かにわたしも、「今、あの大画面のエネルギッシュで美しい絵を観たいッ」と思って来たものね。今の自分も命の危険にさらされていると言える。

鼓舞だけでなく、理解、共有、労り、鎮魂も感じられた。

今回は28mもある「逆説・生々流転」も展示されている。よくそんな作品の入るスペースあるね!という疑問も、龍子自身が設計した記念館だからと聞けば納得。

ここは作品と館が一体で楽しめる。広々として、静かで。お庭も観られる。
時間をとってゆっくりと訪れたい場所。

龍子が洋画から日本画への転向を決めたのが28歳、国民新聞社社員時代のアメリカ遊学。きっかけの一つがボストン公立図書館のシャヴァンヌの壁画とあった。

気になってググッてみたら、最初に出てきたどなたかのブログに小さな写真がある。これが龍子的新しい日本画、大画面作品の源泉か?

驚異の青い部屋: ボストン公立図書館見納め

 

 

今回は、学芸員の木村さんが、目玉の展示作品について、詳細な解説をしてくださっている。現地で聞けばオーディオガイドだし、記念館に足を運べない方には、オンラインツアーのようになっている。

展示パネルにさりげなく書かれていた記念館としての思いは、「どんな困難な状況でも、芸術を必要とする市民がいる」という龍子の芸術家としての覚悟とも呼応するステイトメントになっている。

 

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「龍巻」これが一点目。モニターや図録で見ているときはカッコいいなと思っていたけど、実物を見ると、苦しさしかなかった。

画面は全部水で埋まっていて、構図は完璧。上も水が反り返って落ちてくる。水流と重力の両方で、首をもたげながら落ちていく魚やサメ。怖い。

1933年。日本が国際連盟を脱退した年。

 

 

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『龍巻』で不穏な予感を描いたのちの『海洋を制するもの』。軍艦の製造競争に入った時期に、川崎造船所を取材して描いたもの。作品は作品として活力、一心不乱、神聖ささえ感じるものだが、今の時代からは、観ていて非常に複雑な思いもある。

龍子は1939年に軍の嘱託画家としてノモンハンに渡っている。過酷な紛争があったところだ。そこで何か心境の変化はあったのだろうか。

藤田嗣治や小早川秋聲の作品などを思い出す。

 

 

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観たかった作品。

散華とは、「花を撒いて供養すること、弔い」と「花と散る」を掛けた題。千切れていく野菜。まだ生きている途中のものが突然ぶった斬られる瞬間のストップモーション

1945年8月13日。自宅が空襲に遭う。アトリエは幸い難を逃れたが、野菜を植えていた畑が被害にあった。終戦間際のぎりぎりまで空襲が続いていたのか。

龍子は自分の画号にちなんで龍のモチーフを愛したというが、空襲の「襲」に「龍」が入っているのは、切ないことだなと思った。

表立って批判することのできない時代だったのか、あえてこの表現を選んだのか。

2ヶ月後の10月には、市民を励ますために展覧会をひらいたという。エネルギッシュな作品の鑑賞の場をつくるという信念。

杉村学園衣裳博物館を訪れたときにも、戦後すぐに学校を始めたときに、待ってましたとばかりに学生たちが列を成したというエピソードを展示で見た。あの頃の人たちの立ち上がる力の強さを思う。

 

 

 

youtu.be

横山大観の40mの絵巻『生々流転』へのオマージュとのこと。自然の恵と自然の脅威、それに晒されながら、自然の一部として生きる人間の姿が描かれている。

起こっていること(リアル)を見つめながらも、あくまでも芸術的手段で表していく

挿絵が報道写真の代わりだった時代から下積みをしていたから、リアリティは、龍子にとって得意中の得意だったのだ。

 

 

youtu.be

子どもってわかりやすく笑ったりしない、その感じが出ている。

画面右上に乗車している機関士の横顔が描かれているが、表情がとても怖い。子どものいる生命力あふれる世界に対して、ゾッとするような冷ややかさを感じる。

 

 

youtu.be

1944年。妻を病で亡くした後の作品。これの前にいると、どことなくやり場のない感情が湧いてくる。黒雲の下は奈落のようにも感じられる。

1945年6月に龍子と弟子のアトリエで展覧会をひらいた。会場が確保できなかったため。意地でも制作し、展示した、その執念。戦時中の人々の暮らしは、わたしが想像していたより、ずっと多様だった。

 

 

youtu.be


子どもへの眼差しが優しい作品。

「象を再び上野公園にと、台東区の子どもたちが行動し、周囲の大人たちを巻き込んで実現した」とキャプションにあって、驚いた。『かわいそうなぞう』のあとにそんなことがあったとは。(どなたかのブログにも書いてあった。インディラの骨格標本が科博に展示されているのですか?!)

 

今回は他にも、龍子が美術を志すきっかけから変遷の概略が追えたこと、カッパをモチーフにしたユニークな作品群(黄桜のカッパっぽい)、南洋点描なども良く、見所が多かった。個人的には、1934年の南洋視察と翌年の個展「南洋を描く」が気になるので、まとめて展示があるとよいな。

南洋は、"遠いという予想に反した到着ぶり" だったという感想も意外だった。わたしにとってこの頃の南洋と言えばつながるのは中島敦で、彼は1941〜1942年の赴任だったので、同じようにそれほど苦労せず現地には着いたのかと想像したりしている。

 

青龍社の展示会場を東京府美術館から三越に変えたときの言葉も印象深い。

美術館のみを檜舞台とする古い観念から開放され、文化大衆との接触面をより広く。

権威を嫌い、独自の道を行った龍子のさまざまな一面を見ることができる。 

やっぱり個人美術館はおもしろい。

一人の作家の限られた所蔵品の範囲の中でも、語る視点は無限にあるという点が特に。

企画する学芸員のバックグラウンドにもよるし、鑑賞者からのフィードバックが人の数だけあるし、何より時代の移り変わりによって、語る視点がどんどん生まれて続けていくから。

 

作品の鑑賞のあとは、龍子公園(自邸とアトリエ跡)の見学。わたし一人のためにスタッフさんがついてくださって、恐縮しきり。ほんとうに花盛りだった。

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前回11月の訪問時はワサワサしていた「龍子の庭」も刈り取られてすっきり。(前回の記事こちら)この時期に一旦綺麗に刈っておくと、春になってまた新しい芽が出てくるのだそう。

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今、恵比寿の山種美術館川合玉堂展をやっているので、こちらも観たい。

【開館55周年記念特別展】 川合玉堂 ―山﨑種二が愛した日本画の巨匠― - 山種美術館

館内の年表に「1952年(67歳)横山大観川合玉堂川端龍子の三人で展覧会を開催」とあったのを見て、日本美術院を離脱したけど、大観と引き続き交友はあったのねということと、川合玉堂さんて誰?と思ったので覚えていた。

最近、人間関係を観にミュージアムに行っている気がする。

百人一首の世界と一緒で、交友関係が見えてくると、自分と同じ人間の営みの中での創作なんだ、と身近に思えるし、同時代性も見えてきておもしろい。

 

 

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三人の会 能『隅田川』『融』狂言『蝸牛』@観世能楽堂 鑑賞記録

TVドラマ『俺の家の話』知名度が上がってきているからなのか、近頃行くお能の公演、わりと盛況かも?気のせいでしょうか。

わたしは早々に見逃して、見逃し配信も見逃して、今季は諦めました。Amazon Primeで一気見できる日を待ちます。

 

さて、昨日行ってきたばかりのお能の鑑賞記録です。

お能の公演っていろんな系統のものがあります。わたしも詳しくはわからないので、間違っていたら教えていただきたいのですが、おそらくで分けてみるとこんな感じでしょうか。

  1. 流儀の定例会、企画公演、普及公演、若手の会(研修目的)、流儀の伝統公演
  2. 家の定例会、企画公演、普及公演、若手の会(研修目的)、家の伝統公演
  3. 能楽堂主催の定例会、企画公演、普及公演
  4. 能楽師個人、親子、同門主宰の会の企画公演
  5. 超流儀の企画公演
  6. 社寺仏閣主催の定例公演、企画公演
  7. 国、地方自治体、地域主催のの定例公演、企画公演

他にもあるかもしれませんが。

きのう行った「三人の会」は、このうちの4にあたるかと思います。

皆さんシテ方観世流能楽師さんですが、谷口健吾さん(銕仙会・観世銕之丞家)、川口晃平さん(梅若会・梅若六郎家)、坂口貴信さん(観世宗家)と、所属している家が違います。1975年〜1976年生まれの同い年で、「同期生」というつながりがあるそうです。

同時期に各々の家にて住み込み修行をした縁で、独立後も舞台を共にすることが多く、師の芸の素晴らしさについて語り合うなかで、所属する家の垣根を越えて研鑽の場を持ちたいとの思いを共有することとなり、2016年、それぞれの師より許しを得て「三人の会」を立ち上げました。(過去の三人の会の告知ページより)

 

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この日の番組はこちらに。

第六回 三人の会|2021年3月13日 | 銕仙会

 

それぞれの解説と感想

隅田川 | 銕仙会 能楽事典

ワキツレ(旅人)が「あそこで大念仏しているのは何ですか」と聞き、ワキ(船頭)が、「ああ、それは悲しい物語があってね」と語りだしたことで、船に乗り合わせた女が探していた我が子だと判明する。ワキツレ、ナイス!

話を聞いているときにすでにお母さんの人が「もしや」と思い当たって泣いているのが、ほんとうに胸締め付けられた。お客さんの中で泣いている方もいた。

隅田川』は、子を亡くした経験のあるすべての人、子どもの死に接した経験のあるすべての人、もしかしたらすべての人にとって関係のある物語ではないだろうか。わたしも間接的にたくさんの子を亡くしてきたんだ、ということがパッと降りてきた。

鎮魂、慰霊。

あのお母さんの人、あの後どうしたか気になっている。悲しみを抱えたまま生きていくのか、絶望のあまりもっとどうにかなってしまうのか......。かける言葉を失うような最後だった。ほんとうに悲しいお話なのだけど、子方(現実に子どもの人)の存在がかなり和らげてくれるように思う。

 

蝸牛(かぎゅう) 茂山千五郎家  ※今回の公演は茂山千五郎家ではありません

めちゃくちゃ笑った。「にほんごであそぼ」で観たことがあった(動画)。

手加減なしの笑いがもう最高。主人(上司)も別に偉くない、なんならろくでもない。太郎冠者もただペコペコしてもいない。滅私奉公してない。あの不思議な対等感が好き。

 

安宅 | 銕仙会 能楽事典

勧進帳」は名前は聞いたことはあるが、じっくり聴くのは初めて。謡と大鼓のみの上演を「一調」ということを知った。川口さんの朗々とした謡をこういうスタイルで聴くのは合う!

