9/25(日)第十回文学フリマ大阪に出店します。
店 名:ひととび書籍部
ブース:I-52
会 場:OMMビル2階
アクセス:谷町線・京阪 天満橋駅すぐ
はじめての文フリ参加です。
この日初売りの新作あります。
ぜひお立ち寄りください。
公式ウェブサイト:
第十回文学フリマ大阪(2022/09/25) | 文学フリマ
Webカタログ:
第十回文学フリマ大阪 出店者リスト - 文学フリマWebカタログ+エントリー
9/25(日)第十回文学フリマ大阪に出店します。
店 名:ひととび書籍部
ブース:I-52
会 場:OMMビル2階
アクセス:谷町線・京阪 天満橋駅すぐ
はじめての文フリ参加です。
この日初売りの新作あります。
ぜひお立ち寄りください。
公式ウェブサイト:
第十回文学フリマ大阪(2022/09/25) | 文学フリマ
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第十回文学フリマ大阪 出店者リスト - 文学フリマWebカタログ+エントリー
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前回、夏至の会のレポート
〈レポート〉2022 夏至のコラージュの会 - ひととび〜人と美の表現活動研究室
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コミュニティへの出張開催も承ります
雑誌やチラシや写真を切って、台紙に貼り付けていく、だれでも気軽に楽しめるコラージュです。オンラインも可。お問い合わせはこちらへ。
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鑑賞対話の場づくり相談、ファシリテーション、ワークショップ企画等のお仕事を承っております。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
国立映画アーカイブで企画展《日本の映画館》を観た記録。
こちらのレポートがとてもよくまとまっているので、実物を観る前に読むとひと通りの流れと見どころがつかめます。もちろん行けない方にも内容がわかるのでおすすめ。
日本に常設映画館ができて今年で119年。およそ120年。
まだたったの120年。
そしてこの120年を映画という軸で見てくると、なんと大きな社会の変化があったことかと思う。
社会情勢の影響を受けながら人々の暮らし(生きる、働く)も変化し、人々が見たいもの、映画館に求めるものが変化し、あるいは映画館の提案に人々が反応し、世界の映画の潮流にも乗りながら、発展してきて今がある。
初期の映画館。人々が新しいものを一目見ようと詰めかけた姿。一本の通りに何軒も映画館が並ぶ様は模型や写真でしか確認できないが、その熱狂ぶりが伝わってくる。
戦中の検閲や国策映画の時期も経て、戦後に再び人々が映画に娯楽を求めた様子は、『ニュー・シネマ・パラダイス』にも描かれていた通り。さらにそこから日本独自ともいえる映画館文化も作られていった。
そして、「各地の映画館の歴史は、その土地の映画受容の歴史である」とキャプションで表現されていたけれど、まさにそういう形で発展していったことが展示から読み取れる。川崎と北九州の事例は貴重だ。
Instagramで紹介したものを含め見どころはいろいろあるが、上越市にある日本で一番古い映画館、高田世界館を映したドキュメンタリーのビデオ『まわる映写機 めぐる人生』(2018年、森田惠子監督)が15分ぶん観られる。
これはとてもよいので、ぜひ時間に余裕を持ってお訪ねいただきたい。
データ「1946年以降の映画入場者数、興行収入、映画館数、公開作品数グラフ」を見ると、2019年の数字が突出しているのは何があったんだろう。これだけ見ると最低迷期に比べると映画の状況は今けっこう良いと言えるのだろうか。
スクリーン数であって劇場数ではないが。評論等で確かめてみたいところ。
栄枯盛衰、映画館のいろんな時代があっての今。
インターネット配信による鑑賞がますます根づき、また新型コロナウイルス感染症のあおりで映画館運営が厳しさを増す現在、本企画は、映画館に人々が集うことの意義を再び確認するとともに、映画の持つパワーを映画館という場所から捉え直す好機となるでしょう。(国立映画アーカイブのウェブサイトより)
最近とみに思うのは、映画館は上映する映画によって変化してきたということ。あるいは映画館の生き残りをかけた技術が、映画の表現の幅を広げたとも言える。
全部に当てはまるわけではないが、ハリウッドで制作されたり、大手チェーンにのって大ヒットする映画は、映像や音響など体全体で揺さぶられるものが本当に多くなってきたと個人的には感じている。IMAXシアターを最初から想定されて作られているなど、映像による視覚や聴覚の興奮に訴える、体への刺激が強い作品も多い。もちろんそれだけでなく、物語としても優れていて、芸術的要素を含む作品も多い。
ただ私はどちらかというと、刺激の強い映像表現が最近負担になってきたので、あまり観ない。どうしても観たい場合は、インターネット配信されるのを待って、ノートPCの小さなモニターで観ることにしている。
配信では音量や見たくないシーンをスキップする自由があるのがよい。映画館で見るということは、基本は席に座って連続して見続けるという、ちょっと極端に言えば、半強制の環境下に置かれることに同意することだ。観客の状態、性質によってはそれが難しいとき、環境が観客側でコントロールできるのはよいことだと思う。邪道と言われるかもしれないが仕方がない。もちろん、映画館で観るのに一番ふさわしいように映画が撮られているという基本は尊重した上で、だ。
インターネットの配信は旧作にも気軽に出会える、再会できる良さがある。アーカイブという意味合いもある。人それぞれ作品と出会うタイミングがあるし、後の世になってその作品が再評価されることもあるので、旧作が観られる環境はありがたい。
映画館にアクセスしづらい地域に住んでいる人にとっては、配信は重要な存在だろうと想像する。
また、最近では当初からインターネット配信向けに作られる番組も多い。逆に配信向けに作られた作品が映画館で上映されることもある。製作と興行の関係もさまざまに変わってきていそうだ。
そういえば映画館の労働問題もあった。これも「日本の映画館」を語る上で無視できないテーマ。
【特集2 映画界のハラスメントを考える】(映画業界意識調査アンケート)
2022年には日本の映画業界にとって大きな出来事がある。
7月29日には東京の岩波ホールが閉館となり、一つの時代が終わるのだ。私もお世話になってきた劇場なのでとても寂しい。
一方で、地域に根ざしたミニシアターあるいは、ミニシアターよりもっと席数の少ないマイクロシアターの開業も続いている。
6年目に設備を拡充するシネマ・チュプキ・タバタの存在もある。
2020年のコロナ下で、映画館が休館を余儀なくされたとき、あの人々が同じ空間に集って暗い中で同じ映画を見て、笑ったり、泣いたり、息を飲んだりした時間がどれだけ貴重なものだったかを痛感した。
時間が経って、映画館で観ることがまた日常に組み込まれてくる中で、あの感覚はだんだん薄れつつある。それでも、「映画館で映画をみるという体験は、人間にとって欠くべからざる営みだ」と強く感じたことは、たぶん一生忘れないと思う。
映画館が日本にできて約120年。今後どう変化していくのか。
もしかして加齢と共に、古き良き時代を懐かしんで感傷的な思いをすることのほうが私には増えるのかもしれないが、引き続き見ていきたいと思う。
英語のサマリーをいつももらうことにしている。なぜか日本語版がない。
全ての展示の撮影がOKだった。うれしくていっぱい撮った。
公式アカウントの見どころツイート。最近こんなふうにちょい見せしてくれるミュージアム増えた。リマインドにもなっていい。(行こう行こうと思ってたけどうっかり忘れてた、とか)
「 #日本の映画館 」展 み・ど・こ・ろ①
— 国立映画アーカイブ (@NFAJ_PR) 2022年6月24日
最初の映画常設館、浅草電気館の初期の図面を見ると、スクリーンが建物の奥ではなく入口側にあります。これはスクリーン脇の弁士の声が表通りにも聞こえるようにしたためと言われ、いわば「音漏れ」を利用した宣伝。かつての見世物小屋の名残でしょう。 pic.twitter.com/tV0mUOZGHI
「 #日本の映画館 」展 み・ど・こ・ろ②
— 国立映画アーカイブ (@NFAJ_PR) 2022年6月25日
大正期には、東京浅草に続き大阪の千日前、京都の新京極など他の大都市にも映画街が生まれます。中でも特別な地が横浜。伊勢佐木町のオデヲン座は、横浜港に着いた外国映画の試写場として、映画会社が邦題を決める前に上映できたためプログラムも英語のみ! pic.twitter.com/IPzGFbDj1b
「 #日本の映画館 」展 み・ど・こ・ろ③
— 国立映画アーカイブ (@NFAJ_PR) 2022年6月26日
2019年発行の『藤森照信のクラシック映画館』は、映画館写真家中馬聰氏との協働により、初期の映画館に近代建築史の眼で迫った快著。本展でも、映画館作りに情熱を燃やした加藤秋、僊石政太郎といった先駆的な建築家の仕事を豊富な写真で追うことができます。 pic.twitter.com/anUBDomohS
「#日本の映画館 」展 み・ど・こ・ろ④
— 国立映画アーカイブ (@NFAJ_PR) 2022年6月30日
人々が劇場街に出てから見る映画を決めるのが普通だった時代には、映画館自らが派手に装う必要がありました。提灯やのぼり、映画会社の旗など、装飾品を映画館に納入する業者のカタログは、貴重なだけでなく、なかなか心浮き立つ資料ではないでしょうか? pic.twitter.com/2m0MBDgtKf
「#日本の映画館 」展 み・ど・こ・ろ⑤
— 国立映画アーカイブ (@NFAJ_PR) 2022年7月1日
戦争中の映画資料では「紅系」「白系」という言葉をよく見かけます。これは映画界の統制の中で全国の映画館を紅白に色分けし、フィルムの配給系統を簡素にした苦肉の策です。戦時期は作品内容への圧力だけでなく、物資不足も映画界に甚大な影響を与えました。 pic.twitter.com/Ahxh5petBb
「#日本の映画館 」展 み・ど・こ・ろ⑥
— 国立映画アーカイブ (@NFAJ_PR) 2022年7月2日
長短二本のカーボン棒の先同士を少し離して電気を通すと、放電現象で強い白色光が生まれます。これがかつての「カーボンアーク映写」の光源です。このほか、フィルムが可燃性で映写機操作にも細心の注意が求められた往年の映写室を想像させる展示品が並びます。 pic.twitter.com/ODS6pHe5hJ
「#日本の映画館 」展 み・ど・こ・ろ⑦
— 国立映画アーカイブ (@NFAJ_PR) 2022年7月3日
