ひととび 〜人と美の表現活動研究室

観ることの記録。作品が社会に与える影響、観ることが個人の人生に与える影響について考えています。

能『道成寺』@国立能楽堂 鑑賞記録

觀ノ会「道成寺国立能楽堂にて鑑賞した記録。

tomoeda-kai.com

 

道成寺』を観るのは今回が初めて。お能は好きだけれど、まだまだ初心者の域なので、有名な曲でも観ていないものはまだまだたくさんある。むしろ観たほうが少ないので、そちらを数えたほうが早いぐらい。

道成寺』もいつか、いつかと思いながら日々が過ぎていたが、觀ノ会のこのチラシを見たときに、「今かな」という気がした。作品との出会いはいつもインスピレーションだが、お能の場合は特にそれが強い。これまで然るべきタイミングに然るべき曲に会ってきたので、今回も勘を信じることにした。

観能仲間も2人、行くことになった。

「精神力、体力の強さと均衡が求められる本曲」とチラシには書いてあるし、「道成寺は観る方も心身が削られるので体調を整えて。鐘入りの場面では心拍がえらいことになってぐったりします」というアドバイスをもらった。

そんなに!?

緊張してチケット取るだけでぐったりして、厄が落ちた気がした。(実際はそこから当日までの約3ヶ月は厄まみれだったので、むしろチケットを取ったことで厄がついたのかもしれない……)

本や動画で予習をしていたらようやく、ああ、こういう感じかとわかってちょっと気持ちが落ち着いた。ビビリすぎ!

ダイジェストだし、流儀は違うし、本物とは受け取るものが全く違うけれど、一端を知るという意味で確認できてよかった。

youtu.be

 

最初に解説トークがついていた。

・「道成寺物語をめぐりて」「あの「乱拍子」はいったい何か」

「乱拍子は身体の使い方、踊りの基本。舞台の上で身体をどこまで存在させられるか」「乱拍子は《檜垣》でもある」

「鐘は竹で組んだ籠状のものに布がかけてあって、下は鉛の輪っか。80kgあるので、落ちて下敷きになったら死ぬ。だから舞台ではあるけれど、やる方も見る方も命がけ」

「なぜ女ばかり蛇になるのか?非力だから。今も社会的立場は低いけれど、昔はもっとは低かった。女のままでは思いは遂げられない。欲望を遂げるには姿を変える必要があったこと。さらに生態がよくわからない、手も足もない、存在自体が武器になるような威圧感と不気味さを持ったもの、それが蛇」

「感情に訴えかけるものを排して、すべて乱拍子に緊張感を持たせるために徐々に構成されていった」

 

 

これから大曲に向かうのだという緊張感に満ちて、奏者や演者が出てくるのだけれど、シテが橋掛りを渡るときはもうまったくまとっている気のレベルが違った。

ああ、なんという孤独!

これを演るのにある程度の修行が必要で、技術だけでなく、精神も達していなくてはいけないという理由が、この時点で既に分かる。

 

そして鐘を吊ったあたりで地震が起こった。そのあと特に何事もなくてよかったから言えるけど、まるで演出の一部みたいだった。怖。もちろん舞台上は何も起こっていないかのように進む。鐘が落ちたときに能力たちが「雷か地震かと思った」という場面があるので、そこにつながっているような気もする。そんな前振り要らんけど。

 

いつもの能は、演者が皆自分の身体を役に全て預けて、舞台に従事してくれているので、観客の私はどんな感情も舞台に投げ込めて、観たいように観ることができる、という体験だった。

道成寺はこれまでに観たそれらの能の体験と違っていて、安易な感情移入や自己投影を許さない、理解させないところがある。これは『戦場のメリー・クリスマス』を観たときの感じに似ている。

 

注目の乱拍子。乱れる程に激しく速く大きく身体を動かすイメージが字面から浮かぶが、実際は真逆で、ほとんど動かないし、間合いも長い。「せぬひまがおもしろき」の究極の形かもしれない。謡が少ないのも特徴。

コンテンポラリーダンスみたいだった。急ノ舞への突然の転換は、「わかる」感じがした。多くの物事は水面下で動いている。何も起こっていないように見えて、ギリギリのバランスでかろうじて保たれているものやいつ爆発してもおかしくない動きがあり、それに気づいている人はいる、みたいな。

最中は、舞台以外からはほとんど空調の音しかしなかった。あんなに人間がたくさんいるのにな!観客が皆息を詰めて見守るような。凄まじい時間だった。終わってから思わずふぅ〜とため息が出た。あそこは30分もあるそうだけれど、体感では長いとか短いとかがよくわからなくなる。そもそもお能を観ていると時間の感覚がわからなくなるのだが。

いやしかし、能楽師の身体能力ほんますんごいですね。毎回思うけど、今回は特に。
どうやって鍛えてはるんでしょうか。

 

狂言(アイ/能力)の台詞が多く、動きも転がったり押し問答したりで笑いがあって、人間味がある。強い緊張のある舞台、人間でなくなったかのような人物たちの中で、親近感を持てる存在はありがたい。観客との架け橋になっている。

 

あらすじの方に注目してみる。

妄執の対象は自分が殺した男ではなく鐘。そうならば「女の情念」の話じゃなくなる。「純粋な念だけがある」ということを事前解説でも話されていたけれど、そうなると性の別関係なく、いろんなものが当てはまってくる。

目的はとうになくなっているのに、「鐘が吊られる」という形が生まれると、自然に起動する何か。カミュの『ペスト』に"ペストは何回でも現れる"というようなことが書いてあった、ああいう感じに近いかもしれない。

一人の人間の持ち時間じゃ到底足りないような、長い時間をかけて潜伏している「あれ」。予感だけは山ほどあるのにどうしても止められない「あれ」。能力(のうりき)が一旦結界を張ったのに、女をアッサリ入れちゃうようなあの感じ。

100年もの間、鐘を釣れなかった人々の苦しみがあるというふうにも読める。受けた打撃の強さがそれほどまでに深かった。話題にすることもできなかったのかもしれない。100年という時間の長さが必要なのかもしれない。そういうことって歴史の中である。

 

事前解説で「蛇が執心してるのは男じゃなくて鐘。鐘が重要。しかも鐘は落ちていればOKだけど、吊ってあるのはNG。吊らせたくない」ということをどなたかがおっしゃっていたのが気になっていた。

それについての仮説。

私はプーチンまたはロシアのことを思いながら観ていた。

ウクライナがほしい、そこにいる人間はどうでもいい、ウクライナを奪還する」みたいな外側、形、器への固執。ロシアとウクライナとの長い長い歴史は、けっこうな妄執を生んでいるのではないか。

そんなふうに、寂しさや傷つきから自分自身とのつながりを手放すと、漂っている念に付け込まれる。乗っ取られる。そういう「虚無」との闘いは、『風の谷のナウシカ』や『はてしない物語』でも出てきた。

私たち人間は、それらの物語や演劇の力でかろうじて現世に踏みとどまれているのかもしれない。 あるいは、踏みとどまらせることが、人間が創作することの目的なのかもしれない。

 

道成寺》は、父親が娘の自立を父親を阻んだ("愛"の歪み)末の悲劇とも見ることができて、オペラの《リゴレット》を思い出す。

あるいは、同意なき性行為に及ぼうとした上に、認知の歪みからストーカーと化し、呪い殺すまで支配しようとした犯罪者にも思える。そしてその念に触れた者が、次々に加害に手を染め、今に至るまで犠牲者を出し続けている……そんな物語にも読める。

「若い僧の美しさに愛欲を覚えて強引に契りを交わそうとする」という物語だとしたら、『薔薇の名前』も思い出す。いずれにしても「男性」が作った物語ではある。

 

ジェンダーといえば、解説者は5人中3人が女性。お客さんには馬場あき子さんのファンの方も多くいらしていた模様。お能の客層としても女性が多いものね。演者は男性が多いけれど。そういうジェンダーを意識したキャスティングや内容にしたのかもしれない。伝統文化の分野にも波が来てると感じる。

 

会誌『觀 - Ⅴ』500円相当と、番組(プログラム)がお土産でついてくる。

番組のほうは、一般的な演者やあらすじ、見所解説の記載だけではなく、道成寺の特異性を成立過程や装束などで説明している。特に舞台進行表が貴重。これは永久保存版。

 

このおまけにさらに、前段として60分、2種類の解説トークがある。これでこのチケット代はほんとうにお得だった。リーズナブル。納得がある。

中正面は鐘後見のがんばりも見られた。中正面の後ろのほうでスタジアムっぽい画角で全体を俯瞰するのも迫力があって好きだが、今回の3列目あたりの近さもよい。

 

冊子や解説トークもそうだし、こういうイメージビデオをつくるところにも、『道成寺』という曲へ向かうための強い覚悟を感じるし、觀ノ会という能会が共有したい価値や進もうとする方向の一貫性も見える。伝わってくる。

youtu.be

 

*追記* 2022.6.21

片付けものをしていて見つけた。これだ〜

橘小夢(たちばなさゆめ)《安珍清姫》(大正末頃, 弥生美術館蔵)


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映画『ニュー・シネマ・パラダイス』鑑賞記録

シネマ・チュプキ・タバタにて『ニュー・シネマ・パラダイス』鑑賞。黒板絵すっごい!

