ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

〈レポート〉教育の当たり前を問い直そう!映画 “Most Likely to Succeed” を語る会 (Extra ver.)

2月7日こんな場をひらく予定だった。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

予定「だった」というのは、共催者が前夜に体調不良となったため、内容が変わった。

事前のお申し込みは13名あり、予告していた内容をわたし一人で進行して皆さんに良い体験を提供するのは難しいと判断し、一旦キャンセルした上で、形を変えて開催した。

そのため、このレポートは、(Extra ver.)ということで書く。
※MLTS:Most Likely To Succeedの略。HTH:High Tech Highの略

 

●こんな場

アメリカのドキュメンタリー映画 ”Most Likely to Succeed” (以下MLTSと略)を観た人と、教育を変えていくために動きたい人たち同士で感想を語る場です。
これからの日本の教育について立ち止まって考えたり、具体的なアクションの中身について話せる仲間に出会えることを目指しています。(告知より)

 

●こんな方がご参加。この日の立場と動機を一部ご紹介。

・教職員/保護者

大学教員としては、学生が受けてきた教育に疑問を感じることが多々ある。一方、今年から小学校に入学する子どもの親としては、日本の教育精度の中で学ぶ子どもをどうやってサポートしていくべきか、悩んでいるところ。
非常に考えるところが多かったドキュメンタリーなので、参加者の皆さんと意見交換を通じ、いろいろな角度から教育のあり方について考えたい。特に、映画で提示されている教育制度の問題点を踏まえて、今の日本社会で自分が何ができるのかを考えるヒントが得られたら。


・教育事業

美術館と小学校の連携事業で対話型美術鑑賞の授業のボランティアをしている。
学校の当たり前も、こうして外部との連携が進んでいくことで開かれ、鑑賞の授業を通して、子どもたちの生きる力をエンパワーする助けになればと願って、活動に携わっている。この機会に、教育・学校で当たり前となっていることや、どういう問題が現場にあるのか知って活動の参考にしたいと思っている。

 

・保護者

以前に観て感銘を受けた『MLTS』を捉え直したい。これからの自分と、自分の子供の学び方と生き方を考えたい。

 

・教職員

学校の存在そのものを問いながら、教員を続けてゆくビジョンと方法を参加者との対話の中で見い出したい。オンラインでの対話や人間関係の築き方についても、実際に参加する中で見い出したい。

 

●冒頭で皆さんと共有した「きょう目指していること」のは、次の3つ。

  • MLTSという作品を新しい視点でも観察してみる
  • MLTSと対話から生まれた、今の自分の葛藤と関心を言葉にしてみる
  • 傷つきがあれば、それを温かく見つめる、対話を通じて勇気を得る

葛藤や傷つきについて意外と思う方もいるかもしれないが、教育のテーマはかなりセンシティブだとわたしは思っている。大人は多かれ少なかれ、傷つきの経験をいまだ抱えている。

わたし自身、MLTSを観ながら、子の立場に立つと、「こんな教育を受けられていたら!」と思ったし、親の立場に立つと、「でも自分とは違う手段や選択を子に与える覚悟があるか」と揺れたし、教員の立場に立つと、「自分の仕事のやりがいとは何か見失いかけていたが、ここで得ることができた」という喜びに共感する。

ファシリテーターとしては、感情、emotionalな部分も大切にしてほしいと思った。

 

●対話のサポートツールの共有

事前に準備をしていて気づいたのは、このドキュメンタリーは情報量が非常に多いということ。

High Tech Highの教員、学校関係者、生徒、保護者、教育関係者、研究者など、大人数へのインタビューと、現場の画、解説用の画が入れ替わり立ち替わり入ってくる上、トピックも多い。

なかなか一度見ただけでは追いきれない、取りこぼしが多い。

その人の内に「沈殿」したものだけで語り合うことはできるが、局所的になるのは勿体ない。全体像も捉えながら話したい。なによりわたしがどんな話題が出たか、把握しておきたい。

そういったあれこれを考えて、資料を作成することにした。映画を頭からシークエンスごとに一つのスライドにまとめたレジュメをつくった。

一時停止しながら、エッセンスを抽出し、スライドを作成していく作業はなかなか大変で、前日深夜2時半までかかった。もっと早くに作業を始めていればよかったと後悔。

大変ではあったが、驚くほど名言の宝庫で、あとあと何度も見返したいものができたので、自分のためにも作ってよかったと思う。

 

当日はこれら14枚のスライドを〈対話のサポートツール〉として提供した。

スライドタイトルのみ並べる。

  1. アメリカ教育の歴史 
  2. High Tech High設立の経緯
  3. High Tech Highのイントロダクション
  4. High Tech Highの授業(プロジェクト)
  5. 有識者の言葉
  6. High Tech High 能力、判断力
  7. High Tech Highプロジェクトの懸念
  8. 統一テストの弊害
  9. 暗記型テストの弊害
  10. 新しい教育と展示発表
  11. 教師の役割
  12. ふりかえり
  13. 総括
  14. アメリカの教育制度

他に、参考資料として、「アメリカの教育制度」の図表を共有した。(出典『海外の高校&大学へ行こう!2020年度版』(アルク)

 

このスライド資料をPDFにしてグーグルドライブで一時共有し、チャットにリンクを貼って、各自で見ていただく時間を10分ほどとった。

 

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●内容の確認をした後、対話の時間

気になった人や言葉やシーン、全体の印象などを自由に発言してもらった。
記録として残しておくと、長期にわたり役に立つ内容だと思うので、シェアしたい。


何が起こっているのか?
・今じゃなくてもいいことを大人が一生懸命やりすぎている。「今」で向き合えばいいのに。その子のニーズに応えられるか、見る余裕があるか、待てるか
・テストの弊害について、カリキュラム表の形で出されると、どうしても遅れることが怖くなってしまう。生徒も不安になる。この教育でいくと、大人になってからも結局カリキュラムと達成から逃れられない。いい思いをした人が先生になりがち、再生産される
・Vincentさん(数学の先生)のくだり、やるせない、HTHで学んだことをよかれと思って現場で試して、苦労してやったことが、このように捉えられるのか......。
・冒頭、小学校4年生の子が、親と先生との面談、「大人がうそをついているのに気づいた顔」にまずつかまれた。ハッとなった。学校のシステムの中にはまらなかったときに、「今我慢すればあとでいいことが待っている」と自分も言いかねない。
・「あなただって数学やったからバークレー大に入ったんでしょ」葛藤する親。自分は枠組みの中でやってきたのに、「子どもに枠組みを信じなくていい」と言える?

 

HTHの教員の関わりに何を見る?
・「生徒に一度も判断させないなら、判断力なんて育つわけがない」のくだり。周りの大人が望むことを子どもが察して決めてしまっている。判断を自由にさせる場も必要

・大人が用意して「こういう在り方がいい」とする圧迫的な環境。もうちょっとなんとかならないのか
・教員が考える完成図を押し付けない。「生徒にこうなってほしい」は
・後半に登場する生徒2人のうちの1人Brianに「ビジョナリーを失ってほしくない、きみがきみでなくなる」あのふりかえりの時間はよかった。

・一見自分本位的な行動をしてしまう子って、子どもたちの中で責められて、いじめられる可能性だってある。でもそうならないのは、先生が、その子の個性と人生をみているから。

・環境をつくる教員たちも、「未来に向けて模索し、失敗は次へのチャンス、必要なものと受け止められる」。つまり、「責任をとっておしまい」じゃない環境づくりが、教育の大事なところ。多様性、価値、ゴールはたくさんあると本人が思えるかどうかが鍵
・「自我を育てる」ができない、「みんな同じ」を求めるけれど、今できることは?
・合意形成、新しい価値をつくる、大人がまずやる。先生も幸せ、生徒も幸せがいい

 

教育変革は可能か?
・コロナ禍は、学校が根本的に変わるチャンス。お金がある人はどんどん行けちゃう。塾のオンライン授業だって受けられる、差が広がっていく(ように見える)。
・この映画は、「教育ってなんだった?」を問い直している。でも、いい兵隊→いい工員の図は、100年以上変わってない。

・大学現場で「ディスカッションスキル」と言うとき、とりあえずビジネスで使えるスキルとしての位置付け。ほんとうはもっと深い。大学も右往左往している。
QUALCOMMのニーズが発端となってHTHが生まれた。AI技術発展後の人材、教育はどうやって育てるかを模索して、クリエイティブな人が生まれる可能性を求めて学校を作ったような、大きなニーズ、IT産業が発展させるためにという文脈に乗せる?
・そもそもお金がついているところで人材教育をするしか道はない?

・受験勉強で扱っているのは、大したことがないのでは。中学校、高校に行かせずに高卒認定試験で大学に入るルートだってある。既存にはまらなくていい。

・学びが進んだHTHの生徒たちは自然と、「戦争を続けさせない社会をつくりたい」「今の社会を根本的に変えていかないといけない」という志向になるのではないか。(タリバン占領下のパキスタンでの女性の人権を演劇で発表していた)

 

人権と経済のねじれ構造

・戦争をなくすのは教育の力だが、一方で、国力を上げるという文脈だと競争が必要になる?

・「産業界のニーズによって人材を派遣して国力を上げる」と「学問と人権、市民社会に参加する者として教育を進める」のふたつがねじれ構造にある
アメリカは権利意識も根づき、人種のるつぼでもある。人権に向き合う、個人を尊重する土壌は日本に比べてある?
・日本は産業界の要請が強すぎる。言うことを聞いてくれる人をほしがる。和を乱さない、個より集団の優先。『わかりあえないことから』平田オリザ著にヒントがある。市民教育の重要性。
・ “空気を読んだ中での”ディスカッションでは、経済界の人材育成がHTHが生まれるレベルまで行ってない
・成功するには知識より能力

 

MLTSの表象、描かれていないもの

・そもそも成功しなきゃいけないの?
・エリート、上位層の子どもたちがもっと産業界の役に立つ産業改革を目指すと、中位から下位は蚊帳の外になる?
HTHの半分が貧困層というが、この教育についていけるのは上位の子の可能性ある?描かれていない部分だが、インタビューに出てくる親が大学進学を意識している様子から推測。教育に関心があって、関心が強い=階級的に上?選抜は「公平」「バランスを考慮」とはいえ、親が入学を検討する時点でバイアスがある。
・ハンディキャップの子は?
・シャイな子と自分で言っていた子も、日本と比べたら全然シャイじゃない......。

 

フィードバックする力、フィードバックを受容する力
批判する、フィードバックを受容する能力。批判的なものの見方をしなくちゃいけない。とはいえ、批判の仕方が下手。「攻撃」と勘違いしがち。深まらずに気分だけ害するのはもったいない
・攻撃・非難してしまうこと、それによって生まれる痛みが、「変わっていくための通過時期」だといい
・原語では批判=フィードバック、評価=アセスメント。ニュアンス違う
・大学になってはじめて批判的に見ること「問いをつくる、問いを立てる」に直面
・高校生のプロジェクト学習に関わったとき、「なんで自分たちで問いを立てなければいけないんですか?」と質問あり。「身近なところから問いを見つけると世界が豊かに」と当たり障りなく回答。「こういう能力が今必要」って言われてもという戸惑い。

 

大人から変わっていく

・家の中、社会の中で育てると言われても、大人に余裕がない現状。子どもが質問すると親が怒る。答えるのが難しい問い、素朴な疑問や不思議に大人が子どもに丁寧に向き合えない。先送りにする対応しがち(あとでね)。「不思議」と感じる気持ちを摘んでいるかも
・中学生は受験勉強をやらされ、高校生になってやっとプロジェクト学習できるようになっても「へ?」という反応になるのは当然。
・「なんだろう?」と内在的に問いを立てる習慣がない子に、教科書は何ができる?