 

融 | 銕仙会 能楽事典

百人一首の「みちのくの しのぶもじずり たれゆえに」で個人的におなじみの源融さん、河原左大臣の物語。

『融』がこんなに激しい曲だって知らなかった……。前場後場のあの差よ!終わってからボーッとしながら家路についた。

お囃子の方々が卒倒するんじゃないかってくらい激しくて、ノリノリ、トランスで、こちらも身体動かしたくなるし、なにか囃したくなる。鳴り物持って踊りたくなる。みなさん、あんなに激しいのに、肩で息すらしてない(ように見える)。能楽師、超人。

「生前の夜の遊宴を懐かしみ、月光の下、優雅な舞を舞い始める」と解説にはあるんだけど、そんな雅でノスタルジックな感じでは全然なかった。原初的な衝動、呪術的で、鬼気迫るものがあってゾッとしたというのが近い。

小書(特殊演出)は「十三段の舞」ということで、ひらたく言えば、舞に舞を重ねてこれでもかと舞いまくっている演出、ということになるか?

源融は、『源氏物語』の光源氏のモデルの一人と言われている。天皇の血を引く身分でありながら、源姓を与えられ、臣籍降下左大臣にまで上り詰めたが、臣下ということで天皇にはなれなかった恨みをもっている人物として、世阿弥が作る前から、能の物語としてあったらしい。きのうはわたしがそちらのほうの面をより強く観たのかもしれない。月明かりに照らされた美しい顔。刻まれた妄執の苦悩......。

いや、そもそも生前に、塩竈(宮城)の風景を模して、京のど真ん中の屋敷に人工の浜辺を作り、毎日難波から海水を運ばせて、汐焼きさせたというあたりからして、狂気じみてやしませんか......。

 

__________

 

そしてまた何事もなかったかのように引けていく舞台。がらーんとした能舞台が残る。夢か幻か。なんだったのかなと思いながら、日常に戻る。ふと思い出す、あの気配。


この日は雨が激しくて、気圧も低く、度々眠ってしまったのだけれど、能楽師さんが眠ってもいいと言っていたのを心の頼りに、罪悪感もなく、ただただ気持ちよかった。

細胞の隅々までリラックスした。

お能は優しい。

 

しかし、久しぶりに出かけた都心の商業施設の虚構感がすごかったな。

綺麗に整えられた食料品やお化粧品や衣料品。買って買ってとあっちでもこっちでも声がかかる。でもちっとも欲しくならない。世界が一挙に変わってしまったのに、ここは何も変わらないように見える。

 

いや、わたしだって売店でクリアーファイルを買ったから、そんなこと言う資格はないのかもしれないが。

 

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NT Live『戦火の馬』鑑賞記録

3月上旬、NT Liveのアンコール上映で、『戦火の馬』を観てきた。

www.ntlive.jp

youtu.be

主人公が幼少時から愛し育てた馬が軍馬として徴用されたことから、数奇な運命をたどることに。果たして二人は再会できるのか?  (NTLiveウェブサイトより)


トレイラーに出てくる馬は、本物ではなくてパペット(動かす人形)、原作小説があるらしい(いいらしい!)、スピルバーグが舞台を観て感激して映画化したらしい、などなどを抑えて、楽しみに劇場に向かった。

 

 

観てきた。

400席もあるシネコンのシアターなので、画面も音も迫力のスケールだった。

 

戦争怖い

事前に見ていたレビューでは、「馬の動きが!馬の表現が!」というものが多数だったけれど、わたしはそれより何より、「戦争怖い」と思った。耳栓をしながら観るくらい。戦場の場面での大砲や機関銃、音楽、効果音、プロジェクションマッピングによる映像、照明はとても怖かった。

そのことはもっと語られていいと思う。もちろん馬はすごかったけど。

 

次に浮かんでくるのが滑稽さ

冒頭が兄弟げんかで始まる。のっけから愚かだなぁと思いつつ、「カインとアベル」を投影すると、普遍だなとも思える。

心の焦点が馬にあるまま、人間の言動を観る、という不思議な体験の中で、人間の言葉は馬として聞いてみると、どれも「どっちでもええやん……」と思うような内容ばかり。馬にとっては、国境も人種も言語も、大人も子どもも違いはない。

馬が主人公であることで、戦や争いの滑稽さが際立つ。かといって馬がしゃべるわけではないところが、この舞台の秀逸さ。

馬がどこまでも"健気"なのと同様、人間の中にも馬を深く愛する者がいる。

人間と馬の関係が近かった最後の時代なのかもしれない。命に対する慈しみの気持ちが全編にわたって感じられ、悲しい場面にも愛を感じる。

平和への祈りと願い、希望もたくさん。

 

第一次世界大戦という戦争

もともとのNTLiveは、2014年の公演。第一次世界大戦勃発から100年の節目に当たる年の公演を今回、アンコール上映してくれている。(2014年に東京でも公演があったらしい)

戦争のやり方がこの大戦によって変わってしまったということを作品を通してより理解できた。本格的な国家間の戦争になり、平民から志願兵が募られる。第二次世界大戦からは徴兵制になり、そして国家を超えたテロが戦争を変えた今を生きているわたしとして観ている作品。

父の代、祖父の代で、短刀でもなんとかなった。でももう戦争は全くそんな規模ではなくなった、ということも劇中で示される。

祖国のために戦って勝って帰ってきた。お前が受け継ぐ番だ。

男の人に連綿と課せられてきたしんどさみたいなものも感じられて辛かった。これもまた滑稽で哀しい。

合間のインタビューで、「どちら側から見るかで認識が変わる。それを馬の視点で描くことで、普遍的なものにしたかった」「戦場にいながら中立の立場。全てを見て聞けた人であり被害者」「悲しみには議論の余地がない」という話が出たのが印象的だった。原作者のモーパーゴさんの全身赤のファッションも!(栗毛色のジョーイを意識?)

▼戦争の変遷については、この本がわかりやすい。

 

これもパペットと言う!

馬の動きは、評判通り素晴らしかった。3人で一体を遣うところは文楽を彷彿とさせる。馬の頭部を遣ってる人が馬の感情が表情に現れててよかった。ミンゲラ版オペラ『蝶々夫人』の坊やを遣ってた人たちを思い出すなぁ。パペットへの愛が深い。

動物は歩いてなくても、常に何かしら聞いてるし、感覚を研ぎ澄ませてる。あの感じが微妙な動きで表現されていた。しかも三人でつくる。いったいどれだけの観察と訓練なのかと感服しきり。

馬にしかみえない。命が吹き込まれて馬になる。人間にはあんなこともできるのか。「命が吹き込まれる」ことが、観る方がいなくては成り立たないところもいい。

パペットってせいぜい高さ1mぐらいのものまでをイメージしていたけれど、この巨大な装置もパペットと呼ぶのかと、認識が上書きされた。

▼製作過程はこちらのTEDに詳しい。

www.ted.com

 

動物と人間

馬と日頃から親しんでいる人は特に響くものがあるのではないか。親しんでいるからこそ辛いところも多いと思うけれど。ほんとうに生々しい。

わたしは子どもの頃、『黒馬物語』やシートン動物記、椋鳩十の物語が大好きだったことを思い出した。そのことと、手元にたまたまロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』のチラシがあるので思ったけれど、人間と動物の情の物語は、とにかく悲劇になりがちだったなぁと思い出す。パトラッシュやスーホの白い馬もそうだし。

あまりに大きな戦の傷を癒すために、人々はあえて悲しい物語をたくさん作っていたのかも知れないと思うくらい、わたしが子どもの頃、1970年代は悲劇が多かった。

個人の力ではどうにもならないことへの悲しみ。

『戦火の馬』は希望を残してくれてほんとうによかった。

 
 
その他
・音楽。アイリッシュの哀愁ただよう感ある歌も美しかった。フォークソングか軍歌だろうか。この舞台のために作ったのかな。ほんとうに恐怖を殺すために歌いながら若い人たちが最前線にいたのかもしれないと想像させて、鳥肌が立った。歌詞が印象深い。
行いだけは記憶に残る 
何をしたのか 足跡だけは この世に残る

人間にあまり移入しなかったけど、唯一、ドイツ人のミュラーさんには感情がのった。これは馬目線なのか、自分なのか、どちらなのか。彼がいてくれてよかった。彼がドイツ語で喋れと言われ、英語で喋れと言われたり、立場がどんどん変わっていく中で、英語のシーンでもドイツ語が混ざってきてるのがリアルだし、「どっちでもいい」「こだわることの滑稽さ」みたいなものが引き立っていてよかった。

たまたま読んでいたこちらの本に中世の軍馬について記述を見つけた。なるほど、こういう時期を経ての、第一次世界大戦での軍馬の歴史の終わりなんだと納得する。

 

オフィシャルウェブサイトにもいろんな資料が載っている。

www.warhorseonstage.com

 

『戦火の馬』の原作は、中学国語教科書の「読書案内」に載ってるらしい。図書館で予約したので、順番が回ってくるのが楽しみ。


訳者さんのコメント

www.kodomo.gr.jp

 

映画は2012年3月公開。わたしはまったく記憶がない。この頃、子はまだ小さく、わたしは市民活動して、転職したばかり。まったく映画を観ず、チェックもしていない時期だったなと思い出した。そうか、まだ大きく揺れていたあの頃、こんな映画が公開されていたんだな......。

youtu.be

 

今、出会えてよかった舞台。

演劇やパペット、表現の可能性もあらためて広げてもらえた。

上映を決めてくださって、ありがとうございました。

 

 

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映画『エイブのキッチンストーリー』鑑賞記録

めちゃくちゃ良いので観てくれ!!頼む!!後悔はさせない!!

子どもの人もぜったいいい映画。

一緒に観にいって、帰りにあれこれ語ったらぜったい良い。

 

youtu.be

 

abe-movie.jp

 

ブルックリン生まれのエイブは、イスラエル系の母とパレスチナ系の父を持つ。文化や宗教の違いから対立する家族に悩まされるなか、料理を作ることが唯一の心の拠りどころだった。

誰からも理解されないと感じていたある日、世界各地の味を掛け合わせて「フュージョン料理」を作るブラジル人シェフのチコと出会う。フュージョン料理を自身の複雑な背景と重ね合わせたエイブは、自分にしか作れない料理で家族を一つにしようと決意する。

果たしてエイブは、家族の絆を取り戻すことができるのかー?