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もうなんべん観たかわからない。
15回は観たと思う。
中学か高校のときに初めて観て、私が大学でイタリア語を学ぼうと思うきっかけになった映画だった、ということをきょう思い出した。忘れてた。

Qualunque cosa farai, amala!
何をするにせよ、それを愛せ!
Come la magra cappella del Paradiso, quando eri piccino.
子どもの頃に映写室を愛したように。

テーマ音楽が流れただけでもう自動的に涙出るよね。こういう映画はもういいとかわるいとかわからない、自分の人生の一部、自分の身体の一部になっている。

私の斜め前に座っていた人もたぶんおんなじ感じで、もう「ウウッ」と声あげて泣いてはりましたね。隣に座ってたら背中ぽんぽんし合いたいような気持ち。その人が泣くから私ももらい泣きするような場面も多々あり。同じものを今共有している感じがすごくあった。

お母さんと小学生ぐらいの娘さんと思しき関係のお客さんもいらしたり。いいなぁ親子でこの映画を共有できるのは。ちょっと手渡していく感じもあるよね。映画の中のテーマとも呼応して。

そんなふうに客席が温かい雰囲気なのもよかった。


4年くらい前に感想シェア会をやったときにもフルで観たけれど、そのときと今とでもまた体験は違っていた。きょうは大人のトト、トトのお母さん、神父さんや劇場のオーナーやアルフレードに共感したりで、気持ちが忙しかった。(そしてうれしいことに、4年前に観たときよりもイタリア語が聞き取れていた。去年から少し勉強し直しているのだ。)

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10代の頃はサルバトーレとエレナの恋物語として見る中に、時を経て変化していくことがあるというふうに見ていた気がする。

今は、老いること、病や傷を持つこと、死ぬこと、無くなること、喪失や悼みを抱えること、長く果てしなく愛が続くことなどに心が動く。ガンガン元気なものより、儚く消えてゆくものを美しいと思う。老いだなぁ。

何歳の人でも見て何か感じられるところがこの映画の良さ。


しかしこれをジュゼッペ・トルナトーレは33歳で撮ったんよな。そこがすごい。
『春江水暖』のグー・シャオガン監督もそのくらいの年齢で撮っていたはず。
サラッと老成したものが作れる若い人たちはいるんだなぁ。

 

国内の地域の経済格差、貧富の差、共産党員の迫害、マフィアの闘争など社会情勢が見える。教員の生徒への行き過ぎた教育(いや、あれは暴力だ)は笑いの場面になっているが、共産党員の息子でのちにローマへ引っ越していくペッピーノが終始一人顔を覆っている様子は何事か伝えている。映画を見せろと劇場に押しかける群衆を「何をするかわからないのが群衆」と批判して見せるアフレードの姿もある。

甘く切ない物語の端々に、人間社会への冷静な観察がある。またそういうことに今頃になって気づいている自分に驚く。

イタリア(シチリア)からソ連まで出征していたとか、戦後兵役があったなど、実はイタリア近現代史があまりわかっていない私。一度学んだはずだけど忘れている。学び直したい。

イタリア語ももっと学びたい。スクリプト(脚本)がほしいなと思って探しているんだけど、見つからなかった。

 

今見ると、エレナの家の下に毎夜通うサルバトーレの御百度参り(?)は小野小町深草少将の伝説のようだ。この話は、お姫様に対して身分違いの恋に落ちる男の話としてアルフレードがサルバトーレに聞かせる伝説からアイディアを得て、サルバトーレが実際にやってみているのだが、世界のいろんなところで深草少将のような伝説はあるのかもしれない。

 

そうそう、シネマ・チュプキ・タバタの音声ガイドは素晴らしかった。今回のために20年ぶりに改訂されたそう。言葉の選び方がやはりよくて、倍増しでよかった。ディスクライバーとしての経験と、個人の人生の経験と、重なってより心に沁みる映画になっていた。

音声ガイドで観ている視覚障害者の方と感想を交わしてみたいな。

 

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エンドレスで流す。

youtu.be

 

トルナトーレ監督は、子役のトトがそのまま大きくなったみたい。2008年のイベント動画。サムネイル左。

 

youtu.be

 

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6月、7月のチュプキは岩波ホール特集。

当館の前身となるバリアフリー映画鑑賞推進団体City Lightsは
岩波ホールで音声ガイド付き上映会を行なっていました。
大変お世話になってきた岩波ホールに感謝の気持ちを込めて、
思い出深い作品をセレクトした「ありがとう、岩波ホール」特集上映 を行います。 

ホームページより)

6月前半 スケジュール
 『ベアテの贈りもの』
 『宋家の三姉妹  』
7月 スケジュール
 『ハンナ・アーレント
 『終りよければすべてよし』


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追記)

後日、10代の子を誘っておかわり鑑賞。

---

ほとんど話もしたことがないのに、100日参りするのはどうなのか。あのお話を真似てみたかっただけでは。思春期っぽい。恥ずかしくて見ていられないところがあった。でもあれば1954年当時の話ではあるので、古風ではあるのかもしれない。

---

など感想を話せてよかった。

 

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玉堂美術館 鑑賞記録

5月21日、新緑の候。青梅まで行く予定があり、近くにどこか寄れるところはないかなと探していたら、グーグルマップに玉堂美術館が現れた。

www.gyokudo.jp

そういえば、去年、山種美術館川合玉堂展を見たときに「晩年は青梅で過ごした」とあったなと思い出した。美術館があるらしいことと、行ってみたいけれどちょっと遠いからまたいつか機会があればなと思っていたことが……ここでつながる!(楽しい)

そのときの鑑賞記録。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

山種美術館の没後60周年記念展の図録。たぶんまだ同館で販売していると思う。

コンパクトでよくまとまっている。今回のように、どこかで川合玉堂の作品に出会ったときに真っ先に参照する一冊として手元にあるとよい。おすすめ。

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実際に来てみると、疎開がきっかけではあったが、その後もここで画業に集中したいと思った気持ちがよくわかる。

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天井が高く広々とした室内には、10代の頃の練習帖から、晩年の作品、愛用の画材まで幅広く展示されている。

風景の中に働く人びとの姿も写されているのが玉堂らしさではないかと思う。人間讃歌であったり、人間を通じてあらためて知る自然の美しさや厳しさだったり。


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虎の絵は山種美術館川合玉堂展でも印象深かった。出征する男性たちやその家族に頼まれて描いたもの。あるいは面識のない人にも贈ったとか。
「虎は千里走って千里帰る」という言い伝えから。
無事の帰還を願う思いと、そうさせられる時代の流れを思う。玉堂の虎は人気があったという。


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写生は日課だったとか。
何を観ていたのか、何に興味を持っていたのか、どう捉えていたのかが感じ取れるよう。


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アトリエの再現。絶筆となった未完成作の複製。
窓に緑が写り込む。この時期だけの色と光。

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美術館があることが、その土地を訪れるきっかけになるというのは、いいな。小さな旅もいい。

 

ちょうど滋賀で山元春挙展を観たところだったのもよかった。

玉堂が担当した《悠紀地方風俗屏風》、このときの悠紀は滋賀県。主基は福岡県。
でも主基のほうを生まれも育ちも滋賀県である山元春挙が担当するってちょっと不思議ではある。

それともあえての人選だったのかな。玉堂のも当然素晴らしいんやろうけど。

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川合玉堂といえば、横山大観川端龍子の仲を取り持った人として個人的にアツい。ミュージアムを巡ったり、本などで調べていると、人間関係が次々につながっていくのが楽しい。自分だけの人物相関図が出来上がっていく。

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映画『桃太郎 海の神兵』鑑賞記録

映画『桃太郎 海の神兵』を観た記録。

www.shochiku.co.jp

 

この映画を知ったきっかけは何だったか定かでないが、日本のアニメーション映画史上、非常に重要な作品としてうっすらと知っていた。たまたま仕事で映画を観る必要があり、Amazonの「プラス松竹」というサブスクに加入していたところ、ラインナップされているのに気づいた。

手塚治虫が、焼け野原に立つ道頓堀の大阪松竹座の、ガラガラの劇場で観て涙を流すほど観劇し、これでアニメ製作を強く志したという、そういう作品でもある。

同じ道を歩む者なら興奮を覚えないわけにいかない、高度な技術と感性の素晴らしさを嬉々として語る様子。素人の私が見ても、「あの大戦末期にこんな映画があったのか!」と驚く。でも仕事の最終的な目的を考えると、一つひとつのコマ、シーンにいちいち寒気を覚える。

 

冒頭で示される「兵隊さんは戦地で何をしているの?」という素朴な疑問がキーになっていて、全編がそれに答えるような内容になっている。それを言葉でくどくどと説明するのではなく、自然で滑らかな動きで、役割を持っててきぱきと働く姿や、生活を見せることによって示していく。どのように日々を送っているのか、戦っているのか。中には本当にそうしていたこともあるだろうし、美化している部分もあるだろう。モノクロだし、動物なのだが、リアリティがある。

敵が誰なのか、誰と戦っているのかをわかりやすくするために、子どもが知っている桃太郎の物語に置き換えるという手口(と言っていいだろう)は残酷だ。自分たちが日頃大人たちから聞かされていることと、このアニメーションで扱われていることは一致している。それによってまた「信じる」根拠が増える。多層的になっていく。

動物で子どもの声であるだけに、うっかり親しみが湧いてしまいそうになる。自分が親になって、子が小さい頃にたくさんのどうぶつが出てくる絵本や物語をたくさん見せてきたことを思い出すと、胸が苦しくなる。「鬼ヶ島」が「鬼」に乗っ取られた顛末を描く影絵のクオリティも高い。普段は禁じられている異文化への憧れも、ここでは惜しみなく提供される。TVもない時代、同種の目的を持ってつくられた創作物を子どもたちは食い入るように見たことだろう。そして男の子は「お兄さん」に憧れただろう。

そもそも全編が子どもの声でできているところが怖い。声を当てているのは職業声優なのか、子どもなのか、あるいは子どものような声を出せる大人なのかは不明。

 

海軍省が巨額の費用を投じて作らせたプロパガンダ映画、国策映画。昭和19年12月に完成し、昭和20年4月に公開。ちょうどアメリカ軍が沖縄本島に上陸しているとき。

冒頭には、これが国策映画であること、日本のアニメーション映画史にとって重要な作品のため残し、公開していることが松竹によって示される。

映画のターゲットであった子どもたちは疎開して都市部にはいなかったし、映画館も空襲に遭い上映するところがなかったりもして、リアルタイムで観ていた人はそう多くなかったという。それはよかったのか、皮肉めいているのか、なんなのか、なんとも言えない気分になる。

 

製作の苦労はあったのだろうが、全編にわたってつくることの喜びに満ちていると感じる。多くの技術的な工夫があり、感性の表現があり、能力の深化がある。作家にとっての活躍のチャンスだったのだろうと、そこは非常によく伝わってくる。むしろ自分にしかできないことで貢献できるという喜びさえあったのかもしれない。戦時にはそういう情熱や野心が多く利用されたことだろう。

 