大人の「言うこと」ではなく、「姿勢、ふるまい、態度」を見ている。笑って流すのを学んできているから、わきまえてしまう。それは大人がしていること
・「あなたそれどういう意味?どういう意図?」と聞ける社会にようやくなってきた。習慣がないから最初は難しいが、言えなかったことを一つひとつ口にしていく。それでしか次に進まない、変わらない
・我々大人がどう癒されていくか。小さいことでも疑問を口にすることから
・大人が集まって話すのも第一歩(この場!)
・困っている、悩んでいる、いろんな立場の人がいる姿を見せていく、自分がもがく
・ 国、世界にゆとりがない今、コントロールできるところからしようとすると、子どもにしわ寄せがいく。
・大人が環境を整える、姿勢を見せる

 

気づく、小さくやる、やめる

・「〜べき」が多い社会。「規範に従え」の意味合いがある。「〜べき」は英訳しがたい日本語だそう。should=better ideaぐらいの意味。

・「〜したい」の主体が後回しな文化。外側から制約、内側からの願望の板挟み。まず自分に向けて、「〜べき」から解放されよう
・「ゆとりがない」と思わされてるかも。実はゆとりはつくれるし、あるかも。忙しいと思い込んでいたけれど、時間はふんだんに、出会える世界はいっぱいあった。ほんものにも出会える。
・「本当に〜しなきゃいけないの?」と問う。自分に、人に。

・気づいたわたしが「ゆとりがないと思わされてるだけなんじゃない?」「そうじゃないんじゃない」と思うだけでも、だいぶ違う

 

HTHに見る場づくりのコツ 

・個別最適化を目指す場
・生徒間の関係作りはどうしていたのか。この方法だと学生と先生のつながりが強くなりそう。>自分(先生)がいなくなって、生徒同士にやらせるなど工夫していた。
・ゲストスピーカーと個々の「質疑応答」ではない場づくり
・「コミュニティ」が鍵。前に発言した人を受けながら発言する>自分が思ってることを他の人が言ってくれる感覚がある>安心して自分の意見が言える>見えてる未来が一緒の感覚

 

●本日参加しての感想、今後に向けての思い
・一緒に授業をつくりあげていく姿勢を少しずつ見せたい
・同じことを思っている人はたくさんいる、自分がやっていることが間違いではないと思えた
・未来の子どもたちに少しでもよい社会を渡したい。子どもの力を信じる!
・自分が疑問に思ったことは建設的に批判する、道が見えた
・一つひとつ声をあげていくことの大切さを会って話してみるとわかる。わきあがってくるものを顔を見ながら話せてよかった
・人をどうとらえた上で教育が設計されているか注視したい
・「日本から出ればいい」ではなく、自らが自らの社会を変える側になる
・思想ではなく行動になっているところに合流していきたい

 ●ファシリテーターのふりかえり

わたし個人の中に印象深く残っている話題は、「映画で語られていないこと。全体としては、資本主義経済を否定しているわけではない。その社会は続行する前提で作られてはいる」「学びの権利や人権と、国家の経済成長は、同時に語ることが難しいことがある。しかしやり方はあると思う。少なくとも100年前と同じではなく、変わらなくては」のあたり。

丹念に観ることで、語り合うことで、「語られていないこと」が見えてくる。批判的な鑑賞とはこういうものだな、とあらためて思う。

皆さんの言葉を聞いていると、High Tech Highの目指していること、意図、精神のようなものを深く読み取って、その上で、今自分がかかわっている人や現場で何ができるかや、大きな主語に対しても、個人としてどう批判的(Critical)に主体的に関わっていくかを考えておられているように感じた。一人ひとり立場が違い、いる場所も違う(海外からつないでくださっている方もいた)からこその、展開だったと思う。

対話の中でも出てきたが、成功(Success)という言葉に違和感をわたしも抱いた。制作者の意図とは違うかもしれないが、わたしとしては、「人が成長しやすい、伸びやすい」と言う意味で、「一番有力な成功方法(Most Likely To Succeed)」と言っているのではと解釈している。

この映画で編集され描かれていることも、High Tech Highの取り組みも、すべての人に当てはまる教育ではないという自覚と前提の上、行われている。エンディングでは、他の教育機関や現場での取り組みも紹介されている。

知らないだけで、オルタナティブな手段はたくさんある。それこそ、「これだけが唯一の道って本当?他にもあるんじゃない?」という姿勢で、アンテナを広げていきたい。

2020年以降の世界を予測したような内容でもあり、これからも何度も見直したい映画。そしてこのレポートもまた戻ってこられるものになっているとうれしい。

 

子どものためだけでなくわたし自身が、学びの選択肢はもっともっと増えてほしいと切に願うし、この社会の構成員である一市民として、これからも学びの選択肢を増やすことに貢献していきたい。

社会が大きく動いている今、過去と未来を見つめながら、異なる立場や意見を持ち寄って対話する場は、ますます必要とされている。

その際に、作品を通して対話し学ぶやり方がある。
作品を通して、集いをつくり、機会をつくり、関係をつくる。

わたし個人は、このようなやり方で学びの選択肢を広げ、鑑賞対話の場づくりの価値を伝えていきたい。

 

最後になりましたが、突然のイベント中止となり、あの形で準備や調整をして楽しみにしてくださった方にはほんとうに申し訳ありませんでした。

形を変えたシェアの場に来てくださった皆様、ありがとうございました。

 

教育はエンジニアリングよりガーデニングにずっと近い。あなたが庭師なら、植物に育てとは命令しない。植物は自分で育つ。

自分に力を与えるもの。好きで仕方のないこと。
押さえつけても湧き上がってくる。

---Sir Ken Robinson from "Most Likely To Succeed"

 

 

vimeo.com

 

経済産業省の研究会資料
FutureEduTokyo主宰/MLTSアンバサダー 竹中詠美さんのプレゼン資料 (PDF)

https://www.meti.go.jp/committee/kenkyukai/mirainokyositu/pdf/002_03_00.pdf

 

 

今後の予定

イヴァン・イリッチの『脱学校の社会』を1章ずつ読んでいく読書会を予定しています。詳細が決まったらこのブログまたはpeatixにてお知らせします。

 

 

 

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seikofunanokawa.com


初の著書(共著)発売中! 

 

〈お知らせ〉3/26(金) オンラインでゆるっと話そう『風の電話』

シネマ・チュプキ・タバタさんとコラボでひらく鑑賞対話の場〈ゆるっと話そう〉。

今月もオンラインでの開催です。
全国、全世界、インターネットのあるところなら、どこからでもご参加OK。
 

3月はこちらの作品! 

『風の電話 』(2020年/日本)

youtu.be

www.kazenodenwa.com

 

東日本大震災で家族を失った高校生、ハルが、故郷の岩手県大槌町へと“帰る”道中、様々な人々との出会いを通して、喪失を抱きしめ、生きる力を少しずつ取り戻していくロードムービー

大槌町に実在する「風の電話」をモチーフにした映像作品でもあります。

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あれから10年。そして2月の余震で再び揺るがされた日常。

今もまだ生きているわたしたちとして、ハルの旅を追いながら、湧き上がってきた思いを言葉にしてみませんか。当時日本にいなかった方も、震災ではないもので大切な人を亡くした方も、物語を経由するからこそ語れることがあるかもしれません。
 
津波の映像はありません。傷ついた心に優しく寄り添う映画です。
 
映画を観たみなさんの思い、聴かせてください。
ご参加お待ちしています!
 
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日 時:2021年3月26日(金)20:00〜21:00(開場19:45)
参加費:1,000円(予約時決済/JCB以外のカードがご利用頂けます)
対 象:映画『風の電話』を観た方。
オンライン会議システムZOOMで通話が可能な方。
    UDトークが必要な方は申し込み完了後、ご連絡ください。   
    Mail)cinema.chupki@gmail.com     
会 場:オンライン会議システムZOOM    
    当日のお部屋IDは、開催前日にお申し込みの方へメールでご連絡します
参加方法:予約制(定員9名)
※お子さん(高校生以下)とご一緒に参加の場合、1名でお申し込みください。
 
*前日時点で2名以上のお申し込みで開催します。
*「ゆるっと話そう」は、どこの劇場でご覧になった方も参加できますが、これから観る方はぜひ当館でご覧ください。日本で唯一のユニバーサルシアターであるシネマ・チュプキ・タバタを応援いただけたらうれしいです
 
 
映画の詳細・ご鑑賞についてはこちら
上映期間 3月15日(月)〜30日(火)14:40〜16:59<水曜休映>
 
 
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<これまでの開催>
※ブログで各回のレポートを読むことができます。
第19回 ウルフウォーカー
第18回 ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ
第17回 アリ地獄天国
第16回 彼の見つめる先に
第15回 なぜ君は総理大臣になれないのか
第14回 タゴール・ソングス
第13回 この世界の(さらにいくつもの)片隅に
第12回 プリズン・サークル
第11回 インディペンデントリビング
第10回 37セカンズ
第9回 トークバック 沈黙を破る女たち
第8回 人生をしまう時間(とき)
第7回 ディリリとパリの時間旅行
第6回 おいしい家族
第5回 教誨師
第4回 バグダッド・カフェ ニューディレクターズカット版
第3回 人生フルーツ
第2回 勝手にふるえてろ
第1回 沈没家族
 
 
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<主催・問い合わせ>
シネマ・チュプキ・タバタ
TEL・FAX 03-6240-8480(水曜休)
cinema.chupki@gmail.com

 

★メッセージ★

大槌町に実在する「風の電話」をモチーフにしたという宣伝でしたが、風の電話がずっと映画の真ん中に鎮座しているわけではない。故郷へ向かって"帰る"中でいろんな人と、自分の過去と、出会っていくロードムービーとして観た。

観終わって、時間が経ってようやく、「ああ、この風の電話を訪れる人、一人ひとりにこれだけの人生があり、それらの積み重ねるが3万人という数なのだ。今見たのはその一人の、またその中の断片......」と気づく。

自分自身のうしなった人、物、記憶への思いも重ねる時間だった。
涙に、手の温もりに、自分の命を感じる。

思いを持ち寄る、温かな場になることを願ってひらきます。

お申し込みお待ちしています。

 

 

▼ゆるっと話そうは、どんな場?

hitotobi.hatenadiary.jp

 

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展示『INSIDE/OUT 映像文化とLGBTQ+』@早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館 鑑賞記録

早稲田大学坪内逍遙記念演劇博物館(エンパク)で、『INSIDE/OUT 映像文化とLGBTQ+』を観てきた。

最初に言っておきたいのは、この貴重な展示が、入館料無料で観られるということ。
ありがとうございます。

www.waseda.jp

 

 

わたしがこの展示を観にいった動機は、テーマに関心があるから。そして、演劇博物館の企画への信頼があるから。知らなかったこと、見落としている何か大切なことを学べると思ったから。

 

当日に至るまでに、LGBTQ+のテーマでいくつかターニングポイントはあるが、今回特に関連するものは2つ。

一つは、ライター業をしている友人が執筆していた、こちらのウェブマガジンを読んできたこと。毎回1万字を超えるロングインタビュー。当事者の言葉。人間のセクシャリティにはこんなにもグラデーションがあり、ゆらぎがあるのか、という発見。カテゴライズしていくことの危うさと意味の無さを学んだように思う。人間という生物である自分についても、新しく知っていくような感覚を覚えた。同時に厳然と「男」「女」の二項で括られる社会の生きづらさも。

LGBTERは、「レズビアン」「ゲイ」「バイセクシュアル」「トランスジェンダー」など、様々なセクシュアルマイノリティや「ALLY」の方へのインタビューを通じ、「リアルな先輩情報」を発信するLGBTインタビューメディアサイトです。

lgbter.jp

 