川崎駅近くの映画館 #チネチッタ の経営企業が、100年の歴史を持っていることをご存じでしょうか? 1922年開館の日暮里「第一金美館」以来、川崎へ展開後も市民の目線で「映画街」を創造してきたその豊かな歴史を、同社ご提供の写真や資料でご覧ください。 pic.twitter.com/i7GesBk8If
「#日本の映画館 」展 み・ど・こ・ろ⑧
— 国立映画アーカイブ (@NFAJ_PR) 2022年7月6日
かつて九州に、長年蓄えてきた資料を使って映画資料館を開こうとした映画館経営者がいたことをご存じでしょうか? 北九州市松永文庫の所蔵する「中村上コレクション」は、大正期から戦後期までの、娯楽を求める人々と映画館の結びつきを濃密に伝えてくれます。 pic.twitter.com/wMoD2Gcfvc
こういう映像が保存されているのが、国立映画アーカイブのありがたいところ。
「関東大震災映像デジタルアーカイブ」に、『帝都大震災 大正十二年九月一日』(別題名『震災ト三井』)を追加しました。https://t.co/daFE0i8U5y
— 国立映画アーカイブ (@NFAJ_PR) 2022年7月1日
三井本館等の被災状況と、三井の寄贈により建設されたバラックの様子を記録しています。
Youtubeはこちら。https://t.co/D8XQueiIF8 pic.twitter.com/96bybjNwhY
次回の黒澤明展も楽しみ。
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2022年5月28日、シネマ・チュプキ・タバタさんと、映画感想シェアの会〈ゆるっと話そう〉を開催しました。(ゆるっと話そうとは:こちら)
第30回 ゆるっと話そう: 『ピアノ -ウクライナの尊厳を守る闘い-』
▼ イベント告知ページ
2020年11月以来、久しぶりの劇場での開催、対面での実施でした。
参加者は、上映のあとそのまま残ってくださった方や、音声ガイドの有無で2回も観てこられた方、少し前に観て、この日のために再度足を運んでくださった方など、10名。
聴覚障害の方もおられたので、UDトークを使って対話を進めました。
UDトークとは、スマホやタブレットにアプリとしてインストールできる、音声認識&表示ツールです。スマホ一台あれば、通常の会話を画面上に表示することで、聴覚障害の方と会話ができます。聴覚障害の方のほうは、発話、筆談、タイプ入力など、応答の仕方は様々です。
〈ゆるっと話そう〉では、UDトークのアプリがインストールされているタブレットを聴覚障害の方にお渡しして、会場で出る発言が自動で表示されたものを見ていただきます。音声認識は完璧ではなく、誤認識、誤変換(※)が発生します。そのためチュプキのスタッフさんがPCからログインして、その都度テキスト修正を行う対応をしています。
※誤認識、誤変換について補足
地名や人名などの固有名詞、日本語にない単語(カタカナで表されるようなもの)は、予め単語登録することによってUDトークが認識しやすくなります。しかし、同音異語、日常であまり使わない単語、話し方の癖、周りの音の影響など、様々な条件により、どうしても誤認識、誤変換が発生します。
▼UDトークについて詳しく知りたい方は、ウェブサイトをご覧ください。
対話をはじめる前に、いつものように「全体の流れ」「話し方のルール」「映画の概要」を共有しました。
60分という限られた時間ですので、一人ずつ2, 3分ぐらいの感想を2周できればという目標をお示し、できるだけ全員に感想の機会を作れるよう、ご協力をお願いしました。
また、今回の映画は、人によって知識の量や、関心の度合いもかなり異なる作品です。歴史や政治情勢を詳しく学んでいる方もいらっしゃれば、今回初めて過去にこういう出来事があったと知る方もおられます。
〈ゆるっと話そう〉は、あくまで感想を語る場ということで、教える・教えてもらう勉強会のようなものではなく、お互いの感想を聴き合う中での発見を楽しんだり、「わからない」や「知らない」を安心して口にできる場を目指すことも共有しました。
観賞後の余韻が残る場内で、歌や音楽の力、連帯の土台、精神の強さ、英雄という言葉、戦う意味、撮影方法、映画を通して考える日本、今起こっている出来事との関連など、さまざまな話題が展開していきました。
ご感想紹介(一部)
・日本とウクライナの国家の違いを感じた。ピアノを囲んで国歌を歌う人たちの表情が印象的。自分たちの国を自分たちで作っていくんだという、力強さとたくましさ、人々の国を心から思う気持ちが歌詞に現れていた。方や日本は天皇を賛美する内容。作り直したい気持ち。
・音楽の下地がある人たちだと感じた。音楽が流れるとすぐにハモってコーラスになったり、楽器を奏でる人たちもいる。ピアノを奏でて気持ちを一つにするって素敵。
・音楽の力を感じた。映画『戦場のピアニスト』を思い出した。趣味でピアノを弾いていて、たまたま2月の終わりに、友人とコンサートをひらいた。音楽が状況を変える力になったらいい。ウクライナで苦しんでいる人たちはもちろん、ロシアで自由に発言できない人たちのことも思う。観られてよかった。一日も早く戦争が終わってほしい。
・日本でもギターでの反戦フォークがあった。ピアノを弾くことが無言の抵抗になる。
・映像の力はすごい。ユーロ・マイダン革命のことは、アンドレイ・クルコフ著『ウクライナ日記 国民的作家が綴った祖国激動の155日』で背景を知っていたが、映像の迫力に驚いた。逆に映画では背景や写っている人の立場などがよくわからなかった。
・ロシアのロックが流れるシーン。文化と文化の闘い。利害やイデオロギーだけじゃないものがありそう。
・紛争のど真ん中でピアノを弾くとは、なんて強い人たちなんだろう。安全なところで後ろから応援するのではなく。パンケーキを味方だけじゃなくて敵にも配りましょうかと言う、優しさの強さ。/その利他の気持ちは民族性なのか、その人の個性なのか。
・ウクライナの多くの家では地下にシェルターがあるらしい。攻撃されるかもしれない前提で、何かあったときのための備えが日本と全然違う。一見すると「うわっ」と思うが。何百キロもロシアと国境を接しているという現実があるからか。
・エンディングが気になる。闘いが続くということなのか、ピアノはどうなるのか、観客に委ねられている。/続きがあってほしい。/40分じゃ短い。続きやその後の革命後の状況を知りたくなる。あえて作品として作った監督の意図があるのかも。
・ユーロ・マイダンとは何だったのかを知りたくて観にきた。戦争や紛争の地域はたくさんあるけれど、自分たちの国や生活と直結する感覚を持ったのは今回が初めて。比較的民主主義の理念を共有している人たちが突然侵攻されるということ。そして2014年にこんなことがあったとは全然知らなかった。二重のショック。
・ピアノを引き取りたいと言った女性に「あなたのことを知らない」と兵士に言われるシーンに驚いた。チラシには「ピアノ過激派と呼んで、革命の象徴となった」とあったので、てっきりみんなが知っているのかと思った。このズレが気になっている。
・音楽で平和に人がつながるということに関心がある。バスの上でピアノを弾くシーンでの兵士の表情と、身内のナショナリズム的な団結が強まる様子。クラシックに対してロシアンポップスでのバトル、音楽のいろんな側面を考えさせられた。
・対立が自己目的化することがあるのでは。何のために争っているのかわからないけれど、相手を攻撃しなくてはいけなくされている人たちが、音楽の力によって相対化される。「心にヘルメットかぶってるよね」と言われた兵士の虚ろな感じに現れていた。
・革命の最中に、一体どうやって撮られたのかが気になった。/よく記録映画として残ったな。/カメラマンが撃たれても不思議ではない現場。機動隊の人をアップで写せているのは、寛容なのか。
・ピアノを弾いている中で、ケータイの明かりを点滅させて、恍惚とした表情でいる。暗闇の中に一人ひとりの、生きている、ここに人がいるということを訴えるような光を点滅させている。ドラマチックすぎて、もしかしてドキュメンタリーじゃないのかと思うほど。個人的にはあそこがクライマックス。
・お葬式のシーンで「英雄たちに栄光あれ」と声が上がっていて、英雄ってどういう人たちのことなんだろうと考えた。あの場面では亡くなった人たちへの哀悼だとわかるが、「英雄」という言葉を使って上から押し付けられる愛国心やナショナリズムもある。別の場で、「難民はかわいそうな人たちではなく、戦禍を生き抜いた英雄」という言葉も聞き、考えている。
・ユーロ・マイダンの新ロシア派の人たちは、今の戦況の中でどの立場にいるのか。
皆さんのご協力もあり、お一人ずつ発言していただいてぴったり2周することができました。
お一人の感想の中にたくさんのものが詰まっていて、短い作品だけれど、いろんなことを感じられていたことが伝わってきました。
チェルノブイリの原発を見にウクライナに行ったときの現地の方の歌う姿、ご自身もピアノを弾くという方にとっての音楽への願い、1960年代後半の日本の大学闘争の時代を知る方のお話なども、うかがうことができました。
ファシリテーターのふりかえり
映画本編は41分という短さで、ナレーション等での背景説明が少ない作品でしたが、逆に様々な視点から自由に観て語ることができていたようです。
私が個人的に興味深かったのは、「説明がないのでわからないことが多い」と「国と国との戦争でも、戦闘は地域で起こる。紛争が激しい地域と変わらない日常を送る地域があるのが現実」の二点。
前者については、わからないからこそ、自分で調べてみようときっかけになる点。観客までもイデオロギーや対立構造に巻き込むのではなく、想像力が必要になるので、人と感想を交わしやすい作品だと思います。
後者については、戦争だけでなく、災害もそうですが、私も報道を見ていると、ついつい全部がどこも同じような状況のように粗く捉えがちです。一歩引いた目線を持ち、個別に見ていくことの大切さに気づきました。
また、写っている人たちも、観ている私たちも、一人ひとりの人間であることを皆さんと話しながらあらためて感じました。
今回は再び対面の場で行いましたが、やはり生の声を聞けて、すぐに反応が感じられるのがよかったです。終わってから言葉を交わしながら、徐々に散会していくあの心地よさを思い出しました。
ご参加くださった皆様、ご関心をお寄せくださった皆様、チュプキさん、ありがとうございました。
一日も早くウクライナでの戦闘が終わり、損なわれたものの修復を始められるよう、心から願います。
▼『ピアノ -ウクライナの尊厳を守る闘い-』は配信でもご覧になれます。
チュプキのスタッフさん手作りのピアノの募金箱。
▼配給のアジアンドキュメンタリーズの代表、伴野さんのアフタートーク
🎹5月1日(日)
— Cinema Chupki(チュプキ) (@cinemachupki) 2022年5月1日
『ピアノ-ウクライナの尊厳を守る闘い-』初日!