取材のために落下傘部隊に体験入隊したというだけあって、子ども向けのアニメーションとは思えないほどにリアリティがある。今のCGでつくるリアリティとは全く違う質の表現。従軍カメラマン、映像技術者、画家とはまた異なる表現で現場を克明に記録している。そういう意味でも貴重な作品。絵もすごいが、音もすごい。どのように録ったのだろうか。海軍から素材の提供があったのだろうか。

徹頭徹尾、非の打ちどころがない国策映画。初めて実物を全編通して観ることができてよかった。実物として残る、アーカイブされていることには大きな意味がある。

 

とはいえ製作者の側に立って観ると、戦後いかに活躍したとしても、自分のこの仕事が「存在するべきではなかった」と見做されるというのは、どのような気持ちなのだろうか。想像もできない。

と書いてみて、いや、フィクションのためのフィクションを作るという仕事はいつの時代にもあり、後世から見れば「加担した」と判じられることも多いことにも気づく。加担したつもりはなかったとしても、それが直接的、間接的に人を殺すことだってある。

かといってどんな責任が取れるのかということも、ひと言では断じられない。自分が仕事を通じて過去にしたことを思い返しても、難しいと思う。

こういう無数の人の物語がまだ語れずに埋もれているのだろう。語られることなく亡くなっていった人も多いのだろう。

 

資料

・焼け野原の国策アニメ『桃太郎 海の神兵』/週刊金曜日7/9号(2021年)

図書館で読ませてもらった。"製作時、徴用などで若いスタッフが抜ける困難な状況下、監督らは落下傘部隊への体験入隊など取材を重ねたという"(本文引用)


・「海の神兵」を知っていますか? (2011年5月30日)

www.asahi.com

 

・『戦争と日本アニメ  「桃太郎 海の神兵」とは何だったのか』佐野明子, 堀ひかり著(青弓社, 2022年)

イムリーにこんな本も出たので、読んでみる。

www.seikyusha.co.jp

 

・瀬尾監督の前作に、真珠湾攻撃を題材にした中編映画『桃太郎の海鷲』(ももたろうのうみわし)がある。当時の国産アニメは10分程度までしかなかったので、37分もの作品は快挙だった。

これも見てみると、『桃太郎の海鷲』でやり残したことを『海の神兵』で実現したり発展させたりしたことが見えるのかもしれない。機会があれば観たいが、なかなかエネルギーを使うものでもある。

 

ここ数年追っているテーマの一つに、「アジア・太平洋戦争中のプロパガンダに協力した芸術人・文化人」がある。

たとえばこの映画で表されたようなこと。

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たとえば展示で見たようなこと。

note.com

 

あるいはこのような「語られてこなかったこと」「未だ直視できないでいること」

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アニメーションや人形劇を使ったメディアコントロールを調べたくて入手したところ。

 

引き続き探究していく。

 

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映画『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』@岩波ホール 鑑賞記録

岩波ホールで『歩いて見た世界』を観た記録。

www.iwanami-hall.com

youtu.be

 

2022年7月29日に閉館する岩波ホールの最後の上映作品。

最後は必ず観にくるという自分への約束として、前作『メイド・イン・バングラデシュ』を観に来たときに前売り券を買っておいた。

 

原題は"Nomad: In the Footsteps of Bruce Chatwin"

一つの人生を振り返りながら、世界との繫がりを結び直す、詩的で穏やかな作品。重々しさと神聖さが漂う。霊性、Spirituality。

過剰に美しく仕立て上げられているのではないかとか、植民地主義的な眼差しはなかったのかとか、いろいろ気になるところはありながらも、呼吸も穏やかになり、今観ているものが確かに心身に作用するのを感じながら過ごした。

 

最近流行りの矢継ぎ早の伝記ドキュメンタリーとは一線を画す、作家の芸術作品になっている。チャトウィンへの個人的な友愛。これがなくては撮れなかった映画。そして監督自身の人生哲学。長いキャリアの末に到達した場所へと観客を誘ってくれる。

ちなみにヘルツォークは多作。2020年までに劇映画、ドキュメンタリー、短編・中編・長編合わせて計67本!フレデリック・ワイズマンにも驚いたが、ヘルツォークも凄かった。

 

ヘルツォークの作品は『アギーレ/神の怒り』(1972年)のギラッギラのイメージが強かったので、年と重ねると人はこんなにも穏やかになっていくのかと驚いた。

そんなに単純に評せるものではないだろうが、知らずに見たら同じ作家の作品とはとても思えないだろう。『アギーレ』の場合は、やはりクラウス・キンスキーの存在感がありすぎるし、ヘルツォークも若かったし、なにより時代が違う。1972年は冷戦の真っ只中で、ベトナム戦争もある。世界は相変わらず戦時下にあった。

今は? 今はどうなのだろう。

この50年でいろんなことが起き、いろんなことが急激に進み、人類は今どこにいるのだろう。その大きな流れの中にあって、自分はどのように生きていけばいいのだろう。私を支えてくれる「神話」はあるのだろうか。

 

死を前提とした生の哲学が「旅」というキーワードと共に語られていく。自分の死生観にもゆっくりと触れていく時間。映画の音、歌の効果。

死そのものも怖いが、死に至るまでに何が起こるかわからないところが私は怖い。
一瞬なのか長いのか、不慮なのかある程度回避ができるのか、苦しむのか苦しまないのか、他者から傷つけられるのかそうではないのか。

そうして怖がりながらチャトウィンの晩年から最後の日々を見ていると、単に今の場所から次の場所への移行(transition)なのかもしれないとも思う。死からは免れない。

それにしても、人間の命というのはなんと儚く短いんだろう。

 

「人間にとって最も大切な資産は時間」とは、ある文化人類学者の言葉。

カタカナで「ノマド」と書くと、働き方に関する一過性のムーブメントのイメージが強い。原題をそのまま使わないのはよかった。

この苦しい時代の中で観た『歩いて見た世界』が、後の私を支えてくれるかもしれない。

岩波ホールの最終上映作品に立ち会ったということと、この映画を体験した時間と、映画のタイトルを覚えているということが。

 

チュプキさんの6月のチラシが岩波ホールへのオマージュになっていたことにようやく気づいた。6月、7月は岩波ホールミニ特集とのことです。

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最後の作品だから、予告編はないんだよなと寂しく思っていたら、本編の前にスライドショーが始まった。文化ホールとして始まり、エキプ・ド・シネマ(映画の仲間たちの意)として274作品、66の国と地域の映画を紹介してきた。

この場所に降り積もってきた「映画の時間」や人の気配や建物の歴史を感じて、胸がじわっとする。アーク状の壁の照明が消えて本編へ……。ああ、最後なんだなと思う。

今回は、『ハンナ・アーレント』を観に来たときに座っていたあたりに着席した。ここで一番印象深い映画。

www.iwanami-hall.com

hitocinema.mainichi.jp

https://www.tokyo-np.co.jp/article/154150

 

歩いて7分ほどのところにある千代田図書館では、「ありがとう 岩波ホール」の第2期を展示中。過去の上映作品を年代ごとに2本ずつ選んで、スタッフのエピソードと共に紹介。「長尺でも客が入る」という自信は、何十年もやってきた蓄積の上にあったのだなとあらためて気づかされる。小さなコーナーだが、足を運ぶかいがある展示。

www.library.chiyoda.tokyo.jp

 

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本『プリズン・サークル』読書記録

本『プリズン・サークル』を読んだ記録。

www.iwanami.co.jp

 

『プリズン・サークル』は、この本でようやく作品として完成したのかもしれない。

映画としては描けなかった経緯、編集に載らなかった数々のエピソード、監督が主語になるからこそ見えてくる現場の景色。

映画の中に確認できずもやもやしていた事柄が、この本でははっきりと用語として取り扱われている。女性差別、人種差別、DV、性犯罪、支援員の立場など。文章だからこそ可能になっている観察、分析、問題提起。

各章は問いかけで終わる。読みながら頭をはたらかせるが簡単に答えを出せない。ともかく読み進めるしかないとなんとか食らいついていく。

最後まで読みきると、坂上監督が想像を絶する状況と立場の中でこの映画を作っていたことがわかり、信じられない思いがする。本書は彼女のドキュメントでもある。

 

映画を観ていても驚いたが、あらためて被害者に対する反省や謝罪の気持ちが出てくるのにはほんとうに時間がかかるのだと思った。

本で書かれている範囲ではあるが、かれらの多くは自分が本当に何をしたのか、なぜ自分が裁かれたのかを言語化できていない。認識できていない。記憶が抜け落ちている人もいるし、言語化できないほど人間性が損なわれている人もいれば、納得もいっていないし、反省している「フリをさせられてきた」ことに恨みすら持っている人もいる。そんな姿を見ていると、厳罰化はやはり犯罪の抑止力にならないのでは、と思わずにいられない。

 

かれらがそうなるまでには、警察や裁判所や刑務所の構造があり、かれら一人ひとりの成育過程があり、それを作り出した社会環境があるのかもしれない。(もちろんだからといって犯罪として社会のルールを逸脱した行為であったことには変わりないが)

だからTCでは、反省の前にまず、その犯行に至った人生の経緯や、世界の見え方、価値観、自分について・自分の歴史を知ることを徹底して行っていた。語ること。聴くこと。その繰り返し。

かれらの回復プロセスを坂上さんの「カメラ」を通して見てくると、更生を「為す側」の教育観として、「したことに向き合えば、自ずと反省の気持ちが湧くものである」とか、「厳しくすれば、正しいことをするようになる」などの、人間に対する幻想のようなものが根底にある気がしてならない。

 

映画に出ていたシーンの背景、同時に起こっていた細かな出来事、誰のどのエピソードが、かれらにとっての回復段階のどこのタイミングで出てきたものなのかが、本書では解説されていて、より理解が深くなる。

かれらの親や近親者の抱える問題も、より鮮明に見えてくる。深刻な課題を抱える家族たち。一人の加害者の周りにいる人たち。社会的に、経済的に、精神的に困窮している。かれらが出所した後、関係はどうなったのだろう。(一部は描かれているが)

また、直接は書かれていないが、被害者に対する支援の不足もうかがわせる。だから、一人を罰したら関係者が救われるようには全くなってはいない。なのに継続されている従来の手続き。

 