もう一つは、『おっさんずラブ』を観て抱いた違和感。

非常に良い作品で、ドラマも映画も観て、とても好きな作品。ポッドキャストで3回も扱ったぐらい好きなのだが、どうにも違和感があったのは、性別の非対称性。

「これって"女性"同士でもこのぐらい社会的に受容されるのかな?」と思った。
自問自答するなら、「NO」。では、「なぜ?」

その答えが見つからないできた。ただ、「ここにはなんかある」という感触だけが残った。

 

 

展示の話に戻る。

去年の12月に行って、もう2ヶ月半ほど経ってしまったが、なかなか記録が書けないでいた。

書こうとすると、ジェンダーセクシャリティ、自分のアイデンティティをどこに拠って立つものとするのか、明らかにする必要が出てくるように感じていた。

また、わたしが他の人間をどのように見ているのか、態度を決めなければ進めないようにも思える。たとえ書かないまでも、要求されている作業というのか。

それが進まない。意外に進まない。

自分自身について、他者について、明確だと思っていたが、わからなくなってきた。たとえば人間同士で名前のつかない関係は無数にある。それを人に説明するために、あるいは何かしらの社会的立場の保持のために、便宜的に名前をつけてきたにすぎない。

映画『燃ゆる女の肖像』やNTLive『シラノ・ド・ベルジュラック』や『ハンサード』を観て、友人たちと話したことの中にも多くある。その内容自体は公に語りたいことではない。映像作品を通した対話でのみ、言葉になる何かが、間違いなくある。

だから、今回の展示が、映画とTVの映像文化に主眼を置いていることには、やはり意味があると思った。

 

観る側が揺るがされている体験は、この展示のキャッチコピーとして付記されている、

内から見るか、外から見るか、それとも_____

 にも関連するかもしれない。

外から見ていたと思っていたが、実は内だったのではないか。
内のように感じていて、実は自分は外から見ているだけではないのか。
そもそもどちらかの立場を取れるような種類のものなのだろうか。

「それとも」......何?

 

わたしは、既存の社会の仕組みを当たり前のように取り込んで生きてきたと思っていたが、今や桃の節句の雛飾りにも、「お内裏様とお雛様、男と女に二分されるということか......」と考え込んでしまう。ようやく気づいたというべきか。

こんなにも明確に存在があるのに、社会は無視し、辺境的なものや、題材として扱うのみで、仕組みに組み込もうとしてはこなかった。自分も加担してきたことへの後ろめたさのようなものがあるかもしれない。消費的に関わったことさえもある。

そして、気づいたのに、未だに変化が遅々として進まない多くの場、組織、環境がある。その中を言い訳をしながら生きざるを得ない。言い訳をしながら子どもに説明する。ダブルスタンダード

 

それなのに映像文化に触れるときだけ、「世の中もだいぶ変わってきたよね」と訳知り顔で発言するする自分もいる。そんな両面の自分の姿が、展示を見る中で暴露されているようで、居心地が悪かったのかもしれない。

映像文化が世の中の変化を作っていることを信じていると同時に、これほど強固に性別二項で設計された人間社会のシステムが抜本的に変更される未来など、本当にありえるのか?という疑念もある。

もちろん変更されてほしいが、今でさえ女性の人権を無視するかのような選択的夫婦別姓の導入、緊急避妊薬の薬局販売、不同意性交等罪の創設、生理用品の軽減税率の導入も、進まない現状を見ていると、しばしば絶望的な気分になる。

「それとも」。

クィアな視点で語り続けていくことによって、あらゆる市民の人権が守られていく社会への願いもある。

 

今回の展示は答えではなく、再考するきっかけを提示しているのだ。

これまでの映像作品は、どのように社会の写し絵となってきたのか。
人々の意識をほんとうに変えてきたのか。

今ここから、クィアな視点で社会を再考し再検討していった先に、どのような未来があるのか。

 

展覧会チラシより。


内から見るか、外から見るか、それとも──。
性の視点から映画やテレビドラマの歴史を紐解くと、目の前に広がるのは男女の恋愛物語だけではありません。そこには同性同士の恋愛や情愛、女らしさ/男らしさの「普通」に対する異議申し立て、名前のない関係性などを描いた物語が存在します。
2010年代には、「LGBTブーム」を契機にLGBTQ+の人々を描く映像作品が次々と製作され、性について、また「普通とは何か?」について考える機会が増えました。本展では、戦後から2020年初めまでの映画とテレビドラマを主な対象に多様なLGBTQ+表象に着目し、製作ノート、パンフレット、スチル写真、台本、映像などの多彩な資料とともに歴史を振り返ります。
いまを生きる私たちが一度立ち止まり、過去の物語と現在を繋ぎ合わせることで、様々な性や人間関係のあり方を尊重する、映像文化の魅力を改めて認識する機会となる事を願います。


LGBTQ+とは

LGBTとは、レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシャル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字からなる性的マイノリティの総称として、使われてきました。本展では、LGBTに含まれない性のあり方を示すために、自身の性のあり方を(まだ)決めていないクエスチョニング(Questioning)と、社会の想定する「普通」には含まれない性のあり方を生きる人を指すクィアQueer)の「Q」に加え、他の様々な性の多様性を含む「+」をつけ、より幅広い性のあり方を考えます。

 

展覧会の英語のタイトルは、

Inside/Out: LGBTQ+ Representation in Film and Television

となっている。
Representationとは「表象」。「映画とTVにおける表象」がタイトル。

表象とは何か。

これもまたひと言で説明しにくい言葉だ。

しかし展覧会では、そんなことはお構いなしに、鑑賞者が知っている前提で進んでいくので、無我夢中で食らいついていくしかない。(いや、あるいはあえて説明せず、展覧会全体の鑑賞を通して知らしめるという意図なのか)

 

表象の問題は、近年、広告の炎上案件の文脈で目にするようになってきた。

gendai.ismedia.jp

こちらは「表象」という言葉は使ってはいないが、内容はそれに当たると考えられる。

bijutsutecho.com

 

端的な解説を見つけた。

ハワイ人とキリスト教:文化と信仰の民族誌学(14)「表象と言説」/天理大学 国際学部地域文化研究センター准教授 井上明洋

(PDF)https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000gd7n9-att/q3tncs00000gd7vj.pdf

「表象」とは、「何か」を用いて「あるモノ(対象)」を表すことである。用いられる「何か」は絵画や映画といった視覚的なイメージでも良いし、文学や活字メディアなどの言語的表現手段でも良く、また音楽などの聴覚的表現手段でも良い。一方、表される「モノ」は、具体的なものから抽象的なものまで様々であって、さらに言えば、それらの「モノ」が実在するものなのかどうかはそれほど重要ではない。

(中略)

「表象」という言葉が用いられる時、単なるシンボルや記号とは異なり、「誰」が「何」を表象しているのかということが、しばしば重要な問題となってくる。(中略)「表象」によって「あるモノ(対象)」に意味が生成するのだが、「表象」する側が、どの位置からどのような角度で対象に対して視線を投げかけているのかということが、生成する意味に対して視線を投げかけているのかということが、生成する意味に大きな影響を及ぼしているのである。
(本文P.9より引用)

 

「誰が何を表象しているのか」

まさにこれは鑑賞において、欠くことのできない視点。

どのように見て、解釈するかは自由。ただ、誰がどのような意図で作ったかという奥に隠されたものまで、対話を通じて読み取っていくことが重要。

軽視されることによって見えなくするもの、存在しなかったとされるもの、可視化することで見えなくしてしまった存在に目を凝らす訓練でもある。

あるいはどんな社会規範や社会通念が強化されたのか。

対話に意味や価値があるのは、まさにその自分からは死角になっている領域に光を当ててくれる人が現れるからだ。異なる背景、異なる当事者性。それによって自分が生かされていると言える。

 

 

展示の中で指摘されていることは、わたしの『おっさんずラブ』で抱いた問題意識とも近い。

いくつかの作品を除けば、その大部分がゲイ男性の表象に集中しており、表象のアンバランスがなぜ起こるかについて考える必要があるだろう。また、性的マイノリティを描く作品を作るために作家の性的指向は問われないが、カミングアウトしている作家が少ない現状も見過ごすことはできない。(図録p.41 第5章 ゼロ年代以降の国内メディアとLGBTQ+)

 

展示を通じて問われていたことは、今のわたしにはまだ読み解けないものが多い。ただ、「表象」や「クィア」というキーワードで、ここからの社会、この時代に生まれた映像作品を批判的な眼差しを向けていくことはできると思った。

また、セクシャリティや関係性を表す言葉は、人間の規定にもつながり、尊厳を傷つけることも起こる。非常に繊細なものとして、使い方に敏感でいたいとも思う。

わからないものへの不安があることを知りながら、あえて名前をつけずにただあるがままに接するというレッスンをもっともっとしていきなさいよ、ということではないかな。

対話のために便宜的に共有できる言葉を使ったとしても、定義を確認しながら、そして振り回されず。しかし知ろうとし続け、使われ方を批判的に見ていく。そのような態度でいたい。

 

 

展示からは「反省」という言葉がしばしば見られるのも、印象に残っている。

不可視化の歴史を発掘する試みは、博物館や美術館においても近年実践されており、マジョリティを権威化する規範を軸としたキュレーションの歴史を反省誌、マイノリティの歴史、記憶、表象を尊重する展示やアーカイブへの転換が目指されている。(図録 p.6 展覧会趣旨)


成人映画が女性を性的に搾取してきた側面に対する反省と批判は産業史的観点から検証される必要はあるが、(p.25 日活ロマンポルノと薔薇族映画にみる性のカタチ)

ここはまだようやく気づき始めたところ、声を上げ始めたばかり。

痛みも噴出し、罪悪感に塗れる。それでも過去の歴史を問い直し、新しく作るときには反省を生かす、不断の努力の積み重ねによってしか、成せないものがある。一過性のムーブメントでは終わらせない覚悟も然り。

しかもそれに評価を下すのは、今のわたしたちではなく、後世の人々だろう。

今のわたしたちが過去の歴史を検証し、評価を下しているのと同様に。

 

 

図録は展示物の一部の図版はもちろん、一度読んだだけでは咀嚼できなかった各章の問題提起、専門家による論考、さらには年表、参考文献、展示リストまで収録されており、充実の内容となっている。

会期中に完売となっていたが、エンパクの図書室では閲覧ができると思う。興味のある方は、施設に確認してみてほしい。

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図録の代わりにはならないが、もう少し詳しい概要はこちらで読める。担当学芸員さんによる紹介。

yab.yomiuri.co.jp

 

 

観たい映画や映像作品が一気に増えた展示でもあった。

3階の常設展示がリニューアルでさらに充実していた。無料で配布している演劇史をまとめた資料は、保存版といってよいほどのクオリティなので、入手をおすすめする。わたしは演劇史について調べたいときは真っ先に参照している。

同時開催していた『三国志風雲児たち』展も、小さいスペースながらもよかった。台湾布袋戯の関羽の展示には、映画『台湾、街かどの人形劇』が蘇った。

 

行った日はクリスマス・イブ。
エンパクの建物にクリスマスツリーがよく似合っていた。

  

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おまけで、関連記事。

もしかすると偏りは、日本における「男色文学」の歴史の影響なのだろうか。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

エンパクでの過去の展示。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

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映画『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』鑑賞記録

3月の映画の日。『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』を観てきた。

2020年11月公開の作品。

cyranoniaitai.com

 

シラノ・ド・ベルジュラック』は、世界中で愛されている舞台劇の一つ。17世紀に実在したフランスの剣豪作家シラノ・ド・ベルジュラックをモチーフに、劇作家のエドモン・ロスタンが制作。初演は1897年、ベル・エポック時代のパリで大成功を収めた。

シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』はエドモンを主人公に、大傑作が生まれる舞台裏がいかにトラブルの連続だったかを脚色も交えながら、その初演舞台までの日々と本番を愉快で痛快、爽快な物語に仕立てた作品。

監督は、俳優、劇作家、演出家でもあるアレクシス・ミシャリク。『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)を観て、「なぜフランスではこういう映画が作られていないのか不思議に思った」のだそう。

原題は『Edmond』。フランスで「エドモン」と聞けば、エドモン・ロスタンが共通理解とてありそう。あるいは、エドモン・ダンテス(モンテ・クリスト伯)。

 

 

わたしにとっての『シラノ』は、1990年のジェラール・ドパリュデューの映画が初めての出会い。内容は.......ほとんど覚えていない。

去年の12月にNTライブで観て、実に30年ぶりに再会。こんなに奥深い映画だったのか!と驚嘆した。

hitotobi.hatenadiary.jp


今読み返すとこの感想、何も役に立つことが書いてませんね......(汗)。

この舞台の斬新さはいろいろあるんですが、そもそも「付け鼻のシラノ」ではないんですよ。 シラノは元々の戯曲の設定では、「醜男」で「大きな鼻」を人から嗤われ、コンプレックスを抱えているという役柄です。ジェラール・ドパリュデューも映画で付け鼻でした。でも、NTライブで演じたジェームズ・マカヴォイは、まぁ平たく言うと「美男」。

「あれ、醜男じゃないどころか、めっちゃ美男やん、全然鼻も普通やん」と観客が思っちゃうところが既に罠にかかっていると言いましょうか。「わたしルッキズム入ってる?」と居心地悪くさせられるんですね。おそろしいお芝居!