2019年製作/85分/アメリカ・ブラジル合作
(公式HPより)

 

全く前情報なく、トレイラーも観ず、鵠沼海岸のシネコヤさんに直前予約で飛び込んだのですが、、すんごい良かったんですよ!

12歳の男の子が料理という好きと得意を手がかりに、自分のルーツを見つめ、アイデンティティとキャリアを拓いていく物語。

わたし10代に贈る本を出したから、特に10代にガンガンおすすめしたい。
もちろん10代の周りにいる大人にも。

 

今自分が持っている範囲の中でも、なんとか遠くに行ける年頃、時代。
インターネットを使いこなして、お金が使える範囲、電車の乗り継ぎ方のわかる範囲でも、こんなに出会いとチャンスに満ちている。
思わず行動してしまうことから、何か素敵なことがはじまる。

 

愛と心配でつい干渉してしまう親や、年をとるほど頑固になる祖父母はあるあるだし、対等に接してくれて好きや能力でつながれる、ナナメの関係の大人の存在もうらやましい。

何より食べ物がとってもきれいで美味しそうでわくわくする!

そして、宗教や民族の対立という難しいテーマ。「イスラエル系の母とパレスチナ系の父」という設定に、「えっそんなカップルほんとにいるの?」という粗探しは意味がなくて。それよりも「もしもそうだったら?」を自分もエイブになったつもりで一緒に成長していく。

「わたしのせいにする」というその場しのぎの対応ではなく、もがいて悩んだ末にあるタイミングが来たら責任を引き受ける。それを教えてもらえる。

 

監督はブラジル人のフェルナンド・グロスタイン・アンドラーデ

プロフィールを見ると、映画監督としてもユニークだし、それ以外のアクティビズム的な活動も興味深い。ひと口に映画監督といっても、いろんな人がいる。

 

2021年3月20日からデジタル配信も始まるらしい。

https://movie-product.ponycanyon.co.jp/item106/

ヨロシク!!!!!

 

 

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立合狂言の会 鑑賞記録

宝生能楽堂で、第7回立合狂言会を鑑賞してきた。

「立合狂言会」と銘打ち、狂言の流派や家の垣根を超えて、次代を担う若手と中堅の狂言師が集い、研鑽を積む公演を始め、今回で七回目となりました。それぞれの家の狂言を演じ合うことで、より一層の芸の向上はもちろんですが、今後の狂言界の交流や発展の試金石になればと期待しての企画です。

 

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act-jt.jp

 

立合狂言会、めっちゃ楽しかった!すごい。

狂言だけの舞台を観たことがないのだけど、きっと愉快で軽やかになるだろうなぁと期待して行った。

いやはや、もうそれ以上!

狂言✖️ソーシャルディスタンスって、また時事的なサブタイトルだなぁと思っていたら、観てみるとわかる、なるほどね〜!

あれこれ説明したくなくなるくらい満足した!来年も来たい。
一曲ごとも味わいがあり、流派と家の違いも感じられておもしろかった。
もっと狂言のことを知りたくなった。

能楽堂売店「わんや書店」で狂言の本を二冊買った。どちらもおもしろい。買ってよかった!

曲ごとの解説の本。まだまだ観たことのない曲がたくさん。

Q&A集。見開きでひとつの質問で見やすい。素朴な質問、上級者の質問どちらも解説がわかりやすい。狂言を見始めた初心者にぴったり。 

 

 

演者さんだけで総勢30名ほど、最後は舞台に揃い踏みで圧巻!

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全員男性なんだなぁとも思いました。女性の狂言師さんもいらっしゃるのだろうけれど、この場にはいらっしゃらなかっただけかな。いや、でも圧倒的に男性の多い世界、社会ですよね。(だから何、というわけではないけれど)

来年の日程はもう決まっているそうです。
2022年2月19日、早速カレンダーに入れました。 

 


友人の影響もあって、少しずつ狂言にも興味が出てきたのだけれど、一気に身近になったのは、コロナ禍から生まれた奥津健太郎さん、健一郎さん親子のオンラインワークショップがきっかけ。

(ちなみに奥津さんを知ったのは、天籟能の会が最初。天籟能の会を知ったのは安田登さんをフォローしていたから。安田さんを......といろいろつながってくる。それはまた別の機会に)

kyogen-okutsu.amebaownd.com

 

オンラインワークショップは毎月または隔月の頻度で開催されていて、レクチャーと実演、質問コーナーの構成になっている。

レクチャー中は、面や装束の紹介もある。前回は「神鳴(かみなり)」と名前はわからないけれど狐が人間になったときの面を見せていただいた。この独特の造形に、抗い難い魅力がある。国立民俗学博物館に展示されている、あのエスニックな世界観。

ただ観てもおもしろい話だけれど、騙し合いや張り合いを親子で演っておられる(こちらはわかっている)ので、余計に可笑しさが増す。

参加されてる方の質問を聞くのも、実はすごく楽しみ。

「そんなん考えたことなかった!」「言われてみれば!」「わたしもそれ聴きたかった!」などなど、お子さんも多いからか、いろんな質問が出てきて、勉強にもなる。自分も素朴な質問できて、すぐ答えてもらえてありがたい。いつもわくわくする時間。

 

 

奥津さんといえば、こちらの舞台映像もおもしろかった。

aichi-gigeiseizui.jp


愛知の「伎芸精髄 あいちのエスプリ」というプロジェクトの一環で配信されている
狂言『附子』の古典と、チャレンジ新作版。
破る割るのところが何度観ても笑える。
「こまこうなった」「みじんになった」
「こなごなになりました」「こっぱみじんになった」
この間合いがたまらない〜自分でも演じてみたくなる。

狂言を現代劇に近づけたはずなのに、現代劇の人が狂言に近づけて演ってる感じがあって、不思議な体験だった。(意味わからないですよね、、ぜひ観てほしい)
 
2つ観ても30分ぐらいで、解説も入っているので、見比べながら楽しめる。
 
 

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展示『日本のたてもの―自然素材を活かす伝統の技と知恵』『博物館に初もうで』@東京国立博物館 鑑賞記録

2021年1月3日、ミュージアム初め。
正月三が日にトーハクに来るのは初めて。開いていること自体知らなかった。基本、実家に帰っていて、正月に東京にいることがないので。

感染症拡大のため、実家に帰れなかったので、来てみました。

『日本のたてもの』展が気になったのと、『博物館に初もうで』ってどんな展示なのか知りたくて。


展覧会の詳細は、紡ぐプロジェクト特設ホームページや青い日記帳さんのブログをご確認ください。国家プロジェクトだったらしい!

www.tnm.jp

tsumugu.yomiuri.co.jp

bluediary2.jugem.jp

 

 

わたしはもともと建築模型を見るのは好きだけど、記録と保存のための模型制作の動き(?)仕組み(?)があったとは知らなかった。

復原や修復の技術伝承のため。日本人と自然との関わりを解明し理解するためでもあると。

そういう目的のためなので、外側の雰囲気だけではなく、内部構造を省略していないところも貴重。

 

11月に国立歴史民俗博物館に行って常設展を観たときに、「やけにりっぱな模型があるなぁ」と思ったんだった!

あの一乗寺三重塔が表慶館のエントランスに!
しかも隣には石山寺の模型も!ほんとうに来てよかった……。

展示されている中で一番古いのは、1932年、あの著名な宮大工の西岡常一さんも手掛けた法隆寺五重塔

ほとんどが1/10スケールなので、大きさの比較が体感できてよい。思ったより小さいとか、模型でこれだけ大きさが違うんだから、本物はどれほどか……など、想像が巡る。

表慶館での展覧会の機会ってそう多くないので、この建物に入れるだけでもうれしいが、近代洋風建築の中に、日本独自の建物が展示されているのもおもしろい。

文化財の保存のためには不可欠で高度な技術だけれど、それのためにしか使えない(現代の建築に活かせない)ものもあるため、成り手がいないという危機にあるということがパネル展示で説明されていた。

うーん。新しく生まれる人が減っていく中で、伝統文化、伝統技術を守るために、何をどうしたらいいのかなといつも思う。微力ながら発信することや、関心を持ち続ける、愛することぐらいなのだけれど。

 

 

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Instagram

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https://www.instagram.com/p/CJpOr0hs7a3/

 

 

『博物館に初もうで』と常設展。

www.tnm.jp

 

現代生活の中で、干支を意識することがどんどん減ってきたけれど、 昔の人がどんなふうに干支を吉兆として扱っていたのか、モチーフとして愛でていたのかを知れた。

お正月の意味合いも今とは違ったことなども。

 

美しいお宝ばかり!5月までの年間パスポートを持っているから、切れるまで足繁く通っている。精神が満たされるものを補給しに。トーハクに言って帰ってくると安定している。Stabilizer

 

長谷川等伯の「松林図屏風」の展示が目玉のひとつ。

https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10471

等伯✖️東博

 

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本館裏の池が凍ってた。

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お正月から静かな空間で、美しいものを観るっていいなぁ。

年中行事にしてらっしゃる方もいるだろうと思います。わたしも毎年の慣例にします。

 

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〈レポート〉教育の当たり前を問い直そう!映画 “Most Likely to Succeed” を語る会 (Extra ver.)