映画のあとのエピソードも綴られているのがありがたい。出所後のかれらとの交流の様子や、立ち上げ当時にかかわった人たちが去った後の「島根あさひ」のTCの姿など。映画のほうは都合5回は観ているので、写っている一人ひとりに対して、他人のような気がしないのだ。そういう人は多いと思う。

 

坂上さんが後半に行くにつれ繰り返し語っているのは、かれらにTCの経験があったことは重要だが、「その型があればどうにかなるということではない」ということだと思う。

重要なのは一人ひとりにとって心理的に安全な環境や、TCの授業とTC以外の生活の中で培われた相互に影響を与え合い、学び合った者同士の信頼関係が生まれ、出所したあとも継続している点。

効果を説明することは本当に難しい。確かにあるし、こうして映像や証言で証明もできる。ただ時間がかかる。そして「わかりにくい」。わかりやすさに飛びつく衝動の強い世の中で、この営みを広げていくことは本当に難しい。不可能ではないが難しい。難しいが不可能ではない。そんなとき巻末の参考文献リストはありがたい。次にタイミングがきたとき、ここから学びをさらに進めていくことができる。

 

最近、ドキュメンタリー映画『私のはなし、部落のはなし』も観て、タブーについてあらためて考えている。

山内昶の『タブーの謎を解く―食と性の文化学』(筑摩書房, 1996)によると、タブーとはポリネシアの言葉 "tapu"に由来しているのだそうだ。"ta"が「徴(しるし)」、"pu"が「強く」。

神聖化されていて清浄を保持するために禁忌とされるものと,不浄であってその不浄を回避するために禁忌されるものの両義を持つ。境界を引くことで違いを明確にし、周縁化する。そして境界に位置するもの(どちらでもない場所、者、人)を特に徴をつけて注意を促す。

この二つの映画を思い返すと、強く徴をつけ、場所を分け、隔離し、排除し差別する目的が見えてくるようだ。「自分たち」を清浄で正常であるとし、その立場を守ることで得られる利益を確かにするためと、生きる上でのあらゆる不安や不満を入れ物をつくってその中にすべて投げ込むことで解消しようとする衝動のために。そしてときおり犬笛が吹かれ、一斉にそこにヘイトが投げ込まれる。

なんのためにそうするのかと言えば、維持したい「聖」「清」の顔をした権威、権力、ヒエラルキーがあるからだろうか。

 

映画を観なかった人にも、本の形であればもっと届いていく可能性がある。書店や図書館やSNSで、もしかしたらふと目にするかもしれない。

システムを強化する側にいる人、システムに違和感を覚える人、あの場にいたけれど撮影には「不同意」だった人、出所後に連絡のつかない人、犯罪の当事者の人……いろんな人に届く本であってほしいと願う。


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貼り付けた付箋をもとに、この記事とは別に読書記録をつけていたら、5500字を軽く超えた。受け取ったものが多い。

そういえば、出版後すぐにNHKラジオ「高橋源一郎飛ぶ教室」で本書を扱っている回があり、高橋さんが語っていた次の言葉が印象に残った。

「この社会という大きなTCの中で物語をつくる役割が小説家」

私がファシリテーションをした映画『プリズン・サークル』の鑑賞対話の場で、「社会の中にTCがもっとあれば」という感想が多く聞かれたことを思い出す。もちろん安心して語れる集いや関係性を作っていくことも重要だろうと思う。

ただ、ここでの高橋さんの言葉はそれとは少し違っていて、「この社会が既にTCだとする」という捉え方だ。安心や安全を感じられない人にとっても、ここを真のTC、サンクチュアリにしていくために、大きく捉えて働きかけていくこともできる、ということかと解釈した。私も個人で、あるいは仕事を通して、そういう役割を担う一人でありたい。

 

個人的には、ニ度も感想シェア会をやらせてもらったチュプキさんで購入できたのがうれしい。

映画をご覧の際にぜひ。在庫状況はチュプキさんにお問い合わせを。

chupki.jpn.org

 

映画『プリズン・サークル』に関する記録。

hitotobi.hatenadiary.jp

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参考図書:『ぼくらの時代の罪と罰森達也著(ミツイパブリッシング, 2021年)

参考図書:『こころの科学 188 特別企画:犯罪の心理』

藤岡淳子さんと毛利真弓さんの寄稿あり。

参考図書:『反省させると犯罪者になります』岡本茂樹(新潮社, 2013年)

 

関連記事。

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展示「生誕150年 山元春挙」展 @滋賀県立美術館 鑑賞記録

滋賀県立美術館で山元春挙展を観た記録。

www.shigamuseum.jp 

1872年に大津県膳所中ノ庄村(現、滋賀県大津市)に生まれた山元春挙は、近代京都画壇を代表する画家のひとりです。円山四条派の伝統を踏まえながらも力強く壮大な画風を創始し、明治、大正、昭和の画壇で華々しく活躍しました。特に、当時としては珍しい、カメラを活用した取材から生み出された風景表現は、春挙芸術の真髄と言えるでしょう。生誕150年を記念する本展では、館蔵作品のほか各地の春挙の代表作を紹介し、その画業を一望します。(滋賀県立美術館ウェブサイトより)

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滋賀県立美術館はリニューアル後に初めて訪問した。というか、前回は2008年の「アール・ブリュット〜abcdコレクション」だから……14年ぶり?なんと時間の経つのの早いことよ。

山元春挙、滋賀の大津にこんな画家がいたとは知らなかった。

 

写真や油彩なども採り入れて新しい技法を試している人なので、古典的な画題であっても今の時代にしっくりくるのかも。ロッキー山脈を日本画で描いているのはカッコよかった。吉田博もアメリカの山脈を思い出す。しかも意外と同年代。

 

今回知って驚いたのが、ポール・クローデルが1926年に膳所にある春挙の別荘を訪問していたこと。

ポール・クローデルは、カミーユ・クローデルの弟。詩人で劇作家で外交官。1921年〜1927年はフランス大使として日本にいた。外交官として最も昇進し、日本でキャリアの最後を過ごしていた。

それはちょうどカミーユを精神病院に入院させた直後の時期。男たちは歴史の表舞台で伸び伸びと活躍し、女たちは才能を生前は十分に(男によって!)認められることもなく葬られた。なんとも言えん。。

 

膳所の別荘「蘆花浅水荘」は見学可とのこと。琵琶湖畔の別荘なんて最高だな。今はごちゃごちゃしているのかもしれないけど。見てみたい。

otsu.or.jp

 

河野沙也子さんの漫画冊子もいただいた。るんるん

 

屋外は新緑、屋内も新緑。

展示室内のベンチに座って、屏風に広がる海の青を眺めるのが最高だった。近づいたり、遠ざかったり、じっくり観ていて、時間の経つのを忘れた。


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ここは常設展もとてもよい。安田靫彦の《額田女王》があるのよ。大津出身の小倉遊亀も開館時に22点も寄贈していたり。ロイ・リキテンスタインカンディンスキージャクソン・ポロック、サム・フランシス、私にとって美術鑑賞の土台を作ってくれた大切な場所。

リニューアルはしたが、「らしさ」はちっとも変わっていなくてうれしい。

 

東京の山種美術館で観た竹内栖鳳展、川合玉堂展の鑑賞記録。

hitotobi.hatenadiary.jp

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栖鳳とは京都画壇での付き合い、玉堂とは昭和天皇大嘗祭のための悠紀主基地方風俗歌屏風の相方。主基の福岡を春挙が担当、悠紀の滋賀を玉堂が担当。春挙は滋賀の人なのにね?

 

春挙の弟子、小早川秋聲展の鑑賞記録。ここ数年辿ってきた画家たちの関係がつぎつぎに繋がる。

hitotobi.hatenadiary.jp

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*追記* 2022.7.16


京都市京セラ美術館(京都市美術館

特別展《綺羅めく京の明治美術―世界が驚いた帝室技芸員の神業》で山元春挙の作品が展示されているのを受けて、河野沙也子さんによる(https://twitter.com/aaoaao5)漫画が公開されている。Facebookアカウントある方はぜひ。

https://www.facebook.com/kyotocitykyoceramuseum/posts/pfbid025Asxg2egaF2Zs7nnjxfWYEHxd5GYVv4K7sXwdPcE9sogs1MaPGvryk6wP92hHTt2l

 

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映画『距ててて』@ポレポレ東中野 鑑賞記録

映画『距ててて』を観た記録。

hedatetete.themedia.jp

youtu.be

 

今年2月、主演、脚本な豊島晴香さんにインタビューをしていただいたご縁で観てきた。

先に見た友達から「あんまりなにも考えずにただぼーっと味わえばいい」と言われていたので、気楽に観た。でも癖でメモは取りながら。


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短編・連作・劇映画。

ポスタービジュアルやトレイラーから、『春原さんのうた』みたいな感じかなと想像していたけれど、全然違った。

日常と非日常、現実と非現実との間のエアポケットのような、非日常が日常に重なるような食い込むような。ちょっと間違うとショボくなったり、シラけたりしそうなところ、ギリッギリの可笑しさと不可思議さを攻めていて、よかった。

距離の近い人間同士に起こりがちな境界線の揺らぎや、遠慮と本音の漏れ具合、距離感、関係性を派手ではないのにハッとさせるやり方で描いている。登場人物から自分の周りの実在の人を思い出すこともしばしばだった。

 

思い出した関係として一番大きかったのは「フーちゃん」。

私が大学生のときの友だちでフーちゃんという人がいて、話し方も着ているものも振る舞いも雰囲気も、映画に出てくるフーちゃんのような、本当にああいう感じの人だった。正確に言うと、わたしは別の名前で呼んでいて、その人は家族からフーちゃんと呼ばれていると言っていた。そこもかなり合致している。お互いの下宿先に入り浸って漫画の話したな〜。もう20年くらい会っていないけれど、映画の中では元気そうでよかった。ナンノコッチャ。

 

アコとサンの、境界踏みそうで踏まない、踏んだ、踏み越えたみたいな関係性も身に覚えがある。友達やきょうだいとああいう感じになる。近すぎるから言いすぎちゃう感じ、でもそれが人生のブレークスルーになることもあったり。