本作の配給をされている #アジアンドキュメンタリーズ 代表 #伴野智 さんが急遽ご来館、アフタートークをいただきました✨
既に配信している作品を映画館でかけることの意義、ショパンの曲の背景についてなど、抜粋でご紹介します👇 pic.twitter.com/jft0JWngyA
🔸配信している作品を映画館でかけること
— Cinema Chupki(チュプキ) (@cinemachupki) 2022年5月1日
「僕らがやっているのはドキュメンタリー“映画”なんです。映画というのはやっぱり映画館のスクリーンで観ていただいてこそ本当にその作品のメッセージが伝わるんだという思いもあるものですから、ぜひ映画館でかけて多くの方に観ていただきたいと」⬇️ pic.twitter.com/ZBahI08qsb
🔸なぜ日本に届けたいと思ったか
— Cinema Chupki(チュプキ) (@cinemachupki) 2022年5月1日
「音楽院の学生が弾いている『革命のエチュード』の、本当に力のこもった怒りや悲しみのメッセージに心を揺さぶられて、このピアノをみんなに聴いてもらいたい、なんとかして日本に届けたい、という思いで配信を決めました」⬇️ pic.twitter.com/fJpyqmx5Lk
🔸印象的な「革命のエチュード」について
— Cinema Chupki(チュプキ) (@cinemachupki) 2022年5月1日
「この曲は、ロシア支配下のポーランドが『自分たちの国を取り戻すんだ!』と蜂起した時に作られた曲なんです。ポーランド人だったショパンの思いが現在のウクライナの、彼女のピアノの『闘うような演奏』に繋がっているんだと知ってもらいたい」⬇️ pic.twitter.com/QVWJwlkjNg
「ウクライナの人々にとって、音楽とはメッセージを伝える大切な手段なのだそう。ソ連の時代、ウクライナの人たちはウクライナ語で歌うこと、詩を綴ることなどを禁じられていた。そういった欲圧の歴史があるので、私たちが想像する以上に『自分たちの言葉』で伝えるということへの思いが強い」⬇️ pic.twitter.com/t9L8ktUncs
— Cinema Chupki(チュプキ) (@cinemachupki) 2022年5月1日
「機動隊の前で演奏したり歌ったりすることは、彼ら彼女たちにとっては最後の叫びだったんです。言っても伝わらない、行動しても伝わらない。じゃあ歌で、音楽で伝えるしかない。そういう思いで彼女たちは演奏した。政権側も音楽の力の強さを知っているからこそ『ピアノ過激派』と呼んで警戒した」⬇️ pic.twitter.com/MEl4bqhDhh
— Cinema Chupki(チュプキ) (@cinemachupki) 2022年5月1日
🔸映画をご覧になった方へ
— Cinema Chupki(チュプキ) (@cinemachupki) 2022年5月1日
「遠い国の話というふうに思われるかもしれませんが、もし日本でああいうことが起きた場合、私たちは自分たちの自由や尊厳を守り、闘うことができるのか。そういうこともちょっと“自分ごと”として感じたり考えたり、興味を持っていただけたらと思います」⬇️ pic.twitter.com/aYHF7EZo7I
▼特別企画に関する記事
ウクライナ難民を支援する映画会を5月に開催 原爆投下された広島が舞台の「黒い雨」など上映(2022.4.25 東京新聞)
▼参考資料
随時更新されているウクライナ情勢
2022.2.25
おすすめ書籍
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コーネル・ウールリッチの『非常階段』を読んだ記録。
忘れもしないあれは小学校4年生の頃、学校の図書館で借りて夢中になったミステリー&サスペンス小説。出版社があかね書房と「非常階段」というタイトルであったこと、そして函の青い色をとてもよく覚えている。
非常階段・シンデレラとギャング (あかね書房): 1965|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
今は絶版になっており、ヤフオクでも高値で落札されている。商品写真で見ると、ああこれこれ!この挿画!挿絵!懐かしい。
小学生だったあの頃から30年以上、折に触れて思い出す本ではあったが、読んでみようというところまで至らなかった。今回どうして突然思い立ったのか、自分でもよくわからない。なんか見たのかな?
こんなブログも見つけた。
ああー、わかる!わかります!
私も『恐怖の黒いカーテン』も大好きだった! こちらはウィリアム・アイリッシュ名義。二人は同じ人物だったのだな。今回再読するまで知らなかった。
児童書や古書のことには詳しくないが、あかね書房の「少年少女世界推理文学全集」といえば、もしかしたら界隈ではとても有名なのかもしれない。私もこのシリーズは大好きで、全集を読破した。ああ、このラインナップ!どれも大好きだった。
そしてようやく『非常階段』の感想。
いやー、ほんとうにすごい話だった!
子どもの頃に読んだときも怖くて、夜なかなか眠つけなかったことを思い出した。大人向けの本気のミステリーだったんだなぁ。そりゃ怖いわ。
ウールリッチに共通して出てくる、「たまたま殺人の現場に居合わせてしまう」「追われる者の心理」「差し迫るリミット」「自分の切迫感が全く伝わらない相手」などの要素が満載だった。
子どもが主人公で、両親がかれに対して心身の虐待をしてくるところなども、リアリティがあって当時は余計に怖かったのだろう。大人にかなわないちっぽけな存在の自分が、もしこんなふうに殺人現場を目撃してしまったら? とあれこれ妄想をたくましくさせていた。ああ、そうだった、そうだった。
ちなみに原題は、"The Boy Cried Murder"。
今読んでも手に汗握る心理描写がほんとうに上手い。上手いのはウールリッチのもともとの力もあるだろうし、翻訳の稲葉明雄さんの影響も大きいだろう。今では日常で使わないような「拳銃(はじき)」なんて言葉も、クラシカルに響いてきゅんとする。
追い詰められた人間の脳内を瞬時に思考が駆け抜け、動物的勘と共に判断して、事態を切り抜けていく様子はスリリングだ。
流れる血のねっとりとした感触や、錆びた鉄のざらつき、酒のにおい、けたたましい笑い声や、荒い呼吸を感じる。
とても映像的な小説だ。実際に映画化された作品も多い。
ヒッチコックの『裏窓』や、トリュフォーの『黒衣の花嫁』などは有名だ。にも関わらず、ここでもまたあの「非常階段」の人が原作とは気づいていない私。ああ、そうだったのかーー! 別々に記憶していたものが、突然一気につながる……。
今の時代ならいろいろと問題のある表現も多いが、ウールリッチが生きたのは、1903年〜1968年なので、仕方がない。特にこの白亜書房のコーネル・ウールリッチ傑作短編集の「別巻」は、稲葉明雄さんの原訳をそのまま紹介しようという趣向なので、あえて差別的な表現をそのままにして掲載しているとのこと。
この稲葉さんの訳のおかげで、小説を通じて見えてくる当時の人々の姿は、私には新鮮に映る。街並みや建築物、店や地下鉄の駅構内の様子、生活習慣、一般的な職業、ファッション、人間関係、話し方、関心など、小説自体はフィクションだが、当時の読者にとっては自然にイメージできる身近なものだからこそ、人気を博していたのだろう。
そのとき選ばれた訳語は、それぞれの短編が雑誌に掲載された1936年〜1947年当時の日本人が自然に使っていた言葉なのだろう。それを感じるのもまたおもしろかった。
「非常階段」はちょうど今頃の季節の蒸し暑い夜にぴったりの作品だ。
期待を遥かに超えた読書体験の興奮で、さらに暑さが増した。
・・・
Wikipediaをさっと見た限りだが、ウールリッチはかなり変わった人で、厭人的な人生を送っていたようだ。
評伝が上下巻で出ていた。
新刊で入手できるものも減ってきているようす。早めにレスキューしないとこちらは絶版になってしまうかも……。
電子書籍で出ているものもある。
今回図書館で借りて読んだのは白亜書房のシリーズ。装幀がよいのだけれども……。
『コーネル・ウールリッチ傑作短篇集』シリーズ(白亜書房)も版元の倒産で消滅、ハヤカワ・ミステリにいくつか入っていたウールリッチの短篇集もほぼ全滅のようで、もしかしたら、コーネル・ウールリッチ(ウィリアム・アイリッシュ)の短篇集で現役のものって、もしかして一冊もないのでは?
— 奇妙な世界 (@kimyonasekai) 2021年1月27日
門野集訳『コーネル・ウールリッチ傑作短篇集』シリーズ(白亜書房 2002~2003年刊行)の揃いです。ウールリッチの傑作を新訳で収録するという上質のシリーズでした。最終巻(別巻)は、稲葉明雄の名訳集という趣向も良かったですね。 pic.twitter.com/3JtOkcBv1S
— 奇妙な世界 (@kimyonasekai) 2021年1月27日
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METライブビューイングでオペラ《トゥーランドット》を観た記録。
トゥーランドットをMETLVで観るのは2回目。2019-2020シーズンのフランコ・ゼフィレッリ版。
こちらはそのときの鑑賞記録。
前回、「1秒もよそ見できないほど大好き」と書いた演目、演出なのだけども、今回はだいぶ違う印象を持った。
もやもや3つ
その1。
タイトルロールのアンナ・ネトレプコが降板になった。(理由はこちら)
代役のウクライナ出身のリュドミラ・モナスティルスカは迫力もあってよかったんだけれども、やっぱりネトレプコのトゥーランドットを観たかったと思ってしまった。この先ネトレプコを観られることってあるんだろうか……。
「ロシアによるウクライナへの侵攻に対抗して、民主主義国の結束を示す顔ぶれだ」とゲルプ総裁のインタビュー。
客席にはウクライナの旗がかかり、ウクライナ、ドイツや日本の駐米大使も鑑賞する日で。モナスティルスカもカーテンコールで国旗を羽織って出てきて。おそらく1幕ごとのカーテンコールもこの日のためで……。
「私たち」を主語にして政治的立場を表明することは、アメリカの公共機関では全然珍しくないことだから、単に日本生まれ日本育ちの私が見慣れていないというだけのことかもしれない。
皆さんが芸術に何ができるかを懸命に考えた結果だと思うから、それに異を唱えるわけではないけれど、そうだそうだ、素晴らしい決断だ、こういう場所でアピールするのは大事だ、と熱狂する感情も湧かないし、むしろ当惑して、どう受け止めたらいいのかわからなくなってしまった。
芸術に政治を持ち込むな、ということではなく。音楽家の人たち、市民の人たちにもちろん気持ちは寄せている。なんだろう、このもやもやは。
こういう気持ちを味わったことを含め、間違いなく歴史に残る公演に立ち会ったと思う。
その2。
キャスティング一人ひとりはよかったけれど、それぞれに関心がバラバラで、全体的に浮ついた、まとまりない舞台に感じられて、残念だった。人物と人物との間に応答性が感じられない。
カラフ王子役のヨンフン・リーは声質は好きだけど、華奢すぎて声量がやや足らない感じ。中央アジアの王子様は馬乗り回してもっとがっしりタイプがよいのでは。いや、『乙嫁語り』の彼も小柄だからそうとは決まっていないか。家父長的じゃないほうがよいのか。
トゥーランドットはオーケストラも合唱も舞台美術もフルに壮麗壮大なので、かなり強烈な個性がないと埋没してしまうのかもしれない。ただ、すんごい誠実で良い人な王子様で、見た目も雰囲気もマッチョではないのはよかった。
ピンポンパンも前回観た時はもっとはっちゃけていて、道化役としてすごくよい個性と存在感を出していたのだけれど、なんとなく遠慮があるというか、チグハグな感じ。2幕冒頭の故郷を思って歌うくだりが好きなんだけど、うーん。。
その3。
エキゾチズム(異国趣味)、シノワズリ(中国趣味)が満載であることへのもやもやと、あからさまに「野蛮」を表現する描き方。たとえば宮廷官僚の付け爪がすごく長いなど、演出上のこと。無理難題を申し付けて解けなかったら首を刎ねるというあたりなど。
もともとの昔話から引き継がれているものと、演出上の操作と両方が絡み合っている。
どこか遠くの架空の国の話ならまだいいのだけれど、中国の北京と限定されているからなんだろう。これ中国の人が見たらどう思うのだろうか。たまたまアメリカ史の授業で、中国人差別が強かった時代があると知ったので、この日は余計にハラハラしながら観ていた。
最近見たROHのバレエ《くるみ割り人形》では各国の踊りはできるだけステレオタイプを減じるように演出されていた。
それでも幕間で衣装の人が、古い肖像画などを見て、文様の意味を取り入れたり、官吏の地位に応じた刺繍を施していたりすると話していて、ただの異国趣味で作っているわけではないことがわかって(失礼しました)、それはホッとしたのだけれど。
オペラのアンソニー・ミンゲラ版《蝶々夫人》も最初はウーンと思ったけれど、あれは下手に正確に日本文化を写そうとせず、結構違う解釈を愛で突っ走ったようなところがあり、好感が持てた。だが嫌悪感を覚える人もいるだろうと思う。そもそものストーリーにやはり一旦はムムムとなる。
演じられてきた歴史がある。音楽的価値も高い。だからこそ、上演の際はやはりなぜ今演るのかの議論が必要になりそう。
幕間のインタビュー
・舞台装置担当「METの舞台装置は、外国貨物輸送に使われるコンテナに入れて保管されている。ニュージャージーの空港の近くの専用の倉庫を借りている。コンテナは現在1,500個。最大規模の装置では27個のコンテナを使用。トゥーランドットは25個使用」……なのだそう。ぎょえーー。27個使ってるのってなんだろう、アイーダかなぁ。