2月7日こんな場をひらく予定だった。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

予定「だった」というのは、共催者が前夜に体調不良となったため、内容が変わった。

事前のお申し込みは13名あり、予告していた内容をわたし一人で進行して皆さんに良い体験を提供するのは難しいと判断し、一旦キャンセルした上で、形を変えて開催した。

そのため、このレポートは、(Extra ver.)ということで書く。
※MLTS:Most Likely To Succeedの略。HTH:High Tech Highの略

 

●こんな場

アメリカのドキュメンタリー映画 ”Most Likely to Succeed” (以下MLTSと略)を観た人と、教育を変えていくために動きたい人たち同士で感想を語る場です。
これからの日本の教育について立ち止まって考えたり、具体的なアクションの中身について話せる仲間に出会えることを目指しています。(告知より)

 

●こんな方がご参加。この日の立場と動機を一部ご紹介。

・教職員/保護者

大学教員としては、学生が受けてきた教育に疑問を感じることが多々ある。一方、今年から小学校に入学する子どもの親としては、日本の教育精度の中で学ぶ子どもをどうやってサポートしていくべきか、悩んでいるところ。
非常に考えるところが多かったドキュメンタリーなので、参加者の皆さんと意見交換を通じ、いろいろな角度から教育のあり方について考えたい。特に、映画で提示されている教育制度の問題点を踏まえて、今の日本社会で自分が何ができるのかを考えるヒントが得られたら。


・教育事業

美術館と小学校の連携事業で対話型美術鑑賞の授業のボランティアをしている。
学校の当たり前も、こうして外部との連携が進んでいくことで開かれ、鑑賞の授業を通して、子どもたちの生きる力をエンパワーする助けになればと願って、活動に携わっている。この機会に、教育・学校で当たり前となっていることや、どういう問題が現場にあるのか知って活動の参考にしたいと思っている。

 

・保護者

以前に観て感銘を受けた『MLTS』を捉え直したい。これからの自分と、自分の子供の学び方と生き方を考えたい。

 

・教職員

学校の存在そのものを問いながら、教員を続けてゆくビジョンと方法を参加者との対話の中で見い出したい。オンラインでの対話や人間関係の築き方についても、実際に参加する中で見い出したい。

 

●冒頭で皆さんと共有した「きょう目指していること」のは、次の3つ。

  • MLTSという作品を新しい視点でも観察してみる
  • MLTSと対話から生まれた、今の自分の葛藤と関心を言葉にしてみる
  • 傷つきがあれば、それを温かく見つめる、対話を通じて勇気を得る

葛藤や傷つきについて意外と思う方もいるかもしれないが、教育のテーマはかなりセンシティブだとわたしは思っている。大人は多かれ少なかれ、傷つきの経験をいまだ抱えている。

わたし自身、MLTSを観ながら、子の立場に立つと、「こんな教育を受けられていたら!」と思ったし、親の立場に立つと、「でも自分とは違う手段や選択を子に与える覚悟があるか」と揺れたし、教員の立場に立つと、「自分の仕事のやりがいとは何か見失いかけていたが、ここで得ることができた」という喜びに共感する。

ファシリテーターとしては、感情、emotionalな部分も大切にしてほしいと思った。

 

●対話のサポートツールの共有

事前に準備をしていて気づいたのは、このドキュメンタリーは情報量が非常に多いということ。

High Tech Highの教員、学校関係者、生徒、保護者、教育関係者、研究者など、大人数へのインタビューと、現場の画、解説用の画が入れ替わり立ち替わり入ってくる上、トピックも多い。

なかなか一度見ただけでは追いきれない、取りこぼしが多い。

その人の内に「沈殿」したものだけで語り合うことはできるが、局所的になるのは勿体ない。全体像も捉えながら話したい。なによりわたしがどんな話題が出たか、把握しておきたい。

そういったあれこれを考えて、資料を作成することにした。映画を頭からシークエンスごとに一つのスライドにまとめたレジュメをつくった。

一時停止しながら、エッセンスを抽出し、スライドを作成していく作業はなかなか大変で、前日深夜2時半までかかった。もっと早くに作業を始めていればよかったと後悔。

大変ではあったが、驚くほど名言の宝庫で、あとあと何度も見返したいものができたので、自分のためにも作ってよかったと思う。

 

当日はこれら14枚のスライドを〈対話のサポートツール〉として提供した。

スライドタイトルのみ並べる。

  1. アメリカ教育の歴史 
  2. High Tech High設立の経緯
  3. High Tech Highのイントロダクション
  4. High Tech Highの授業(プロジェクト)
  5. 有識者の言葉
  6. High Tech High 能力、判断力
  7. High Tech Highプロジェクトの懸念
  8. 統一テストの弊害
  9. 暗記型テストの弊害
  10. 新しい教育と展示発表
  11. 教師の役割
  12. ふりかえり
  13. 総括
  14. アメリカの教育制度

他に、参考資料として、「アメリカの教育制度」の図表を共有した。(出典『海外の高校&大学へ行こう!2020年度版』(アルク)

 

このスライド資料をPDFにしてグーグルドライブで一時共有し、チャットにリンクを貼って、各自で見ていただく時間を10分ほどとった。

 

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●内容の確認をした後、対話の時間

気になった人や言葉やシーン、全体の印象などを自由に発言してもらった。
記録として残しておくと、長期にわたり役に立つ内容だと思うので、シェアしたい。


何が起こっているのか?
・今じゃなくてもいいことを大人が一生懸命やりすぎている。「今」で向き合えばいいのに。その子のニーズに応えられるか、見る余裕があるか、待てるか
・テストの弊害について、カリキュラム表の形で出されると、どうしても遅れることが怖くなってしまう。生徒も不安になる。この教育でいくと、大人になってからも結局カリキュラムと達成から逃れられない。いい思いをした人が先生になりがち、再生産される
・Vincentさん(数学の先生)のくだり、やるせない、HTHで学んだことをよかれと思って現場で試して、苦労してやったことが、このように捉えられるのか......。
・冒頭、小学校4年生の子が、親と先生との面談、「大人がうそをついているのに気づいた顔」にまずつかまれた。ハッとなった。学校のシステムの中にはまらなかったときに、「今我慢すればあとでいいことが待っている」と自分も言いかねない。
・「あなただって数学やったからバークレー大に入ったんでしょ」葛藤する親。自分は枠組みの中でやってきたのに、「子どもに枠組みを信じなくていい」と言える?

 

HTHの教員の関わりに何を見る?
・「生徒に一度も判断させないなら、判断力なんて育つわけがない」のくだり。周りの大人が望むことを子どもが察して決めてしまっている。判断を自由にさせる場も必要

・大人が用意して「こういう在り方がいい」とする圧迫的な環境。もうちょっとなんとかならないのか
・教員が考える完成図を押し付けない。「生徒にこうなってほしい」は
・後半に登場する生徒2人のうちの1人Brianに「ビジョナリーを失ってほしくない、きみがきみでなくなる」あのふりかえりの時間はよかった。

・一見自分本位的な行動をしてしまう子って、子どもたちの中で責められて、いじめられる可能性だってある。でもそうならないのは、先生が、その子の個性と人生をみているから。

・環境をつくる教員たちも、「未来に向けて模索し、失敗は次へのチャンス、必要なものと受け止められる」。つまり、「責任をとっておしまい」じゃない環境づくりが、教育の大事なところ。多様性、価値、ゴールはたくさんあると本人が思えるかどうかが鍵
・「自我を育てる」ができない、「みんな同じ」を求めるけれど、今できることは?
・合意形成、新しい価値をつくる、大人がまずやる。先生も幸せ、生徒も幸せがいい

 

教育変革は可能か?
・コロナ禍は、学校が根本的に変わるチャンス。お金がある人はどんどん行けちゃう。塾のオンライン授業だって受けられる、差が広がっていく(ように見える)。
・この映画は、「教育ってなんだった?」を問い直している。でも、いい兵隊→いい工員の図は、100年以上変わってない。

・大学現場で「ディスカッションスキル」と言うとき、とりあえずビジネスで使えるスキルとしての位置付け。ほんとうはもっと深い。大学も右往左往している。
QUALCOMMのニーズが発端となってHTHが生まれた。AI技術発展後の人材、教育はどうやって育てるかを模索して、クリエイティブな人が生まれる可能性を求めて学校を作ったような、大きなニーズ、IT産業が発展させるためにという文脈に乗せる?
・そもそもお金がついているところで人材教育をするしか道はない?

・受験勉強で扱っているのは、大したことがないのでは。中学校、高校に行かせずに高卒認定試験で大学に入るルートだってある。既存にはまらなくていい。

・学びが進んだHTHの生徒たちは自然と、「戦争を続けさせない社会をつくりたい」「今の社会を根本的に変えていかないといけない」という志向になるのではないか。(タリバン占領下のパキスタンでの女性の人権を演劇で発表していた)

 

人権と経済のねじれ構造

・戦争をなくすのは教育の力だが、一方で、国力を上げるという文脈だと競争が必要になる?

・「産業界のニーズによって人材を派遣して国力を上げる」と「学問と人権、市民社会に参加する者として教育を進める」のふたつがねじれ構造にある
アメリカは権利意識も根づき、人種のるつぼでもある。人権に向き合う、個人を尊重する土壌は日本に比べてある?
・日本は産業界の要請が強すぎる。言うことを聞いてくれる人をほしがる。和を乱さない、個より集団の優先。『わかりあえないことから』平田オリザ著にヒントがある。市民教育の重要性。
・ “空気を読んだ中での”ディスカッションでは、経済界の人材育成がHTHが生まれるレベルまで行ってない
・成功するには知識より能力

 

MLTSの表象、描かれていないもの

・そもそも成功しなきゃいけないの?
・エリート、上位層の子どもたちがもっと産業界の役に立つ産業改革を目指すと、中位から下位は蚊帳の外になる?
HTHの半分が貧困層というが、この教育についていけるのは上位の子の可能性ある?描かれていない部分だが、インタビューに出てくる親が大学進学を意識している様子から推測。教育に関心があって、関心が強い=階級的に上?選抜は「公平」「バランスを考慮」とはいえ、親が入学を検討する時点でバイアスがある。
・ハンディキャップの子は?
・シャイな子と自分で言っていた子も、日本と比べたら全然シャイじゃない......。

 

フィードバックする力、フィードバックを受容する力
批判する、フィードバックを受容する能力。批判的なものの見方をしなくちゃいけない。とはいえ、批判の仕方が下手。「攻撃」と勘違いしがち。深まらずに気分だけ害するのはもったいない
・攻撃・非難してしまうこと、それによって生まれる痛みが、「変わっていくための通過時期」だといい
・原語では批判=フィードバック、評価=アセスメント。ニュアンス違う
・大学になってはじめて批判的に見ること「問いをつくる、問いを立てる」に直面
・高校生のプロジェクト学習に関わったとき、「なんで自分たちで問いを立てなければいけないんですか?」と質問あり。「身近なところから問いを見つけると世界が豊かに」と当たり障りなく回答。「こういう能力が今必要」って言われてもという戸惑い。

 

大人から変わっていく

・家の中、社会の中で育てると言われても、大人に余裕がない現状。子どもが質問すると親が怒る。答えるのが難しい問い、素朴な疑問や不思議に大人が子どもに丁寧に向き合えない。先送りにする対応しがち(あとでね)。「不思議」と感じる気持ちを摘んでいるかも
・中学生は受験勉強をやらされ、高校生になってやっとプロジェクト学習できるようになっても「へ?」という反応になるのは当然。
・「なんだろう?」と内在的に問いを立てる習慣がない子に、教科書は何ができる?