一緒に住んでるアコより、私たち観客のほうがサンの別の顔を知っているというのもおもしろい。作品を観るってそういうことなんだけども、あらためて考えてみるとおもしろい。作品を通して日常を俯瞰して見ることで、いろいろとインスピレーションが湧いた。

自分で広げた妄想話や、思い出したエピソードを誰かに聴いてもらいたくなる作品。そして、たぷん他の人は全然違うところに注目したり、思い出したりしているはず。

最近ギリギリ歯噛みするようなドキュメンタリーを観ることが多かったので、なんだかホッとした。楽しかった。

レイトショーがぴったりの作品だったけれど、お誘いがなければたぶん行かなかったな。最近夜はお休みモードで、夜に出かけることがほぼなくなった。かなりドキドキしながらの行き帰りだった。

 

それで思い出したのは、90年代のミニシアターブームのときにこういう小さな映画(表現が適切でないが、便宜的に)を良く観ていたこと。あの頃の映画は、当時の若かった私が観ても、気分だけの危うさや、何が言いたいねんと言う突っ込みどころが多かった気がする。

『距ててて』は、作り手の若さや完成後に観ている場所や時間帯などは似ているけれど、映画の作法や技術の前提が「当時の人」とは全然違う感じがする。一定の成熟した状態で作っているという感じ。どちらに対してもなんだか偉そうだけれど、すいません、でも一観客としての正直な実感かな。

世代が違うし、時代も違う。それは、吸収した文化やテクノロジーの常識が全然違うということなんだなとあらためて感じる。


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映画『距ててて』のパンフレットは作られていない。
その代わりに監督、脚本などのメンバーで作るZINEの第1号の特集が「距たり」となっている。

撮影日記や、映画にまつわること、派生したことなどがテキスト、漫画、写真などで表されている。

作ること、表現することの好きな人たちなのかなと想像する。

映画をより理解してもらおうというのでもなく、映画の世界観をより拡張しようというのでもなく。

気張った感じがなくて、いいですね、こういうの。


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バレエ『不思議の国のアリス』@新国立劇場 鑑賞記録

新国立劇場の賛助会員向けの直前稽古見学会にお誘いいただき、観てきた記録。

www.nntt.jac.go.jp

 

稽古とはいえゲネプロなので、基本中断はなく、本公演の通りに進む。ただ、本公演ではないので、完全に仕上がっているわけではない、そこを念頭に置いて見てね、という事前通知がある。はい、了解です。

 

不思議の国のアリス』ってあらすじはざっくりで、細部が荒唐無稽なのに(だから?)めちゃくちゃ怖いシーンの連続という印象がある。どんな舞台なんだろうと楽しみだった。

直前に送ってもらったインタビューを行きの電車の中で確認。

balletchannel.jp


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舞台は可愛さと皮肉とグロさが盛り盛りでとにかく観ていて楽しい、飽きない。映画『デリカテッセン』や『コックと泥棒、その妻と愛人』を思い出す。

 

あっちでもこっちでも小芝居が繰り広げられていて、目や耳にノイズが走る。物語世界のあの混乱した感じが五感に訴えかけつつ、スタイリッシュに表現されていて、たまらない。

 

踊りはバレエだけでなくタップダンスもある!衣装、映像、道具類も目が楽しい、興奮。

 

音楽がまたこんな音初めて聞いたな!という体験の連続で、特に打楽器が大活躍。さぞかし張り切っているんだろうと思ったら、打楽器だけで43種類使っているとか。この常ならぬ感じがもう異次元、異世界だった。

spice.eplus.jp

 

ハートの女王は、ドレス型のカートに乗っていて、下半身固定されて囚われている風なのがサンリオピューロランドのショウで見た夜の女王(だっけ?)に似ていたが、彼女のように弱さを見せることはなく、あっさりカートから出てきて、最後まで暴腕ふるいまくりなのが痛快だった。

 

トランプの群舞やキレがあって見ていて気持ちいいし、衣装!それはすごい発明!と思った。公式ページのバナービジュアルに設定されているので、ぜひご覧いただきたい。

 

アリスは三幕ガッツリ出ずっぱりでキツそうだけれど、もちろんそんなことはおくびにも出さず、悪夢のワンダーランドを軽やかに案内してくれる。

 

会員向けの見学会なので客席はずいぶん少なくキープされているのだけれど、本公演に負けずとも劣らぬ盛り上がりっぷりで、期待の高さを感じさせた。むしろ熱烈に新国バレエを応援している人に混ざれて、私は個人的によかった。ありがたし。

 

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こんな展覧会もまもなく開催される。アリスってそういえばなんなんだろう? 当たり前にあるもの、でもよく知らない。灯台下暗し。ちょっと気になってきた。

www.fashion-press.net

 

不思議の国のアリスがなければ、こういうPVもなかったかもしれない。

youtu.be

 

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映画『海角七号 君想う、国境の南』鑑賞記録

映画『海角七号 君想う、国境の南』を観た記録。

2008年台湾公開、2010年日本公開。

 

youtu.be

 

公開当時、台湾映画史上最大のヒットを記録するなど社会現象となり、第45回台湾金馬奨で主要6部門を制覇。低迷していた台湾映画界を窮地から救った作品としても有名。

が、2010年前後は映画自体あまり見ておらず、話題になっていたことも知らなかった。去年、台湾映画に再会してあれこれ見ているうちに、こんな映画があったのかと知ったぐらい。

 

第一印象は、懐かしさと恥ずかしさのようなもの。日本の80年代〜90年代のドラマや、カラオケBOXの背景映像のような撮り方で、突っ込みどころも多い。

前半はけっこうコミカル。おっさんたちのドタバタや、変顔で笑いを取る芸もなんだか久しぶりに見た。後半は舞台の本番に向けて深刻になっていく。準備が進んでいないとか、ハプニングとか、恋愛のあれこれも出てくる。

 

ドラマとしては古典的だが、台湾にしかない事情や背景にあるかつて生き別れになった二人の物語などがだんだん食い込んできて、メリハリがあって飽きない。「海角七号」にまつわるエピソードの肝心なところはそれでいいのかというのが最大のツッコミだったかも。

 

よかったのは、全編に音楽が溢れているところ。いろいろなジャンルの音楽が聞ける。そして若者の反骨エネルギーを感じる。「その気になればなんだってできる」「諦めずに頑張ればチャンスがある」「夢の舞台に立つ」となかなか今思えないかもなーと。今の日本が疲れすぎているのか、いや私ももちろんそう。

中孝介がミュージシャン・中孝介本人として出演して、その本物さや実存感が、映画全体をリフトアップしていて良い。

 

日台の俳優、ミュージシャンを起用し、日本語、北京語、台湾華語も?、台湾語、英語が入り乱れる。手紙の朗読が日本語で入る。客家人先住民族の人も入っているので、かれらの言葉ももしかしたらちょっとずつ違うかもしれない。なんともマルチリンガル、マルチレイショナルな映画。

これは吹替版も配信で出ているのだけど、絶対に字幕版で見るべき作品。

同じ人物でも、たとえば主人公の友子は日本人で日本語ネイティブ、台湾で仕事をしていて、北京語で話す。けれど腹が立ったときなど感情ダダ漏れになるときは日本語が出る。郵便配達員の茂(ボー)爺さんは、普段は台湾語だが、日本統治下時代の台湾で日本語教育を受けたので、友子に日本語で話しかける場面がある。

という具合に、言語の切り替えにも一つひとつ意味があるので、ぜひ字幕版で見てほしい。台湾語は、それとわかるように、字幕の最初に「・」の印が出るので北京語(または台湾華語?)との違いがわかる。

 

母語公用語、かつての公用語。それらが意味するものは一個人の人生遍歴でもあるし、歴史の流れと大きな関係がある。映画のテーマそのものだ。それぞれの歴史と事情を抱えて今ここに一緒にいる、という事実。

しかしそのことを深刻に受け止めるのではなく、時に笑い、時にときめきながら、楽しくエンタメとして見られるところがよい。

もちろんこの映画で日本と台湾とのかつての関係を初めて知った人がいたら、ここをきっかけに調べていくこともできる。

 

海角七号』を機に台湾映画の潮目が変わったという話。

観客が戻ってきた!――台湾映画復興運動/6月 2012

https://www.taiwanpanorama.com.tw/Articles/Details?Guid=0f3c0e65-e03a-4fcd-ba94-7bd85c1753e8&langId=6&CatId=8

 

2009年と言えばリーマンショックの直後で世界中が沈んでいる時期のはずだが、映画の世界は明るい。その頃台湾はどんな時期だったのだろう。

この本やっぱり読んでみよう。

『台湾を知るための72章』(明石書店, 2022年)

 

台湾語の使用頻度が増えているという話。

eiga.com

主演の田中千絵。並々ならぬ覚悟で臨んだ仕事だとか。劇中の友子のキャラクターと重なる。売れないモデル役というのがなかなかキツい設定。

eiga.com

2017年の最新作まで常連に。過去に遡って、彼女の物語を追っていくとまた感慨深い。

eiga.com

 

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映画『ばちらぬん』鑑賞記録

映画『ばちらぬん』を観た記録。

yonaguni-films.com

youtu.be

 

4月に「国境の島に生きる」と冠された2本の映画のうち、『ヨナグニ〜旅立ちの島』を観て、もう1本も必ず観ようと決めていた。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

「ばちらぬん」とは、与那国語で「忘れない」という意味。

監督は与那国島出身の東盛あいかさん。

東盛さんと異なるルーツを持つ私には、東盛さんと同じ強さで「与那国語」を思うことはできないけれど、母語やルーツとなる文化が自分を形成している感覚はとてもよくわかる。ノスタルジーではない危機感。

人間が、地球のどこかの地に固有の精神的つながりを作って生きる動物だとしたら、その地が変化したり、消滅してしまうことはとても怖いことだ。つらい、いてもたってもいられない感覚を覚える。

私もそう。毎日暮らす街の姿がどんどん変化する。帰るたびに故郷の風景が変わる。

そう考えると、まして故郷が今戦禍に包まれている人たちは、立つ地を失ったような、身体が千切れたような、そんな感覚を持っているに違いない。つらいことだ。

 