・あの魔法のような場面転換もすごい。大掛かりすぎて、現地時間では幕間が45分あるらしい。
・ステージの奥まで見えるように床が手前に向かって下がっているのだが、あんなに急勾配の舞台で立って歩いて歌っている人たち、本当にすごいと思う。
・マネジャーみたいな人だけでなく、幕間にペンキ塗りの補正作業してる人とか(今やんのか!)にもインタビューしてみてほしい。時間との戦いの中でどういう工夫があるのか、毎回違うステージの作りにどう対応してるのか、子どもの頃から作る仕事が好きなのかとか、聞きたい。コロナ期間中、大変だったのではと想像しているので。METのバックステージツアー、全お仕事編。それだけの回があったら絶対行く。
・トゥーランドットの衣装は、鎧を着ているときは硬い素材、心が溶けてきたときは柔らかい素材を使っていると。なるほど。衣装担当の方のファッションもいつも見てしまう。今回の方は60代ぐらいで(完全に憶測)グレイヘア、黒のセットアップ、膝丈のスカートにパンプスを履いて似合うのはいいなぁ。シックで上品な装いだった。
物語に関して、前回からの発展
・前回観たときに、これは女と男の和解の話ではないかと勝手に妄想したが、やはり今回もそう思った。国を追われ、父王も年老いて、しかし残された自分は王族として何かしらの形で国を再興する必要がある、その使命を負っているというのに、なぜかトゥーランドットに固執する。それは彼が一国の統治を超えた別の使命、全人類を救うような使命になぜか任じられているからで、極秘使命なので近い人たちにも打ち明けずにいるから……だととしたら納得できる。
「誰も解いたことのない謎に挑戦して、栄光を手に入れたい!一番最初に勝利する男になる!」みたいなしょうもない理由であってほしくないが故に私が作り出した妄想かもしれないが。
・トゥーランドットも「今まで挑戦してきた男たちみんな軽蔑している」と言っていた。トゥーランドットについ共感が生まれるのは私だけだろうか。
・父娘の関係がよくわからない。父は皇帝なのに、「不吉な掟に悩まされていて、自分ではどうすることもできない。わしを心安らかに死なせてくれ」などと言う。
娘がやっていることなのだから、皇帝の権限で禁止すれば良いのに、それができないのはなぜか。皇帝の妻が描かれないのはなぜか。娘に引け目を感じるような何かがあるのだろうか。と、これまた勝手に妄想が走る。
・今回の一番の発見は群衆の存在だった。群衆はトゥーランドットを恐れながら、実際に挑戦者たちが処刑される段になると色めきたち、見物にやってくる。
処刑直前に撒かれた宝飾品に飛びつく。そのくせ処刑が実行されるとまた恐れ、悲しむふりをする。
新たな王子に挑戦をやめておけと言いながら、また処刑が見られるとどこかで興奮している。謎に答えられると大喜び。しかし情勢が変わって、自分達が殺されるかもしれないとなると途端に王子に逃げろと言ったり、金品で懐柔しようとする……。
かれらは常に一時の感情に動かされて熱狂し、囃し立てているたけの存在、風見鶏のように形勢によって言うことを変える群衆に見える。
一人の小さな呟きが集まって束になると、それは群衆としての叫びになり、大人数の合唱によって増幅される。ものすごい迫力だ。しかも音楽は壮麗で心地よい。行われていることは凄惨なのに、こちらまでその熱狂に飲み込まれる。
フランスの心理学者ギュスターヴ・ル・ボン(1841 - 1931)の『群衆心理』の内容を思い出す。
人は、群衆の中にいるとき「暗示を受けやすく物事を軽々しく信じる性質」を与えられます。論理ではなく「イメージ」によってのみ物事を考える群衆は、「イメージ」を喚起する力強い「標語」や「スローガン」によって「暗示」を受け、その「暗示」が群衆の中で「感染」し、その結果、群衆は「衝動」の奴隷になっていきます。これが「群衆心理のメカニズム」です。(100分de名著ウェブサイトより)
もしかするとトゥーランドットも、最初はそこまで残酷な仕打ちをしていなかったかもしれない。些細な振る舞いに対して群衆が喜んだり怒ったり悲しんだりする反応を見て、それに影響されて自分の言動を変化させていった可能性はある。
そして段々自分のやっていることがわからなくなり、歯止めが効かなくなったところをカラフ王子が救出にやってきて、この世界を正常化させていく。
群衆はいなくなることはない。けれども為政者が複数人で対話を通して正しい判断をしていけば、群衆を安定させ、コントロールすることができるかもしれない。
そういう難しい取り組みに、カラフ王子は自分の人生を賭けることにした……とか、もしかして。
あれ、そうするとやっぱり民主主義の話になるのか?
アメリカでやるのが相応しい作品になるのか?
今世界で起こっていることなのか?
あるいはこの劇場で?
『群衆心理』の初版発行は1895年。《トゥーランドット》の初演は1926年。
関係あるのか、ないのか。
勝手な符合を感じてしまう。
好き勝手に書いたが、あくまで私の妄想である。
やはり古典はさまざまな議論をもたらし、インスピレーションを与えてくれるものだ。
2021-2022シーズンのMETライブビューイング、残るはドニゼッティの《ランメルモールのルチア》とブレット・ディーンの《ハムレット》。どちらも観たい。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
2022年夏至のコラージュの会をひらきました。
年に4回、春分、夏至、秋分、冬至にひらいている製作と鑑賞のワークショップです。
https://collage2022midsummer.peatix.com/
リピート参加してくださる方ばかりだったので、はじまる前の雑談で、この会の良さについてあらためてうかがいました。
・人の話を聴くこと、自分の話を聴いてもらう、集中して手を動かして作る、出来上がった作品を鑑賞しあう、この時間がとにかく楽しい。見返すことはあまりしない。
・楽しい時間が作品として一枚に残ることがよい。
・ときどき見返すことができる。何回も参加していると、その時間が積み重なってくることもうれしい。
ありがとうございます♪
皆さんが今回楽しみにしていることは、
・集中したい
・何か見えかかっているものをつかみたい。キーワードは「蝶よ花よ」でいきたい。
・大波が来ている。今どんな状態なのか、ここからどうなっていくのか、確認したい。
・ドライフラワーのように、綺麗なままでずっと楽しめる何かを作りたい。
とのことでした。
制作前の「荷卸し」の聴く話すの時間。
一人5分話し、ただ聴いてもらい、終了後にフィードバックをもらう。
これを話し手を変えて行うだけですが、この時間はやはりとてもよいです。
たかが5分、されど5分。
発見、インスピレーション、整理、エンパワメント。いろんなものが行き交う時間。
ぜひ日常でも作ってみるといいですよね。
あなたにだけ意識を向けて聴く5分。私だけに意識を向けて聴いてもらう5分。
あれこれアドバイスするより、よっぽど人のためになるかもしれない。
しかも今回気づいたのですが、コラージュをつくる前段として入れている気軽なワークなのもいいのかもしれません。聴き合うことが目的の場だと出てこないような、軽さがあるところがよいのかも。
肩の荷がすっきりおろせたところで、制作に入ります。60分ほど。この時間は話をせず、お互いの存在を画面の向こうに感じながら、各自もくもくと作ります。
今回は全体的に進みがスムーズで、時間通りに作り終えました。
お互いの作品を見て、感想を述べ合います。
すごいエネルギーの爆発を表現した人も、精神世界の深さを表現した人も、今まで作った中で一番のお気に入りができた人も、どうして自分でもこんなふうになったのかわかんないようなものが出来ちゃった人も、それぞれに満足のいく作品になりました。
個人的には、皆さんのお話を聴けたことや、皆さんの制作物を見せていただけたことが、いつもにましてありがたく感じました。正直、「他の人は今どんなふうに生きているんだろう?」と、今あまりつながりを感じにくいところがあったのです。
表面的なおしゃべりとも、深いセラピーとも違う、気軽で、温かくて、今の躍動が感じられる場だったなと思います。もちろん私のための場ではないのですが、皆さんに喜んでいただけて、私も楽しく開催できて、今回もとてもよかったです。
ご参加いただき、ありがとうございました。
次回は秋分の日。9月23日(金・祝)13:00〜です。
募集は1ヶ月ほど前からPeatixで行います。
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出張開催承ります
雑誌やチラシや写真を切って、台紙に貼り付けていく、だれでも気軽に楽しめるコラージュです。オンラインも可。お問い合わせはこちらへ。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
『サウジアラビア、オアシスに生きる女性たちの50年 ー「みられる私」より「みる私」』を読んだ記録。
2019年の同名の企画展の図録であり、一般書としても販売されている。これを読むと、展示を観に行きたかった、実物を目で観たかったな。
まず表紙を見てあっと思った。この展示を思い出した。また仮面文化に会えた!
また、片倉もとこ氏に関しては、文化学園服飾博物館の展示でコレクションの一部を観たことがある。サウジアラビアでフィールドワークをしていた人として認識していた。
『サウジアラビア、オアシスに生きる女性たちの50年』展は、文化人類学者で国立民族学博物館の名誉教授だった故・片倉もとこが、サウジアラビア西部のワーディ・ファーティマ地域で行ったフィールドワークでの資料を元に、最新の追跡調査と比較しながら、この50年の同地での変遷を辿るという趣旨で構成されている。
日本社会におけるサウジ女性に対する偏ったイメージとしては、「黒いベールで顔まで覆い隠されることにより社会のなかで不自由に暮らしている女性」というものがある。それに対して片倉もとこは、ベールに覆われた女性たちとの出会いを通じて、女性たちは「見られる女」/「みられる私」ではなく、「見る女」/「みる私」としての私に関心があると気づいたという。その考察をよりどころに、サウジアラビアひいては広くイスラーム社会に対して抱きがちな固定的・一面的な理解を超えて、「ベールの内からみる」主体的に生きる女性の視点へと読者を誘いたい、と考えている。(「はじめに」編者・縄田浩志)
なんだろう、ここだけでもうグッときてしまうのは私だけだろうか。
まさに私は「中東のムスリムの女性のイメージ」を抱いていた。それがいとも軽やかに覆されていくのだ。女性たちがつける仮面は、ここでは「飾面」(地域の言葉では「ブルグア」)と言うようだ。(ここのブルグアは、真ん中部分に、縦方向にコインが10枚つけられているのが特徴)
飾面をつけて、黒いヴェール(アバーヤ)をかぶることで、容姿で判断されがちな女性が、中身で勝負するようになる。容姿が商品化されるのを防ぐことができる。もちろん実用性もあって、砂や強い日差しから顔面を守る効果もある。こちらからは相手(主に男性)をよく見ることができるが、相手から自分は匿名性が強い存在になる。そうすることで力の勾配のある社会構造の中で、対等性を持てる場面もある。
容姿で判断されることを、違いや差を「あること」として受け入れ、それを逆手にとって、やらされてるんじゃない、むしろこちらにとって有利な場面もあるのだという捉え方。
より容姿で価値判断されがちなジェンダー、女性として日本で暮らす私としては、なるほどと思うところもある。見方が変わった。
とはいえ、どうして女性の側だけが隠さなければならないのだとも思うし、そうやって一方的に「見る」という仕掛けをしてようやく対等になるというのも、やっぱりそれはそれでしんどいような気がする。宗教的にも性別は男女二元論なのだろうかというところも気になる。
ちなみに黒いヴェール(アバーヤ)の下は皆さんとても鮮やかな衣服を着ているらしく、女性同士の場ではその華やかさを楽しんでいるらしい。なんだか日本の平安時代にも通じるような、男女による空間の分割と、見せる/見せないの塩梅はおもしろい。
ここでまた「はじめに」の文を思い出すと、自由/不自由の感覚というのもあくまで異文化の立場からの感覚であり、現地の人たちにとってどうかというのはまた別の問題として考えなくてはいけない。
衣服の工夫でいえば、おもしろかったのは、
女性は男性よりも汗をかきにくく、かいた汗がながれおちる割合が男性よりも少ない。(中略)暑くなると女性は太ももの皮下の血液を増やして、汗をかかなくても、伝導や輻射で熱をすてることができる。そうなると、女性にとっては太ももの部分の衣服がゆったりしていて、太腿から出てくる熱を逃しやすいほうがつごうがよい。(p.052)
これは自分の身体のことを思い出してみてもよくわかる。暑い時、太もものあたりはとても熱を持ちやすいし、椅子に座っていたりすると、太ももの裏の汗の量は大変なことになっている。そうか、だからやはり夏場はスカートや、太ももの部分がゆったりしている衣服がよいのだな。そこに熱をこもらせないほうがよい。
特にここ20年ほど、温暖化の影響で夏場の暑さが驚異的になってきたので、衣食住は熱帯の人々に学ぶことが多い。ここでまた一つ知恵を得た。
もしかすると、頭や顔も布で覆ってしまって、肌の露出を少なくして、強い日差しから守ったほうがよいのかもしれない。日本でも仮面のようなものをつけたほうがいいのかな?