クリスチャンにしても、「美男だけど詩心も教養もない」というのも、それはロクサーヌやシラノとの関係においてだけそうなるもので、クリスチャン自身が「劣っている人」という証明にはならない。

結局のところ「コンプレックス」というのは、ある文化圏の狭い範囲の中での他人との比較の中で発生するものであり、ここから自由になるには、「自分がつくりあげた牢獄」から自力で脱出を試みるしかない。

そういう話だったのかと、ようやく2ヶ月ちょっとして言葉になった。ふぅ。

 

はい、そこへきて、映画ですね、映画、映画。封切り時にはノーチェックだったのだけれど、NTライブを観て熱いところだったので、ツイッターでふと流れてきたときにパッとキャッチしたのでした。

トレーラーを観て、「コメディなんだろうなぁ。楽しい気分になりたいし、ちょうどいいな。ドタバタしてるだけで実があまりなかったらどうしよう......」という勝手なイメージを持っていました。

 

しかし!いやはや!これは!!

よかった。すごくよかった。

 

とても映画らしい映画!

映画ってほんとうにいいものだなぁ〜と幸せな気持ちにさせてくれる、極上のエンターテインメント。

 

歴史、伝記モノへのイメージが変わった。

作りがやはりちゃんと「今」っぽい。「これは昔の話を再現しているんだ」と頭で修正してあげなくていい。今起こっていることとして観客がわくわくできる。

人種差別や格差、社会階級なども描いているからでしょうか。

脚色を施すけれど、考証はあくまでも細かい。でもお勉強にならずにちゃんとエンタメ。それでいて歴史への理解が深まるし、もっと知りたいという余地も残してくれる。

NHK大河ドラマ「いだてん」が近いかな? 

 

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その他の感想バラバラと。

・モノをつくる過程や、あらゆる発明発見は、誰かの何気ない一言や偶然の出来事が元だったりする、あの着想の瞬間、化学反応(ボン!)のわくわくがある。脚色もあるだろうけど、時に現実は想像を超えた偶然を起こすから、嘘とも言いきれない。

サラ・ベルナールアントン・チェーホフが登場するベル・エポック時代の雰囲気は、『ディリリとパリの時間旅行』や、松濤美術館のサラ・ベルナール展の記憶も次々に立ち上がり、終いにはももクロの『幕が上がる』(2015)も!サラ・ベルナールはここでもやはり「ぶっ飛んでる人」として描かれる。

・詩人には即興力が必要!詩を繰り出していくシーンは小気味良い。

・19世紀終わりに「詩劇は時代遅れ」と評された。早稲田大学坪内逍遥博士記念演劇博物館でもらった資料によれば、この頃は【近代自然主義演劇】が盛んだった。1873年エミール・ゾラが『テレーズ・ラカン』を発表、1879年ヘンリック・イプセンが『人形の家』などの社会劇を執筆。"劇の主人公は王や英雄ではなく市民となり、リアルな心理描写と舞台表象によって現実を再現しました。テーマを鮮明にするために全要素の統一を行う者が演出家として立つようになり、コンスタンチン・スタニスラフスキーアンドレ・アントワーヌ、ゴードン・クレイらが活躍しました"とある。もちろんチェーホフも。(ちなみにこのあと、第一次世界大戦を経て、ブレヒトによる不条理劇が出てくる。なるほどー)

・活動写真が登場する。エドモンが街を歩いていて、活動小屋で観ているのは、リュミエール兄弟の『工場の出口』。「みんな活動写真を観るようになって、演劇は廃れるのでは」と言うエドモン。
そういう時期もあったかもしれないけれど、『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!』は映画制作の資金調達が困難で、まずは演劇でやってみた。そして当たったので映画化したという背景を持つ映画。『戦火の馬』も『フリーバッグ』も演劇の舞台から話題になったもの。「今はタッグを組んでやっているよー!」とお知らせしたくなった。

・「ムーラン・ルージュの中って初めて入った!ああなってたんだ!フレンチカンカンの当時の本物を初めて観た!」と興奮してしまった。「ロートレックの絵のまんまだー!」「娼館てこんなとこか」......。これは再現、フィクションだとわかっているのだけど、今そこで観ているような気分になる映画。技術がすごいのだと思う。カメラワークも凝っている。

エドモンがジャンヌをロクサーヌに見立てたことで、すったもんだする関係。「執筆や作曲する男に必要なのは願望だ。願望が満たされると筆は止まる」これって勝手だなーと思うけど、わかる。いや、でも、芸のためならなんでもやるのいいの?それが男を許しすぎてきたんじゃないの?いや、でも女にもあるよね。性別じゃないよね。うーん。。ここ複雑。さらに、「才能を疑い、崇拝しなくなったから愛せない(自分の才能を信じ、崇拝してくれるから愛せる)」ということってあるの?あるかも......心当たりのようなものが......など、「シラノ」の本筋と同じく、人間の性(さが)を突きつけてくる!入れ子式に楽しめるところが、監督のストーリーテラーとしての手腕なんだろうなぁ。

 

・幕が上がる前の主演俳優同士のやり取りにぐっときた。ここは大事なところなので書かない。ぜひ映画を観て確認していただきたい。「こうやって125年近く後になっても、この作品は残っているよ!」とこの日のこの人たちに言いに行きたくなる。

 

・エンドロールが終わるまで心憎い演出が続く。ぜひ最後までじっくり観てほしい!

 

そうだ、大事なことを言い忘れていた。大事なので赤にしておこう。

どこかで『シラノ・ド・ベルジュラック』の舞台を一度観てから、この映画を観るのがやっぱり順番としていいと思う。そのほうがより楽しめる。

 

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劇場は下高井戸シネマ

前々からこの駅前に映画館があるのは知っていたが、訪れたことはなく。マンションの2階。客層も他ではあまりない感じ。

25年ぐらい前、わたしが出入りしていた頃の京都みなみ会館の雰囲気を思い出す。

見逃した映画を拾いにまた行きたい。

 

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漫画『ふしぎの国のバード』読書記録

ずっと読みたかった漫画『ふしぎの国のバード』を読んでいる。 

 

概要

19世紀から20世紀初めにかけて世界各地を訪れた実在のイギリス人女性冒険家イザベラ・バードの著書『日本奥地紀行』を下敷きに、主人公のイザベラ・バードが通訳ガイドの日本人男性・伊藤鶴吉と共に、横浜から蝦夷地へと旅する姿と、旅先で出会った明治初期の日本の文化や人々をフィクションを交えて描く。

本作は原典と同様に英国本国にいる妹・ヘンリエッタへ宛てた手紙という形で物語が進行している。また、日本語を理解できないバードの視点に立って描かれており、日本語による会話は吹き出し内にくずし字様のぼかされた文様で表現されている。(WIkipediaより)

 

 意外にもコミック本体のどこにも、イザベラ・バードが実在の人物で、この漫画が彼女の著書『日本奥地紀行』を下敷きにしていることが書かれていない。人によっては、フィクションとして読む人もいるかも。

 

バードの『日本奥地紀行』を知ったのは、宮本常一の著書を読んだことがきっかけ。 


2013年に東京大学駒場キャンパスへ、バード関連の展示を観に行ったときの記録が残っていた。書いておいてくれてありがとう、わたし!この展示とても良かったので、今観に行きたい(無理ですがー)

uyography.blogspot.com

 

その後、2015年にこの漫画が出たのを知ったときにすぐに読みたい!と思ったのに、ぐずぐずしているうちに6年も経ってしまった。

2018年にはバイリンガル版というのも出たらしい。いいですね、合う。

ddnavi.com

 

 

久しぶりに漫画という形で『日本奥地紀行』に出会い直してみて、驚くことが多かった。

・バードが日本国内で旅を始めたのが1878年明治11年、この頃の日本がどのようだったか。とりわけ歴史に記録が残らない地域の人々の暮らしが見える。非常に勤勉であるにも関わらず、驚くほど貧しい。多くの集落に医者はいない。衛生や予防に関する知識も乏しい。迷信やまじないが当たり前に日常にある時代。

・日本という島国に暮らしてきた人々の文化風習、メンタリティが、全く異なる場所からきた言葉も通じない他所者のフィルターを通して観察されていく。

・バードは日本語を解さないので、日本人の話していることは読者にはわからない。バードと伊藤の英語の会話が日本語で綴られる。この表現を考えたのはすごい、おもしろい。読者をバード側、異国人の視点にグッと引き込む仕掛けになっている。

・19世紀末当時の西欧の女性の社会的立場、公的な場所での振る舞い、特に男性との関係の中で求められるものなどがよくわかる。例えば、「女性は人前でくるぶしを見せてはいけない」とか。

・「この国の人達は並外れた子ども好き(3巻)」だけれども、「この国では大人達からこの上なく大切にされる 幸福な時代はあまりにも早く終わりを迎え まだあどけない子供に 様々な人生の重責が課せられていくことになります(1巻)」どちらもそんな日本があったのか!という驚き。今日本で子どもが手放しに可愛がられているとは全く実感できない。少なくともわたしの子育ての中ではそう。台湾、香港、東南アジアなどの国々に子連れで行った時に親切にされた話などはよく聞く。自分のルーツを見ているはずなのに、とても遠い国の話のように思われる。理解できるものもある。不思議な感覚。

・都市部で洋装の男性を見たバードのセリフ、「この国の男性は和装姿の方が堂々として見える(4巻)」これは東京国立博物館の着物展の記録でも書いたが、民族衣装というのは、その国の民族を最も美しく見せる装い。でも開国し、明治になり、西洋に追いつこうと、日本は自国の文化を一旦捨てた。

・その渦中にあることが端々から伝わってくる。例えば4巻の場面。丁髷は都市部では禁止されており、逆らおうとする者が警官に連行されそうになるシーンがある。伊藤のセリフ、「バードさん、この国が西洋化を進めているのは 世界に文明国として認めてもらうためです。霊液云々(注;迷信を使った脅しをした場面)はあくまで人々を納得させるための方便出会って 実際は西洋諸国と対等な関係を結ぶために 必死に過去のものを捨てようとしているのに 西洋人であるバードさんにそれをとやかく言われれば 腹が立つのも当然ですよ」。映画『ムヒカ』でゆるっと話そうの中で、明治維新の時に西洋の文化が入ってきた時に、どれほどのショックがあったのだろうか、という感想が出たのを思い出した。漫画を読みながらまさにその心情が補完される思いだった。

・同じく4巻。バードのモノローグ、「伊藤は西洋人に反感をもちながら西洋化を誇り 迷信を嫌いつつ霊媒シャーマニズム)を信じる不思議な若者です」。伊藤を通して知る、当時の日本人、特に都市部で生まれ育ち、西洋化を肌で感じている人、の葛藤がストレートに伝わってくる。脚色はあるにせよ、的外れ感は全くない。想像を助けてくれる。

・また5巻では、わたしが8年前にブログの最後に書いていた「女性としての生きづらさ」に触れている。まだイギリスにいた頃のバードの回想シーンが、ジョン・ビショップ医師との会話、「これは近年、この国の多くの女性が共通して抱える症状なんです。知性と好奇心が豊かな女性ほど とりわけかかりやすい。本来の能力を発揮したいのに、我慢を強いられ、それにより神経が衰弱し、背中の痛みが増長されている」。そう言ってビショップ医師は、バードに長期の一人旅を勧める。このくだりを読んで真っ先に思い浮かべたのが、ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)、或いはカミーユ・クローデル1864年-1943年)。いえ、関係あるかはわからないけれど、非常に腑に落ちる説明ではある。

・そしてこれまたわたしのブログの最後に書いた、冒険への情熱の理由も語られていた。「危険を冒さなければ出会えないものがあるの。人は皆当たり前の日常なんて気にも留めずに過ごすものよ。それがたとえやがて滅びる運命だとしても。ただひとり旅人だけが奥地に眠るふしぎな日常を記録に残すことができる。ありのままの文明を国を超えて時を超えて 人類共通の財産にする。それがわたしの冒険家としての使命よ、伊藤」

 

いやはや、出会い直せた!理解した!繋がった!