ノンフィクションとファンタジー、沖縄と京都を行き来する不思議な進行。ファンタジー世界の部分は観ているときはやや蛇足のように感じられたり、唐突すぎる挿入が多いように感じたが、見終わってしばらく経つと、あれがないと映画として成立しなかったかもと思う。深いところに残っている。

説明もなく不思議な人や物が登場するのもいい。見た人の何かを喚起してくれる。

私が与那国島与那国語を記憶する外部装置になったような気分。

 

そしてひしひしと感じるのは、均質化を迫る世界に対する、彼女なりの抵抗。

なくなってほしくないと思う風景や言葉、自分の愛したあの島に彼女自身がなることで抗う。物語の中の主人公として映画の一部になることもそう。

映画の中の二つの世界を行き来する制服姿の東盛さんは、「時をかける少女」のように走り、跳び、映画と現実を行き来して、何かをつなごうとしている。

 

帰り道にいくつも更地になった住宅跡を見かけた。こんなに近いのに気づかなかった。

残念なことに、前にどんな家が建っていたのか、どうしても思い出せない。

人間は次々に新しい状況に順応してしまうから、仕方がないのだとわかりつつも、自分の記憶力の曖昧さにがっかりする。

記録して、心を震わせ、体験して、強く印象づけないと記憶できないのかもしれない。

忘れたくないと思うこと。

忘れたくないという思いを動力に新たに作り出すこと。

それもまた人間ならではの営為。

 

私自身の今後の生き方を考える中で、大切な映画に出会った。


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youtu.be

 

 

https://transit.ne.jp/2022/05/001615.html

eiga.com

 

 

日本最西端、与那国島の映画2作品を全国公開: 日本経済新聞 

www.nikkei.com

 

審査講評

pff.jp

 

消滅の危機にある言語。与那国語も含まれる。

www.bunka.go.jp

 

説明はないが、

「ヤシの実と入れ墨」

www.toibito.com

 

ハジチ

ryukyushimpo.jp

 

東京国立博物館琉球展でもハジチを見つけた。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

与那国島」と聞くと気になるようになった。

www.okinawatimes.co.jp

 

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わたくし、つまりNobody賞『海をあげる』『まとまらない言葉を生きる』読書記録

わたくしつまりNobody賞、受賞の2冊を読んだ記録。

『海をあげる』上間陽子/著(筑摩書房, 2020年)

『まとまらない言葉を生きる』荒井裕樹/著(柏書房, 2021年)

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今を生きている私の尊厳を守る。

抗う。

無遠慮に踏み越えようとする力に対して、「ここに一線がある。踏むな」と全身を使って示す。

言葉で線を引く。

警告を発する。

それは相手を人間扱いしているからだ。

相手が私を人間扱いしないときでさえ。

 

詩人・茨木のり子の「自分の感受性くらい」を思い出す。

どうか今、本質に語りかける言葉を。

 

言い得ない。だから言葉を探す。

苦しみから作りだされる言葉もある。

弱々しくてもよい。

私だけは少なくとも聴いている。

耳を澄ませている。

 

 

Yahoo!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞2021 のときの上間さんのスピーチが動画と全文起こしで掲載されている。

www.chikumashobo.co.jp

 

第15回 わたくし、つまりNobody賞 受賞時の荒井さんのスピーチ全文起こしが掲載されている。

note.com

 

 

わたくし、つまりNobody賞

https://www.nobody.or.jp/

 

上間陽子さんの『海をあげる』の帯の〈わたくし、つまりNobody賞〉ってなんだろう?と思っていた。(そこで特に調べなかった)

別ルートで同時期に100分de名著 2021年3月 『災害を考える』を観た。録画だけして放置していた。

第4回が池田晶子さん。

「思う」と「考える」の違いについての話がおもしろかったので『14歳からの哲学―考えるための教科書』を読んでみた。

そうしてようやく、〈(池田晶子記念) わたくし、つまりNobody賞〉ということに気づいた。


f:id:hitotobi:20220526234650j:image

 

『14歳の哲学』はこの記事で紹介した。

hitotobi.hatenadiary.jp

 

*追記* 2022.6.24

普天間飛行場のある宜野湾市の市役所のホームページにはこんなにページがある。

基地被害110番

https://www.city.ginowan.lg.jp/soshiki/kichi/2/1/1/1/9642.html

実際に寄せられた声を見ていると、自分のいる場所、自分の現実とのあまりの違いに言葉をなくす。このようなところからも見ることができる。

知ろうとすることはとてもシンプルな方法でできる。

 

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共著書『きみがつくる きみがみつける 社会のトリセツ』(三恵社, 2020年

2022.4.28 ウクライナ・メモ

2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻。

日に日に状況が変わっていき、具体的に生活に影響を及ぼすようになってきて、さまざまな思いや考えがどんどん湧いたり、入り乱れたり、自分を揺るがしてくるようになった。

1ヶ月が経った3月の終わりに、それらを自分の外に出さないとどうにもしんどいと感じるようになり、思いつくままに付箋に書き出してみたことがあった。

さらにその付箋をノートに見開きで貼り付けてみた。そこでようやく、自分にとって今回のことがなんなのかが、ようやく見えてきた。

それをしたからといって、もやもやがなくなったり、悲しみや怒りが軽減されることはないけれども、新しいニュースが入ってきたときの自分の構えのようなものができた。

この付箋を貼り付けたノートは、自分のためだけにそっとしまっておくつもりだった。

しかし今月は映画『ピアノ -ウクライナの尊厳をかけた闘い-』で鑑賞対話の会を開催することになったので、それに向けたファシリテーターとしての心構えも兼ねて、記事として一つ置いておくことにした。(2022.4.28)

ーーーー

・どんな理由であれ人命を奪うことは許されない。

・歴史、芸術文化、国際交流、、長年こつこつと積み重ねてきたものが一瞬で壊滅した。語学を学んで、文化芸術を愛し、歴史を学ぶことは平和の祈りにつながると思っていたが、あっけなかった。終わりではないが、一旦絶望した。

・たまたまポーランド語を学ぶことになり、スラヴ文化圏を知る機会になっている。今回のこととは関係ない経緯からだったが、何がどう発展するか本当にわからないものだ。

・民間レベルでは何も対立していないところにも、戦争を起こすことで歪みが生じる。元からある構造を利用して憎悪を煽る力が働く。

・功名心、支配欲を止めるものはないのか。

・報道も画像も解説も、たくさん見せられても何もできないのでつらさだけが募る。技術が発達した今より、知らないでいた時代のほうがこういうときはよかったのではないかと思えてならない。このところ、国民が何も知らされていなかったし、知る手段もなかった「戦前」のことをよく思い出す。

・国家の戦争に、まったく関係ない遠い個人が「参加」させられていることの異常さ。何かを投稿することが即、参加につながる。

・映像を読めない、読みきれない。個人レベルではもう無理。でも簡単に触れることができてしまう。

・「映像の世紀」のその後は結局なんの世紀になっているのか。

・いいもん、わるもんの話だけじゃない。そんなシンプルな話じゃない。

・言葉の一部だけ切り取られると意図と違って拡散されることの怖さ。

・衝撃的な動画が流れやすい。

・数字が大きい方がインパクトを持ちやすい怖さ。

・日本の立場の揺らぎ。中立的、調整的立場を取れない情けなさ。

近現代史を学ぶ機会が圧倒的にない。歴史的知識がない。今目の前にあるものに関心を寄せるだけでなく、歴史的経緯と地政学的動機、構造的問題として捉える習慣が必要。とはいえ、資源、エネルギー、金融、国際法……膨大すぎて複雑すぎる。全部を毎日ウォッチするのは不可能。

・学んでなくても何も語れないわけではないが、語れることとしては、結局"NO WAR"しかなくなる。

・余力のあるときに少しずつ学ぶと、それはそれで理解が進む。

ソ連以前のロシア、ソ連、冷戦集結後のロシアの歴史を知るほど、それだけの蓄積に対してどう抗えるのか、わからなくなる。ついていけなさ。

・日本が関与してきたことは。北方領土など、安倍ープーチンでやっていたことは。

・日本の国防の話に転嫁されてくる怖さ。

・ロシアの専制のやばさ。SNS封じ。

・逆にあの手この手で国外の情報にアクセスしている人もいるらしい?

・オリンピックは全然平和の祭典になってない。北京冬季五輪の空疎さ。むしろ国対国を煽る仕掛け担っている。パワーゲームの道具。2021年の東京オリンピック以来、批判以外のことで見たり話題にすることを一切やめた。

・「ウクライナ側につく」という宣言にも躊躇がある。国家単位で言いたくない。

・新しい情報ひとつでイメージが転換し、簡単に意見を変える自分、他人。村上春樹の『沈黙』の風見鶏の例えを思い出す。

・「民主主義という言葉が固いので、言い換えた方ががいいのでは」という意見を聞いたときに、「それは絶対違うと思う」ともっと強く言いたかった。なんの場だったか忘れたが。わかりやすくとか、なじみやすくとか、優しそうというのは危険なときがある。

・「わかりやすく」は危険。「断言」「反復」「感染」→100分de名著『群衆心理』

・「何を信じたらいいのか?」という思いが湧いて、次の瞬間、確固として信じられる何かを求める自分、信じようとすることの危うさにどきりとする。

・ロイターでキーフ市内の定点カメラがネットで公開されていた。街は静かで、人が歩いているのが見えた。そういうものにこんな「遠く」からもアクセスできてしまう。

・キーフ、チョルノービリなど、実はロシア語だったのだと今回のことで知った。

・チョルノービリ原発がキーフからそう遠くないところにあったことは、10代の頃に読んだ清水玲子さんの漫画『月の子』で知っていた。あの頃に原発事故を取り入れた画期的な漫画だったと思う。

・日本の社会はどうなるのか。

・世界の中で、日本という国がどう見られているのか。

・こういう状況下になれば、人々が何に困窮するのか、想像がつく。これまでいろんな災害、戦争、人災が世界で起こるのをうっすらとではあるが見てきた。また、学べば学ぶほど、知れば知るほど、これらの回復に長い道のりが必要で、その想像がつくのがつらい。

・日本でのウクライナ避難民受け入れをいち早く申し出たことが意外。ではこれまでの避難民、難民、事情があって国籍のあるところに帰れない人への処遇は?日本の入管改革のきっかけになるのか?