大人の「言うこと」ではなく、「姿勢、ふるまい、態度」を見ている。笑って流すのを学んできているから、わきまえてしまう。それは大人がしていること
・「あなたそれどういう意味?どういう意図?」と聞ける社会にようやくなってきた。習慣がないから最初は難しいが、言えなかったことを一つひとつ口にしていく。それでしか次に進まない、変わらない
・我々大人がどう癒されていくか。小さいことでも疑問を口にすることから
・大人が集まって話すのも第一歩(この場!)
・困っている、悩んでいる、いろんな立場の人がいる姿を見せていく、自分がもがく
・ 国、世界にゆとりがない今、コントロールできるところからしようとすると、子どもにしわ寄せがいく。
・大人が環境を整える、姿勢を見せる

 

気づく、小さくやる、やめる

・「〜べき」が多い社会。「規範に従え」の意味合いがある。「〜べき」は英訳しがたい日本語だそう。should=better ideaぐらいの意味。

・「〜したい」の主体が後回しな文化。外側から制約、内側からの願望の板挟み。まず自分に向けて、「〜べき」から解放されよう
・「ゆとりがない」と思わされてるかも。実はゆとりはつくれるし、あるかも。忙しいと思い込んでいたけれど、時間はふんだんに、出会える世界はいっぱいあった。ほんものにも出会える。
・「本当に〜しなきゃいけないの?」と問う。自分に、人に。

・気づいたわたしが「ゆとりがないと思わされてるだけなんじゃない?」「そうじゃないんじゃない」と思うだけでも、だいぶ違う

 

HTHに見る場づくりのコツ 

・個別最適化を目指す場
・生徒間の関係作りはどうしていたのか。この方法だと学生と先生のつながりが強くなりそう。>自分(先生)がいなくなって、生徒同士にやらせるなど工夫していた。
・ゲストスピーカーと個々の「質疑応答」ではない場づくり
・「コミュニティ」が鍵。前に発言した人を受けながら発言する>自分が思ってることを他の人が言ってくれる感覚がある>安心して自分の意見が言える>見えてる未来が一緒の感覚

 

●本日参加しての感想、今後に向けての思い
・一緒に授業をつくりあげていく姿勢を少しずつ見せたい
・同じことを思っている人はたくさんいる、自分がやっていることが間違いではないと思えた
・未来の子どもたちに少しでもよい社会を渡したい。子どもの力を信じる!
・自分が疑問に思ったことは建設的に批判する、道が見えた
・一つひとつ声をあげていくことの大切さを会って話してみるとわかる。わきあがってくるものを顔を見ながら話せてよかった
・人をどうとらえた上で教育が設計されているか注視したい
・「日本から出ればいい」ではなく、自らが自らの社会を変える側になる
・思想ではなく行動になっているところに合流していきたい

 ●ファシリテーターのふりかえり

わたし個人の中に印象深く残っている話題は、「映画で語られていないこと。全体としては、資本主義経済を否定しているわけではない。その社会は続行する前提で作られてはいる」「学びの権利や人権と、国家の経済成長は、同時に語ることが難しいことがある。しかしやり方はあると思う。少なくとも100年前と同じではなく、変わらなくては」のあたり。

丹念に観ることで、語り合うことで、「語られていないこと」が見えてくる。批判的な鑑賞とはこういうものだな、とあらためて思う。

皆さんの言葉を聞いていると、High Tech Highの目指していること、意図、精神のようなものを深く読み取って、その上で、今自分がかかわっている人や現場で何ができるかや、大きな主語に対しても、個人としてどう批判的(Critical)に主体的に関わっていくかを考えておられているように感じた。一人ひとり立場が違い、いる場所も違う(海外からつないでくださっている方もいた)からこその、展開だったと思う。

対話の中でも出てきたが、成功(Success)という言葉に違和感をわたしも抱いた。制作者の意図とは違うかもしれないが、わたしとしては、「人が成長しやすい、伸びやすい」と言う意味で、「一番有力な成功方法(Most Likely To Succeed)」と言っているのではと解釈している。

この映画で編集され描かれていることも、High Tech Highの取り組みも、すべての人に当てはまる教育ではないという自覚と前提の上、行われている。エンディングでは、他の教育機関や現場での取り組みも紹介されている。

知らないだけで、オルタナティブな手段はたくさんある。それこそ、「これだけが唯一の道って本当?他にもあるんじゃない?」という姿勢で、アンテナを広げていきたい。

2020年以降の世界を予測したような内容でもあり、これからも何度も見直したい映画。そしてこのレポートもまた戻ってこられるものになっているとうれしい。

 

子どものためだけでなくわたし自身が、学びの選択肢はもっともっと増えてほしいと切に願うし、この社会の構成員である一市民として、これからも学びの選択肢を増やすことに貢献していきたい。

社会が大きく動いている今、過去と未来を見つめながら、異なる立場や意見を持ち寄って対話する場は、ますます必要とされている。

その際に、作品を通して対話し学ぶやり方がある。
作品を通して、集いをつくり、機会をつくり、関係をつくる。

わたし個人は、このようなやり方で学びの選択肢を広げ、鑑賞対話の場づくりの価値を伝えていきたい。

 

最後になりましたが、突然のイベント中止となり、あの形で準備や調整をして楽しみにしてくださった方にはほんとうに申し訳ありませんでした。

形を変えたシェアの場に来てくださった皆様、ありがとうございました。

 

教育はエンジニアリングよりガーデニングにずっと近い。あなたが庭師なら、植物に育てとは命令しない。植物は自分で育つ。

自分に力を与えるもの。好きで仕方のないこと。
押さえつけても湧き上がってくる。

---Sir Ken Robinson from "Most Likely To Succeed"

 

 

vimeo.com

 

経済産業省の研究会資料
FutureEduTokyo主宰/MLTSアンバサダー 竹中詠美さんのプレゼン資料 (PDF)

https://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/mirainokyositu/pdf/002_03_00.pdf

 

 

今後の予定

イヴァン・イリッチの『脱学校の社会』を1章ずつ読んでいく読書会を予定しています。詳細が決まったらこのブログまたはpeatixにてお知らせします。

 

 

 

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初の著書(共著)発売中! 

 

〈お知らせ〉3/26(金) オンラインでゆるっと話そう『風の電話』

シネマ・チュプキ・タバタさんとコラボでひらく鑑賞対話の場〈ゆるっと話そう〉。

今月もオンラインでの開催です。
全国、全世界、インターネットのあるところなら、どこからでもご参加OK。
 

3月はこちらの作品! 

『風の電話 』(2020年/日本)

youtu.be

www.kazenodenwa.com

 

東日本大震災で家族を失った高校生、ハルが、故郷の岩手県大槌町へと“帰る”道中、様々な人々との出会いを通して、喪失を抱きしめ、生きる力を少しずつ取り戻していくロードムービー

大槌町に実在する「風の電話」をモチーフにした映像作品でもあります。

f:id:hitotobi:20210307205002p:plain
 
 
あれから10年。そして2月の余震で再び揺るがされた日常。

今もまだ生きているわたしたちとして、ハルの旅を追いながら、湧き上がってきた思いを言葉にしてみませんか。当時日本にいなかった方も、震災ではないもので大切な人を亡くした方も、物語を経由するからこそ語れることがあるかもしれません。
 
津波の映像はありません。傷ついた心に優しく寄り添う映画です。
 
映画を観たみなさんの思い、聴かせてください。
ご参加お待ちしています!
 
———————————————————
日 時:2021年3月26日(金)20:00〜21:00(開場19:45)
参加費:1,000円(予約時決済/JCB以外のカードがご利用頂けます)
対 象:映画『風の電話』を観た方。
オンライン会議システムZOOMで通話が可能な方。
    UDトークが必要な方は申し込み完了後、ご連絡ください。   
    Mail)cinema.chupki@gmail.com     
会 場:オンライン会議システムZOOM    
    当日のお部屋IDは、開催前日にお申し込みの方へメールでご連絡します
参加方法:予約制(定員9名)
※お子さん(高校生以下)とご一緒に参加の場合、1名でお申し込みください。
 
*前日時点で2名以上のお申し込みで開催します。
*「ゆるっと話そう」は、どこの劇場でご覧になった方も参加できますが、これから観る方はぜひ当館でご覧ください。日本で唯一のユニバーサルシアターであるシネマ・チュプキ・タバタを応援いただけたらうれしいです
 
 
映画の詳細・ご鑑賞についてはこちら
上映期間 3月15日(月)〜30日(火)14:40〜16:59<水曜休映>
 
 
・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・
 
 
 
<これまでの開催>
※ブログで各回のレポートを読むことができます。
第19回 ウルフウォーカー
第18回 ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ
第17回 アリ地獄天国
第16回 彼の見つめる先に
第15回 なぜ君は総理大臣になれないのか
第14回 タゴール・ソングス
第13回 この世界の(さらにいくつもの)片隅に
第12回 プリズン・サークル
第11回 インディペンデントリビング
第10回 37セカンズ
第9回 トークバック 沈黙を破る女たち
第8回 人生をしまう時間(とき)
第7回 ディリリとパリの時間旅行
第6回 おいしい家族
第5回 教誨師
第4回 バグダッド・カフェ ニューディレクターズカット版
第3回 人生フルーツ
第2回 勝手にふるえてろ
第1回 沈没家族
 
 
・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・
 
<主催・問い合わせ>
シネマ・チュプキ・タバタ
TEL・FAX 03-6240-8480(水曜休)
cinema.chupki@gmail.com

 

★メッセージ★

大槌町に実在する「風の電話」をモチーフにしたという宣伝でしたが、風の電話がずっと映画の真ん中に鎮座しているわけではない。故郷へ向かって"帰る"中でいろんな人と、自分の過去と、出会っていくロードムービーとして観た。

観終わって、時間が経ってようやく、「ああ、この風の電話を訪れる人、一人ひとりにこれだけの人生があり、それらの積み重ねるが3万人という数なのだ。今見たのはその一人の、またその中の断片......」と気づく。

自分自身のうしなった人、物、記憶への思いも重ねる時間だった。
涙に、手の温もりに、自分の命を感じる。

思いを持ち寄る、温かな場になることを願ってひらきます。

お申し込みお待ちしています。

 

 

▼ゆるっと話そうは、どんな場?

hitotobi.hatenadiary.jp

 

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展示『INSIDE/OUT 映像文化とLGBTQ+』@早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館 鑑賞記録

早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館(エンパク)で、『INSIDE/OUT 映像文化とLGBTQ+』を観てきた。

最初に言っておきたいのは、この貴重な展示が、入館料無料で観られるということ。
ありがとうございます。

www.waseda.jp

 

 

わたしがこの展示を観にいった動機は、テーマに関心があるから。そして、演劇博物館の企画への信頼があるから。知らなかったこと、見落としている何か大切なことを学べると思ったから。

 