  

バードが日本に探検に来たのは46歳の時だったそう。漫画の中ではもっと若く描かれているところにややチリッとするものはあるが、漫画化してくださって、とてもありがたい。

日本は明治で大きく変わった。変わってしまった。

中世と現代をつなぐ近代の大きな転換の時代。
ここを知れば知るほど、今の社会を読み解くことができる。
この先に進むべき道を照らしてくれる。
明治がおもしろい。樋口一葉で出会い直した明治。もっと探究していきたい。

バードにも、あの時代に、遠い異国を訪ねてくれてありがとう、記録を残してくれてありがとう、とあらためて言いたい。

 

関連記事

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展示『石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』展 東京都現代美術館 鑑賞記録

2020年12月末、東京都現代美術館で開催の石岡瑛子展に行ってきた。

 

石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか』

www.mot-art-museum.jp

 

よかった……。

創ることの圧倒的なパワーと勇気をもらって帰ってきた。

もうそれしか言うことがない。

 

ちょっと目新しいぐらいじゃダメで、1976年のパルコの広告が、2020年の今、ようやく違和感なく見えるぐらい先進的じゃなくちゃ意味がない。

あの時代にそれをやっていた人がいたという驚愕。

コンピュータやインターネットがない、ということをいちいち思い出さなくちゃいけない。

 

個人的には、オペラ『ニーベルングの指輪』の衣装がグッときた。あの点数!

 

会場に降ってくる石岡さんの声が喝を入れ続けてくれた。

どの部屋にも流れ続けていたし、インパクトのある声と語りなので、いつでも脳内再生できる。
文字起こしはこちらに公開してくださっている。

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/EIKO_interview_PC.pdf

 

 

展覧会を担当した学芸員さんのツイート。これが見所のすべてを物語っている。

 

学芸員さんへのインタビュー。これも必読。

www.fashionsnap.com

 

トークセッション。必見。

youtu.be

 

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一緒に観に行った友人としばし感想を交わす。大事なことはほとんどここで昇華&循環させてしまったので、思い出せない。でも語ったからこそ確実に血肉になっている。

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観に行く少し前に、石岡瑛子✖️ターセム・シンのタッグで制作した映画『落下の王国』の放映が地上波であった。これに使われた衣装の展示もあって、いい予習になった。日テレさんありがとう!

cinemore.jp

 

rakukatsu.jp

 

勢いで買ったが、まだ読めていない。
すごいボリュームなんです。576ページ。天才を語るには言葉が必要だ。

『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』河尻 亨一 /著(朝日新聞出版) 

 

石岡さんの言葉を探していて見つけた。 

www2.nhk.or.jp

 

昨年は三島由紀夫没後50年だったので、石岡展で三島が登場するのもタイムリーだった。

 

日本では公開されなかった"Mishima: A Life in Four Chapters" パッケージもカッコいい。

www.amazon.com

 

芸術新潮』2020年12月号(特集:没後50年21世紀のための三島由紀夫入門)


写真、年表、文学考察と一つの展覧会を訪ねたような充実。三島について、まだ理解には程遠いけれど、以前よりは少し取っ掛かりができた。

石岡展とベジャール のバレエ作品『M』をオンライン視聴したことが後押ししてくれた。

映画『三島VS全共闘』は見逃した。

 

いくつもの時代を経て再考、再評価される才能のオンパレード!

 

 

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すみだ北斎美術館 常設展 鑑賞記録

墨田区にある、すみだ北斎美術館に行ってきた。

https://hokusai-museum.jp/

両国の書店に本の営業に行くところで、そういえばまだ行ったことがなかったなと思い出して、立ち寄ってみた。

去年の太田記念美術館の展示や、川崎浮世絵ギャラリーの月岡芳年展東京都美術館の大浮世絵展などのおかげで、最近浮世絵にも親しんでおり、ようやく「北斎、行ってみようか!」という気持ちになったところでもあった。

 

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ちょうど企画展の端境期だったので、常設展をじっくり観るよい機会、とも思った。

常設展の部屋は思ったよりもコンパクトで、正直拍子抜けしたけれど、丁寧に観ていくと情報としてはかなり充実している。

 

北斎という人、あまりに有名すぎて実は知らないことばかりだった。

貸本屋で働き、版木彫りの仕事などを経て、人気イラストレーターとして挿絵、肉筆画などを手掛けていたが、35歳〜45歳の間に所属していた江戸琳派から抜け、独立。

45歳ごろに葛飾北斎の画号を名乗り出す。この頃が、最晩年につぐ制作点数であったそう。

53歳〜70歳の時期には、絵手本『北斎漫画』などの図案集を多く出す。

71〜73歳でかの有名な富嶽三十六景を発表。今一番知られている北斎の画業はこの辺りか。

75〜90歳で没するまでは、風俗画、宗教画、絵手本などに精を出したそう。

公式ウェブサイトにも詳しく載っている。

https://hokusai-museum.jp/modules/Page/pages/view/402

 

 

 

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北斎のような著名な作家の生涯を追っていくと、何度も画風の転換があり、ターニングポイントとなる出来事があり、代表作が生まれる経緯があり、後進の育成がある。

40歳や45歳ぐらいでようやくやりたいことができるようになってきた、という作家も多い。そういうところに、知らず自分自身の人生を重ねてしまう。

わたしだってここからだ!!と勝手に勇気をもらうような。

 

この再現人形よかった。北斎と応為。

屑だらけの部屋で黙々と描いていたらしい。布団をかぶって描いてたんか。布団の中で、スマホで小説書いてる作家の話を思い出した。

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たっぷり時間をつくって企画展と常設展をガッツリ観るのもいいけれど、フラッと入って常設だけ観るのもいいなぁと思った日であった。

 

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映画『燃ゆる女の肖像』鑑賞記録

2021年1月。映画『燃ゆる女の肖像』を観てきた。

gaga.ne.jp

 

先に観た友人の感想を聞いていたら、今観なあかんかも、という気持ちになって、「レディース・デイ」に鑑賞。

この「女性」が特別料金の日があるシステムもそろそろ変わっていくのかねぇ、とも話した。

 

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ここのところ、何を観ても素晴らしい作品ばかりで、常に更新される新しい表現に唸らされてばかりなのだけれど、こちらも例外ではなかった。


音が印象的だった。
まるで耳で観ているような錯覚を起こす。

キャンバスを走る木炭や筆、衣擦れ、砂浜、グラス、はぜる薪、波に叩きつける波、溜め息、笑顔や涙さえも耳から視える。

映像も美しい。絵画を見続けているような感覚。

詩とサンクチュアリ。炎と鏡。
旋律のあるものは最小限。

 

マリアンヌとエロイーズとソフィーが3人でいるところのシーンがとてもいい。
対等で、親密で、平和。心地良い。

自分の選択できること、自分の力が及ぶ範囲が極端に制限されている人生の中で、それでもささやかな自由と表現と開放の喜びが伝わってくる。

静かさと熱さ。

 

インタビューを読むと、この繊細な表現のために、美学の共有と多くの創意工夫があったことがわかる。

 

セリーヌ・シアマ監督へのインタビュー

www.moviecollection.jp

 

アリアンヌ役:ノエミ・メルランへのインタビュー

www.neol.jp

 

エロイーズ役:アデル・エネルへのインタビュー

fansvoice.jp

 

また、作中において衝撃を覚えた中絶の扱いについては、この評が参考になった。

 

オフィシャル・トレイラー

そういえばビスタサイズの映画って珍しい。そのあたりにも"古さ"のようなものが出ていたのだろうか。計算し尽くされていて、考証も丁寧なのだろうと推察。

youtu.be

 

日本版トレイラーのイメージだけで敬遠している人がいるとすれば、それは非常に勿体ない。今や「女性」や恋愛の表現はどんどん変わっている。宣伝のセンスが旧くて、中身の革新性とのギャップが目立つようになってきた。観てみればわかるのだけど。

少なくともこの映画に関して、ステレオタイプやどこかで見たような焼き直し感は一切ない。

過剰なドラマ性や背景説明を一切排して、会話と振る舞いだけで淡々と進行していく画面。

可哀想でもなく、逞しいでもなく、ただそこに生きる人たちがいる。
だから、移入できる。

登場人物が盛られていないし、決めつけられてもいない。

観客も見方を誘導されない。

削ぎ落とされて簡素だからこそ心が動く。
映画とわたしたちの関係もフラットで、敬意があり、信頼がある。共有しているものがある。

映画は進化し続けている。
「女性」の性と生、今はこのように描けるようになってきたのか、と感じる。

海外のソースにも当たりながら、信頼できる「鑑賞仲間」のレビューを聞かせてもらいながら、良作を見つけていきたいと思う。

時代の流れを読んで、作品を世に提示し続ける表現者たちに拍手喝采

 

パンフレットも素敵。題字が筆書き風なのもいい。

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ここからは、さらに個人的な覚書として。

映画から展開できることとして、女性の画家についての歴史的背景、「見る」ー「見られる」の関係ミューズというキーワードがある。

これらの点について知るには、『シモーヌ vol.2 メアリー・カサット』が非常に参考になる。

「19世紀後半から20世紀初頭にかけて印象派の画家として活躍したメアリー・カサットを取り上げながら、芸術分野での男女平等は実現されたのだろうか」という問いを投げかける特集となっている。

 

アメリカの美術史家リンダ・ノックリンが「なぜ女性の大芸術家は現れないのか?」という論文を発表してから来年で半世紀が経とうとしている。

カサットが没してからも90年以上の時が経った。この間、芸術分野での男女平等は実現されたのだろうか。女性の美術史家は、男性の美術史家と同じように評価され、同じような就職の機会をほんとうに得られているのだろうか。展覧会に出品するアーティストや美術館に所蔵される作品には男女の偏りがないだろうか。女性アーティストの作品が、「女性ならではの感性」などと短絡的に評価されることはもうなくなっただろうか。

メアリー・カサットについて考えることは、これらすべての今日でもアクチュアルな問題について考えることとつながっている。(p.25より引用)

この映画の舞台はメアリー・カサットよりもさらに前の時代なので、マリアンヌにとってどれだけ限定的な中での画業であったかや、当時の女性たちがどんな社会的立場に置かれていたかを想像する手がかりになる。