ジョギング用のマスクで、目元から首まですっぽりと覆うようなタイプは、かなりこの中近東の人々の衣服に近いような気がする。
ベドウィン・ジュエリーと呼ばれる装身具は、古代から護符やステイタスの象徴として身に付けられ、珍しい石やガラスと彫りの技術などが組み合わさった職人技で作られていたが、今は天然物が入手しづらくなったものは、プラスチックで代替されている。
こういう民族衣装ばかり見ていると、現代生活とは程遠い砂漠のベドウィン族の暮らしを想像してしまうが、今現在の姿もうつされる。(p.148 ワーディ・ファーティマ社会開発センターの影響と役割)
片倉もとこがかつてフィールドワークに携わっていたワーディ・ファーティア地区でも、水道が整備されてからは、人々はわざわざ遠くまで水を汲みにいくこともなくなり、定住している。行政が整備され、学校(初等教育〜中等教育)、大学、職業訓練センターもある。病院もある。サッカー場、体育館、プールなどもある。
女性の手作りの品を売るコーナーも設け、女性たちの社会進出をサポートする場としても機能しているとのこと。
そういえば、サウジアラビアは、2018年に初めて女性の自動車運転が許可されたという国。
こういうのもあった。男性「保護者」。
東京外大の仮面展でもそうだったし、本書でもページを割いて説明されていたが、女性が写真に出ることは相当難しいことのようだ。
仮面展のときは、展覧会ポスターのみ撮影可で、それ以外の展示物を写真にとってインターネットなどに載ってしまうと彼女たちに大きなリスクがかかるので絶対に撮らないようにと表示があった。それは彼女たち自身が決められるというよりも、家父長や社会を主にコントロールしている男性によって決められているのだろうか。
当地の「女性が顔を見せること/見せないこと」の意味について、あるいは女性の生き方についてもっと知りたいと思った。
本書に書かれていた片倉もとこのエピソードとして印象深かったのは、最初はカメラやメモも持たず、まずは関係性をつくることを大事にしたという。また、女性だけの場にいるときに、どれだけ記録したいという衝動がわいても、あえてそうしなかったこともあったと。
女性だけの集まりの中で観察者としていきなりカメラを向けることは、信頼を得ている片倉さんならやろうと思えばできなくなかっただろうけれど、女性たちが自分を開放し、楽しんでいるその場を大事にしたかったそうだ。深い愛が感じられる。
この本を開いたとき、私は文化人類学的な好奇心をいっぱいにしていたのだが、次第に、現実にそこで生きている人たちの姿を、私もできるだけ偏見なく、そのままに受け止めたいと思うようになった。また地域ごと、世代ごとの細かな違いにも目を配りたい。大雑把にはつかみつつ、決めきらない、留保しておく。今は違うかもしれない、個別には違うかもしれない。
そして、それこそがまさに今回の企画の趣旨だし、国立民族学博物館の目指しているところではないかとも思う。
また、50年の変化は大きい。失われていく文化も多くある。先日、同じく国立民族学博物館で観たモンゴルの100年を比較する展示でも、100年の、特にここ50年の変化の大きさを感じた。地球規模で今何が起こっているのか。大きな流れの中で、一個人はどう生きるか。他の人間とどう関わって生きるのか。
観ることが考えを進めてくれる。
▼参考資料
・『月刊みんぱく』紙面がPDFで読める。(なんて太っ腹な!)
https://older.minpaku.ac.jp/museum/showcase/bookbite/gekkan/201906
・片倉もとこ記念沙漠文化財団。学校での講演活動なども行っている模様。
・仮面展のときも、若い世代は「ファッションとして楽しんでいる」とか、「伝統を大事にしたい」という動機でつけているという説明もあった。
今後もサウジアラビアの女性に関するニュースや資料にアンテナが立っていきそう。
過去のフィールドワークや先行研究をしている人がいたからこそ、今との比較が可能になるし、変化の度合いもわかる。やはり片倉さんの偉業は大きい。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』を読んだ記録。
日記のような、エッセイのような、文芸のような、ガイドブックのような、インタビューのような、何とカテゴリ分けできない、不思議な感触のある本だ。
軽いタッチの文章ながら、読むのにえらく時間がかかった。
その理由は三つある。
一つには、その「カテゴリ分けのできなさ」に由来している。先に挙げたようなさまざまな表現スタイルと内容が次々にスイッチしていく。一定ではない。
各章はだいたい美術館ごとになっているので、訪問した美術館での鑑賞体験が核にはなっているのだが、そこに至るまでにあちこちにスイッチしていくので、「ええっと、今なんの話だっけ」と混乱し、読み返したりしているので時間がかかる。
時間がかかった理由の二つ目は、この本は、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』というタイトルだが、「目の見えない人とアートを見るってどういうことなのか?」をただ説明しようとしている本ではないということを飲み込むのに時間がかかる。
本書では、「目の見えない人とアートを見るってどういうことなのか?」に対する答えに直接踏み込んでいったりはせず、白鳥さんと見に行くことになった顛末や、自分自身とアートとの関わり、誰と行くか、何を観るか、どこで観るか、観たあと何があったか(つまりその日の出来事の流れの中での鑑賞)……を紹介しながら、その中に自然に「白鳥さんと観る」ということを含めている。
つまり、ある日のある人とのある鑑賞という体験が、どのように人生や生活の営みの延長として位置づけられているかを読者に共有するために、すごーく遠くから、広く範囲を取って、だんだんとアプローチしていっている。
全盲の白鳥さんがどうやって美術館に通うようになったのかも、たぶんこんなに回りくどい書き方をしなくても、インタビュー記事なら2,000字ぐらいで済んでしまう。でもそうじゃないことを伝えたい。そうではない営みをきっと伝えたいのだろう。
説明ではないというところが、この本の持ち味なのだろう。
ともにアートを観るということを通して、人と、世界との「かかわり方」とでも言うべきものを、読み手もかかわって見に行く本と言ったらよいのか。
そして、理由の三つめ。
川内さんがご自身の友人関係をひらいて、大切な人を丁寧に紹介して、一緒に鑑賞ツアーに連れて行ってくれるのはとても楽しい。ただ、その登場人物や、登場人物との関係に関心を持ったり、微笑ましく感じられないと、なかなか読み進めるのがしんどいところも実はある。
もともとの川内さんファンや、かれらのうちの誰かを知っている人にはもしかしたらとても楽しいのかもしれないが、この本で初めて著書を読む人には少し戸惑いを与えるかもしれない。そして時間がかかったということは、私もどこか馴染めなさがあったのだろうと思う。
私は本のタイトルや概要を読んで興味を持って、全盲の人と作品を観ることの体験そのものを知りたい人、そこで筆者が気づいたことを端的に知りたいと思っていたので(つまり読書で得たい体験が明確すぎる)、「前後」の経緯や会話の部分は冗長に感じてしまった。この入れなさってなんだろう、とちょっと考えている。
ただ、観ることの楽しさや意味、発見の喜びなどを共有しようとすると、こういう全体性に及ぶよな、ということも思う。
ある見方をすれば冗長なのだけど、説明になるとこぼれ落ちてしまうたくさんのことがある。
誰と観るか、どんな経緯やシチュエーションの中でそれを観るか、自分という個人にとってのその作品を観る意味とは何か、観て話すことで思い出したこと。それらすべて「鑑賞」にとって重要なことだ。
それを他人にひらこうとすると説明ではなくなるし、少し遠くから共有していくことになる。そして個人的な関係や、主観的な語りが含まれていく。そのことがやや他人を居心地悪くさせるところもある。逆に親近感を芽生えさせることもある。
羨ましいという気持ちもあるのかな。不遜にも。「私もこういうのを書いてみたかったなー」という。私がいつもやっている営みもまさにこういうものだよ。なんとか表現しようともがいているけれど、これというものが形になっていない。うぐぐ。
いやまてよ、とも思う。
ここまではもしかすると友達と美術館に行って話しながら観ることに慣れている人間にとっての感想かもしれない。
そうではなく、本はよく読むけれど、美術館にはあまり行かないという人は、ここまで書いてきたようなごちゃごちゃしたことは考えないのかもしれない。
普段美術館に行かない人、あるいは一人で行くのが常で、誰かと観るとどうなるのか、あまり想像できないという人が、こうやってツアーのように連れて行ってもらえたら、とても楽しいだろうと思う。
美術館で作品を観るってどうやってするんだろう、
なんのために観るんだろう、
誰かと話しながら観るのも想像つかないのに、見えない人と観るってできるのかな、
そんなことを考えている人にはピンとくるのかもしれない。
本編中、実際に鑑賞しているときのやり取りはとてもおもしろかった。人と観ることによって大事なことを思い出したり、分野を超えた知識や経験が急に収斂される感じや、学んでいく過程は、人の体験として読んでいてもやっぱりわくわくする。
それぞれの美術館の成り立ちや取り組み、作品や作者、制作背景などの解説も詳しい。(表現がスイッチして、突然詳しく説明されるのでやや驚く)こういう解説ができる方は、「アートは素人なので」とか絶対言ったらあかんーー!ずるいー!