当日に至るまでに、LGBTQ+のテーマでいくつかターニングポイントはあるが、今回特に関連するものは2つ。

一つは、ライター業をしている友人が執筆していた、こちらのウェブマガジンを読んできたこと。毎回1万字を超えるロングインタビュー。当事者の言葉。人間のセクシャリティにはこんなにもグラデーションがあり、ゆらぎがあるのか、という発見。カテゴライズしていくことの危うさと意味の無さを学んだように思う。人間という生物である自分についても、新しく知っていくような感覚を覚えた。同時に厳然と「男」「女」の二項で括られる社会の生きづらさも。

LGBTERは、「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」など、様々なセクシュアルマイノリティや「ALLY」の方へのインタビューを通じ、「リアルな先輩情報」を発信するLGBTインタビューメディアサイトです。

lgbter.jp

 

もう一つは、『おっさんずラブ』を観て抱いた違和感。

非常に良い作品で、ドラマも映画も観て、とても好きな作品。ポッドキャストで3回も扱ったぐらい好きなのだが、どうにも違和感があったのは、性別の非対称性。

「これって"女性"同士でもこのぐらい社会的に受容されるのかな?」と思った。
自問自答するなら、「NO」。では、「なぜ?」

その答えが見つからないできた。ただ、「ここにはなんかある」という感触だけが残った。

 

 

展示の話に戻る。

去年の12月に行って、もう2ヶ月半ほど経ってしまったが、なかなか記録が書けないでいた。

書こうとすると、ジェンダーセクシャリティ、自分のアイデンティティをどこに拠って立つものとするのか、明らかにする必要が出てくるように感じていた。

また、わたしが他の人間をどのように見ているのか、態度を決めなければ進めないようにも思える。たとえ書かないまでも、要求されている作業というのか。

それが進まない。意外に進まない。

自分自身について、他者について、明確だと思っていたが、わからなくなってきた。たとえば人間同士で名前のつかない関係は無数にある。それを人に説明するために、あるいは何かしらの社会的立場の保持のために、便宜的に名前をつけてきたにすぎない。

映画『燃ゆる女の肖像』やNTLive『シラノ・ド・ベルジュラック』や『ハンサード』を観て、友人たちと話したことの中にも多くある。その内容自体は公に語りたいことではない。映像作品を通した対話でのみ、言葉になる何かが、間違いなくある。

だから、今回の展示が、映画とTVの映像文化に主眼を置いていることには、やはり意味があると思った。

 

観る側が揺るがされている体験は、この展示のキャッチコピーとして付記されている、

内から見るか、外から見るか、それとも_____

 にも関連するかもしれない。

外から見ていたと思っていたが、実は内だったのではないか。
内のように感じていて、実は自分は外から見ているだけではないのか。
そもそもどちらかの立場を取れるような種類のものなのだろうか。

「それとも」......何?

 

わたしは、既存の社会の仕組みを当たり前のように取り込んで生きてきたと思っていたが、今や桃の節句の雛飾りにも、「お内裏様とお雛様、男と女に二分されるということか......」と考え込んでしまう。ようやく気づいたというべきか。

こんなにも明確に存在があるのに、社会は無視し、辺境的なものや、題材として扱うのみで、仕組みに組み込もうとしてはこなかった。自分も加担してきたことへの後ろめたさのようなものがあるかもしれない。消費的に関わったことさえもある。

そして、気づいたのに、未だに変化が遅々として進まない多くの場、組織、環境がある。その中を言い訳をしながら生きざるを得ない。言い訳をしながら子どもに説明する。ダブルスタンダード

 

それなのに映像文化に触れるときだけ、「世の中もだいぶ変わってきたよね」と訳知り顔で発言するする自分もいる。そんな両面の自分の姿が、展示を見る中で暴露されているようで、居心地が悪かったのかもしれない。

映像文化が世の中の変化を作っていることを信じていると同時に、これほど強固に性別二項で設計された人間社会のシステムが抜本的に変更される未来など、本当にありえるのか?という疑念もある。

もちろん変更されてほしいが、今でさえ女性の人権を無視するかのような選択的夫婦別姓の導入、緊急避妊薬の薬局販売、不同意性交等罪の創設、生理用品の軽減税率の導入も、進まない現状を見ていると、しばしば絶望的な気分になる。

「それとも」。

クィアな視点で語り続けていくことによって、あらゆる市民の人権が守られていく社会への願いもある。

 

今回の展示は答えではなく、再考するきっかけを提示しているのだ。

これまでの映像作品は、どのように社会の写し絵となってきたのか。
人々の意識をほんとうに変えてきたのか。

今ここから、クィアな視点で社会を再考し再検討していった先に、どのような未来があるのか。

 

展覧会チラシより。


内から見るか、外から見るか、それとも──。
性の視点から映画やテレビドラマの歴史を紐解くと、目の前に広がるのは男女の恋愛物語だけではありません。そこには同性同士の恋愛や情愛、女らしさ/男らしさの「普通」に対する異議申し立て、名前のない関係性などを描いた物語が存在します。
2010年代には、「LGBTブーム」を契機にLGBTQ+の人々を描く映像作品が次々と製作され、性について、また「普通とは何か?」について考える機会が増えました。本展では、戦後から2020年初めまでの映画とテレビドラマを主な対象に多様なLGBTQ+表象に着目し、製作ノート、パンフレット、スチル写真、台本、映像などの多彩な資料とともに歴史を振り返ります。
いまを生きる私たちが一度立ち止まり、過去の物語と現在を繋ぎ合わせることで、様々な性や人間関係のあり方を尊重する、映像文化の魅力を改めて認識する機会となる事を願います。


LGBTQ+とは

LGBTとは、レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシャル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字からなる性的マイノリティの総称として、使われてきました。本展では、LGBTに含まれない性のあり方を示すために、自身の性のあり方を(まだ)決めていないクエスチョニング(Questioning)と、社会の想定する「普通」には含まれない性のあり方を生きる人を指すクィアQueer)の「Q」に加え、他の様々な性の多様性を含む「+」をつけ、より幅広い性のあり方を考えます。

 

展覧会の英語のタイトルは、

Inside/Out: LGBTQ+ Representation in Film and Television

となっている。
Representationとは「表象」。「映画とTVにおける表象」がタイトル。

表象とは何か。

これもまたひと言で説明しにくい言葉だ。

しかし展覧会では、そんなことはお構いなしに、鑑賞者が知っている前提で進んでいくので、無我夢中で食らいついていくしかない。(いや、あるいはあえて説明せず、展覧会全体の鑑賞を通して知らしめるという意図なのか)

 

表象の問題は、近年、広告の炎上案件の文脈で目にするようになってきた。

gendai.ismedia.jp

こちらは「表象」という言葉は使ってはいないが、内容はそれに当たると考えられる。

bijutsutecho.com

 

端的な解説を見つけた。

ハワイ人とキリスト教:文化と信仰の民族誌学(14)「表象と言説」/天理大学 国際学部地域文化研究センター准教授 井上明洋

(PDF)https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000gd7n9-att/q3tncs00000gd7vj.pdf

「表象」とは、「何か」を用いて「あるモノ(対象)」を表すことである。用いられる「何か」は絵画や映画といった視覚的なイメージでも良いし、文学や活字メディアなどの言語的表現手段でも良く、また音楽などの聴覚的表現手段でも良い。一方、表される「モノ」は、具体的なものから抽象的なものまで様々であって、さらに言えば、それらの「モノ」が実在するものなのかどうかはそれほど重要ではない。

(中略)

「表象」という言葉が用いられる時、単なるシンボルや記号とは異なり、「誰」が「何」を表象しているのかということが、しばしば重要な問題となってくる。(中略)「表象」によって「あるモノ(対象)」に意味が生成するのだが、「表象」する側が、どの位置からどのような角度で対象に対して視線を投げかけているのかということが、生成する意味に対して視線を投げかけているのかということが、生成する意味に大きな影響を及ぼしているのである。
(本文P.9より引用)

 

「誰が何を表象しているのか」

まさにこれは鑑賞において、欠くことのできない視点。

どのように見て、解釈するかは自由。ただ、誰がどのような意図で作ったかという奥に隠されたものまで、対話を通じて読み取っていくことが重要。

軽視されることによって見えなくするもの、存在しなかったとされるもの、可視化することで見えなくしてしまった存在に目を凝らす訓練でもある。

あるいはどんな社会規範や社会通念が強化されたのか。

対話に意味や価値があるのは、まさにその自分からは死角になっている領域に光を当ててくれる人が現れるからだ。異なる背景、異なる当事者性。それによって自分が生かされていると言える。

 

 

展示の中で指摘されていることは、わたしの『おっさんずラブ』で抱いた問題意識とも近い。

いくつかの作品を除けば、その大部分がゲイ男性の表象に集中しており、表象のアンバランスがなぜ起こるかについて考える必要があるだろう。また、性的マイノリティを描く作品を作るために作家の性的指向は問われないが、カミングアウトしている作家が少ない現状も見過ごすことはできない。(図録p.41 第5章 ゼロ年代以降の国内メディアとLGBTQ+)

 

展示を通じて問われていたことは、今のわたしにはまだ読み解けないものが多い。ただ、「表象」や「クィア」というキーワードで、ここからの社会、この時代に生まれた映像作品を批判的な眼差しを向けていくことはできると思った。

また、セクシャリティや関係性を表す言葉は、人間の規定にもつながり、尊厳を傷つけることも起こる。非常に繊細なものとして、使い方に敏感でいたいとも思う。

わからないものへの不安があることを知りながら、あえて名前をつけずにただあるがままに接するというレッスンをもっともっとしていきなさいよ、ということではないかな。

対話のために便宜的に共有できる言葉を使ったとしても、定義を確認しながら、そして振り回されず。しかし知ろうとし続け、使われ方を批判的に見ていく。そのような態度でいたい。

 

 

展示からは「反省」という言葉がしばしば見られるのも、印象に残っている。

不可視化の歴史を発掘する試みは、博物館や美術館においても近年実践されており、マジョリティを権威化する規範を軸としたキュレーションの歴史を反省誌、マイノリティの歴史、記憶、表象を尊重する展示やアーカイブへの転換が目指されている。(図録 p.6 展覧会趣旨)


成人映画が女性を性的に搾取してきた側面に対する反省と批判は産業史的観点から検証される必要はあるが、(p.25 日活ロマンポルノと薔薇族映画にみる性のカタチ)

ここはまだようやく気づき始めたところ、声を上げ始めたばかり。

痛みも噴出し、罪悪感に塗れる。それでも過去の歴史を問い直し、新しく作るときには反省を生かす、不断の努力の積み重ねによってしか、成せないものがある。一過性のムーブメントでは終わらせない覚悟も然り。

しかもそれに評価を下すのは、今のわたしたちではなく、後世の人々だろう。

今のわたしたちが過去の歴史を検証し、評価を下しているのと同様に。

 