また、別の映画だが、『ストーリー・オブ・マイライフ』の中で四女のエイミーがパリに絵の勉強に来るが、画家としてのキャリアを断念するくだりがある。その背景を知るにもよいと思う。

 

この本に関連したイベントに参加して、非常に驚きだったことがいくつかあった。

ブルジョワ階級の女性たちは、一人で目的もなく出歩くことは許されなかった、常に誰かが付き添った。

・女性が「見る」=はしたないこと、女性が「見られる」=タブーまたは美徳、という社会通念があった。

・労働者階級の女性は、常に「見られる」対象となる。踊り子や娼婦など。

・女性が「見る」という主体的な行為はいずれの階級にも想定されていない。それでいて自らは男性から窃視的な眼差しを向けられる。

・扇は「見られる」から身を守るための重要な小道具だった。

・女性にとって劇場は「見る」行為が可能な、数少ない公的な空間だった。

・これらの点を踏まえると、カサットの『桟敷席にて』は、"オペラグラスで一心に舞台を見つめる女性。向こうの客席から身をのりだすようにこちらを見ている男性。そして、その場面を眺める私たちの視線。三つの視線が交錯するスリリングな画面構成のなかで、男性に見られる存在である女性が、見る主体として堂々と描かれており、カサットの革新的な女性像の表現への意欲を伺うことができる"SPICE "『メアリー・カサット展』何が見どころなの?鑑賞前におさえておきたい3つのポイント"より)  

・表象とは、それを見たいと考える者の欲望の投影である。意図がある。しかし、テキストを読むトレーニングは学校教育の中で膨大に行うが、イメージを読むことは教わらないことが多い。鑑賞教育が貧困なのは課題。

 

さて、どうでしょう。

一度ご覧になった方は、これを知ると、また『燃ゆる女の肖像』の見え方が変わってきそうではないですか? 


また、最近読み始めたこちらの本も、『燃ゆる女の肖像』のおかげで、よりリアリティをもって受け取れそうな予感がしている。

『才女の運命 男たちの名声の陰で』インゲ・シュテファン/著, 松永美穂 /翻訳(フィルムアート社)

 

こちらの本たちも、同じ線上にある気がしている。 

  

 

 

 

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展示「渦巻く智恵 未来の民具 しめかざり」展@生活工房 鑑賞記録

門松やしめ飾りが売り出される年の瀬に、しめ飾りの展示を観てきた。最終日ギリギリの駆け込み。

www.setagaya-ldc.net

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しめかざりを探して訪ね歩いている方がいるというのは、以前、この本で見て知っていた。

『しめかざり—新年の願いを結ぶかたち』森須磨子/著(工作舎) 

 

しめかざりの種類が地域によってこれほど違い、こんなにも美しいことに驚いた。

当たり前に視界に入っているけれど、そういえばこれって何なのか、あまり深く考えたことがなかった。さらに民俗学の研究者ではない立場で、コツコツ収集されているのがユニークだと思っていた。

 

こちらの広報誌を以前からいろんなところで見ていて、生活工房という場所があるのは知っていた。今回初めての訪問。

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今回の展示では、森さんが20年以上かけて収集された、しめかざりコレクションの中から、約100点のしめかざりの実物と、1000点以上の写真がお披露目とあって、楽しみにして行った。

 

いやはや、すごかった。すごくよかった。
とにかくしめかざりが美しい。

祈りや願いの象徴としてのしめかざり。独特の造形。
年末の忙しいときであっても、手を動かし、形にする作業には意味がある。

受け継がれるもの。魂。

いくつかの地域でのしめかざり作りについてのポスター展示やビデオ展示も興味深かった。上部の飾りが取っ払われた素の姿には、人が思いを込めた痕跡を感じる。

地域によって、田んぼの一区画に、しめかざりに使う専用のイネを育てているところもあると聞いた。

実家のあたりの地名を見つけたが、見たこともない造形をしていた。
自分のルーツだと思っている場所にも、まだまだ知らないことが多い。

 

豊かな時代も数十年はあったものの、今の時代はまた、五穀豊穣や家内安全、無病息災への願いが切実さを持ってきたように感じる。

帰り道はやはり自然と門松や玄関のしめ飾りが目につく。

わたしも今年はお飾りつくって、トシガミ様をお招きしようと自作してみた。いつもは買って済ませるのだけれど、自分で作ってみるとちょっと気分が違う。

 

 

会場に行けなかった方のために、森さんが丁寧な解説を書いてくださっている。

これは素晴らしい、必見です。 

note.com

 

 

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読書会のための読書(『サード・キッチン』読書会に向けて)

『サード・キッチン』という小説の読書会のために調べた本。
これも場づくり。準備の一環です。

レポートに本の紹介も含めると長くなってしまうので、別記事にしました。
読書会のレポートはこちら。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 白尾悠さん著書。
『サード・キッチン』(河出書房新社)『いまは、空しか見えない』(新潮社)

 

海外の高校&大学へ行こう!2020年度 アルク

アメリカの大学に留学するとき、どんなルートがあるのか、どのぐらいお金がかかるのか、そもそもアメリカの教育制度ってどうなっているのか、物語の背景を知りたくて。

アメリカ教育制度」という点では、"Most Likely To Succeed"を語る会でも役に立った。日本の教育を他国と比較して考えたいときにも役に立つ。英語圏アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドだけでも助かる。実は知らないことが多い。インターネットで探すこともできるけど情報が断片的。同じフォーマットの構成で、情報として網羅的に一冊にまとまっているムック本は、ありがたい。

 

 『ハーバード大学は「音楽」で人を育てるーーー21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育』菅野恵理子/著(アルテスパブリッシング)

尚美の通う大学がリベラル・アーツ教育を行う大学という設定だったので、参考に読んだ。

音楽を学ぶことは、音楽家を目指す人だけが必要なのではなく、教養として音楽を学ぶことの意味、意義が展開される。「音楽を学ぶとは何か」「芸術に触れるとは何か」「芸術をとおして何を学べるのか」。

ここで注目したいのは、どのように「知識」を「知力」に変えていくかである。静から動への展開、といってもよいだろうか。時代を経て淘汰されてきた芸術作品からそのエッセンスを読み取り、生かしてこそ、はじめて知識が知力となる。(p.38)

わたしが拙著(共著)『きみがつくる きみがみつける  社会のトリセツ』で書ききれなかった部分を詳細なリサーチと考察に基づいて補強していただいているようでもある。

また、「学び」について考えるにあたっても、大学の音楽を取り入れるカリキュラムは興味深い。

たとえばいま自分の目の前で起こっていること、身のまわりで起こっていることに対して、自分がどう向き合うのか。そのヒントを授けてくれるのが知識であり、それを生かして対象とかかわっていくことが知力だとすれば、その展開のプロセスには「体験」が有意義である。(p.38)

 

 

 『大統領でたどるアメリカの歴史』明石和康/著(岩波書店/岩波ジュニア新書)

サードキッチンには、1997年〜1998年当時のアメリカで、学生や教員が政治に関する言論の場をひらくシーンもある。わたしは日本の歴史は元号で辿ると特徴を掴みやすいと考えているが、アメリカの場合は、年代もしくは大統領で語られやすいように感じていたので、こんな本も借りてみた。初代ジョージ・ワシントンから、第44代バラク・オバマまで、名前だけは知っているけれど詳しくは知らない大統領が並ぶ。

どういう流れの中で就任し、どのような政策がどのようにアメリカ社会に影響を与え、それがその後の歴史や現代にどのように影響を与えているかを考えながら読むと興味深い。たとえば「Black Lives Matter」や「黒人差別」をテーマに辿っていくのもおもしろい。

文学や映画作品などを観る時に参照すると、年代と大統領で引くと、当時の時代背景が理解できて、よい。

 

『ある晴れた夏の朝』小手鞠るい/著(偕成社

戦争、原爆、国籍、討論などのキーワードが出てきてすぐに思い出したのがこの本。

感想はこちらの記事に詳しく書いた。

 

 

『国籍の?(ハテナ)がわかる本─日本人ってだれのこと? 外国人ってだれのこと?』 木下理仁/著(太郎次郎社エディタス)

『サード・キッチン』 の中では、国籍や民族やルーツとアイデンティティにまつわるエピソードはかなり頻繁に出てくる。本書は、国籍とそれが含む実に多くのトピックを網羅しながらも、わかりやすく、驚くほどコンパクトにまとめられている。国籍と○○人、外国人にとっての日本国籍、日本人と国際結婚、在日韓国人在日朝鮮人と国籍、外国人の参政権難民認定など、「知らなかった......」が満載。

 

 

『デモいこ!---声をあげれば世界が変わる 街を歩けば社会が見える』TwitNoNukes/編(河出書房新社

デモの話は、『サード・キッチン』 ではたぶんほんの少ししか出てきていなかったと思うが(確かベトナム戦争のくだり)、「若者の政治参加が盛ん」という背景がある日本以外の国を理解したかったのと、『きみトリ』で、「デモに参加する方法もある」と書いておいて、デモのやり方を伝えていなかったなと出版してから気づいたので、ここで紹介しておきたい。

p.7〜p.12の松沢呉一さんによる「デモはたのしい」に非常に大事なことが書かれている。何度も読み返したい。絶版になっているが、中古や図書館でなんとか入手して読んでほしい。

 

〈超・多国籍学校〉は今日もにぎやか!――多文化共生って何だろう 菊池聡/著(岩波書店/岩波ジュニア新書)

このあたりになってくるとかなり『サード・キッチン』からは外れてしまうが、同じタイミングで図書館で借りたので紹介しておきたい。

わたしは以前から、外国籍や外国にルーツのある子どもが、日本社会で生きていく上での困難や共生の制度や知恵などについて関心を寄せてきた。以前、こちらの記事で紹介した本もそういった一冊。

社会から居場所を追われ、孤立した若い人が凄惨な事件に陥ったことが、悲しい記憶として忘れられない。我が子の学校にも外国籍や外国にルーツのある子はいるので、周りにいる大人として理解しておきたいということもあるし、場をつくるファシリテーターとしても持っておきたい知識や知恵がある。

本書で紹介されている、横浜市の飯田北いちょう小学校は、団地好きな人なら知っている、県営いちょう団地のある学区で、外国籍や外国にルーツを持つ子どもたちが多い。他の自治体の例は不勉強で知らないのだが、生じている事態に一つずつ対応し、制度をつくり、試行錯誤を重ねているうちに、日本でも先進的な取り組みになっていったのでは、というふうにわたしは読んだ。特に「異国で学ぶ子どもたちがどのように母語を保つのか、という課題への取り組み」が同校で重視されている点からそう感じる。

本書には、その他の視点として、日本人が多く渡っているブラジルやアメリカで、日本国籍、日本ルーツの子どもへの教育がどのようになっているのかの紹介もある。比較するとまだまだ発展途上な部分ばかりが目に付く。それでもまずは好事例を持つ現場の取り組みのシェアによって、自分の現場を照らされることから、一つずつ考えていくしかない。引き続き関心を持っていきたい分野。

 

あと2冊は、時間がなくて読みきれなかったもの。とても良さそうだったので、またいつかの機会に読みたい。

『他者を感じる社会学〜差別から考える』好井裕明/著(ちくまプリマー新書

『娘に語る人種差別』タハール・ベン・ジェルーン /著(青土社) 

 

 

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〈レポート〉2021/1/23『サード・キッチン』オンライン読書会

小説『サード・キッチン』の読書会をひらきました。

 

『サード・キッチン』白尾悠/著(河出書房新社

 

こんなお知らせを出しました。

thirdkitchenbooktalk.peatix.com

 

そう、なんと著者さんをお招きしてのスペシャルな読書会だったのです。

著者さんのお話だけを聴くトークイベントではなく、参加したみなさんも話すし、白尾さんもお話される、読書会です。(こんな読書会もつくれますよ〜)

自然な流れの中で、白尾さんへの質問はしていただいてよいのですが、なるべく感想のほうを多めに話しましょう、と冒頭のガイダンスでお伝えしました。

また、この本のテーマの一つでもある、Diversity & Inclusionについても共有しました。

・誰でも、見た目ではわからないこと、知らない面、人生の経験があることに配慮する
・舞台が違う国だと、どうしても主語が大きくなりがち(日本人は〜、アメリカ人は〜、若い人は〜)。とはいえ場合によっては類型化も必要。いつもより少し意識的に使ってみては。
・わたしを主語に。日本語では主語を言わなくても通じることもあるけれど、誤解も生みやすい。あえて主語を明確にしてみるのもいいかも。

......といった形でこの場ではやってみたいです、と。



今回集ってくださったのは、読書会への参加をきっかけに本を読んでくださった方ばかり。

・まとまって本を読む時間がないので、読み切れるか心配だったけれど、一気に読んでしまった!