目が見えるとは・見えないとはどういうことかに気づくところも、とても新鮮に読んだ。障害のある人とのかかわりは、私もおそるおそるだから。
たとえば白杖をついている人に駅で見かけたときに声をかけていいのかどうかとか。困ってそうだったら声をかけることにしているけれど、声のかけ方はそれでいいのかとかわからなかったので、この本で白鳥さんが教えてくれてありがたかった。
でもこれも白鳥さんが目の見えない人代表というわけではないので、個々人で経験しながら学んでいくことではあると思う。川内さんの中でちょっとずつ気づきが生まれて発展していく感じがよかった。そうか、誰でも最初からいっぺんに全部はわからない。お互いに知っていくんだ。
その作品を観ている自分がどういう人間なのか。それが観ているうちにわかってくるところ、人の知らなかった面を少し垣間見られる。ときには怖れを抱くところかもしれないけれど、作品を通して語るから、表面的に終わらない。ずっと自分の中に残って問いかけ続けてくれる。それこそが鑑賞の醍醐味。
それを川内さんのお引き合わせで、白鳥さんやマイティさんの話を聞けたのはよかった。暴力のこと、優生思想のこと、差別のこと……黙って聴いている自分の中でも考えがめぐる。
実際に白鳥さんと鑑賞している様子は、こちらの特設サイトにある動画で見られます。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
小宮信夫著『写真でわかる世界の防犯』の読書記録。
この本を知ったのは、Radio Dialogueという番組で、ゲストの小川たまかさんが小宮信夫さんの「犯罪機会論」をチラッと紹介されていたことがきっかけ。
物理的、心理的に犯罪をしにくい環境をつくることで、犯罪を予防する、防止する、という文脈だった。
さっそく「犯罪機会論」を検索して、この本に行き当たった。
犯罪機会論とは。
防犯対策の軸の一つで、「心理的・物理的に犯罪を行い難い環境を作り出し、犯罪の機会を減殺することに力点を置く」(p.2)
環境から犯罪を誘発しやすい要因を取り除いたり、起きにくい設計にする。素人ながらパッと思いついたのは、たとえば公園を取り囲む木々が鬱蒼としていて暗く、街路から公園内が見づらくなっていたら、伐採して見通しをよくすることかな。
とにかくこの本は、
入りにくく
見えやすい
この二つを覚えていれば、犯罪機会論の本質はつかんだと思っていいと思う。そのぐらい、どの事例でもとにかくこの二つが連呼される。
筆者が世界中を歩いて見つけたたくさんの事例が紹介されていく。
建物やランドスケープの設計一つで、犯罪件数がぐっと変わったマンション。
薬品の盗難防止のため、二つのドアを通らないと入れない病院の医薬品室。
暴行やストーカー被害を防ぐためにスタッフ用と一般客用で分けられた駐車場。
タクシーの運転席を仕切るパーティション。
夜は暗く視認性が低いため、通行禁止にした街路。
進入路を限定したり、垣根に茎に鋭いとげのある植物を植えた住宅街。
広場や通路に面した大きな窓やバルコニー、多くの窓で見えやすくした団地。
物理的に、心理的に、犯罪の機会を減らす。
ここでたくさんの実例を見て行くだけでも、「危険な『景色』を見抜く」筋力がついてくるような気がする。
難しいのはたぶんこの二つ。
・犯罪の機会を減らしながら、コミュニケーションは断絶させない。
・コミュニケーションは確保しながら、プライバシーは重視する。
時には権利と権利がぶつかることもあるだろう。
健康や景観や利便性、まちの歴史など、考慮すべき要素は多岐にわたる。住民との対話の場も必要になるだろう。「誰のために、なんのために、どんな手段で」を共有していかないと、権利や手段の対立が起こる。
愛着や関心を生むツールやデザインであることも大事そうだ。
都市デザインとひとくちに言っても、関係者の立場は多岐に渡るし、関わる人数も多そうだ。いや、それとも犯罪機会論が浸透している地域であれば、そんなに難しいことではないのだろうか。
筆者は繰り返し、日本では犯罪機会論が全くと言っていいほど知られていないと述べる。だからこの本を書いたのだと。
犯罪学では、人に注目する立場を「犯罪原因論」、場所に注目する立場を「犯罪機会論」と呼んでいる。(中略)つまり動機があっても、犯行のコストやリスクが高くリターンが低ければ(=犯罪の機会がなければ)、犯罪は実行されないと考えるわけだ。海外では、犯罪原因論が犯罪者の更生を担当し、犯罪機会論が犯罪予防を担当している。ところが日本では犯罪機会論は全くと言っていいほど知られていない。(p.6)
日本で「犯罪機会論」があまり発想されてこなかった理由も、本書では少し触れられている。「日本は四方を海に囲まれている、建国以来一度も異民族に侵略されたことがない。だから経験値が低いのでは」と。ふーむ。
歴史の中で、同じ「島」の中での領地争いはあるにはあったが、外からの侵略よりも、内部の犯罪抑止を考えるほうが進んだからだろうか。今ふと新吉原遊廓を思い出したが、ああいうふうに「外に出さない」「内部で処理する」というような、内向きの思考に行ったのだろうか。
もちろん犯罪が起きるのは環境だけのせいではないので、犯罪原因論のように、動機の形成の中で現れる認知の歪みなどにも注目して、人に対してアプローチしていく必要がある。映画『プリズン・サークル』を思い出す。懲罰ではなく、回復や復帰の発想で。あるいは人間にはそれを起こす可能性があるという前提で、人の関わりの中で未然に防いでいくという発想だ。
環境にアプローチする話は、私の共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』の拙稿「いじめ予防のトリセツ」でも触れた。対談相手の弁護士さんの話では、環境へのアプローチは浸透が難しく時間がかかるというお話だった。
「誰かのせいにして責任をとらせる」「性根を叩き直す」ほうが簡単で楽に見えるのかもしれない。でももはやそういう時代ではない。一人ひとりの主体性や尊重の上、集団の知恵として防ぐ方法を学んでいくのが、学校という学びの場が率先してやっていくことなのではないかと思う。
防犯教育の考え方も少しずつ変わってきてはいるが、相変わらず「不審者」という言葉が使われる。「おかしな奴は外見でわかる」という言説もまだまだ根強く、「危険な『人』を見抜く」ことに重点を置かれやすい。あるいは、個人の防犯行動にすべてがかかっているかのように言われることもある。結果、その「行動が間違っていた」人の責任に帰されやすい。また「不審者の見た目」に偏見が伴いやすいことで、重大な人権侵害が起こることもある。こういうことは笑い話や「ネタ」になりやすいので、より注意が必要だ。
犯罪機会論のように、環境へのアプローチが重要なのは、社会にはいろいろなルーツや習慣や常識で生きている人間がいるし、もちろん犯罪の機会を窺っている人間もいるので、その社会のルールを浸透させようとする意識改革だけでは限界がある。
だから、ゾーニング(すみわけ)など、インターフェイスから変える発想はとても大切になる。そのときに自然と身体の使い方が変わるようなデザインであればあるほど良い。
この本を読む前だが、「景色を解読して危険を予測する」を自分なりに発揮した経験を思い出した。
近隣の歩道橋の柵の塗り直し工事があったときのこと。外から階段部分が見えないように全て覆われていて、明らかに犯罪を誘発しそうな見た目になっていた。その近辺は、歩道橋を通らないと反対側のエリアには移動しづらいような導線設計になっている。
しかもそこは昼でも薄暗く、夜になるともっと暗くなる。街灯はあるとは言え、やはり暗い。大人であれば、工事期間中は迂回するようなことも考えられるが、面倒臭いときはそのまま通ってしまうだろうし、小学生の通学路にも指定されているので、子どもたちは避けられない。
私は地元の議員さんに連絡して、なんとか対応できないかと要望を伝えたところ、現場を見て「確かに危ない」と判断してくださって、工事担当の会社に申し入れてくださった。
結果、点滅式の帯のライトを設置したり、人が通過するときに点灯するライトをつけてくれたりはした。しかし囲いを取ることはできないとのことだったので、私は工事が終わるまで何か犯罪がないか、気が気ではなかった。実際には特に事件の情報は入ってこなかったが、期間中、誰も怖い思いをしていなければよいのだが。
こんなふうに犯罪機会論を詳しく知らなくても、その視点を持つと、自分の暮らす町や、利用した公共施設や、日々働く職場を安全で安心な場所にするために、自分が貢献できることが増える。逆に、こういう些細な住民の防犯への関心が薄くなっていると、誰の管理責任でもない場所が荒れてくる。ゴミ投棄や壁の落書きなど、目に見える環境が荒れてくると、犯罪が起こりやすくなる。
人間はかなり環境に心理的に左右される生き物だという前提で、組み立てていくことも大事だと、場づくりの仕事をしていて思う。
犯罪機会論を現場に導入するにあたっては、暴力を受けやすい立場、たとえば女性や子どもの「なんか怖い」という声に真摯に耳を傾けることも重要ではないかと常々思う。
「暴力を受けにくい立場」、特に男性だけで考えていても、おそらくピンとこないことも多く、想像が及ばないために危険性が矮小化されやすいこともあると思う。私の実体験だが、怖いと言っても「何が?」「大丈夫だよ。怖がりだな」などと返されることもしばしばだ。
恐怖を感じる場面ではフリーズする(頭が真っ白になって体が動かなくなる)という身体反応についても、環境を作る側、保守する側は理解しておいたほうがいい。防犯ブザーを鳴らすとか、走って逃げるとか、大声で叫ぶとか思考判断が必要なことはどんなに屈強な大男でも難しい。まして子どもや女性にマンツーマンで対応させようとしても無理なのだ。
最後にもう一点。
本書は、現代の防犯事例を載せているだけではなく、人類が積み重ねてきた防犯デザインの歴史を古今東西、世界92カ国の名所、名跡を訪ねて紹介しているところがこの本のユニークなところだ。
有名なところでいえば、山の稜線を利用して見晴らしをよくした万里の長城、巨大な像を狭い出入り口のルクソール神殿などがある。
城、宮殿、城壁、道、橋、砦・要塞、塔門、要塞化された住居など、地形を利用したり、時に大規模な工事を行いながら、人々は長い歴史の中で工夫を重ねてきた。
世界各地の名所を訪れているような感覚もあり、こういう遺跡があるのかと初めて知るところもある。図版満載の全ページカラーの本なので、まるで旅行ガイドブックだ。知っている名所も防犯デザインという軸で眺め直すので、見方が変わっておもしろい。
学校の科目でいえば、地理や世界史の領域とも重なる。都をどこに置くか、中心となる城をどのような設計にするか。そうか、あれは「防犯」とも言えるのか。
書いても書いても感想が尽きない。
いろいろな楽しみ方や役立て方ができる本なので、ぜひ読んでみてほしい。
小宮氏の寄稿記事。
「落書きや放置自転車の発する「秩序感の薄さ」が犯罪を誘発する」(2022.4.14 Newsweek日本版)
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
昨年から編集とクラウドファンディングのお手伝いをしていた本が、ついに完成しました。
『えんじゅ アフターケアから出会いへ』
アフターケア全国ネットワークえんじゅ
表紙装画:堀川理万子さん
ブックデザイン:UMA / design farm
温かな手触りですが、小さいながらも厚みもしっかりとある造本です。
現場で日々起こることを紹介したり、実務についても扱う章もありガイドブックとしても使えますが、「出会い」をテーマに編まれているエッセイや座談会やコラムも読み応えがあります。
お送りした方々からは、「美しい本」「よい本」と大変評判のようで、微力ながら関わった身として、私もとてもうれしいです。