・子の通う中学校では先生は全く話題にしないという。社会の先生でさえも。なんのために学校があるのだろうと思う。

・ひとつの「戦争」から無数の物語が大量に発生していくことの恐ろしさ。

チェチェン、シリア、アフガニスタンミャンマー、香港、新疆ウイグル自治区にはなぜ反応が薄かった?

・何も触れない人に対する軽蔑の気持ちが湧いてしまう。安全を考えて発言するかしないか決めている人もいるだろうし、安全な関係の中では話題にしている人もいるかもしれないが、あまりにも当たり前に今まで通りの日常が続いているように見えると、こんな気持ちが出てくる。そういう自分も嫌だ。差がありすぎるのがつらい。

・幸いなことに、最近得た交友関係で話題にでき、真剣に話せるのでありがたい。助かっている。「作品を観て感想を語り合う場」が自分を助けてくれている。あとは、すごく仲がいい人よりも、そんなによくは知らないし頻繁に連絡は取らない知り合い程度の人の方が突っ込んだ話ができる。何につけてもそうかも。

・専門家やジャーナリストが戦況分析などをしているのを見ると、状況がわかってありがたいと思う一方で、男社会が作った構造の中で起きたことを「嬉々として」(私の解釈です)語っている構図がアホらしく思える時がある。『三ギニー』でヴァージニア・ウルフが似たようなことを言っていた?未読。

・悲惨な映像による心身への影響、トラウマを持ってしまった人も多くいるはず。自分で自分の身を守るしかない。日本のメディアはその点は比較的規制が掛かっているのか?と思っていたが、今回の侵攻にかかわらず、一般市民が撮った暴力シーンなどが地上波で普通に流れていることなど考えると、それも少しずつ変化していきそうで怖い。

・TVをほとんど見ていなかったが、GWで実家に帰ったときにTVの報道を見て、これを一生懸命ずっと見ていたらとてもしんどくなると思った。(かといって慣れていくのも怖い)

・「そもそも今起こっている戦争というのは、国家間の権力闘争であって、一市民が何かできるわけではない」という誰かの投稿を見て、そうだとも思うし、そうではないとも思う。

SNSは人を当事者にする機会を提供したかに見えて、文脈を寸断して、刹那的な消費者や傍観者にする力のほうを強めている。個々のユーザの使い方の問題を超えて、全体として。「いいね」じゃねーんだよ!と思ってしまうこの感じ、ストレスがたまる。

SNS大喜利状態になるので、最近距離を起きたい。しかし情報を得る手段になっている面があり、難しい。よい使い方を模索したい。

・心身の健康を保つための術をできるだけたくさん持つこと。

・どこにいるかで人生が全く変わってしまうという冷酷な事実。

・作品を通じて知るのは一つの手段だが、それも断片にすぎない。いろんな資料に当たれるとよいが膨大。

・自分の職能からできることは何か。学びのシェア、対話の場をつくり、話す、聞く、知る、交流するきっかけをつくる。それが救いになるかどうか、というぐらいしかない。

・意見の違いは見ている世界の違いというだけだか、ギョッとするものを見たときに疲れる。

・他の社会課題への関心を放り出すわけにもいかない。

・前のめりは危険。流されるのは怖い。

・「各国の思惑」の話が一番嫌い。近、現代史が嫌になるのはここ。

本『他者の苦痛へのまなざし』読書記録

『他者の苦痛へのまなざし』を読んだ記録。

ある日このツイートが流れてきた。

まさに私のことだ。どう受け止めたらいいかわからなかったし、落ち着きたかった。

「ここのところの」と投稿者が言っているのは、2月24日に始まったロシアによるウクライナへの軍事侵攻のことを指している。

今は5月22日で、もうすぐ3ヶ月になる。長期化してきたこともあって、前よりも目にする頻度は減った。というか意図的に減らした。

溢れるニュース、画像、映像に対してどういう態度で見るのか、なぜ見るのか、ということを決める必要があると感じていた。

特に、5月はウクライナのユーロ・マイダン革命のドキュメンタリー『ピアノ ーウクライナの尊厳を守る闘い』で鑑賞対話の会をひらく予定なので、私のスタンスをはっきりさせておく必要があった。参加者にというより、自分に対して。今眼の前で起きている戦争というテーマに当たっては慎重に場を作りたい。

 

『他者の苦痛へのまなざし』は、作家で批評家のスーザン・ソンタグの著書で、2001年にオックスフォード大学においてアムネスティが主催した講演「戦争と写真」に端を発して書かれた。(ソンタグは、2004年に死去)

 

本を「読んだ記録」と書いたけれども、ほとんど読めていない。いや、ひと通り読んだのだけれど、何を言っているのかがつかめなかった。読解できない箇所が多くて、部分的につまみ食いしたような読み方になってしまった。

これは翻訳の文章が難しい。しかも読み進めていくと、一方ではこう言っているが、すぐ後にまったく反対のことを記述していたりもするので、混乱するときがある。原文やこの本全体の構造からして分かりにくいのかもしれない。

いずれにしても私には、自分の読解力に自信を失うぐらい難しかった。日本版の刊行は2003年なのだが、古文のようにも思えた。

それでも手に残っているいくつかの感触を自分のためにメモしておく。

 

読書メモ ※引用以外は個人的な解釈や派生した感想です

・冒頭、ヴァージニア・ウルフの『三ギニー』の引用からはじまる。
「あなたと私のあいだでは、真の対話は不可能かもしれません」「なぜならあなたは男性、私は女性だから」

「われわれ」とは誰のことか。その「われわれ」と言える前提となっている、共通性について考え、そしてほんとうに「われわれ」と言い得るのかを点検する。

まずこの視点に立つ。立ち戻る。

・犠牲者の凄惨な画像、映像は、よりいっそうの戦意をかきたてるのも事実で、それを意図して示され、その闘争の正当さ(正義)を強固にする役割を果たすこともある。

・その際には、「誰によって誰が殺されるか」が重要になる。つけられたキャプションによって見方が変わるという危うさ。捏造も可能。悪意はなくても正義感から演出をつけることは起こり得る。

・残虐であればあるほど、戦争の抑止につながると信じられていた時代もあったが、実際はそうはならなかった。戦争は起こり続けている。

シモーヌ・ヴェイユは戦争についてのエッセイ『「イーリアス」あるいは暴力の詩篇』(1940年)のなかで、

「暴力はそれに屈するすべての人間を物にしてしまう」

と書いたが、ヴェイユはスペイン共和国を守るための戦いと、ヒトラーのドイツにたいする戦いに参加しようとした。戦争を止めるために戦いに赴くということは、起こる。

・人々に衝撃を与えることでコントロールしやすくなる可能性がある。

・今は以下のことが戦争が起こる前から日常的になっていて、戦争でさらに拡大した。

「現代の生活は、写真というメディアを通して、距離を置いた地点から他の人々の苦痛を眺める機会をふんだんに与え、そうした機会はさまざまな仕方で活用される」(p.12)

絶え間なく膨れ上がる情報が戦争の苦痛を伝えるとき、それにどう反応すべきかはすでに19世紀後半において問題となっていた。(p.17)

・書かれた記録と、映された写真とでは、「言語」も伝わる範囲も違う。そこに差が生まれる。

・どれほど慎重であろうとしても、たった一枚を見るだけでも、潜在的に刷り込まれてしまう。メディアが取り上げるものによって、操作されている。読むリテラシーを高める努力をしても、限界がある。そもそも時代の影響を受けないでいるのは不可能。しかしそれでも努力する意味はある。

内容により深くかかわるためには、或る種研ぎすまされた意識が必要である。そのような意識こそ、メディアが流布する映像に付随する予測のために弱められ、メディアが映像の内容を漉して取り去るために鈍化されるものなのである。(P.105)

まさにここが難しいのだ。より深く関わろうとして意識を研ぎ澄ませていると消耗する。しかしメディアの「流布」に対抗するためには、見極めの力をつけるためには、メディアがどのように挑発しているのかを見なければ意識は作動しない。しかし大変な労力だ。

・写真は現実の証人である。写真はある視点を必ず持っている。その矛盾を行き来する。

・そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。持っておきたい問い。

写真は主要な芸術のなかでただ一つ、専門的訓練や長年の経験をもつ者が、訓練も経験もない者にたいして絶対的な優位に立つことのない芸術である。(p.27)

・他者の苦しみを見たいとう欲求が、人間には多かれ少なかれある。だからフィクションで観ようとする。悲劇的な不幸を扱う演劇や映画など。ただ、実際に起こった出来事であっても、写真や映像化するときに、それが見たい欲求を叶えるときがある。あまりにも道徳に反しているが、実は、感情をかきたてられるほどの衝撃の興奮と後ろめたさの両方があるのではないかという指摘。それを単純に「病的」とは断じられない。

・「何を見せることができ、何を見せるべきではないか」はcontroversial。

・「たとえ達成されなくても平和が規範である」という倫理は時代により異なる。また地域によっても同意されているわけではない。

・セバスチャン・サルカドに対するソンタグの批判はいつになく強い。これは作品を鑑賞する立場として慎重に受け止め、検討したい。少なくとも視点の一つとして手に入れられたことはありがたい。冒頭のウルフの言葉とこの箇所は読めてよかった。

「苦しみを描く写真は美しくあってはならないし、キャプションは教訓的であってはならない。このような見方によれば、美しい写真は深刻な被写体から注意をそらし、それを媒体そのものへと向けさせ、それによって記録としての写真のステイタスを損なう」(p.75)

「39カ国で撮影されたサルカドの移住写真は、移住という一つの見出しのもとに、原因も種類も異なるあまたの悲惨をひとまとめにしている。グローバルに捉えた苦しみを大きく立ちはだからせることは、もっと『関心』をもたなければならない、という気持ちを人々のなかにかきたてるかもしれない。それは同時に、苦しみや不幸はあまりに巨大で、あまりに根が深く、あまりに壮大なので、地域的な政治的介入によってそれを変えることは不可能だと、人々に感じさせる。このような大きな規模で捉えられた被写体にたいしては、同情は的を失い、抽象的なものとなる。だがすべての政治は、歴史がすべてそうであるように、具体的なものである。(確実に言えることだが、歴史について本気で考えない人間は、政治を真剣に受け止めることができない。)」(p.77)