 

図録は展示物の一部の図版はもちろん、一度読んだだけでは咀嚼できなかった各章の問題提起、専門家による論考、さらには年表、参考文献、展示リストまで収録されており、充実の内容となっている。

会期中に完売となっていたが、エンパクの図書室では閲覧ができると思う。興味のある方は、施設に確認してみてほしい。

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図録の代わりにはならないが、もう少し詳しい概要はこちらで読める。担当学芸員さんによる紹介。

yab.yomiuri.co.jp

 

 

観たい映画や映像作品が一気に増えた展示でもあった。

3階の常設展示がリニューアルでさらに充実していた。無料で配布している演劇史をまとめた資料は、保存版といってよいほどのクオリティなので、入手をおすすめする。わたしは演劇史について調べたいときは真っ先に参照している。

同時開催していた『三国志風雲児たち』展も、小さいスペースながらもよかった。台湾布袋戯の関羽の展示には、映画『台湾、街かどの人形劇』が蘇った。

 

行った日はクリスマス・イブ。
エンパクの建物にクリスマスツリーがよく似合っていた。

  

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おまけで、関連記事。

もしかすると偏りは、日本における「男色文学」の歴史の影響なのだろうか。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

エンパクでの過去の展示。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

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映画『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』鑑賞記録

3月の映画の日。『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』を観てきた。

2020年11月公開の作品。

cyranoniaitai.com

 

シラノ・ド・ベルジュラック』は、世界中で愛されている舞台劇の一つ。17世紀に実在したフランスの剣豪作家シラノ・ド・ベルジュラックをモチーフに、劇作家のエドモン・ロスタンが制作。初演は1897年、ベル・エポック時代のパリで大成功を収めた。

シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』はエドモンを主人公に、大傑作が生まれる舞台裏がいかにトラブルの連続だったかを脚色も交えながら、その初演舞台までの日々と本番を愉快で痛快、爽快な物語に仕立てた作品。

監督は、俳優、劇作家、演出家でもあるアレクシス・ミシャリク。『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)を観て、「なぜフランスではこういう映画が作られていないのか不思議に思った」のだそう。

原題は『Edmond』。フランスで「エドモン」と聞けば、エドモン・ロスタンが共通理解とてありそう。あるいは、エドモン・ダンテス(モンテ・クリスト伯)。

 

 

わたしにとっての『シラノ』は、1990年のジェラール・ドパリュデューの映画が初めての出会い。内容は.......ほとんど覚えていない。

去年の12月にNTライブで観て、実に30年ぶりに再会。こんなに奥深い映画だったのか!と驚嘆した。

hitotobi.hatenadiary.jp


今読み返すとこの感想、何も役に立つことが書いてませんね......(汗)。

この舞台の斬新さはいろいろあるんですが、そもそも「付け鼻のシラノ」ではないんですよ。 シラノは元々の戯曲の設定では、「醜男」で「大きな鼻」を人から嗤われ、コンプレックスを抱えているという役柄です。ジェラール・ドパリュデューも映画で付け鼻でした。でも、NTライブで演じたジェームズ・マカヴォイは、まぁ平たく言うと「美男」。

「あれ、醜男じゃないどころか、めっちゃ美男やん、全然鼻も普通やん」と観客が思っちゃうところが既に罠にかかっていると言いましょうか。「わたしルッキズム入ってる?」と居心地悪くさせられるんですね。おそろしいお芝居!

クリスチャンにしても、「美男だけど詩心も教養もない」というのも、それはロクサーヌやシラノとの関係においてだけそうなるもので、クリスチャン自身が「劣っている人」という証明にはならない。

結局のところ「コンプレックス」というのは、ある文化圏の狭い範囲の中での他人との比較の中で発生するものであり、ここから自由になるには、「自分がつくりあげた牢獄」から自力で脱出を試みるしかない。

そういう話だったのかと、ようやく2ヶ月ちょっとして言葉になった。ふぅ。

 

はい、そこへきて、映画ですね、映画、映画。封切り時にはノーチェックだったのだけれど、NTライブを観て熱いところだったので、ツイッターでふと流れてきたときにパッとキャッチしたのでした。

トレーラーを観て、「コメディなんだろうなぁ。楽しい気分になりたいし、ちょうどいいな。ドタバタしてるだけで実があまりなかったらどうしよう......」という勝手なイメージを持っていました。

 

しかし!いやはや!これは!!

よかった。すごくよかった。

 

とても映画らしい映画!

映画ってほんとうにいいものだなぁ〜と幸せな気持ちにさせてくれる、極上のエンターテインメント。

 

歴史、伝記モノへのイメージが変わった。

作りがやはりちゃんと「今」っぽい。「これは昔の話を再現しているんだ」と頭で修正してあげなくていい。今起こっていることとして観客がわくわくできる。

人種差別や格差、社会階級なども描いているからでしょうか。

脚色を施すけれど、考証はあくまでも細かい。でもお勉強にならずにちゃんとエンタメ。それでいて歴史への理解が深まるし、もっと知りたいという余地も残してくれる。

NHK大河ドラマ「いだてん」が近いかな? 

 

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その他の感想バラバラと。

・モノをつくる過程や、あらゆる発明発見は、誰かの何気ない一言や偶然の出来事が元だったりする、あの着想の瞬間、化学反応(ボン!)のわくわくがある。脚色もあるだろうけど、時に現実は想像を超えた偶然を起こすから、嘘とも言いきれない。

サラ・ベルナールアントン・チェーホフが登場するベル・エポック時代の雰囲気は、『ディリリとパリの時間旅行』や、松濤美術館のサラ・ベルナール展の記憶も次々に立ち上がり、終いにはももクロの『幕が上がる』(2015)も!サラ・ベルナールはここでもやはり「ぶっ飛んでる人」として描かれる。

・詩人には即興力が必要!詩を繰り出していくシーンは小気味良い。

・19世紀終わりに「詩劇は時代遅れ」と評された。早稲田大学坪内逍遥博士記念演劇博物館でもらった資料によれば、この頃は【近代自然主義演劇】が盛んだった。1873年エミール・ゾラが『テレーズ・ラカン』を発表、1879年ヘンリック・イプセンが『人形の家』などの社会劇を執筆。"劇の主人公は王や英雄ではなく市民となり、リアルな心理描写と舞台表象によって現実を再現しました。テーマを鮮明にするために全要素の統一を行う者が演出家として立つようになり、コンスタンチン・スタニスラフスキーアンドレ・アントワーヌ、ゴードン・クレイらが活躍しました"とある。もちろんチェーホフも。(ちなみにこのあと、第一次世界大戦を経て、ブレヒトによる不条理劇が出てくる。なるほどー)

・活動写真が登場する。エドモンが街を歩いていて、活動小屋で観ているのは、リュミエール兄弟の『工場の出口』。「みんな活動写真を観るようになって、演劇は廃れるのでは」と言うエドモン。
そういう時期もあったかもしれないけれど、『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』は映画制作の資金調達が困難で、まずは演劇でやってみた。そして当たったので映画化したという背景を持つ映画。『戦火の馬』も『フリーバッグ』も演劇の舞台から話題になったもの。「今はタッグを組んでやっているよー!」とお知らせしたくなった。

・「ムーラン・ルージュの中って初めて入った!ああなってたんだ!フレンチカンカンの当時の本物を初めて観た!」と興奮してしまった。「ロートレックの絵のまんまだー!」「娼館てこんなとこか」......。これは再現、フィクションだとわかっているのだけど、今そこで観ているような気分になる映画。技術がすごいのだと思う。カメラワークも凝っている。

エドモンがジャンヌをロクサーヌに見立てたことで、すったもんだする関係。「執筆や作曲する男に必要なのは願望だ。願望が満たされると筆は止まる」これって勝手だなーと思うけど、わかる。いや、でも、芸のためならなんでもやるのいいの?それが男を許しすぎてきたんじゃないの?いや、でも女にもあるよね。性別じゃないよね。うーん。。ここ複雑。さらに、「才能を疑い、崇拝しなくなったから愛せない(自分の才能を信じ、崇拝してくれるから愛せる)」ということってあるの?あるかも......心当たりのようなものが......など、「シラノ」の本筋と同じく、人間の性(さが)を突きつけてくる!入れ子式に楽しめるところが、監督のストーリーテラーとしての手腕なんだろうなぁ。

 

・幕が上がる前の主演俳優同士のやり取りにぐっときた。ここは大事なところなので書かない。ぜひ映画を観て確認していただきたい。「こうやって125年近く後になっても、この作品は残っているよ!」とこの日のこの人たちに言いに行きたくなる。

 

・エンドロールが終わるまで心憎い演出が続く。ぜひ最後までじっくり観てほしい!

 

そうだ、大事なことを言い忘れていた。大事なので赤にしておこう。

どこかで『シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台を一度観てから、この映画を観るのがやっぱり順番としていいと思う。そのほうがより楽しめる。

 

f:id:hitotobi:20210305143450j:plain

 

劇場は下高井戸シネマ

前々からこの駅前に映画館があるのは知っていたが、訪れたことはなく。マンションの2階。客層も他ではあまりない感じ。

25年ぐらい前、わたしが出入りしていた頃の京都みなみ会館の雰囲気を思い出す。

見逃した映画を拾いにまた行きたい。

 

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漫画『ふしぎの国のバード』読書記録

ずっと読みたかった漫画『ふしぎの国のバード』を読んでいる。 

 

概要

19世紀から20世紀初めにかけて世界各地を訪れた実在のイギリス人女性冒険家イザベラ・バードの著書『日本奥地紀行』を下敷きに、主人公のイザベラ・バードが通訳ガイドの日本人男性・伊藤鶴吉と共に、横浜から蝦夷地へと旅する姿と、旅先で出会った明治初期の日本の文化や人々をフィクションを交えて描く。

本作は原典と同様に英国本国にいる妹・ヘンリエッタへ宛てた手紙という形で物語が進行している。また、日本語を理解できないバードの視点に立って描かれており、日本語による会話は吹き出し内にくずし字様のぼかされた文様で表現されている。(WIkipediaより)

 

 意外にもコミック本体のどこにも、イザベラ・バードが実在の人物で、この漫画が彼女の著書『日本奥地紀行』を下敷きにしていることが書かれていない。人によっては、フィクションとして読む人もいるかも。

 

バードの『日本奥地紀行』を知ったのは、宮本常一の著書を読んだことがきっかけ。 


2013年に東京大学駒場キャンパスへ、バード関連の展示を観に行ったときの記録が残っていた。書いておいてくれてありがとう、わたし!この展示とても良かったので、今観に行きたい(無理ですがー)

uyography.blogspot.com

 