社会的養護や、社会的養護のアフターケア、児童福祉の分野ではない方も、「自分や自分の仕事に遠からず関係あることだから」と読んでくださっていることもありがたいです。そういうものになってほしいと編集長が言っていた通りの動きになっているようです。
思いを込めて贈ると届く、を実感しています。
6月下旬からはクラウドファンディングのリターン「読んで語ろう!プラン」の読書会も始まります。
ファシリテーターは編集長の矢嶋桃子さんで、私は読書会の準備から当日の運営サポートもさせていただきます。
皆さんがどんなふうにこの本を読まれたのか、お話を聴くのを私も楽しみにしています。
本書は、クラウドファンディングでサポートくださった方へのお届け品のため非売品ですが、クラウドファンディングに間に合わなかった方にも、今後なんらかの形でお譲りできるよう、方法を検討中とのことです。
気になる方は、えんじゅへお問い合わせください。
詳しい中身は、こちらのクラウドファンディングのサイトでご覧になれます。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
インスタグラムを眺めていたら、NYPL(ニューヨーク公共図書館)の投稿が流れて来た。
NYPL Summer Bookshelf(夏の本棚)という企画で、スタッフの方が夏の一冊をおすすめしている。
何気なく観ていたら、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』だったので驚いた。英訳されていたんだな。
英題は、"HOW DO YOU LIVE?"。なんとも直球。いや、原題も直球なんだけど。
「若い人たちへ、若い心をもつ人へ」と紹介されている。いいな! 私の共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』も同じメッセージを出しているから。
「"もののけ姫"、"千と千尋の神隠し"、"トトロ"を制作した宮崎駿も、子ども時代に愛読していたそうです」
へえーそうだったんだ。
日本の公共図書館でも「夏休みの読書の手がかり」として、冊子やチラシが、紙媒体か電子媒体で配布されることはあるけれど、スタッフの方がこうやって顔を出して動画を配信したりしない。そもそも公式アカウントで気軽に発信していく雰囲気はない。
みんなにもっと本を読んでほしい!図書館に来てみてほしい!というときに、楽しそう、カッコいい、明るい、という雰囲気は大事なんだよなぁ。
NYPL、だいぶうらやましい。そして実際に見学してみたい。
ニューヨーク公共図書館のアカウントは、この映画を観てすぐにフォローした。
フレデリック・ワイズマン監督作品『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』(2017年製作)
▼公式ウェブサイト
▼私の鑑賞記録
鑑賞したときは、関連するアカウントなどもチェックして、興味があればフォローするようにしている。
ドキュメンタリー映画であれば、その作品の中で描かれていたことと現実はつながっていることが確認できる。
映画で見かけたものを日々の動きの中に見ることもできるし、映画では描き切れなかったものを探すこともできる、映画は過去の一部の切り取りだったが、時々刻々と変化する「今」をキャッチアップすることもできる。
こうして、一つの作品をきっかけにどんどん世界が広がっていく。
これが鑑賞の楽しさだ。
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
映画『マロナの幻想的な物語り』の2回目を観た記録。地上波TVでの放映を録画しておいたもの。
1回目は、子と一緒に劇場に観に行った。今もときどき思い出したように感想を話すときがあるし、トレイラーにもあるように、マロナが出会う人間からそのときどきで異なる名前をつけられていくことが印象に残っていて、「きみを〇〇って呼ぶよ」と言い合う遊びが、今も我が家では粘り強く続いている。
※以下は映画の核心に触れているので、未見の方はご注意ください。また、あくまで私の個人的な解釈です。
実は、最後のシーン、どうしてマロナがソランジュを追いかけたのかがわからなかった。
マロナは人の言葉がわかるから、「1時間待っていて」といえば、そのとおりにもできたはず。でもそうしなかった理由が2回目でようやくわかった。
ソランジュに何か「嫌な臭い」を嗅ぎ取ったんだろうと思った。臭い、つまり気配。勘、予知のようなもの。悪いことが起こりそうな予感。
一人目のマノーレのときも、二人目のイシュトヴァンのときも、嫌な臭いを嗅ぎつけてマロナは自分から出て行った。かれらの元を去った。しかし今回はそうせずに、ソランジュを行かせてはいけないと強く思って介入したのではないか。
おじいちゃんが亡くなりかけるところで止めた。おじいちゃんは天国にのぼりかけてとても幸せそうだったけれど、マロナが止めたことで現世に戻って来てしまった。しかしそれによって長年の不和が少しだけ温かいほうが動いたように見えた。マロナは「犬の務めですから」と言った。
客観的に見ていると、止めたことと、止めなかったこと、どちらがよかったんだろうと考えてしまうが、マロナには自分がやるべきことに迷いがない。「だってわたしは犬だから」。
最後のシークエンスは、それまでに観客に聞こえていたマロナの心の声が一切しない。
ソランジュと初めて会ってからたぶん6, 7年ぐらいは経っていて、追い出されることもなく、出ていかざるを得なくなったこともなかった。猫とも仲良くなり、おじいちゃんからもお母さんから可愛がられているマロナは、家族の一員になった。
だからマロナはソランジュを必死で助けようとした。
家族の一員だから、そしてそれが犬の務めだから!
ソランジュの家の前の公園はいつも金色に光り輝いている。初めてソランジュに会ったときから変わらず、ずっと。あのときのソランジュは、マロナの声が初めて通じた人間だった。そのときのことをマロナはたぶん忘れたことがない。
子どもだったソランジュが大きくなるのを見届けていくことももしかしたら犬には幸せなことなのかもしれない。一番長くいることができた家族をマロナは特別に感じた。
だけれども、単なる感傷では終わらない。マロナが恩義を示したり、ソランジュが反省したり、愛を語ったりすることはなく、物語りは終わる。死は突然訪れる。
最初に観たときは最後はショックだった。もちろん冒頭にマロナが車に轢かれたことはよくわかっていて、巻き戻して見ていることはわかっているのだけれど、そこに至るまでの過程を見ていると、そういうことだったのか、と呆然とする。
でもこうして見返してみると、苦さや切なさの中からじわっと幸せや愛が滲み出てくる。
人間それぞれに孤独だったり、人生のつらさを抱えている。
仕事、家族、病、居場所。何をすればよいほうに転がるのかもわからない。
ひと昔、ふた昔前の映画なら、犬が幸運を運んできた使者だ!というハッピーな話にもできたかもしれないけれど、もうそういうのも手放しで楽しめない今の時代には、こういう物語りがよく合う。
そして、やっぱりマロナ役はのんさん以外に考えられない。外国のアニメーションは字幕で観たいほうだけど、これは例外。吹替え版がとてもよい。
またマロナに会えてよかった!
そして今回も子と感想を話し合えてよかった!
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
乃南アサ著『水曜日の凱歌』を読んだ記録
14歳の少女の感受性を通して見る、戦中〜戦後の日々。復興の陰で封殺された性暴力と搾取の構図、家族と社会の変化を、史実を引きながら描く物語。
生まれ育った東京の本所を焼け出され、点々としながら新橋で終戦を迎え、母が仕事を得た大森海岸へ。そこでは日本政府が占領アメリカ兵のための慰安所(RAA)を作り、女性を募り、売春をさせていた。母の変貌に気づき始めたころ、鈴子との関係も変化していく。さまざまな立場の人との出会いを通して知る、女にとって男とは、男にとって女とは、権力にとって女とは。自分にとって生きるとは。そしてあの戦争とは……。
・・・
個人的にRAA(特殊慰安施設協会)や戦後の買売春について調べていて、行き当たった。私が調べた範囲のことと合致していて、綿密なリサーチの積み重ねで書かれている小説だと感じる。昨年私が個人的に聞き取りをした方の話とも符号するところがある。
背景を知らなくても読めるが、以下のサイトで概要だけでも抑えてから読むと体験が違ったものになると思う。
(4)戦後日本の売春 ◆RAA(特殊慰安施設協会)―占領期の買売春(1945-46年)
読後、印象に残るのは、鈴子の感受性の強さ。
東京の焼け野原を有様をよく伝えてくれる。写真や文字、ドキュメンタリーなどでしか触れたことのなかったその時代の空気や足下の感触を、一人称で内側から語ってくれる。ああ、そんなふうだったのだ、と思う。まるで今鈴子とそこに立っているかのようだ。
鈴子は、人間が発している「見たことのない冷たい目の光」や「嫌な感じ」に敏感だ。騙されてきた、騙していると思うから、見抜こうとする。生き延びるために身に付けた術なのかもしれない。
14歳の鈴子は、自分が性的な眼差しを向けられることに気づきはじめる。性的に粗雑に扱われる存在であるということを知る。大人たちは知らなくていいと言ってきたり、知っておいたほうが言ってきたりする。守るようで守らない。わかっているようでわかっていない。「負けたんだから」と飲み込まされそうになっている。
読み進めながら、私の中の14歳も、「あんまりだ」と叫ぶ。
鈴子はやがて自分が持つ特権や、自分の内なる差別心とも向き合っていく。「ああはなりたくない」と思っている、そしてそのことに罪悪感を抱いている。母のように「自分が勝つためには人のことなどかまっていられない」と冷淡にはなれない。母が女性として自立を求めてきた思いも理解できるが、根源的な嫌悪感もある。親子の関係の変容が見事に描かれている。
鈴子や母の周りにはいろんな女性が登場する。一人ひとりいろんな出自や経緯や立場があり、背負ってきた人生は様々だ。史実通り、RAAは性病の蔓延を理由に閉鎖され、行き場を失った女性たちは「街娼」として生き延びようとし、社会から激しい差別に遭っていく。そのことを、近くにいたけれど免れた女性の立場や、少しでも何かが違っていたらそうなり得たという立場から、自分たちが「見捨ててきた女たち」への懺悔の気持ちと共に描いている。
「そういう時代だったから」で片づけられないのは、このことがほとんど語られないまま、国家による重大な性犯罪だと取り扱われないまま、現代に至ることが、様々な社会課題の根っこになっているからだ。
端的に言えば、社会的に立場の弱い者を作り出すこと、とりわけ、女性や子どもを暴力の捌け口にすること。そしてしたことを認めないこと。加担した人が口をつぐむこと。
戦中の慰安所と戦後の慰安所、どちらも官製。こうして差別、偏見、蔑視、嫌悪は、「ちから」によって作り出された、ということが物語まるまる通して示される。「ちから」は恐怖や惨めさや恥や尊厳の蹂躪を餌に膨らんでいく。
誰でもこの差別構造に乗っかって、人を犠牲にしてのし上がっていく可能性がある。(いや、既にしている)どこまで生き抜くためと許容され、どこからが人道的、倫理的な誤りと言えるのか。極限の状況の中で、他の手段はあり得るのか。
登場人物たちに自分を重ねながら、答えの出ない問いに向き合う時間でもあった。
レビュー
この物語を通してやはり思ったのは、戦争がほとんど"男性"によって行われることと、戦争時の女性へのあからさまな性暴力と、男性またはさまざまな性への隠された性暴力が起こることの正当化がある、ということ。人間の権利と尊厳を剥奪することを正当化する装置であるということ。
そこからまず問うべきではと私は思う。