・電車で読み始めたら、すぐにこれは細切れではダメだ、じっくり読まないといけない本だ!とすぐわかった

・なかなか人と出会ったりじっくり話をする機会がないので、こういう場はうれしい

など、読書を楽しんだこと、読書会で話すのを楽しみにしながら過ごしてこられたことがわかりました。ありがたい!

 

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さて、ここまで話せば、あとはもう2時間弱、ひらすらに楽しいトークの時間です。

 

まずは主人公・尚美が、いる場所や出会う人が変わっていくにつれて、世界の見え方が変わっていき、感情もめまぐるしく動いていく様に、ドキドキしながら読み進めた、というご感想から。

そう、まさにこの主人公の心情や、周りの人との関係性の繊細な描写が、白尾作品の魅力の一つだとわたしは思います。さらに読者を物語に連れていく推進力は、根底にある骨太の思想から生まれていると感じます。

 

登場人物の中では特に、尚美と深いつながりにある「久子さん」に光が当たりました。白尾さんにとっては、「感想をもらう中では、あまり久子さんについては聞いたことがなかった」とのこと。これは感想を交わし合いながら発展していく、読書会ならではの現象かもしれないですね。

たまたま久子さんと同じ静岡出身だったり、静岡で働いていた経験のある方がいたのも、リアリティを与えてくれました。どんな思いで生きてきた人なのか、このような行動ができる芯の強さ、時代や世代の影響などについて感想が出ました。


白尾さんご自身のアメリカでの留学経験も反映されている小説ですが、その経験のシェアからも驚くことは多かったです。この経験をいつか形にしたかったと温めてこられたという話もうかがいました。

アメリカの大学の雰囲気、学生が自治を認められている感じ、市民の一人として認められていて、自立しているところに、日本との違いを感じた」という方もいました。

「差別」「偏見」についての話題もじっくりと話すことができました。これらはやはりこの本を読み進める上で外せないテーマです。
知らないだけで、気づいていないだけで、別の立場からみれば差別になっていることも多いのでは、外から日本または自分を俯瞰してみる経験が大切なのでは、それをどこで経験するのか?などの話が出ました。

その一方で、「同じ属性で一緒にいる安心さもあるよね」という実感の話もありました。どこからが差別や偏見になり、どこまではOKなのか。考え続けたいテーマです

小説の中では、「セーフスペース(安心安全な場)」をめぐる学生同士のやり取りが描かれますが、「白黒はっきりさせない、答えを出さない物語の運び方に唸った」という感想もありました。ここを始めとして、物語を通じた全体として、良い悪いを断じない姿勢があるからこそ、読み手が深くテーマを考えることができているように思います。

参加された方からも、ご自身の海外在住の経験や、日本での留学生と接する中での違いや多様さ、歴史認識等についてのシェアがありました。他の方にとっても、「ああいうふうに発言したのはよかったのか」「あのとき相手はどんなふうに感じていたのだろうか」などの語りを聞くことで、様々な立場に仮に身を置いてみる経験ができました。

 

「この登場人物の中で誰が好き?」という質問があり、お一人ずつ答えていただきました。この質問はとてもありがたかった!

「ニコルやアンドレアとわたしも友だちになりたい!」「ジョシュはキツいこと言っているように見えるけれど、実は尚美のような留学生が初めてのケースだったので、接するのに戸惑っていたのでは」など、人物それぞれの魅力や存在が立ち上がります。
良い人悪い人、敵味方はない。こちらの立場が変われば見え方もまた変わることを、この話題でも感じることができました。

本を読んだことで、既に皆さんの中で、一人ひとりの登場人物が生きて、まるで身近にいて、よく知っている人のように感じられています。そこにさらに、「この人はこんな魅力がある」と話してもらえたことで、好き嫌いを超えて、ますます生き生きと存在するようになっていくのがわかりました。

 

「表紙・裏表紙がとても良い」という声多数。暖かそうで、美味しそうで、明るい気持ちになる、思わず手に取りたくなる、など。カバーを取ってもかわいいのです。凝っている!

装画:原倫子さん、装幀:アルビレオさん @albireoinc 

 

他にも友達関係、言語、ごはん、文体や表現など、様々な話題が、あとからあとから湧いてきて、いくらでも話せそうでした。

作中に登場するSheryl Crowの"Everyday Is A Winding Road"のリリースは1996年。

youtu.be

 

Spice Girlsの"Wannabe"も1996年リリース。1998年当時大学生だったわたしとしては、とにかく懐かしい!

youtu.be

 

わたしの『サード・キッチン』はこんな状態に......。
これだけ付箋立てていると、どこがなんだかさっぱりわからないですが、語りたいところがいっぱいでした。とにかく語りたくなる小説なのです。

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当日をふりかえってみて。

やはり『サード・キッチン』は素晴らしい物語だということを皆さんと確認できたことがうれしかったです。そして著者と読者がフラットに、温かく交流できる場がつくれたということもうれしかったです。

感想を著者に直接伝える、それを受け取る、という交流。

 

小説はいい。本はいい。感想を交わし合う場はいい。

同じ物語を旅している、でも見ている景色は少しずつ違う。
そのどちらも感じられるから、語れば語るほど、物語が厚みを増す。
自分にとって特別な物語になっていく。

個々の読書体験が場に持ち込まれて、より豊かに膨らんで広がって深まって、登場人物たちやコミュニティや舞台になった大学が、自分の中でほんとうに存在するようになる。

「学ぶことも、働くことも、移動することも、大きく変化している今、この希望の物語を語り合うことで、生きるエネルギーを融通し合えることを願っています」と告知文に書きましたが、それ以上の体験でした。

変化は人との関係の中で起こる。
どんなに世界が変わっても、きっとそう。
分断を恐れず、人と関わり続けていこう、と思いました。

 

後日いただいたご感想、『やさしくて、気持ちを込めてお話ができる、素敵な場でした。 まるで、サードキッチンのような』。
これ以上ないという言葉!光栄です。

 

ご参加くださった皆様、白尾悠さん、
「参加できないけれど買って読んだよ」とご連絡くださった皆様、
ありがとうございました!

 

参加された方へは、白尾さんからのカードのプレゼントをお送りしました。
物語のモデルになった白尾さんの母校の校内にある施設が描かれています。お手元にあるのが残り数枚とのことだったので、ほんとうに貴重です!(写真は白尾さんよりご提供)

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このブログで興味を持ってくださった方のために、ツイッターで見つけたご感想と、関連記事も貼っておきます。(ダメ押し気味に!)10代の人たちにも読んでもらいたいなぁ。

 

 

 

 

▼白尾さんへのインタビュー

cococolor.jp

 

▼書評

bunshun.jp

lee.hpplus.jp

 

この読書会をひらくにあたって、いろんな準備をしましたが、背景や扱うテーマについて、本を何冊か読みました。こちらの記事に紹介していますので、併せてご覧ください。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

 

 

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展示『田中一村』展 @千葉市美術館 鑑賞記録

千葉市美術館にて『田村一村展』鑑賞してきた。

www.ccma-net.jp

 

展覧会自体はノーチェックだったが、田村一村のことも知らなかったが、SNSのタイムラインに流れてきた、「アダンの海辺」を使ったポスタービジュアルに目が留まった。

千葉市美術館では、この地にゆかりのある画家として、2010年に大規模な回顧展が開かれたそう。

それから2021年までの10年間で新しく所蔵した100点超を一挙に展示ということで、かなり気合いが入った展覧会だった。

 

青い日記帳さんの今回のブログ記事と、2010年の記事を両方読んで出かけた。

 

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・田村一村は1908生まれ、1977年に69歳で没。
わたしが生まれたのとちょうど入れ違いの時期に、奄美でひっそりと亡くなった。
その前は千葉で20年暮らし、地域とのつながりの深い人だったらしい。


川端龍子主宰の第19回青龍社展に入選したのが、中央画壇で名を残した最後とのこと。おお!ここで昨年末に訪ねた龍子記念館や青龍社が出てくる!(この記事

青龍社は門下の画家たちの展示だけでなく、公募展もやっていたということなんですね。仕組みがよくわからずだけれど。

・その後も、仕事はしていたものの、知る人ぞ知る作家として生き、50代で奄美に移住してからも、細々と制作を続けた。

 

・一村の存在が"発見"されたのは、没後。1983年のNHKの番組「日曜美術館」での放映がきっかけという。当初は「50歳代から晩年にかけての、孤高の南洋画家」として、ロマンを感じる取り上げ方が多かったよう。

印象派も流行ってたから、ゴーギャンを彷彿とさせたのだね。
それがうかがえる展覧会のポスターやチラシなどの展示も最後にあり、この切り口がユニークでいいと思った。

少し脱線。80年代の展覧会のポスターに、"生涯妻を娶(めと)ることなく"というリードがついていた。時代の価値観が広告宣伝には全部出るのだよな。当時なら何も思わなかっただろうけれど、今はそこに自然と目がいく。

 

・好きな作品はたくさんあったけれど、わたしはやっぱり軍鶏(しゃも)がよかったな。最初は色紙に描いたユーモラスなスケッチが、どんどん写実的になり、軍・鶏という漢字がぴったりの、あの目つき、立ち姿、胸を張って、コートのポケットに手を突っ込んでこちらを睨んでいる。人間みたい。

 

・20代の頃に描いた「椿図屏風」。意欲と情熱と切実さ。盛り上がってくるような椿、トリミングや余白の使い方の斬新さ。

 

・母の遠縁にあたる川村家からの寄贈が多く、その中でも色紙が多かったのがおもしろい。パッと色紙に描きつけちゃう感じは何かに似ていると思ったら、インスタグラム!