その後、2015年にこの漫画が出たのを知ったときにすぐに読みたい!と思ったのに、ぐずぐずしているうちに6年も経ってしまった。

2018年にはバイリンガル版というのも出たらしい。いいですね、合う。

ddnavi.com

 

 

久しぶりに漫画という形で『日本奥地紀行』に出会い直してみて、驚くことが多かった。

・バードが日本国内で旅を始めたのが1878年明治11年、この頃の日本がどのようだったか。とりわけ歴史に記録が残らない地域の人々の暮らしが見える。非常に勤勉であるにも関わらず、驚くほど貧しい。多くの集落に医者はいない。衛生や予防に関する知識も乏しい。迷信やまじないが当たり前に日常にある時代。

・日本という島国に暮らしてきた人々の文化風習、メンタリティが、全く異なる場所からきた言葉も通じない他所者のフィルターを通して観察されていく。

・バードは日本語を解さないので、日本人の話していることは読者にはわからない。バードと伊藤の英語の会話が日本語で綴られる。この表現を考えたのはすごい、おもしろい。読者をバード側、異国人の視点にグッと引き込む仕掛けになっている。

・19世紀末当時の西欧の女性の社会的立場、公的な場所での振る舞い、特に男性との関係の中で求められるものなどがよくわかる。例えば、「女性は人前でくるぶしを見せてはいけない」とか。

・「この国の人達は並外れた子ども好き(3巻)」だけれども、「この国では大人達からこの上なく大切にされる 幸福な時代はあまりにも早く終わりを迎え まだあどけない子供に 様々な人生の重責が課せられていくことになります(1巻)」どちらもそんな日本があったのか!という驚き。今日本で子どもが手放しに可愛がられているとは全く実感できない。少なくともわたしの子育ての中ではそう。台湾、香港、東南アジアなどの国々に子連れで行った時に親切にされた話などはよく聞く。自分のルーツを見ているはずなのに、とても遠い国の話のように思われる。理解できるものもある。不思議な感覚。

・都市部で洋装の男性を見たバードのセリフ、「この国の男性は和装姿の方が堂々として見える(4巻)」これは東京国立博物館の着物展の記録でも書いたが、民族衣装というのは、その国の民族を最も美しく見せる装い。でも開国し、明治になり、西洋に追いつこうと、日本は自国の文化を一旦捨てた。

・その渦中にあることが端々から伝わってくる。例えば4巻の場面。丁髷は都市部では禁止されており、逆らおうとする者が警官に連行されそうになるシーンがある。伊藤のセリフ、「バードさん、この国が西洋化を進めているのは 世界に文明国として認めてもらうためです。霊液云々(注;迷信を使った脅しをした場面)はあくまで人々を納得させるための方便出会って 実際は西洋諸国と対等な関係を結ぶために 必死に過去のものを捨てようとしているのに 西洋人であるバードさんにそれをとやかく言われれば 腹が立つのも当然ですよ」。映画『ムヒカ』でゆるっと話そうの中で、明治維新の時に西洋の文化が入ってきた時に、どれほどのショックがあったのだろうか、という感想が出たのを思い出した。漫画を読みながらまさにその心情が補完される思いだった。

・同じく4巻。バードのモノローグ、「伊藤は西洋人に反感をもちながら西洋化を誇り 迷信を嫌いつつ霊媒シャーマニズム)を信じる不思議な若者です」。伊藤を通して知る、当時の日本人、特に都市部で生まれ育ち、西洋化を肌で感じている人、の葛藤がストレートに伝わってくる。脚色はあるにせよ、的外れ感は全くない。想像を助けてくれる。

・また5巻では、わたしが8年前にブログの最後に書いていた「女性としての生きづらさ」に触れている。まだイギリスにいた頃のバードの回想シーンが、ジョン・ビショップ医師との会話、「これは近年、この国の多くの女性が共通して抱える症状なんです。知性と好奇心が豊かな女性ほど とりわけかかりやすい。本来の能力を発揮したいのに、我慢を強いられ、それにより神経が衰弱し、背中の痛みが増長されている」。そう言ってビショップ医師は、バードに長期の一人旅を勧める。このくだりを読んで真っ先に思い浮かべたのが、ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)、或いはカミーユ・クローデル1864年-1943年)。いえ、関係あるかはわからないけれど、非常に腑に落ちる説明ではある。

・そしてこれまたわたしのブログの最後に書いた、冒険への情熱の理由も語られていた。「危険を冒さなければ出会えないものがあるの。人は皆当たり前の日常なんて気にも留めずに過ごすものよ。それがたとえやがて滅びる運命だとしても。ただひとり旅人だけが奥地に眠るふしぎな日常を記録に残すことができる。ありのままの文明を国を超えて時を超えて 人類共通の財産にする。それがわたしの冒険家としての使命よ、伊藤」

 

いやはや、出会い直せた!理解した!繋がった!

  

バードが日本に探検に来たのは46歳の時だったそう。漫画の中ではもっと若く描かれているところにややチリッとするものはあるが、漫画化してくださって、とてもありがたい。

日本は明治で大きく変わった。変わってしまった。

中世と現代をつなぐ近代の大きな転換の時代。
ここを知れば知るほど、今の社会を読み解くことができる。
この先に進むべき道を照らしてくれる。
明治がおもしろい。樋口一葉で出会い直した明治。もっと探究していきたい。

バードにも、あの時代に、遠い異国を訪ねてくれてありがとう、記録を残してくれてありがとう、とあらためて言いたい。

 

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hitotobi.hatenadiary.jp

 

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展示『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』展 東京都現代美術館 鑑賞記録

2020年12月末、東京都現代美術館で開催の石岡瑛子展に行ってきた。

 

石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』

www.mot-art-museum.jp

 

よかった……。

創ることの圧倒的なパワーと勇気をもらって帰ってきた。

もうそれしか言うことがない。

 

ちょっと目新しいぐらいじゃダメで、1976年のパルコの広告が、2020年の今、ようやく違和感なく見えるぐらい先進的じゃなくちゃ意味がない。

あの時代にそれをやっていた人がいたという驚愕。

コンピュータやインターネットがない、ということをいちいち思い出さなくちゃいけない。

 

個人的には、オペラ『ニーベルングの指輪』の衣装がグッときた。あの点数!

 

会場に降ってくる石岡さんの声が喝を入れ続けてくれた。

どの部屋にも流れ続けていたし、インパクトのある声と語りなので、いつでも脳内再生できる。
文字起こしはこちらに公開してくださっている。

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/EIKO_interview_PC.pdf

 

 

展覧会を担当した学芸員さんのツイート。これが見所のすべてを物語っている。

 

学芸員さんへのインタビュー。これも必読。

www.fashionsnap.com

 

トークセッション。必見。

youtu.be

 

f:id:hitotobi:20210227211021j:plain

 

一緒に観に行った友人としばし感想を交わす。大事なことはほとんどここで昇華&循環させてしまったので、思い出せない。でも語ったからこそ確実に血肉になっている。

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観に行く少し前に、石岡瑛子✖️ターセム・シンのタッグで制作した映画『落下の王国』の放映が地上波であった。これに使われた衣装の展示もあって、いい予習になった。日テレさんありがとう!

cinemore.jp

 

rakukatsu.jp

 

勢いで買ったが、まだ読めていない。
すごいボリュームなんです。576ページ。天才を語るには言葉が必要だ。

『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』河尻 亨一 /著(朝日新聞出版) 

 

石岡さんの言葉を探していて見つけた。 

www2.nhk.or.jp

 

昨年は三島由紀夫没後50年だったので、石岡展で三島が登場するのもタイムリーだった。

 

日本では公開されなかった"Mishima: A Life in Four Chapters" パッケージもカッコいい。

www.amazon.com

 

芸術新潮』2020年12月号(特集:没後50年21世紀のための三島由紀夫入門)


写真、年表、文学考察と一つの展覧会を訪ねたような充実。三島について、まだ理解には程遠いけれど、以前よりは少し取っ掛かりができた。

石岡展とベジャール のバレエ作品『M』をオンライン視聴したことが後押ししてくれた。

映画『三島VS全共闘』は見逃した。

 

いくつもの時代を経て再考、再評価される才能のオンパレード!

 

 

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すみだ北斎美術館 常設展 鑑賞記録

墨田区にある、すみだ北斎美術館に行ってきた。

https://hokusai-museum.jp/

両国の書店に本の営業に行くところで、そういえばまだ行ったことがなかったなと思い出して、立ち寄ってみた。

去年の太田記念美術館の展示や、川崎浮世絵ギャラリーの月岡芳年展東京都美術館の大浮世絵展などのおかげで、最近浮世絵にも親しんでおり、ようやく「北斎、行ってみようか!」という気持ちになったところでもあった。

 

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ちょうど企画展の端境期だったので、常設展をじっくり観るよい機会、とも思った。

常設展の部屋は思ったよりもコンパクトで、正直拍子抜けしたけれど、丁寧に観ていくと情報としてはかなり充実している。

 

北斎という人、あまりに有名すぎて実は知らないことばかりだった。

貸本屋で働き、版木彫りの仕事などを経て、人気イラストレーターとして挿絵、肉筆画などを手掛けていたが、35歳〜45歳の間に所属していた江戸琳派から抜け、独立。

45歳ごろに葛飾北斎の画号を名乗り出す。この頃が、最晩年につぐ制作点数であったそう。

53歳〜70歳の時期には、絵手本『北斎漫画』などの図案集を多く出す。

71〜73歳でかの有名な富嶽三十六景を発表。今一番知られている北斎の画業はこの辺りか。

75〜90歳で没するまでは、風俗画、宗教画、絵手本などに精を出したそう。

公式ウェブサイトにも詳しく載っている。

https://hokusai-museum.jp/modules/Page/pages/view/402

 

 

 

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北斎のような著名な作家の生涯を追っていくと、何度も画風の転換があり、ターニングポイントとなる出来事があり、代表作が生まれる経緯があり、後進の育成がある。

40歳や45歳ぐらいでようやくやりたいことができるようになってきた、という作家も多い。そういうところに、知らず自分自身の人生を重ねてしまう。

わたしだってここからだ!!と勝手に勇気をもらうような。

 

この再現人形よかった。北斎と応為。

屑だらけの部屋で黙々と描いていたらしい。布団をかぶって描いてたんか。布団の中で、スマホで小説書いてる作家の話を思い出した。

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たっぷり時間をつくって企画展と常設展をガッツリ観るのもいいけれど、フラッと入って常設だけ観るのもいいなぁと思った日であった。

 

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