なぜ「慰安婦」問題がタブーとするのか、なぜ日本で義務教育における包括的性教育の導入を進めないのか、なぜ緊急避妊薬が安価で薬局販売の認可を出さないのか、なぜ女性の身体の負担を軽減する安全な中絶手段を導入しないのか、なぜ選択的夫婦別姓は立法化されないのか、なぜ同性婚は立法化しないのか、なぜ女性の天皇は誕生しないのか(なぜ日本には天皇制があるのか)……いろんなことがつながっていく。
戦争に関して何か発言するときに「私たち」という人称は適切か、と疑問を呈したヴァージニア・ウルフを思い出しながら、余韻に浸っている。
尚、私が個人的にRAAを調べていた経緯は以下のとおり。
昨年、仕事で1950〜1960年代の映画を観る機会を得た。それまで観ていた小津や黒澤などの今やアート系にカテゴライズされる作品とは違い、大衆向けに作られたエンタメとしてのつくりの中に、多くの発見があった。その流れでしばらく同時代の映画を何本か見ていて、この時代に特徴的なものが登場することに気づいた。「娼婦」の女性たちだ。
特に「パンパン」と呼ばれる「街娼」。彼女たちへ向けられる激しい嫌悪と蔑視が描かれている。戦後の混乱の中で、身よりもなく、仕事もなく、致し方なく従事していた女性たちというぐらいの知識で、時代の前後感はわからないが、「赤線」と呼ばれる地域があったことも断片的に知っていた。逆に言えば詳しいことはまったく知らなかった。
中でも、田中絹代監督の『女ばかりの夜』(1961年)は告発に近い内容で、大変驚いた。当時の女性が置かれていた立場と、権力側にいる男性たちがこの事態を作り出し、構造と文化的背景とを使って、女性から女性への差別と偏見を助長した。
これを観て、当時の時代背景や史実をもっと知りたくなった。RAAのこともこのタイミングで知った。機会があればぜひご覧いただきたい。
社会の抑圧によるしわ寄せがいくのはいつでも弱い立場の人々だ。
特に女性や子ども、障害や傷病のある人、外国人、受刑者、住まいのない人……。そういう人たちの生命については軽視されてきた。生贄に出し、罪をなすりつけ、忘れる。
女性は男性より下で、子どもは大人より下で、貧しい人は金のある人より下で……という階層構造、権力構造を維持したい人間の欲望が、この構図を是正しない。人権は大切という体面は取り繕いながら。もちろんそれは私自身にも向けられる問いだ。
自分が子どもだった頃の大人たちがどういう人たちだったのか。
今、自分より上の世代の人たちがどういう人なのか。
一つひとつ知ることによって、謎が解き明かされていくように感じている。
社会のこの矛盾はどこから来ているのか、
なぜ大人はやっていないのに子どもがやらされるのか、
なぜ「どうして?」と聞いても説明されないのか(説明できないことをやらせるのか)
なぜ説明しないのに、失敗すると私のせいになっていたのか。
どうやら根っこは近いところにあるようだ。
学ぶしかない。
複雑であるからこそ。
一つひとつ。特に歴史を学ぶこと。特に聞いてこなかった声を聞くこと。
そして考える。動く。
少しでもマシな社会にするためには。
少しでもマシな社会にすることに尽くせたと思って人生を終えるには、どうすればよいのかと。
関連資料
現在の女性支援が売春防止法を根拠法としていたものを改め、「困難な問題を抱える女性支援法」の新法として2022年5月、国会で可決、成立。
1950年代〜1960年代の映画
hitotobi.hatenadiary.jphitotobi.hatenadiary.jp
性差の歴史
個人史聞き書き
*追記* 2022.7.4
この側面も知っておかねば。
国防婦人会 戦争にのめり込んだ 母親たちの素顔
https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0029/topic031.html
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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年)
横浜能楽堂の月替り特別公演「三老女」の最後の一曲《関寺小町》を観た記録。
能・狂言の名曲・大曲を堪能していただく特別公演。老女を描いた能のなかでも最奥の秘曲とされる「姨捨」「檜垣」「関寺小町」の三曲を連続して上演します。「三老女」と呼ばれるこれら三曲は、各流で重く扱われており、相応の芸域に達した者にしか演じられないとされています。
第3回は、百歳に及ぶ老いた小野小町が若かりし頃の華やかな生活をしのび、稚児の舞に興を覚えて舞を舞う「関寺小町」を観世銕之丞が演じます。本作は、「三老女」のなかでも最高の秘曲とされています。
狂言は、富士詣で太郎冠者が手に入れた富士松を賭けて、主人と冠者とが巧みに連歌の掛け合いをする「富士松」を、人間国宝の野村萬の出演でお送りします。(横浜能楽堂HPより)
なんと気合いの入った企画公演!「三老女」は曲としても重要だし、すべての回が「能、狂言共に当代を代表する演者による至芸」(チラシより)でもあり、貴重な公演だった。ほんとうはすべての回を観てみたかったのだけれど、チケットはあっという間に売り切れになっていて、発売日、発売時刻に合わせて予約した三回目しか取れなかった。お客さんのほうも前のめり。こういう公演も久しぶりに出くわすので、うれしい。
『能楽鑑賞百一番』金子直樹(淡交社, 2001年)によると、老女物は能の中でも特に重要なものとして扱われるという。卒塔婆小町鸚鵡小町姨捨檜垣関寺小町の五曲は脳の最高の秘曲で、その中でも最高位にあるのが関寺小町。
今回の三老女のうち姨捨と檜垣は霊が前世に思いを残してさまよう夢幻能だが、関寺小町は今生きている人を描く現在能であるところが違うと。現在能の場合は写実的になりすぎると「俗におちいる」ため、難曲とされているなど。
少し前までは公演されることが稀だったらしい。そのせいか、いつも観能前の予習でお世話になっている解説本、『能楽手帖』権藤芳一著(駸々堂, 1979年)の130曲の中には紹介されていない。
英語の解説が詳細でよかった。英語で説明されたほうが理解できるところがある。
いつも思うけれど、主従関係と年齢の違いがおもしろい。家来のほうの太郎冠者のほうがメインキャラクターなので、偉い人が演じている。けれど主のほうが太郎冠者役のシテより若い。同じ曲でも、主が実年齢も上のときと、主のほうが太郎冠者より実年齢が低いときで見え方が違う気がする。今回の場合は、連歌の付け合い対決なので、実力に年齢は関係ない!とばかりに対等性が生まれているのがおもしろかった。
歌の内容が分かればもっとおもしろいんだろうなー!台本か字幕配信があればなー!と思ったけれど、分からなくてもやり取りのテンポの良さから、お互いの「ぬぬ、おぬしやるな!?」という反応が伝わってくる。
笑いで終わるタイプの狂言ではないので、初見では尻切れトンボ感もあった。次に見るときは内容がわかっているのでもっと楽しめると思う。また出会えますように。狂言こそ本当に一期一会。
内容についてはこの方のブログが詳しい。
大変よかった。もう胸いっぱい。
「小野小町が都で華やかな生活をしてもてはやされていた時代はもう過ぎ去って、自分が老いたことを痛感して悲しむ」とか、「昔は戻らないことを知り、自分の衰えを感じて哀しみ、また一人庵へ帰っていく」というようなことがストーリーには書いてあったけど、私は全然違うふうに観ていた。
小野小町を敬愛する若い人たちが、彼女の人生の最後の時間に集った。自らの人生を語らせ、囚われから救い出し、自由な心で舞わせる。
小町にとってこれは、下の世代の人たちに自分の生き様と、最後の姿を見せる場になる。内面ではいろんな感情が浮かんでは消え、浮かんでは消えするけれど、後悔や怨恨などはもうない。念の強い登場人物特有の不気味さが全然感じられなかった。
ただ生命がそこにあって、舞うだけ。
皆が証人として立ち会い、見届けて冥土へ送り出す。
命を引き継いで、橋掛かりを歩く小町。
この世に思い残すことのないように皆が精一杯取り計らっているような。ワキ方の僧が手を添えて庵から出したり、後見が装束の裾を直しにくるのにさえもウルッときた。お囃子も地謡もみーんなみんな、やさしくてあったかいお能だった。
だから帰り道でストーリー確認して、「あれ?そうなの?」と混乱した。
もちろん自分の好きに見ればよいので、間違っているということはないけれど。
座り込んでしまったり、杖がないと歩けなかったりするけれど、身体が舞の型を覚えているというあの感じは、老いて情けない姿には決して見えない。型を忘れたり、身体が動かなかったりするけれど、でもまた思い出したりもするし、人間ってすごいんだなと思う。
100年のうちには知っている人はみんな先に亡くなってしまったし、長生きしてしまったという気持ちが強そう。それでも庵には短冊を吊るして、いつでも歌が読めるようにしている。それが生きる希望、心の支えになっている。
七夕の夜の星祭りという設定がなお一層沁みる。 かつては絶世の美女と言われ、深草少将との伝説も生まれるぐらいの存在だった小町。ピーク時は七夕のロマンチックな逸話もたくさん持っていそうな人が、今や「七夕か〜……(苦)」という気持ちになっている。
でも、そういう世間のつけたイメージも迷惑だったのかもしれない。勝手に持ち上げられ、勝手に落ちぶれたと言われたのかもしれない。そういう苦しみってあるのかも。そこから連れ出してくれる稚児と僧。 人間愛さえ感じる。老いや世代交代を感じ始めたお年頃にビシバシくる。
西洋演劇みたいにあからさまにヨボヨボしたりせずに深みを出す。型も大事だし、演者自身の深みやよい感じの枯れた存在感が求められそう。ときに微笑むような表情を見せるのが印象的。寂しげな微笑み。感情の揺れがわずかな動きに現れていたり。演者さんがすごいのだろう。
子方さんもとてもよかった。あの閑寂を破ったときの、見所がハッとなる感じはよかった。黒々とした髪や肌の張り、いるだけで生命力を放っている子方と、消え入りそうな小町の命との対比も素晴らしかった。舞ってみせて、小町の内に再び生命の火をともした。いくつになっても、誰かがこうして迎えに来てくれたら、ありがたいよね。ああ、よかったねという気持ちになった。
観能仲間に聞いたところでは、
「子方が出る能は、歳回りといい、子方の力量といい、ほんとうに巡り合わせ。子方にちょうどいい子がいても、シテにちょうどいい人がいないとかもあるだろう」とのことだった。
今回の《関寺小町》はそれを観られただけでも貴重だし、よい演者で、そうか、私はほんとうにとてもラッキーだったのだなぁ。
満席&折りたたみ椅子席も出ていて、お客さんにとってもとても大事な公演だったのだなとあらためて。もしかしたら、老いていく親、亡くなった親、老いていく自分自身などを重ねている人もいたのではないかな。
後見の谷本健吾さんのツイート。こんなに活躍されている能楽師さんをして「自分には一生縁が無いと思っていた曲」と言わしめる。関寺小町、やっぱりすごいのだな。
自分には一生縁が無いと思っていた曲に、親子で関わらせて頂きました。
— 観世流シテ方能楽師 谷本健吾 (@TanimotoKengo) 2022年6月18日
ともかくも無事に終えられた事に感謝です。お世話になりました先生方、お越しになられましたお客様、有難うございました。#横浜能楽堂 #関寺小町 #子方 #三老女 #観世銕之丞 #特別公演 pic.twitter.com/2O4MLEYsHm
『近江の能 中世を旅する』井上由理子著(サンライズ出版, 2019年)
今たまたま瀬戸内寂聴さんのドキュメンタリーが公開中。寂聴さんはあまりお野菜食べずに、お肉がお好きだったそうで。関寺小町の枯れっぷりと勝手に比較してしまった。
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