1:1の画面も、気軽さも、人にシェアしやすい感じも。
パッと反射でも作れるし、作り込もう、凝ろうとするのにも使える。

 

・比較的最近発見された画家のため、作品によっては、「制作時期をはじめ、契機や意図など、検討すべき点が多くのこされています」とのこと。まだまだこんなふうに知られていない作家がいて、まだまだ研究を進めていけることがある。ミュージアムは古いものをしまっておくところではない、ということ。

 

・「名が売れず、芸術が理解されず苦しむ」ということについて考えるきっかけがたまたま重なった時期でもあった。一村の作品や生き様にそのことを重ねながら観た。

「金の心配をせず、絵だけを描いていたい」という心情の吐露。生涯探究し続けた絵画、美の完成への執念。共感しかない。

 

図録は今回の展示の記録としてはとてもよかったけれど、人生と画業を一望できるほうがよいなと思い、東京美術の"もっと知りたい"シリーズを購入した。このシリーズは印刷がとてもよい。

「理解者のおかげで大きな仕事もしていた」あたりの時期は、展示では少し薄めだったが、こちらでしっかり補完される。おすすめ。

 

 

同時開催の「ブラティスラヴァの絵本展」もよかった。やはり絵本の絵って特別。
そろそろ「いいよね〜」の先をもう少し専門的に学びたいなと思い、購入した本。まだじっくり読めていないけれど、良さそうですよ。

 

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展示『ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代』@Bunkamuraミュージアム 鑑賞記録

Bunkamura ザ・ミュージアムで『ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代』を観てきた。

www.bunkamura.co.jp



身が切れるように寒く、陰鬱な冬の日。今にも雨が降り出しそう。

ビュフェ作品を鑑賞するのに、これ以上ないくらいぴったりの日。

 

電車が混む時間をずらし、最寄り駅をずらして、渋谷駅ではなく代々木公園駅で下車。
そこから徒歩でBunkamuraへ。歩く人もまばらでホッとする。
このルートは、美術ブロガー・青い日記帳さんのこちらの記事を見て知った。感謝。

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静岡のベルナール・ビュフェ美術館の所蔵する油彩を中心とした80点の作品で構成。

第二次世界大戦直後の不安と虚無感を表現する作家として評価されている。1928年生〜1999年没。

疫病や自然災害、国家の機能不全に見舞われる今のわたしたちにとって、響くものがある。

 

・人間の気配のないパリのコンコルド広場やニューヨークのブロードウェイは自然と疫病に見舞われた都市を連想する。館内にもほとんど人はおらず。監視の方のほうが多かった。

・閉塞、歪み、褪せ。不審、不条理。偏向、執拗、繊細な感性。人間の負の感情への真摯な眼差し。

・どの作品も2〜3mぐらい離れて観るとちょうどいい。人間嫌いのビュフェが接近を警戒している。

フランソワーズ・サガンの小説(文庫)の表紙がビュフェ!実家にもこの『悲しみよ、こんにちは』があった。今も入手できるのは『ブラームスはお好き』のみとか。

・縦に伸びる何かに魅了されている?

アナベルの両性具有的な雰囲気。

・人体、ありえないほどシャープなのに違和感がない。

・サインも作品の一部

・最後の部屋、晩年の作品群はさすがに苦しい。冥途の強い予感。

 

父との関係、母との関係、現家族、戦争の記憶、ピエール・ベルジェとの関係、アナベルとの関係、養子の二人との関係、アルコール依存症や精神の苦しみ......。

本人は作品を観る時に人生と絡めてはほしくはないだろうけれど、人生がドラマティックだから、ついいろいろ知りたくなってしまう。

 

多作というから、全作品観てみたい。一部だけでもと思い、画集を購入した。
ビュフェを見たい気分になるとき、「その心理」「その感情」に黙って寄り添ってもらえる。喩えようのない虚しさと、孤独。自分の中の牢獄との向き合い、世界とのつながりや自由への渇望......。

 

クレマチスの丘には行ったことがあるけれど、ヴァンジ彫刻庭園美術館とIzu Photo Museumまでしか観られなかった。

次行くときは、ベルナール・ビュフェ美術館を中心に。楽しみができた。
ビュフェ作品約2,000点を所蔵、内常時100点以上を展示とのこと。

1973年に日本にこれだけの規模の美術館がオープンした経緯も知りたい。除幕式には妻のアナベルが代理で来たと(本人が人間嫌いすぎて)。

www.clematis-no-oka.co.jp

 

2019年で、ベルナール・ビュフェが亡くなってから20年。
自分の人生の半分は、まだビュフェが生きていたのか。

海外から作品を搬送しての大掛かりな展覧会が行えない今の時期に、国内にある名品でこれだけの展覧会がひらけるというのも、すごいことだ。

これまでの先人たちの蓄積、遺産の豊かさを思い、感謝する。

 

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1Fのラウンジで注文したコラボメニューのホットチョコレート
赤いのは食用バラ。ゴージャス!アナベルを彷彿とさせる。

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コラボメニューを注文するともらえる特製クリアファイル。これ欲しさに注文しちゃった。カッコいい!

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【おすすめ書籍紹介】『お客様が集まる!士業のための文章術』

2年ぶりのおすすめ書籍の紹介です。

他の記事で紹介している本も基本はおすすめばかりですが、わたしの仕事に関連した実用的で役に立つ本は、【おすすめ書籍紹介】とタイトルにつけて、たまに思いついたときにご紹介していこうと思います。

 

さて、前回は会議のファシリテーションについてのおすすめ本でした。詳しくはこちらこちらの、一対一の対話型ファシリテーションについての本もおすすめです。

 

今回はこちらです。

『お客様が集まる!士業のための文章術』小田順子/編著(翔泳社

 

この本は、昨年、自分の本を書いているときに「文章の書き方」や「言葉の使い方」のテーマで探している中で見つけました。わたしが、「書き手の無意識の差別や偏見、思い込みや押しつけに注意を払いながら書いていかねば」と覚悟した頃です。

 

非常に先進的で普遍的な内容です。
帯文にある、

・専門用語は先回りして説明する

・使っちゃいけない士業独特の言い回し

・好印象を与えるメールの書き方

・ウェブ文章は「Youメッセージ」で

など、士業でなくても、誰にでも関係あることばかりではありますが、「士業」と限定されることで、他の仕事の方にとっても具体性が出て参照しやすくなります。士業の方にとっては「あるある」のオンパレードではないかと想像します。

 

あるコミュニティでは当たり前に使っている言葉や言い回しが、外のコミュニティや業界では通じないことは往々にしてあります。擦れ合って「通じない」「誤解が生じた」などの事態が発生しないと気づけないことも多いです。

直接指摘されるのが一番ですが、そういう良いお節介をしてくれる人がいないと難しい。自分からオープンになって学んでいくしかない。この本で、「もしかして運営がうまく行っていないのは、自分のウェブサイトのこういう部分がわかりにくいのかも?」などと、思い当たれるといいですね。

わたしはもちろんたくさん思い当たりました。うぐぐ。。「やさしい文章で」「漢字を少なく」「専門用語は解説」は、頭ではわかっているし、何度も指摘もされてきたのだけれど、ついやってしまう。

複数人で運営しているチームや組織で発信するときは、リリースするときにチェック機能を置くことでトラブルや誤解を防げますね。ガイドラインの設置とダブルチェック、トリプルチェックの大切さも感じます。

 

この本で一番わたしが素晴らしいと思っているのが、巻末付録の「士業として使わないほうがよい言葉の言い換え集」

すごいです。ここだけのためでもいいから買ってほしい。
そのくらいの価値があります。
士業だけでなく、大人だけでなく、10代の人たちも知っておくといい。

 

特に「差別語・不快語」を言い換える項がすごいのです。

「入籍する」「帰国子女」「キャリアウーマン」「女流」はそれぞれ、
「婚姻届を提出する・結婚する」「帰国児童・帰国生徒・帰国学生」「ビジネスパーソン」「"女流"はつけない」と言い換える。

具体的な言い換え例を示してくれている上、その理由も冒頭に簡潔に書いてあります。

 

発刊された2013年当時はまだ、「なぜその言葉を使ってはいけないの?」と言われそうな言葉も多くあったと思われますが、本という形でハッキリと示してくださったことはありがたいです。

今となっては当たり前にNGな言葉も多くなっています。社会はよりよくなっている!

 

人権、倫理に関わる言葉だけでなく、漢字/ひらがな、常用外、固い/柔らかい接続詞や副詞など、表記上のアドバイスもたくさんあります。

それでいて、読み手や受け手を見下げるような表現にはならない、パブリック、オフィシャル、ビジネスライクに「きちんと」「正確な」伝え方も伝授してくださっています。

どの項も具体的で事例が多くて、素晴らしいです。おすすめ。

 

 

報道ガイドラインもいくつか挙げました。
これらも広い世界に向かって書く、話す、発信するときの参考になります。

LGBT報道ガイドライン

fairs-fair.org

www.pref.saitama.lg.jp

 


自死報道ガイドライン

メディア関係者の方へ|自殺対策|厚生労働省

 


薬物報道ガイドライン

www.ask.or.jp

 

 

いじめ報道ガイドライン

いじめ報道に関するガイドライン | ストップいじめ!ナビ

 

 

おまけ:場づくりに関してわたしが以前に書いた記事もご参考に。

terakoyagaku.net

 

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舞踏『不確かなロマンス〜もう一人のオーランドー』@彩の国さいたま芸術劇場 鑑賞記録

2020年12月19日。

彩の国さいたま芸術劇場で、『不確かなロマンス〜もう一人のオーランドー』という舞踏を観てきた。

スペイン音楽・舞踊の伝統をジェンダーを超えた
独舞、独唱でたどる旅

rohmtheatrekyoto.jp

この特設サイトが美しいので、できるだけ長く置いておいてほしい......お願いします。

 

 

12月に入って、何かのきっかけで予告編を観て、「あれ、これはなんだかすごそうだぞ」とピンときて、友人とその話をしたら、やっぱりすごく行きたくなってしまって、すぐにチケットを取った。

 

 

その後こんな記事も見つけて、やっぱりこれ凄そう......わたしの好きな世界が詰め込まれていそう......と感じた。

ontomo-mag.com

 

 "ときに激しく体を動かしながら歌うから、呼吸がどうしても乱れる。 ハアハアいう呼気の乱れが、会場にこだまする" " 17世紀に起源をもつ竹馬の踊り" 
予告でこれだけすごいのであれば、本物はもっとすごいに違いない。

 

わたしは一体何を見るんだろう?!

 

そして当日。

 

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直後の感想。


物凄い体験にわたしはまだ言葉にならない。
もう我慢できないという感じで皆さんスタンディングオベーションで、カーテンコールは熱かった。
このような時期に日本に来てくださったことに、感謝が尽きない。涙が出た。
とってもチャーミングな方々!

 

www.instagram.com

 

人間はほんとうはもっと何にでもなれるのではないか。もっと可能性があるのではないか。世界にあんな挑戦をしている人たちがいて、あんなに研ぎ澄まされた美意識を如何なく発揮して完璧な舞台を作り上げている。芸術のジャンルなんか軽々と超えている。すごい。一体わたしは何を観たんだろう。 

いろんなことが漠然と過ぎていく中にあって、目の前で確かに動いている筋肉、骨、身体。神経に細胞に入り込んでくる音。

転生を繰り返すオーランドーにヴァージニア・ウルフが降臨していた!と感じる瞬間がいくつかあって鳥肌。でも解釈できない。何も考えられない。

あの舞台、あの人。瞬間的に性を変えているように見える。でも、超えているのは観ているわたしのほうで、演っている人は超えようなどとしていないのかも。自然で。全部をはじめから持っている生き物、存在。でもああいうものが自分の中にもあると知っているだけで、もっと自由になれるのでは。

舞台としても、一つひとつの芸術の垣根を超えようとしたわけではなくて、「元からこうなっているものをそのまま出しているだけ」という感じがあって、こちらとしては新しいけれど、これまた演っているほうは超えてなんかない。むしろ「なぜわざわざ物事を定義づけ、区切る必要があるのか?」と問うてくるような。(これは美化なのだろうか)

この世のすべてを70分に閉じ込めた奇跡の舞台。


一緒に観た友人が、ギリギリまで今観るべきかどうかを悩んでいた。最終的には、30枚しか出ない当日券を目指して劇場まで来て、席が確保できて、良い鑑賞ができたようだった。よかった。
お金だけじゃなくて、何に時間やエネルギーを注ぐかということに真摯。美学があって尊敬する。作ること観ることの価値を知っているからこそ。美意識の結晶を観たあとだからこそ、彼女の選択や行動が心に深く響いた。

東京と京都と北九州。日本で3日、3箇所だけの公演。
なんと貴重な機会だったか。忘れない。一生忘れない。

 

www.alexandremagazine.com

 

Twitterに投稿してくださった、あの時間を共にした方々の熱を再び。

 

 

 

 

 

 

特製のプログラムと小冊子。宝物。

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圧倒的な体験をありがとうございました。

 

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