オラファー・エリアソンの作品でも感じたことかもしれない。気候危機をテーマにしたときに深刻さよりも、美的な感覚が上回ることに対して、どう考えたらよいのか。

それとも、ソンタグが指摘するのも間に合わないほどに、見慣れてしまって、自分には何もできないと感じることに囲まれてしまっているかもしれない。

・写真は客観化する。人々は慣れる。いくら苛立ってショッキングなものを出しても、人はやがてそれに慣れていくことができる。また慣れることのできないほどショックな写真は人々の健康被害を引き起こす可能性もある。「効果」は時代によっても捉え方が変わっていく。随時検討していく必要がある。

・それでも犯罪を記録すること、それに誰もがアクセスできるようにして、忘れないようにする、思い出せるようにすることは大切だ。例えば博物館、祈念館。

・写真を見て理解の助けにはなることもあるが、「説明」が添えられる前提のこともある。

・これは過去に起こったできごとに関して言っているが、毎瞬新たに生成される画像や映像に対する態度のことを言っているようにも感じられる。「見せる意味」「見たい欲求」「見る意味」の話。

「たとえ陰惨な写真であろうとも、それが語るものにかんして、今すぐなされなければならないことがあるゆえに、そうした写真を見る義務があるのだと人々は思うことができた。他の問題が生じるのは、それまで長い期間にわたって知ることがなかった一連の写真が人々の目に触れ、それに反応することを人々が求められたときである。」(p.89)

「人はきわめて残忍な行為や犯罪を記録した写真を見る義務を感じることができる。そうしたものを見ることの意味について、またそれらが示すものを実際に吸収する能力について、考えてみる必要がある」(p.94)

「同情は不安定な感情で、行為に移し変えられないかぎり、萎えてしまう。問題は、喚起された感情や伝達された情報をどうするか、である。『われわれ』にできることはなにもないーーだがこの『われわれ』とは誰か?ーまた「彼ら」にできることも何もないーー「彼ら」とは誰か?ーーと感じるとき、人はうんざりして冷笑的になり、何も感じなくなる。(p.101)

「同情を感じるかぎりにおいて、われわれは苦しみを引き起こしたものの共犯者ではないと感じる」(P.101)

 

一枚の写真、垂れ流される映像に対する態度として、ソンタグによる主張を最終章と訳者あとがきから要約すると以下のようになるのだろうか。(あくまで私の解釈)

写真や映像は、考え、知り、調査するきっかけである。

この苦しみの責任は誰にあるのか。これは許されるのか、これは避けられなかったのか、疑問を呈する必要はないか。「観察、学習、傾注」。

たとえ距離を置いた地点から苦しみを眺める方法に対する非難があったとしても、他のよい方法はない。

だから一歩引いて考えることは何ら間違っていない。

ただし、それらは歪みを持っているので、踏まえたうえで、現実を認識し、感受性を研いで認識を更新していく必要がある。なぜなら安易な同情は問題を見えにくくし、苦しむ他者をさらに苦しめるからだ。

巨大な悪や不正が苦しみを引き起こすメカニズムの中に自分もいる。そのことを写真は気づかせる。限界はあるが重要なツールだ。

 

***

 

ソンタグのような先人が、第二次世界大戦の記憶と、1945年以降に続いてきた戦争や虐殺を同時代の人として生き、言葉を残しておいてくれたことに感謝する。

それでもやはり彼女が想像もできないほどに、今起こっていることは、一個人の理解の域を超えている。

多くの映像がこの瞬間も生成され、複製され、流布されている。真偽や立場を知ることもできない。一人ひとりが発信する機器をもっている。

大量の傍観者がいる。傍観者がさらに個々人の解釈を加えて流布することで、またさらに多くの傍観者を作りだす。もっとリアルタイムで、もっと具体的な他者の苦しみに疑似的に触れることも、指先一つでどこででもできてしまう。巨大な悪や不正を見破るのはますます難しい。

歴史は「私たち」をつなげるもやいではなくなっている。目の前の一枚の写真でさえ共に見ることは難しい。

関心を向ければ向けるほど、遠のいてはいないか?と思う。

ただ、未来のどこかの地点で、今起こっていることが、誰かにとって「忘れたい、消したい記憶」になりかけたとき、自分が目撃者だったと証言することはできる。そのために今見ている。果たしてそういう言い訳は成立するだろうか。

 

この困惑について、現代のソンタグ的な立場で語る人はいるのだろうか。

 

f:id:hitotobi:20220515204556j:image

 

見る、知るが手放しで良いこととは言えないのは、こういう問題もあるから。ツイート一連は持っておいたほうがいいお守り。

越智さんが紹介している記事

www.huffingtonpost.jp

www.mhlw.go.jp

encount.press

 

「残虐な写真や映像、表現が、リアリティを持たせ戦争の抑止につながる」に疑問を持って展示方法を変えたり、新しく建設されたりした、印象的な3つのミュージアム

 

広島平和記念資料館

hpmmuseum.jp

 

ひめゆり平和祈念資料館

www.himeyuri.or.jp

 

Jüdisches Museum Berlin 

www.jmberlin.de

 

2001年の講演時にはまだオープンしていなかったNational Museum of African American History and Culture、ワシントンD.C.スミソニアン博物館の19番目の施設として開館した。

このミュージアムでは、ソンタグの指摘した内容は果たしてカバーされているのだろうか。

実際、アメリカ合衆国のどこにも、奴隷制の歴史博物館はーーアフリカにおける奴隷売買そのものに始まり、反奴隷制協同地下組織アンダーグラウンド・レイルロードのような特定の部分に限るのではなく、奴隷制の全貌を伝えるような博物館はーー存在しない。思うにこれは社会の安定にとって、活性化し創造するには危険すぎる記憶なのである。(p.86)

nmaahc.si.edu

 

奴隷制もだが、アメリカは先住民の抑圧と虐殺(殲滅?)の歴史も抱えている。消し去りたい記憶は学校教育の場に影響する。これらの扱いをどうしているのだろうか。

 

日本の話。

www.mbs.jp

 

*追記* 2022.6.25 

写真は誰が撮ったか、なんのために見せているか。

それがコントロールできるものでもある。利用して何かを達成しようとすることがある。

また、今は簡単に捏造写真や合成写真が作れてしまう。

写真や映像が人間に与える影響は大きい。心理的距離を置くことも必要。

そのことと、深刻な困窮状況にある人を無視することはイコールではない。

 

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映画『火の馬』『ざくろの色』鑑賞記録

セルゲイ・パラジャーノフ監督の『火の馬』『ざくろの色』を観た記録。

2020年の没後30年記念上映のときのページが詳しい。

joji.uplink.co.jp

www.pan-dora.co.jp

youtu.be

 

映画の鑑賞仲間からお借りしたDVDで観た。「ウクライナ関連の映画を見てみよう」という企画があり、その一環で。

私自身は25年ぐらい前に一度ミニシアターで『ざくろの色』を観た気がしているけれど、内容は全く覚えていなかったので、例によって記憶違いかもしれない。

ざくろの色』の言語はアルメニア語。アルメニア文字、好き。

f:id:hitotobi:20220522225301j:image

 

こちらは生誕90年のときのパンフレット。4, 5年前の古本市で見つけて買ってあった。

f:id:hitotobi:20220522225318j:image

eiga.com

 

苦悩こそが私の生を綾なす

かつて存在したものが世界をよく理解していた。しかし絶滅してしまった

大地へ還してください。私は世を厭う

(『ざくろの色』より)

 

映画監督と言うよりも、映像作家というほうがびったりくるだろうか。

セルゲイ・ロズニツァの『国葬』を観て、旧ソ連というのは、なんと異なる文化を無理矢理に取り込んできたのか、なぎ倒す力の恐ろしさよ……と思ったことを思い出した。

民俗的な要素は『火の馬』がより強い。

アイヌムックリに似た楽器が出てくる。音楽、言語、民族衣装、住宅、宗教的な儀礼など、あらゆるものが土着の伝統文化の独自性を強烈にアピールしてくる。ただ、これは民俗学的に精緻な記録を試みたというよりも、誇張や融合もあって創作されているもののようだ。それが当局から目をつけられた理由でもある。

 

一見エキゾチックでロマンティック、そして非情。悲劇、神話、人間の普遍。

 

ターセム・シン監督『落下の王国』も思い出す。トレイラーはだいぶイメージ作ってるので、観たときの印象と全然違った。

youtu.be

 

 

パラジャーノフ作品は映像も美しいのだけれど、祈りを唱えるチャント(聖歌)やフォルクローレ(民謡)というのかな、心地よいけれど、あれも耳から入ってくる強烈な体制批判なのだろう。『火の馬』のほうは、体感としては常に聖歌と民謡が交互に流れ、歌によっても映画が「織られていく」印象がある。

そういう点では、映画『COLD WAR あの歌、2つの心』も思い出す。旧ソ連下のポーランドで、土着の民族音楽を記録、収集するシーンから始まる。体制は民族合唱舞踏団を組織して、民族音楽や伝統的な舞踏を通して、国を賛美させ、プロパガンダに利用していく顛末が、かれらの人生に大きな影響を与えている。繰り返し出てくる「♪オヨヨ〜」は一回映画観るともう忘れられない。歌の力、声の力を最大限活用していることで、どれだけ人心に作用するかを暗に示している。

coldwar-movie.jp

 

パラジャーノフは、ジョージア(旧グルジア)の生まれでモスクワで学び、ウクライナに暮らした。

作品は国際的には高く評価されていたが、国内では反ソ連的な監督として扱われ、公開自粛、制作の制限、不本意な削除編集という体制の介入、逮捕と収監、映画制作禁止、出国禁止など様々な抑圧に遭ってきた監督。人生、製作、時代の歴史背景を知ってから観るとまた見え方が変わってくる。

とはいえ、頭でっかちに評論から読んで入るより、「なんかエキゾチックだな」という印象だけもって、パッと見てみるのがおすすめ。

実は元気はつらつのときより、ちょっとダウナーな気分のときに観るほうが慰められる気がする。

 

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